ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

しかし、果たして私自身はオーラソーマから離れるときが来るんでしょうか?

2011-05-21 09:18:00 | オーラソーマ

またまた昨日の続きですが。

そして、「香りレイキマスター講座」のその日の記事にも書きましたが、近々の私のなかで起こったことのなかではとても重要なことなので、今日も書こうと思います。

香りレイキマスター講座のなかに、こんな一説がありました。

『香りレイキでは純粋なアロマ精油の11本を“宇宙のシンボル”として扱ってゆきます。この世に存在するすべての自然の香りは、私たちの意識の“何か”の象徴です。好きな香りも、苦手な香りも、すべて自分自身の内側にある“何か”の写し鏡なのです。これは、自分と言う存在のなかにあるものしか、現実に見ることができないという、タオ(道教)の捉え方でもあります。』

この世のすべてのことが自分の内側にあることの写し鏡だとするならば、その写し鏡で一度現実の世界にそれを取り出し、読み取り、確認したあとで、もう一度、自分の腹におさめる、という作業は大切なことです。

そのために、オーラソーマのボトルも、精油もあるのだ、と思います。
しかし、そんなツールを介することなく、宇宙とつながることができる人がいたとしたら、それらのツールは自分の直感と宇宙が直接つながることを妨げる、かえって邪魔なくらいのものかもしれません。


こういう考え方に気付いたときは、今まで何かしらの目に見えるツールがないものは全部“怪しい”と思ってきた私にとっては天地がひっくり返るくらいの発見だったのです。コロンブスの卵的発見でした。

最初からわかっている方には何言ってんの? いまごろ・・・と言われるかもしれませんが。

今まで私は、何となくすべてのスピリチュアルな高みを目指す人というものは、○○という入門から入って、次に△△へ進み、そして××すると、なかにはパアッと視界が開けるように高次の存在のことがわかるようになるものだ、というようにどこかで思っていたに違いありません。

僧侶が滝行や火行や断食をして到達する境地というものがあるように。

そのようにして、僧侶としての位も阿舎利にまで登りつめていくように。

だからいきなり特に修行を積んだわけでも努力したわけでもないのに「私には見える」とか、「感じることができる」という人のことを胡散臭く思っていたのでしょう。

しかし、学校の勉強と違って、スピリチュアルな次元の話というのは、ちょっと視点をズラしたり逆にしてみることで、本人が望むと望まないとにかかわらず、あるときオセロの黒がその同じ場所で白に変わるように「あ、見えるものがある。」とか「天の存在がどういうことか感覚でわかった。」ということなのに違いありません。

1年生から2年生、という手順を踏むわけでもなく、とくに決まったテキストをその通りに進めばそうなる、というわけでないところが難しいところです。

でも私にはそういう手順を踏んでしかるべきだ、という思い込みがあったんでしょうね。


それがなぜだか急に手放せてしまったのです。

そこが手放せると、ツールに執着する必要もない、と思えるようになったので、もしオーラソーマがボトルを使って現行のようなコンサルテーションのシステムをする、ということそのものが変わってしまったとしてもそれはそれでしかり、と受け止められる気がします。


その場合、オーラソーマや私は今後、どうなっていくんだろう?

どう変化するんだろう?ということは全く想像ができませんが。

いずれにしても、その人がたどった道は万にひとつも無駄なものはない、ということは信じられるので、少なくとも私がオーラソーマと出会い、これまでの経緯をたどって今日、こういう境地にいる、ということは私にとっては一片の無駄も無理もないところだと思えます。

格別の転機があったとも思えないのですが、突如、このように考えるようになったのには何があったんだろう?

私に何が起こったんだろう?

マスターボトルのB56「セントジャーメイン」とワークして、魂が飛翔しちゃったんだろうか?

バタフライ&シーエッセンスの講座を受けて、いつもいつも第三の目のところに2プッシュ、エッセンスを降りかけていたからかしら?

オーラソーマ仲間の友人が「わたし、オーラソーマ手放しちゃったんだよね。なんか突然必要じゃなくなっちゃった。」と言ったことに動揺しているのかなぁ?

先日、ゴルフの話をときどきする友人が、

「ようやくスイングの基本がわかってきた。不思議やなぁ。20代の頃からゴルフをやってきて、そのときの方が練習したし、スコアも良かったのにそのときにはわからなかったことが今はわかる。今、あのときほど練習にも行かないし、スコアも悪いけれど、なんか、わかった。」と言うのです。

それを聞いたとき、その友人が20代からこれまでに歩んできた人生でのすべてがそのスイングに生きたのだな、と思いました。

そういうことです。

常々私はこのブログでも、「私は自己探求が好きなんであって、そのためのツールとして一番の出来の良いものがオーラソーマシステムだと思っている。だから、もしオーラソーマ以上にこれだ、と思うツールに出会ったら、そのときにはオーラソーマから離れるのかもしれない。」なんてことを書いてきました。

でもそれは、離れない自分がわかっていたから逆に自信を持ってそう書けたことだった、と今では思います。

オーラソーマより優れたツールがある、ということも信じられなかったし。(これについては今でもそうですが)

ツールの中での優劣、という話じゃないな、ということに気付いた今、マジでオーラソーマから離れることもあるのだろうか、と思うとそれを想像しただけで寂寥感が体を通り抜けていくのがわかります。

これからオーラソーマシステムがどう変わって、私もどう変化していくのかわかりませんが、ただひとつ、私は自分をよりよく知り、この命を現実のこの世で輝かせたい、という気持ちはいくつになっても変わらないだろう、ということだけが今は言えます。

そして、オーラソーマが、天とつながることが目的なのではなくて、それを知ったうえで現実のこの世でそれをいかに生かしていくか、というツールである、ということもこれからも変わりません。

つまり、お遊びでスピリチュアルなことにちょっと興味あるぅ、という人のためにではなく、あくまで自分を現実世界で燃焼しきりたい、と思う人のためのシステムであるということも変わりはない、ということも断言できると思っています。




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