友人が、佐野洋子著「神も仏もありませぬ」という本を送ってくれました。
これは、タイトルから想像されるようなこの世の不条理を小説にしたものではなく、主人公の「私」が64歳という、「女」でも「ババア」でもなく、「中途半端なババア」になってしまったことを嘆きつつ、その実年齢に自分の精神年齢がついていかないわ、という日常のひとコマをオムニバス風に描いた短編です。
まぁ、私も精神年齢は今の実年齢にあらず、という感覚がしているので、それこそがこの世の不条理といってしまえば、まさにそこには「神も仏もありませぬ」の心境ですがね。
友人はそのなかの「何も知らなかった」という一編の登場人物のふたりが私たちみたいだね、読んでみて、と送ってくれたのです。
どれどれ、と早速読んでみました。
その「何も知らなかった」という小編は、主人公の女性と小さい頃からご近所で兄妹のようにして育った「孔ちゃん」という男性とのお話でした。
ふたりの間にはな~ぁんにもドラマがあるわけではありません。
主人公が女性で、孔ちゃんが男性で、となると果たしていつかはラブロマンスのひとつでもあった、という話なのか、と思ってもどこどこまでも読み進んでもなぁ~んにもありゃしません。(ていうか、最初から筆致で二人の間にそんなことはなかっただろうな、というのは推測がつきましたが)
物語はこの主人公の女性が、孔ちゃんが死んだ、という知らせを受けるところから始まります。
そして主人公は、孔ちゃんのことを近所に住んでいて、お互いの家を行き来してよく遊んだから何でも知っているつもりだったけれど、何も知らなかったことに気付くのです。
孔ちゃんは、大人になってからはいつからどんなところに住んでいたんだっけ?
孔ちゃんは、ほんとにやりたい仕事をしていたんだっけ?
孔ちゃんの奥さんてどんな人だっけ?
・・・あんなに何もかも知っていた、と思っていた人のことを私は何も知らなかった、もう1度だけでいいから孔ちゃんに会いたい、と言って主人公は泣くのです。
私はこのお話を読んで、でもやっぱり主人公は孔ちゃんのすべてを知っていたのだ、と思いました。
それほどに小さい頃寝食をともにした関係というのは強い、と思いました。
考えてみれば、家族だってそんなようなものではありませんか。
生まれたときから死ぬまで共に暮らす、という家族の一員の方もいるかもしれませんが、たいていは子どもは育てば親の元を巣立ち、自分で自分の巣をつくります。
どこかで離れる。
けれど、自分が幼いときに一緒に暮らした人の記憶、というのはたとえ離れていても「たぶん、あいつだったらこういうときこうするだろうな。」とか「あの子ならこれは好物だろうな。」と想像がつきますよね。
幼い頃の好みは大きくなっても、年をとってもさほど変わりませんから。
それほどに変わらないものを小さい頃に共に時間を共有した人とは、すべてを共有したといっても過言ではないような気がします。
私はその本を送ってくれた彼女とは、幼稚園の時代に知り合いました。
家も同じ町内と言うレベルのご近所ではありませんが、幼稚園の子どもの足で往来できる程度には近かったし、親同士も商売が似ていたということもあって、意気投合して仲が良かったので、文字通り家族ぐるみのお付き合いをしていました。
しかし、その彼女とは学区が同じですから小学校、中学校は同じなので合計で9年同じ学校に通いながら、一度もクラスメイトとなったことはありませんでした。
毎年クラス替えがあり、名簿が発表されると「また一緒じゃないんだ。」とがっかりしました。
小さい頃の私は単純にがっかりしていましたが、大人になってから振り返ると彼女とは同じクラスにならなくてよかった、と思いました。
彼女とはべったり、という友人になるとかえって仲良しではなくなって、友人関係が一気に終焉を迎えてしまう気がしたのです。
今では、彼女がこの世での一生の付き合いがあるようにと配置された人であることを疑う余地はありません。
神様はお互いの学びのために私たちをそれぞれの人生のあるべきところにきちんと配置したのでしょう。
彼女が結婚したときも、そのお相手のことは全く知りませんでした。
彼女が選んだ職業も、「あ、そういうのを志向していたんだ。へぇ。」と思いました。
彼女の子どもにも一度も会ったことはありません。
考えてみたら、彼女のことを何も知らないのでした。
でも、何もかも知っている気でいる。
友人でも、お互いの家を訪ねあうわけではなく、外でばかり会っていると、その友人が朝から晩までどのような生活をしているのか見当もつかない、ということはありませんか? 別に隠し立てをしているわけでなくても。
けれど、小さい頃の暮らしぶりを知っていると、今でも私は訪ねたこともない彼女の家の間取りや、朝から晩までたぶん、彼女はこういう暮らし方をしているんだろうな、お休みの日はこういう時間の使い方をしているんだろうな、ということが大体わかります。
ここは「大体想像をつけられます。」ではなくて、「大体わかる」んです。
たぶん、当たっていると思います。
親があんなに忙しく立ち働く姿をすぐ横で見て育った彼女が、サラリーマンというものに馴染めるはずがない。
弟といつも仲良く遊んでやっていた彼女が、今は別々の家庭を持っているとはいえ、たまには弟と連絡をとりあわないわけがない。
商売のスペースと自分たちのいるスペースが入り乱れていただけに、本当に考え事や集中して勉強したいときにはすっと自分の部屋にこもっていた彼女が、誰かれかまわずあけすけのスペースに耐えられるはずがない。そして、朝から晩まで人と会い続ける、ということにも耐えられないだろう。
植物が好きで、花の名前をよく知っていた。自分の住んでいるところは都会だったけれど、田舎のおじいちゃん家を訪ねるのが好きだった。私もよく一緒に連れていってもらった。
そんな彼女は緑のある少し郊外の家のほうが落ち着くだろう。
いろんなことがわかります。
今でも私たちはそんなにべたべたとしょっちゅう会いません。
たぶん、10年会わなくても、「久しぶりだねぇ。」と言い合いながら会うのではなく、「あら、そういえば久しぶりだっけ?」という感じでしょう。
だけどお互いを空気のように大切に思っている。
それがどうしてか、というと一言で言ってしまえば、小さい頃の暮らしを共有した、ということなんだろうと思うのです。
たまたまご近所だった、たまたまお互いの家でよく食事をした、たまたまよく遊んだ、お互いの家に寝泊りもした、ということが一生の大切な人かどうかの決め手になる、と言い切るのは何だか短絡的な思考にすぎる、という感じがして今までこう言い切ることにはためらいがありました。
でもよく考えてみると、ご近所で同年齢の子どもだった子はいっぱいいます。
何も彼女だけじゃない。
遊んだことがある子も、家に出入りしたことがある子も、お互いの家で食事をしたことがある子も。
でもそれらをすべて満遍なく、何年にもわたって、となると彼女しかいないのです。
何年もそれが自然に続くような関係に私たちが置かれた、ということこそが奇跡ではないでしょうか。
奇跡として出会い、成長し、お互いを見つめてきた、ということをこの年齢になって初めて認めることができるなんて遅すぎたかな、とも思いますが、この本を読んでそれを確信することができましたし、この年齢であろうと、死ぬ前にわかってよかった、と思いました。
かといってこれからも彼女とのこの距離感は変わらないような気がします。
小説のなかのように万が一ふいに彼女の死を知った、ということがあれば、私はやっぱり「もう一度だけ、会いたかった。」と言って大泣きすることでしょう。
しかしそう言って泣きながらも、もう一度会ったら何をする、何をし残した、ということがあるわけでもないことはわかっているのです。
お互いにただとりとめもなく自分の最近の心象風景を語っているだけでしょう。
それでもやはり「もう一度会いたかった」と言って泣くのです。そんな気がする・・・
彼女と私はまったく似ていない。
性格も見た目も、考え方も何もかも。
けれど、彼女は私そのものなのだ、という気もするのです。
皆さんには、そんな存在の人はいますか?
必ず近くに配置されていると思いますよ。
そしてその人とは前世も来世もまた近くにいるのかもしれません。
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