ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

捕鯨について

2011-05-25 09:07:00 | テレビ番組

今日はまたちょっとお堅い話題で失礼いたします。

先日「NHKスペシャル」で、和歌山県太地町の鯨漁・イルカ漁のことをやっていました。

昨年でしたか、アカデミー賞受賞作品となった「ザ・コーヴ」が話題になりましたね。

シーシェパードの人たちが、和歌山県太地町の鯨・イルカ漁で最後、殺すところを撮影したドキュメンタリータッチの映画のことです。

今回は、あれを受けて困惑する地元の漁師たちに密着したドキュメンタリーでした。

私自身は、鯨といえば、小学校のときの給食に出てきたちょっと赤っぽくて血身の味がする、ひからびたようなほどカリカリに揚がった竜田揚げを思い出します。

たいしておいしいとも思わなかったし、今後の人生で2度と口にできんぞ、と言われても全然かまいません。

ましてやオーラソーマをやっている身です。

オーラソーマでは鯨もイルカも海のマスターと言われています。

その、その日の餌を探しに行かねばならないことを後回しにしてでも、遊びによって自らの知能を高めていくサマを仏陀も「人間よりえらい。」と高く位置づけているくらいですから、捕獲して食べるために殺さずにすむならそれならそれでそっちにして、という気持ちでした。

オーラソーマの授業でも、「イルカってね、人間の役にたとうとしている生き物だから、捕まえられてもあぁ、これから僕は人間の役にたつんだ、って理解して騒がずにおとなしいんだって。そのイルカの家族たちも近くで最後までずーっと見守ってるんだって。」なんて聞きました。

これ聞いただけでも、あぁ~ん、そういう生き物殺さないで、って単純に思いましたもん。

ましてや、欧米では1頭1頭の鯨やイルカに名前までつけている、と聞いたり、「日本人全員が鯨を食べることが定着している、というわけじゃないんでしょう?  そういうのを日本の文化って言えるんですか?」と言われると、まぁ、捕鯨はやめれるものならやめる方向で考えたらどうですかねぇ、と身を縮めるような思いでした。

けれど、同じ日本人としてそれを生業として生活している人たちがいることもまた認めたい気持ちです。

ましてや彼らは違法に漁業をしているわけはなく、法律の許された範囲内での頭数を水揚げしているのですよね。

それをエキセントリックで、敵意むきだし、ルール違反のやり方で迫ってくるシーシェパードにはいかがなものか、という気持ちもありました。

番組では、漁に出かける漁師の車の前に立ちはだかり、車を出させないようにしようというシーシェパードの人たちを写しているところがありました。

彼らは決して暴力をふるってはきませんが、車の前に立ちはだかり、扇型に1万円札を10枚見せびらかし、「これをおまえにやるから、今日、鯨1頭とることをあきらめてもらえないかね?」と言っていました。

何度も何度も、お金を広げたままの手をかかげ、「ほぅら、これをやるから。やるから。」と言っていました。

この相手のプライドをずたずたにするようなやり方が、決して人に手出しをしていないから果たして穏便だと言えるのでしょうか?

札束で相手のほっぺたを叩くようなやり方が。

もちろん、漁師の人は相手にもせず、札束になびくようなことはありませんでしたが、これはシーシェパードが相手がカッとなるのを焚き付けているのか、本当に、「マジぃ? いいのぉ? それだけくれるんなら、やめよっかなぁ。もう少し高くなんない?」というような値段交渉に応じてくる、と思ってやっていることなんでしょうか?

理解に苦しみます。

そして、最終的には警察を呼んで、この騒動はおさまったのですが、漁師の人は苦しんでいました。

自分が普通に仕事に出かけるために警察の出動までお願いするようになる、ということについて。

自分がやっていることはそれほどまでに他人を巻き込み、他人に迷惑や労力を及ぼすことになるのか、それならばいっそやめようか、と苦悶するのでした。

この一事をして、私は、「できることなら捕鯨はやめたらいいのに。」と思っていたのが、ふっとんでしまいました。

日本人の血が騒いだんですかね。

その漁師の人よりテレビを見ていた私のほうがよほどカァッとなったくらいでした。

漁師の人たちは、「そもそも殺すところだけを写したら、どんな映像だって残虐に見えて当たり前だろうが。あの人たちだって、牛や豚を殺して食べているけれど、そのだけを写したらどういう印象になると思ってるんだ。」とか、

「我々が最後のそのシーンだけ見ると残虐に見えるだろうから、とあえて気を使ってカーテンを張って行っているのを、欧米の人に自分の仕事に誇りがもてないからああやって隠しているんだ、隠さなければならないような仕事なんてやめちまえ、とか言われるのは心外だ。我々は誇りを持ってこの漁をやっている、ということをわかってほしい。」とかおっしゃっていましたが、いちいちごもっともで、んだ、んだ、とうなづいてしまいました。

映像の力ってこわいな~と改めて思いました。

このようにちょっと1時間程度の番組を見ただけで、どっち寄り、あっち寄り、と考えが変ってしまうんですから。

私は「ザ・コーヴ」を見ていませんが、それを見たら、また考えが変るんでしょうねぇ。

番組では、太地町に住む学生たちにこの漁について、何か解決策はあるかどうか?という議論の時間を学校で設けていました。

いきなり、解決策かい。

それを中学生か高校生に?

そりゃあ、ちょいと無理でしょうが、と思い見ていました。


学生たちの意見は、おおむね漁を擁護するものでした。(当たり前ですわね。自分の親たちがかかわっているんですし。)

でもその言い分を聞いていると、残念ながら一方通行の愚痴や批判に終わっている、と感じざるを得ませんでした。

「鯨やイルカを食べちゃダメだって言うなら、犬を食べることを文化だってしている国もあるけれど、あれはどうしていいんだ?」

「賢い生き物は殺しちゃダメだ、って言うなら、どのみち人間は何か別の生き物を殺してその命をいただかないと生きてはいけないんだから、その相手が賢いかどうかで良いか悪いかを判断すべきじゃないでしょう。頭の悪い動物ならどれだけ殺してもいいの?」

これらはごもっともな意見だと思いますし、私もこの問いに答えられるものではありませんが、では、彼らのこの疑問に「それはこういうことだよ。」という答えが差し出されたら、彼らは「なるほど」といきなり捕鯨反対に回るのでしょうか。

それだけでは済まないものがあるはずだ、と思います。


いずれにしても、彼らはこの疑問に対して、自分で「そういえばどうしてなんだろう?」と調べてみることをせずに「そっちがそう言うんなら、これはどう解釈すればいいってことだよ。」と反対に反対を重ねているにすぎません。

そして、この議論のなかには捕鯨反対の欧米人が加わっていないのですから、そこで議論はストップしてしまいます。

これではあまり意味がないな、と思いました。


やはりお互いが同じテーブルについて、素朴な疑問とそれに対する答えの応酬を何度も何度も繰り返し、お互いの文化の土壌などについて理解を深めたうえで賛成や反対の結論を出さなくてはいけないと思いますが、鯨やイルカについての思い入れや見解の相違というものを欧米も日本も出し尽くしていないように思います。

じゃないと、「ほとんどの日本人が鯨食べなくたって生きていける、って言ってるんだから、それなら止めればいいじゃないか。」という暴論がまかり通ってしまいます。

これを食べなくては生きていけない、なんて食べ物が世の中にどれほど存在するんでしょうか?

どれをとっても、たいていはその代替となるような食べ物があります。

けれど、人間が食しているものは“餌”ではなくて、食べる楽しみ、というものも含んでいると考えれば、そういう発言は乾燥しきった砂漠のように荒廃なもの言いだ、ということがわかります。

フランス人に「ワインなんて飲まなくたって、ぶどう食べてエチルアルコール飲んでりゃいいだろう。」と言うのと同じじゃないですか。

アメリカ人に「そんな牛肉のステーキ食べなくたって、畑の肉といわれている大豆で代用しなさいよ。」で納得させられるわけないでしょう。


鯨やイルカが多くの日本人にとっては、そこまで民族の誇りをかけたものではないにせよ、少なくとも和歌山県の太地町の人々にとってはそうなのですから、それに対して「ほれほれ、10万円やっからよ。」はないだろう、と思うのです。

彼らはうつむきながら、「我々は、ほんとに鯨のすべてを頂いています。肉だけじゃなくて皮も、油も、骨も。あれだけすべて捨てるところのない動物はないです。」と言っていました。

私も、以前別の番組で見たことがありますが、ある国ではサメのひれを取るために生きているサメのひれをすべて切り落として、サメそのものは海に放置します。

すべてのひれを切り取られ泳げなくなったサメはいずれ死ぬのですが、サメが必死に身を捩じらせ、どうして僕、泳げなくなっちゃったの? どうして痛いの?と意味もわからずにもがき苦しんでいる様子はいたましくて正視に耐えませんでした。

これは後日あまりにも残酷だから、と少なくともちゃんと殺してあげること、というようになった、という報道を耳にしたような記憶もありますが、定かではありません。

いずれにせよ、こんな漁に比べたら、ほんとに鯨漁はその命の尊厳をまっとうしているように見えます。

いずれにしても、はお互いの誇りを尊重しあったうえで、同じテーブルにつかないとね。

自分がいかに偏った考えを抱きやすいのか、を再認識させてくれただけも、この番組を見た価値はありました。




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