電脳筆写『 心超臨界 』

リーダーシップとは
ビジョンを現実に転換する能力である
( ウォレン・ベニス )

日本の天皇と中国の皇帝――西尾幹二教授

2015-02-03 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p233 】

8 王権の根拠――日本の天皇と中国の皇帝

8-0 王権の根拠――日本の天皇と中国の皇帝

王権の根拠と題したこのテーマの根拠とは、「始源」の意味ではない。王権はいつどのようにして始まったか、の話ではない。古代日本と古代中国において主権を正当化させていたもの、王権をすら超えていて、ときにこれを制約することもあったものは、それぞれ何であったかという問題にほかならない。一見深遠なようにみえるけれども、じつは必ずしも神秘的にはならない、限定された主題である。

このテーマは本書にとって重要だと思うので取りあげるが、考えるたびに途方に暮れるのは、古代日本人の信仰心も古代中国の法制度も、さながら厚い、濃いもやにさえぎられているかのごとくによく見えないからである。これは両国の宗教と法の根底にかかわるテーマであって、狭い意味での歴史のテーマではない。

もうひとつ「始源」を問う問題がこのテーマのほかに、重なるようにして存在するはずだが、本稿では密儀秘祭的信仰体験の領域には深入りしないつもりだ。どこまでも「歴史」の領域に立ちとどまる。

古代中国の王権の根拠について、結論を先にいえば、中国には古来「天」の思想がある。「天」に命じられかつ「天」の命を受けることで各王朝が成立根拠を与えられてきたことはよく知られているので、われわれはいま「天」の概念を理解すればよいということになるが、どうもそれだけでは終わらないらしい。中国皇帝は「法」、すなわち律令をすら超えた存在であるが、しかしながら皇帝を制約しているもう一つ別のものがあった。それは「礼」である。

皇帝は法のなかにはまったく規定されていないが、礼的な秩序のなかでは、公(こう)-卿(けい)-大夫(たいふ)-士(し)における最上位者としてきちんと位置づけられている。たとえば、唐の律令は王権のあり方そのものについては直接的な規定をなにも持たないが、衣服令に天子の服装が規定されていたりする。こういうことは日本の律令にはない。国家管理機構を「法」によって運営すると同時に、人格的君臣関係を「礼」によって規制するという入り組んだ構造が古代中国(古代といっても清朝に至るまでだが)を支配していた。

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