電脳筆写『 心超臨界 』

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それは聞くことを身につけること
( クリストファー・モーレー )

日本史 古代編 《 密教的発想に縛られた朝廷の弱さ――渡部昇一 》

2024-10-08 | 04-歴史・文化・社会
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元寇について一言すれば、時宗が文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)で大勝した功績に対する朝廷の評価は、きわめて低いものであった。つまり、従五位上から正五位下に位一級をすすめられただけであった。これは当時まだ密教的な影響を受けていた朝廷が、いかにピンボケであったかを示しているよい証拠である。つまり元寇の勝利は、一所懸命お祈りしたり、護摩を焚いたりしたご利益(りやく)のおかげだと思い込んでいたのである。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p323 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(4) 禅宗が広めた自助・自立の精神

◆密教的発想に縛られた朝廷の弱さ

元寇について一言すれば、時宗が文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)で大勝した功績に対する朝廷の評価は、きわめて低いものであった。つまり、従五位上から正五位下に位一級をすすめられただけであった。これは当時まだ密教的な影響を受けていた朝廷が、いかにピンボケであったかを示しているよい証拠である。

つまり元寇の勝利は、一所懸命お祈りしたり、護摩を焚いたりしたご利益(りやく)のおかげだと思い込んでいたのである。「大元三百万騎の蒙古ども、一時に亡びしこと、全く吾国(わがくに)の武勇にあらず、ただ、三千七百五十余社の大小神祇(じんぎ)・宗廟(そうびょう)の冥助(めいじょ)によるにあらずや」(『太平記』)といった発想法なのである。「神風」ばかり強調され、蒙古軍が内陸深く入ってくるのを阻止するため働いた武士のことは、すっかり忘れられてしまっている。上陸できないで長い間ぐずぐずしていたから、秋先の台風が来たのだということは、忘れられているのだ。

このときの武士の働き、特に時宗の態度に評価を与えるようになったのは、密教的影響のなくなった時代の史書、たとえば水戸学(江戸時代)からである。

そして、密教からまったく抜けていた明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺(えんがくじ)にある時宗の墓にお遣(つか)わしになって、四階級特進して従一位をご追贈(ついぞう)なられた。

また、これより先に明治天皇の皇后昭憲(しょうけん)皇太后は、「あだ波は ふたたび寄せず なりにけり かまくら山の 松の嵐に」とお詠みになっている。この聡明な皇后は、蒙古軍を吹き沈めた台風は、密教的な祈りで出てきた「神風」でなく、禅宗で鍛えた鎌倉武士から出た「松風」であることを洞察されていたらしいのである。

近ごろ、アメリカのヒッピーなどで禅に憧れる風潮が強くなっているようである。しかし、その実体を見ると、オカルト的な興味から禅に近づいているみたいなのが少なくないようで、まことにおかしい。ヒッピーのメンタリティや、麻薬に対する嗜好などは、明らかに密教志向なので、その反対に立とうとする禅の努力とは、同じ仏教でも180度違う。喜慍(きうん)の色(喜怒の表情)のなかった時宗も笑い出すかもしれない。禅宗の自力(じりき)性が武士の気質なので、元寇のあとも、攻められたという受身を憎んで、今度は攻め入る計画を立てているのである。
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