ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

後悔

2011-05-23 09:11:00 | テレビ番組

先日テレビを見ていたら、高齢のお父様の最期を看取る娘の一家のドキュメンタリーをやっていました。

もうこれ以上良くなりようはない、病院で死にたくない、という人を支援するお医者さんも増えてきているようなのです。

しかし、見ていて「いやぁ~、これは私には出来ないなあ。」というのが正直な実感でした。

なんでか、と言いますと、確かにお医者さんは痛みは取ってくれます。

しかし、痛くないだけで、体はやはりどんどん衰えていくわけですから、出来ないことは日ごとに増えていくのです。

でも、痛くないから、比較的頭のなかは冷めていて、「いや、俺はこれはどうしてもやりたいんだ。」という意志だけはしっかりと訴え、事実、そうしようとします。

それを支えてあげるだけでも大変だって。

テレビでは、ある日突然自宅で療養生活を続けていたお父さんが、前日までは介護ヘルパー付でひとりでお風呂に入れていたのが、突如、浴槽から立てなくなります。

それを引き上げるのに、一人の女性の力では無理なんです。

なんでもそうですけれど、水に浸かっているものとか人って重いですからね~

このときも一生懸命声をかけて、手助けはしたものの、なんとか一人で立ち上がってもらうのに数十分かかっていました。

それから、そのお風呂場から自分のベッドのあるところまでわずか数メートルなんですが、そこをゆっくりと休み休みとはなるけれど、自分の力で行きたい、と本人はおっしゃるわけです。

その意志を尊重してあげたい、と見守っていると、その日はなんと40分もかかりました。

「自分でベッドまで行きたいから。」と言われて、「あぁ、そう。じゃあ、どうぞ。」とほうっておくわけにはいきません。どこですってんころりん頭をぶつける、何てことになるかもわからないわけですからね。

いざとなれば手を貸せるように、ずーっとそばで見守っていなくてはならないわけです。

そこで40分なんて、これはもう介護だけに時間を割ける人でないと(いや、それでもこれが毎日となれば精神的にまいるでしょうね。)無理だ、と思いました。

ある日、娘と父親は喧嘩をします。

喧嘩の原因は、日に日に少~しずつ、長い時間をかけてしか食事ができなくなっている父親にイライラした娘に対して、父親が「うるさい! 俺の好きにして何が悪いんだ。お前のような召使に何か言われる筋合いはない。」というようなことを言って、娘はその“召使”という言葉に過剰に反応して、キレた、というわけです。

どちらの気持ちもわかるだけにやりきれません・・・


結局、自宅介護ということには家族のなかにそれだけに身をささげることのできる余剰人員が何人もいない限り無理なことなのか、とため息をつきかけたときでした。

スタジオに戻ったカメラに、ゲストの教授が言いました。

「自宅介護と在宅緩和とは全く別物なんです。まずは、これをわかっていただきたい。自宅介護はいつ果てるとも知れない戦いになります。しかし、在宅緩和は、治療ももうかなわず、最期通牒をつきつけられた人が最期のときを痛みを感じないように過ごすためのものですから、平均1ヵ月半なんです。」

これを聞いて、そっかあ・・・ 1ヶ月半ぐらいという大体の目安があれば、そのくらいなら頑張れるかもしれないなぁ、と思いました。

重ねて、ゲストで出演していた女優さんが言いました。

「しかし、どこまでしてあげても悔いが残らないってことはない気がしますね。」と。

それは見ていて私も感じました。

1度も、1瞬たりとも「もう勘弁してくれ。」と逃げ出したいような気持ちになったり、つい親を憎いような気持ちになったり、投げ出したくなるようなときがない人なんていないに違いありません。

そして、みな、その1度を、1瞬を悔いる。

その教授も言っていました。

「悔いが残らない死なんてないんですよ。そう思うしかないです。」

よくやってあげてるよなぁ、この人、と思う人でも誰もが悔いている。

それをそういうものだ、と思え、と言う。

でも、よくやっている人にも残る悔いというものがあるならば、それはそういうものだと言うならば、一体それは何のためなのだろう・・?

次からはもっとうまくやるため?

後悔というものが、あとに残された人がしょいこむことになる宿命だとしたら、積もり積もったそれらを最後にしょいこむ人は誰なのだろう?

誰もが後悔だと感じること=人間にプログラミングされた原罪だとしたら、それはキリストがクリアにしてくれたはずではなかったの?

やるせないよなぁ。

逆にまったく私には後悔なんてない、という人は本当にすがすがしいのか、と言ったら、体に穴があいたところを風がぴゅーぴゅー吹き抜けるような頼りなさを感じることになるのではないだろうか、とも思う。


おばあちゃんが死んだとき、娘たちは「早くに病院に送り込みすぎたのではないか。」ということを悔やみました。

このくらいの年齢の老人ならこのくらいのことはありえるだろう、という程度の症状だったおばあちゃんを面倒みきれないから、と入院させて、入院させてベッドに縛り付けられることになったがゆえに早く死んでしまったのではないか、と・・・・

そしてその次にそのおばあちゃんの下から2番目の娘が胃がんに犯されて亡くなったときには家族のみんなは、「彼女にはできるだけのことをした。」と胸をなでおろしました。

・・・しかし。

その娘が(わたしにとってはおばさん、ということになりますが)、皆がお見舞いにくる時間より早い朝に人知れず涙をぬぐっていた、ということを知った姉妹のひとりは「自分だけひとり先に逝く、ってことを悟っていたんだろうか?」とか「言わなかったけれど、ほんとうはもっと痛かったんだろうか?」とか考えて後悔していました。

後悔にはとりかえしのつく後悔ととりかえしのつかない後悔というものがあります。

生きている人との間に起こったことは、本当にその気になれば、とりかえしのつく後悔ですよね。

でも、相手が亡くなってしまってはどうしようもありません。

それゆえに「後悔している」と言っても、そこには心底、狂おしいほど、というときと、どこか甘美な匂いが漂っているときがあるように思います。

結局後悔も、あとに残された者だけに許された感情ですからそれをしっかりと受け止め、後悔することができる自分に感謝し、後悔によっていつまでも生々しく思い描くことのできる故人に思いをはせることができることを喜ぶしかないんでしょうか。

うちの母親も一緒に住んでいたときは、「こどもにだけは迷惑がかからないように私は早く老人ホームに入る。」というときもあれば、有吉佐和子の小説を読んで「憎まれっ子世にはばかる、というように私は最後の最後まで迷惑をかけまくって好きにして死んでやる。」というときもありました。

どちらも本音だと思います。

どうしたらいいのか、どちらにスタンスを決めたらいいのか、まだ決めかねる程度に彼女は若かった、ということでしょう。


今、どう考えているのかわかりませんが、私もこのようにして、世間の情報やらドラマやらドキュメンタリーやらを見ては、そのたびにうぅむ、とうなり、ゆらゆらと揺れながら態度を固めていき、それでも最後はやはり後悔を残すことになりそうだなぁ、とぼんやりと思うのでした。




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