ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

バタフライ&シーエッセンス part1 3日目を受講して

2011-05-26 09:03:00 | オーラソーマ

part1の最終日、3日目の大きな課題は、自分でバタフライ&シーエッセンスを調合してみることでした。

実は2日目を受けて3日目を受けるまでに私たちのクラスは少し間が開きました。

3週間ほどです。

だから、というわけでもないんでしょうが、その3週間、私たちは先生が調合したバタシーエッセンスを3人が3人、同じものを使い続け、毎日決まった時間にメールを送りあう、ということをしました。

とても新鮮で面白い体験でした。

先生が調合したエッセンスは先生いわく、「パーティエッセンスよ。」というくらい、浮き浮きと楽しくなっちゃう、という配合になっていました。

正直私はこのエッセンスを使っていた3週間、急に浮き浮きと楽しくて仕方がない、ということは何もありませんでした。

落ち込んでしょうがない、ということもありませんでしたが。

ただ3人でいつも決まった時間にメールをしあう、ということによって、とても3人の間に流れている同じ波長というようなものを感じました。

非常に影響を与え合ったわけです。

ですから、メールをしていて、ある1人が、「あ~、今日は人間関係でとてもイヤなことがありました。今もこんなメールしてる気分じゃないくらい。」というメールを寄越せば、私も何だかイヤな気分になるのです。

反対に「今日はすがすがしくて、何もかもが順調に行って、とても良い1日でした。」というメールが来れば、「あ~、よかった。よかった。私もそうだった。」という気持ちになるのです。

これは不思議でしたね~

ある日など、1人が「今、○チャンネルの、『○○△△』という番組を見てたの~ 感動して泣いてるところでした。」というメールが来たと思ったら、なんと後の2人も同じ番組を見ていて、同様に感動の涙を流しているところだった、ということもありました。

この体験においても、バタシーエッセンスが1日目の初日、開講1番に先生に、「バタフライエッセンスとフラワーエッセンスの何が一番違う点か、と言われれば、バタシーエッセンスは取った本人じゃなくて、相手が変わるってことが起こるのよ。」とおっしゃっていた意味が実感できました。

さて、自分のためにテーマを決めて、自分でエッセンスを調合するためのやり方は自分たちにまかされました。

ペンデュラムのようなものを使ってもよし、直感で選んでもよし、パンフレットから1つ1つの意味を探り選んでもよし。


ここでもまた私たち3人は、打ち合わせたわけでもないのに、全く同じ方法を選びました。

ラベルを裏側に向けて、なるべく自分が何を選ぶのか見えないようにしたうえで、1本ずつの上に手をかざし、何かしら感じ取ったものを選ぶ、という直感による方法です。

聞いてみると、それぞれ手のひらにどう感じるのか、というのは違うみたいでしたが。

ひとりは、引力によってすぅっと引き寄せられるような感じがするものを選んだ、と言っていました。

ひとりは、手のひらにちょっとピリピリと感じるような感じがするものを選んだ、と言っていました。

私もほぼピリピリに近いのですが、ピリピリというよりはジリジリに近いかなぁ。

電気風呂に入るとずーっと当たっている場所は途切れなくジリジリしますよね。

あんな感じ。(って、電気風呂なんて知らない人のほうが多いかしら。昔は銭湯に行くと1つの浴槽は絶対電気風呂でした。おばあちゃんが眉根にシワを寄せながら、じっと耐えるようにして長湯してました。今でもスーパー銭湯に行くとあるところもありますよ。)


以前の私なら、ペンデュラムのように誰の目からみても「そこ、振れてる」というようにわかりやすいツールを使って選んだことでしょう。

でも、このときは迷いなく自分の手で感じた直感でいく、と思いました。

その直感も以前なら自信がないので、「これを感じた、って思ってもいいのかなぁ・・」と迷ったと思います。

でもこの日は迷いなく選ぶことができた、と思います。


確かになかには「う~ん、このくらいの感じってキテルことになるのか、違うのか微妙だなぁ。」と思ったものもあります。

でも、「これは間違いない!」と確信を持てるものも多かった。

なかでも一番感じたのは、後でラベルを見てみると、バタフライエッセンスのゴールド3「スィミ・パリリオン」でした。

『すべての物事の「豊かさ」につながる、調和とバランスをとりもつ明確で充実させる可能性をもつエネルギー。私たち自身の内側にある英雄を見出す。智恵へのアクセスとその吸収を助けるもの』というスィミ・パリリオン。

なんと私はこのエッセンスを、自分でも購入していました。

前回2日目のときに先生に、「何か欲しいものはある?」と言われてそのときにはパンフレットを読んで、意味からこれ欲しいなぁ、と思ったものを何本か発注していたのです。

先生に、「なぁんだ、恵津子さん、同じもの、買っているじゃない。やっぱり、必要だって自分でわかっていたのね。」と言われました。

そういうことなのかなぁ。

でも、確かに今の私は、この世でのスピリチュアルな世界と現実の世界の「調和とバランス」というものに徐々に気づき始めている、という気がします。

気づき始めている、というとちょっと大仰かなぁ。

理屈じゃなくて、生きていく過程においてさなぎが当然のようにするーっとその殻を脱ぎ捨てて蝶になるように、あるいはボトルを塗ってその成分が皮膚に浸透していく様子、というのは目に見えないけれどあとで気付いたらあれのおかげかな、というように、ごくごく自然にそのゲートを通過しつつある、というような気がするのです。

蝶は黄泉の国へのゲートキーパーですからね。

そのエネルギーに助けてもらったのかもしれないです。

以前の私だったら、直感で調合するというものには興味を示さなかったかもしれない。

そんな私が「バタフライ&シーエッセンス」というコースがオーラソーマの中にあるならとりあえず、オーラソーマに関するものは全部知っておきたい、というレベルから、ぜひとも受講したい、に移行するまでに何があったのか、というと特に何があったわけでもないのです。


まだ人に調合してあげられるようになるにはpart2を受講しなくてはいけませんが、とりあえずはせっせと自分のために調合してみて、その効果や実感することがあったら、またこのブログで報告したいな、と思っています。




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捕鯨について

2011-05-25 09:07:00 | テレビ番組

今日はまたちょっとお堅い話題で失礼いたします。

先日「NHKスペシャル」で、和歌山県太地町の鯨漁・イルカ漁のことをやっていました。

昨年でしたか、アカデミー賞受賞作品となった「ザ・コーヴ」が話題になりましたね。

シーシェパードの人たちが、和歌山県太地町の鯨・イルカ漁で最後、殺すところを撮影したドキュメンタリータッチの映画のことです。

今回は、あれを受けて困惑する地元の漁師たちに密着したドキュメンタリーでした。

私自身は、鯨といえば、小学校のときの給食に出てきたちょっと赤っぽくて血身の味がする、ひからびたようなほどカリカリに揚がった竜田揚げを思い出します。

たいしておいしいとも思わなかったし、今後の人生で2度と口にできんぞ、と言われても全然かまいません。

ましてやオーラソーマをやっている身です。

オーラソーマでは鯨もイルカも海のマスターと言われています。

その、その日の餌を探しに行かねばならないことを後回しにしてでも、遊びによって自らの知能を高めていくサマを仏陀も「人間よりえらい。」と高く位置づけているくらいですから、捕獲して食べるために殺さずにすむならそれならそれでそっちにして、という気持ちでした。

オーラソーマの授業でも、「イルカってね、人間の役にたとうとしている生き物だから、捕まえられてもあぁ、これから僕は人間の役にたつんだ、って理解して騒がずにおとなしいんだって。そのイルカの家族たちも近くで最後までずーっと見守ってるんだって。」なんて聞きました。

これ聞いただけでも、あぁ~ん、そういう生き物殺さないで、って単純に思いましたもん。

ましてや、欧米では1頭1頭の鯨やイルカに名前までつけている、と聞いたり、「日本人全員が鯨を食べることが定着している、というわけじゃないんでしょう?  そういうのを日本の文化って言えるんですか?」と言われると、まぁ、捕鯨はやめれるものならやめる方向で考えたらどうですかねぇ、と身を縮めるような思いでした。

けれど、同じ日本人としてそれを生業として生活している人たちがいることもまた認めたい気持ちです。

ましてや彼らは違法に漁業をしているわけはなく、法律の許された範囲内での頭数を水揚げしているのですよね。

それをエキセントリックで、敵意むきだし、ルール違反のやり方で迫ってくるシーシェパードにはいかがなものか、という気持ちもありました。

番組では、漁に出かける漁師の車の前に立ちはだかり、車を出させないようにしようというシーシェパードの人たちを写しているところがありました。

彼らは決して暴力をふるってはきませんが、車の前に立ちはだかり、扇型に1万円札を10枚見せびらかし、「これをおまえにやるから、今日、鯨1頭とることをあきらめてもらえないかね?」と言っていました。

何度も何度も、お金を広げたままの手をかかげ、「ほぅら、これをやるから。やるから。」と言っていました。

この相手のプライドをずたずたにするようなやり方が、決して人に手出しをしていないから果たして穏便だと言えるのでしょうか?

札束で相手のほっぺたを叩くようなやり方が。

もちろん、漁師の人は相手にもせず、札束になびくようなことはありませんでしたが、これはシーシェパードが相手がカッとなるのを焚き付けているのか、本当に、「マジぃ? いいのぉ? それだけくれるんなら、やめよっかなぁ。もう少し高くなんない?」というような値段交渉に応じてくる、と思ってやっていることなんでしょうか?

理解に苦しみます。

そして、最終的には警察を呼んで、この騒動はおさまったのですが、漁師の人は苦しんでいました。

自分が普通に仕事に出かけるために警察の出動までお願いするようになる、ということについて。

自分がやっていることはそれほどまでに他人を巻き込み、他人に迷惑や労力を及ぼすことになるのか、それならばいっそやめようか、と苦悶するのでした。

この一事をして、私は、「できることなら捕鯨はやめたらいいのに。」と思っていたのが、ふっとんでしまいました。

日本人の血が騒いだんですかね。

その漁師の人よりテレビを見ていた私のほうがよほどカァッとなったくらいでした。

漁師の人たちは、「そもそも殺すところだけを写したら、どんな映像だって残虐に見えて当たり前だろうが。あの人たちだって、牛や豚を殺して食べているけれど、そのだけを写したらどういう印象になると思ってるんだ。」とか、

「我々が最後のそのシーンだけ見ると残虐に見えるだろうから、とあえて気を使ってカーテンを張って行っているのを、欧米の人に自分の仕事に誇りがもてないからああやって隠しているんだ、隠さなければならないような仕事なんてやめちまえ、とか言われるのは心外だ。我々は誇りを持ってこの漁をやっている、ということをわかってほしい。」とかおっしゃっていましたが、いちいちごもっともで、んだ、んだ、とうなづいてしまいました。

映像の力ってこわいな~と改めて思いました。

このようにちょっと1時間程度の番組を見ただけで、どっち寄り、あっち寄り、と考えが変ってしまうんですから。

私は「ザ・コーヴ」を見ていませんが、それを見たら、また考えが変るんでしょうねぇ。

番組では、太地町に住む学生たちにこの漁について、何か解決策はあるかどうか?という議論の時間を学校で設けていました。

いきなり、解決策かい。

それを中学生か高校生に?

そりゃあ、ちょいと無理でしょうが、と思い見ていました。


学生たちの意見は、おおむね漁を擁護するものでした。(当たり前ですわね。自分の親たちがかかわっているんですし。)

でもその言い分を聞いていると、残念ながら一方通行の愚痴や批判に終わっている、と感じざるを得ませんでした。

「鯨やイルカを食べちゃダメだって言うなら、犬を食べることを文化だってしている国もあるけれど、あれはどうしていいんだ?」

「賢い生き物は殺しちゃダメだ、って言うなら、どのみち人間は何か別の生き物を殺してその命をいただかないと生きてはいけないんだから、その相手が賢いかどうかで良いか悪いかを判断すべきじゃないでしょう。頭の悪い動物ならどれだけ殺してもいいの?」

これらはごもっともな意見だと思いますし、私もこの問いに答えられるものではありませんが、では、彼らのこの疑問に「それはこういうことだよ。」という答えが差し出されたら、彼らは「なるほど」といきなり捕鯨反対に回るのでしょうか。

それだけでは済まないものがあるはずだ、と思います。


いずれにしても、彼らはこの疑問に対して、自分で「そういえばどうしてなんだろう?」と調べてみることをせずに「そっちがそう言うんなら、これはどう解釈すればいいってことだよ。」と反対に反対を重ねているにすぎません。

そして、この議論のなかには捕鯨反対の欧米人が加わっていないのですから、そこで議論はストップしてしまいます。

これではあまり意味がないな、と思いました。


やはりお互いが同じテーブルについて、素朴な疑問とそれに対する答えの応酬を何度も何度も繰り返し、お互いの文化の土壌などについて理解を深めたうえで賛成や反対の結論を出さなくてはいけないと思いますが、鯨やイルカについての思い入れや見解の相違というものを欧米も日本も出し尽くしていないように思います。

じゃないと、「ほとんどの日本人が鯨食べなくたって生きていける、って言ってるんだから、それなら止めればいいじゃないか。」という暴論がまかり通ってしまいます。

これを食べなくては生きていけない、なんて食べ物が世の中にどれほど存在するんでしょうか?

どれをとっても、たいていはその代替となるような食べ物があります。

けれど、人間が食しているものは“餌”ではなくて、食べる楽しみ、というものも含んでいると考えれば、そういう発言は乾燥しきった砂漠のように荒廃なもの言いだ、ということがわかります。

フランス人に「ワインなんて飲まなくたって、ぶどう食べてエチルアルコール飲んでりゃいいだろう。」と言うのと同じじゃないですか。

アメリカ人に「そんな牛肉のステーキ食べなくたって、畑の肉といわれている大豆で代用しなさいよ。」で納得させられるわけないでしょう。


鯨やイルカが多くの日本人にとっては、そこまで民族の誇りをかけたものではないにせよ、少なくとも和歌山県の太地町の人々にとってはそうなのですから、それに対して「ほれほれ、10万円やっからよ。」はないだろう、と思うのです。

彼らはうつむきながら、「我々は、ほんとに鯨のすべてを頂いています。肉だけじゃなくて皮も、油も、骨も。あれだけすべて捨てるところのない動物はないです。」と言っていました。

私も、以前別の番組で見たことがありますが、ある国ではサメのひれを取るために生きているサメのひれをすべて切り落として、サメそのものは海に放置します。

すべてのひれを切り取られ泳げなくなったサメはいずれ死ぬのですが、サメが必死に身を捩じらせ、どうして僕、泳げなくなっちゃったの? どうして痛いの?と意味もわからずにもがき苦しんでいる様子はいたましくて正視に耐えませんでした。

これは後日あまりにも残酷だから、と少なくともちゃんと殺してあげること、というようになった、という報道を耳にしたような記憶もありますが、定かではありません。

いずれにせよ、こんな漁に比べたら、ほんとに鯨漁はその命の尊厳をまっとうしているように見えます。

いずれにしても、はお互いの誇りを尊重しあったうえで、同じテーブルにつかないとね。

自分がいかに偏った考えを抱きやすいのか、を再認識させてくれただけも、この番組を見た価値はありました。




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私と母と友人との関係

2011-05-24 09:27:00 | 身辺雑事

朝早く、母親から電話が入りました。

用件というのは、ご主人を亡くされた私の友人に自家製のらっきょうをあげたいのだけれど、あんた、渡してきてくれない?というものでした。

ご主人を亡くした友人のことについては、何度もこのブログに書いていますが、その友人とは母も親しいのです。

友人は私に会いに来るときは必ず約束の時間より30分も1時間も早く来て、うちの母と話し込んでいました。

その友人はちょうどご主人が亡くなって1年がたとうとしていますが、いまだに悲しみは募る一方で、まったく癒えない、と言います。

仕事場では何事もなかったように普通にしているけれど、私生活では誰にも会いたくない、と言います。

だから、私は言いました。

「会う予定はないし、家に届けに行ったって、ちょうど在宅かどうかわからないから、前もって在宅を確かめるための電話は入れることになるわけでしょう? そうしたら、そのときに結構です、お気遣いなく、って言われるだけだと思うよ。」

「そのときには、でも、もう近くまで来ているから、って言えばいいじゃないの。」

ま、そりゃそうだけど・・・とグッと詰まるわたし。

「自宅まで届けに行ったら行ったで、彼女だって玄関先ではい、さようなら、はあんまりだ、と思って本当はそうしたくもないのに、ちょっとおあがりください、と言うしかなくなるじゃないの。」

「そのときは、いいえ、こちらも急いでいますので、って言えばいいじゃないの。」

またもグッと詰まるわたし。

八つ当たりなのか、母に腹を立てること自体が的を得ているのかわからない怒りがこみあげてきて、

「とにかくぅ! らっきょう、そうまでして渡さなくてはいけないものだとは思えない。」と言うと、

「ふぅん。じゃあ、まぁ、その件はいいわ。」と母親は妙に落ち着き払った口調で言うと、次の話題に移りました。

電話を切ってからもなぜか虫がおさまらないわたし。

ダーリンが、「どうした? えっこちゃんはお母さんと会話するとそのあと、いつもそういうふうになるね。」と一言。


そうなんです。

誰と話してもここまで切れやすくない私なのに、どうして母親にはこうもむかっ腹が立つんだろう。

今日の場合は、少し考えたら理由がはっきりしました。


1つには、母親の押し付けがましさ。

母親はらっきょうをつけることに命をかけているようなところがあって、そして友人がご主人を亡くす前までは母のそのらっきょうを手放しで褒めちぎり、そんなに好きなら、と彼女のためにも一瓶作るようになり、毎年この時期になると彼女にもおすそわけをしていたのですが、「今はまだ誰にも会いたくない。」という彼女に、「らっきょうあげるくらいならいいだろう。」と思うのは母の勝手な思い込みにすぎないわけでしょう。

そのらっきょうをあげるためにわざわざ「近くまで来ただけだから」「急いでいるから」とか小さな嘘を重ねた小芝居を打ってまで渡したい、という気持ちが私にはわからない。

それはもう彼女のため、というより、自分がよかれ、と思っているものの押し売りにすぎないように思えるからです。


そしてもうひとつ、大きく引っかかったのは、母が私の友人である彼女に対して母がしてあげよう、と思っていることに対しては当然あんたも協力的であるべきでしょう? あんたもそう思うでしょう?という勘違い。

私は私で彼女と友人であるけれど、友人と私の母が私がいないときに30分や1時間ほど話し込んで培った友情関係というものについては私は一切関知しない。

母と友人の間で芽生えた友情というものと、私と彼女との間のものとをいっしょくたにしないで欲しい、という嫌悪感。

何だか私と友人の間で培ってきたものにまで母が土足で踏み入ってきて、大鍋でそれらをごった煮にされてしまったような気がしたのでした。

らっきょう渡すために会うぐらいのことで、彼女だって「人には会いたくない、いやだ、いやだ。」と言い続けるはずがないじゃないの、と信じきっている様子にも何だか腹が立ちました。

母との関係という点で、わたしと友人は似たようなことを感じていて、会うとよくその話をしたものでした。

でも友人は結婚して別々に暮らすようになったら、それほどでもなくなったけれど、たまにふと口にする母の言葉にあぁ、この人は何も変っていないな、と感じるときがある、などと言っていました。

わたしは当時まだ結婚していませんでしたから、ふぅん、そういうものかなぁ、と聞いていましたが、今、わたしも結婚して、母との軋轢が格段に減ったのを感じています。

ただそれは物理的に離れて暮らすようになったからであって、ちょっと話すとあぁ、以前の関係のままで何も解決しているわけではないな、という彼女の言う意味がすごくわかったりしていました。

そして、今回、彼女はご主人が亡くなってから、その母の圧力が怒涛のように押し寄せてきた、と手紙で言っていました。


わかるような気がしました。

彼女のお母さんは、ご主人を亡くして落ち込んでいる彼女を励まそうとして、なだめたり、すかしたり、時にはわざと叱咤激励調を交えたりして接触してきているのでしょう。

でもそれが彼女にとってはいつも的はずれのような気がして神経がささくれだつ。

わたしが彼女だとしても、そういうふうになるだろうな、と思いました。

とにかく総合的に一口で言って、母は無神経だ。

無神経なくせに、電話をしてきてある程度わたしの性格ならこう言うだろう、というのを推し量ったうえで、そう言ったらこう言おう、と準備をしてきたような気配も許しがたい、などとどんどんわたしの妄想は膨らむのでした。

そして、ふと我に立ち返り思うのでした。

昨日は自宅介護、在宅緩和のテレビを見て、あれほどにもし、これが自分の親だったらどうするかなぁ、ということについて、優しい気持ちで考えたではないか。

それが朝一番、母親の声を一言聞いただけでもう、そんな思いはどこへやら、むかむかと腹を立てている自分がいる。

立てなくてもいいようなことで。

こんな小さなことでチクチク神経をとがらせる自分自身が許せない。

果てにはこんな小さなことで自分を許せなくした母がまた許せない。

・・とまぁ、このように悪い循環で思考は広がっていくのでした。


この思考回路は母と娘の宿命なんでしょうか。

父親の言うことには、はぁ~、これまたなんとわたしとは考えが違うことよ、と思うことはあっても、こうも腹を立てることはありませんからねぇ。

まぁ、こんなことで腹を立てていられるうちが華かもしれません。

これからもいろんなことがあるだろうけれど、それらをみな、面白がれるような自分であろう、と思いました。




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後悔

2011-05-23 09:11:00 | テレビ番組

先日テレビを見ていたら、高齢のお父様の最期を看取る娘の一家のドキュメンタリーをやっていました。

もうこれ以上良くなりようはない、病院で死にたくない、という人を支援するお医者さんも増えてきているようなのです。

しかし、見ていて「いやぁ~、これは私には出来ないなあ。」というのが正直な実感でした。

なんでか、と言いますと、確かにお医者さんは痛みは取ってくれます。

しかし、痛くないだけで、体はやはりどんどん衰えていくわけですから、出来ないことは日ごとに増えていくのです。

でも、痛くないから、比較的頭のなかは冷めていて、「いや、俺はこれはどうしてもやりたいんだ。」という意志だけはしっかりと訴え、事実、そうしようとします。

それを支えてあげるだけでも大変だって。

テレビでは、ある日突然自宅で療養生活を続けていたお父さんが、前日までは介護ヘルパー付でひとりでお風呂に入れていたのが、突如、浴槽から立てなくなります。

それを引き上げるのに、一人の女性の力では無理なんです。

なんでもそうですけれど、水に浸かっているものとか人って重いですからね~

このときも一生懸命声をかけて、手助けはしたものの、なんとか一人で立ち上がってもらうのに数十分かかっていました。

それから、そのお風呂場から自分のベッドのあるところまでわずか数メートルなんですが、そこをゆっくりと休み休みとはなるけれど、自分の力で行きたい、と本人はおっしゃるわけです。

その意志を尊重してあげたい、と見守っていると、その日はなんと40分もかかりました。

「自分でベッドまで行きたいから。」と言われて、「あぁ、そう。じゃあ、どうぞ。」とほうっておくわけにはいきません。どこですってんころりん頭をぶつける、何てことになるかもわからないわけですからね。

いざとなれば手を貸せるように、ずーっとそばで見守っていなくてはならないわけです。

そこで40分なんて、これはもう介護だけに時間を割ける人でないと(いや、それでもこれが毎日となれば精神的にまいるでしょうね。)無理だ、と思いました。

ある日、娘と父親は喧嘩をします。

喧嘩の原因は、日に日に少~しずつ、長い時間をかけてしか食事ができなくなっている父親にイライラした娘に対して、父親が「うるさい! 俺の好きにして何が悪いんだ。お前のような召使に何か言われる筋合いはない。」というようなことを言って、娘はその“召使”という言葉に過剰に反応して、キレた、というわけです。

どちらの気持ちもわかるだけにやりきれません・・・


結局、自宅介護ということには家族のなかにそれだけに身をささげることのできる余剰人員が何人もいない限り無理なことなのか、とため息をつきかけたときでした。

スタジオに戻ったカメラに、ゲストの教授が言いました。

「自宅介護と在宅緩和とは全く別物なんです。まずは、これをわかっていただきたい。自宅介護はいつ果てるとも知れない戦いになります。しかし、在宅緩和は、治療ももうかなわず、最期通牒をつきつけられた人が最期のときを痛みを感じないように過ごすためのものですから、平均1ヵ月半なんです。」

これを聞いて、そっかあ・・・ 1ヶ月半ぐらいという大体の目安があれば、そのくらいなら頑張れるかもしれないなぁ、と思いました。

重ねて、ゲストで出演していた女優さんが言いました。

「しかし、どこまでしてあげても悔いが残らないってことはない気がしますね。」と。

それは見ていて私も感じました。

1度も、1瞬たりとも「もう勘弁してくれ。」と逃げ出したいような気持ちになったり、つい親を憎いような気持ちになったり、投げ出したくなるようなときがない人なんていないに違いありません。

そして、みな、その1度を、1瞬を悔いる。

その教授も言っていました。

「悔いが残らない死なんてないんですよ。そう思うしかないです。」

よくやってあげてるよなぁ、この人、と思う人でも誰もが悔いている。

それをそういうものだ、と思え、と言う。

でも、よくやっている人にも残る悔いというものがあるならば、それはそういうものだと言うならば、一体それは何のためなのだろう・・?

次からはもっとうまくやるため?

後悔というものが、あとに残された人がしょいこむことになる宿命だとしたら、積もり積もったそれらを最後にしょいこむ人は誰なのだろう?

誰もが後悔だと感じること=人間にプログラミングされた原罪だとしたら、それはキリストがクリアにしてくれたはずではなかったの?

やるせないよなぁ。

逆にまったく私には後悔なんてない、という人は本当にすがすがしいのか、と言ったら、体に穴があいたところを風がぴゅーぴゅー吹き抜けるような頼りなさを感じることになるのではないだろうか、とも思う。


おばあちゃんが死んだとき、娘たちは「早くに病院に送り込みすぎたのではないか。」ということを悔やみました。

このくらいの年齢の老人ならこのくらいのことはありえるだろう、という程度の症状だったおばあちゃんを面倒みきれないから、と入院させて、入院させてベッドに縛り付けられることになったがゆえに早く死んでしまったのではないか、と・・・・

そしてその次にそのおばあちゃんの下から2番目の娘が胃がんに犯されて亡くなったときには家族のみんなは、「彼女にはできるだけのことをした。」と胸をなでおろしました。

・・・しかし。

その娘が(わたしにとってはおばさん、ということになりますが)、皆がお見舞いにくる時間より早い朝に人知れず涙をぬぐっていた、ということを知った姉妹のひとりは「自分だけひとり先に逝く、ってことを悟っていたんだろうか?」とか「言わなかったけれど、ほんとうはもっと痛かったんだろうか?」とか考えて後悔していました。

後悔にはとりかえしのつく後悔ととりかえしのつかない後悔というものがあります。

生きている人との間に起こったことは、本当にその気になれば、とりかえしのつく後悔ですよね。

でも、相手が亡くなってしまってはどうしようもありません。

それゆえに「後悔している」と言っても、そこには心底、狂おしいほど、というときと、どこか甘美な匂いが漂っているときがあるように思います。

結局後悔も、あとに残された者だけに許された感情ですからそれをしっかりと受け止め、後悔することができる自分に感謝し、後悔によっていつまでも生々しく思い描くことのできる故人に思いをはせることができることを喜ぶしかないんでしょうか。

うちの母親も一緒に住んでいたときは、「こどもにだけは迷惑がかからないように私は早く老人ホームに入る。」というときもあれば、有吉佐和子の小説を読んで「憎まれっ子世にはばかる、というように私は最後の最後まで迷惑をかけまくって好きにして死んでやる。」というときもありました。

どちらも本音だと思います。

どうしたらいいのか、どちらにスタンスを決めたらいいのか、まだ決めかねる程度に彼女は若かった、ということでしょう。


今、どう考えているのかわかりませんが、私もこのようにして、世間の情報やらドラマやらドキュメンタリーやらを見ては、そのたびにうぅむ、とうなり、ゆらゆらと揺れながら態度を固めていき、それでも最後はやはり後悔を残すことになりそうだなぁ、とぼんやりと思うのでした。




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パーミストリー講座 ~恋愛&パートナーシップ編~を受けて

2011-05-22 09:02:00 | オーラソーマ

先週、またまた東京にパーミストリー講座を受けに行ってまいりました。

この講座ハマるって~

今回で3回目ですが、私のほかにも2名、以前にも出席してらっしゃったリピーターの方がいらっしゃいました。

さて、今回は「恋愛&パートナーシップ」編。

もし、パーミストリーのハンドケアをサロンに導入するとしたら、数々ある手相のラインのなかでも恋愛についてはやっぱ、一番人気になるんだろうな~と思っていました。

実際、手相のいろんな線をほとんど知らなくても、結婚線だけについてはそれがどこのことなのか、見方についても「知ってる、知ってる~!」というお嬢様方は結構多くてらっしゃるんじゃないでしょうか。

はい、その通り。

手のひらではなくて、小指側の、なんていうか、手の厚みの部分を横から見たときに現れている線のことですね。

パーミストリー講座では、これを「パートナーシップライン」と呼びます。

まぁ、日本語で結婚線と言われているそのままの英訳で「マリッジライン」とも呼ばれているようですが。

これをなぜ「パートナーシップライン」と呼ぶのか?

最近は、籍まで入れずに「パートナー」として籍を入れた人たちと同様の生活を送っているカップルも増えたから?

法律的な結婚は出来ないけれど、それ以上に愛し合っている同性愛者たちのためにそういう言い方になった?
ひょっとしたら、そういうこともあるかもしれませんね。

実は、授業ではテキストにいきなりこう記されていました。

『手を読むという側面において、この線は本当にもっとも頼りにならないので、大きな注意とともに扱います。』

これを読んだとき、私は思わず笑ってしまいました。

世の人々が、結婚こそ幸せをつかむために私ってどうなるんだろう?って一番知りたがるところが、実は手相では一番不確かなものだ、なんて。 

やはり恋愛ほどつかみづらいものはないのか。

まぁ、手相もどこかわからないヨソからひゅうるる~って降りてくる占いではなくて、自分で作り上げてきた人生がそのまま手相に反映されているんだ、と考えれば、自分こそが愛とは最も不確かなものだ、と実は心底で認めているってことにもなりますねぇ。

不確かなものを探して、それを自分の体に刻まれた確実なものとして確認したくって、でもやっぱりそれも不確かで・・・っていうことに何だか笑えてきてしまったのでした。

さて、パーミストリーでは「パートナーシップ」とは異性のことを指すとは限らないから、という意味で不確かなものとして扱っているのです。

例えば、ローマカトリックの聖職者で結婚はできないし、しないはずの人にもこのパートナーシップラインを見つけることができるし、子どもがいない作家の手の中にプロジェニーライン(これは子孫線のことです。)を見つけることもある、と書かれています。

これはなぜか、と言うと、カトリックの聖職者は自分の仕事と結婚した、ということができますし、作家は自らの著書が自分の生み出した子どもだ、ということができるから、という意味からなんだそうです。

つまり、パートナーシップは結婚に限らず、自分以外のものや他者との結びつき、つながりを表すラインだと考えられている、ということなのです。

こう考えるとその不確かさが納得ですね。

ちなみに私のパートナーシップラインは、人よりもかなり小指の付け根寄りに刻まれていますから、これは実際に結婚そのものを現すとしたら、かなり遅くになって結婚したという事実を表している、といえます。

左手はもともといただいた運命の手、右手は自分の意志によって変えていく手ですが、左手にはわたし、結婚線は2本刻まれているんですね~

もともとは2回結婚することになっていた、と言う運命だったのか・・・

しかし、右手には1本だけです。

もうこのまま離婚しないみたいです。(少なくとも私の意志としては)

なんだかほっ。

座学の最初は、まずは4大元素別手のタイプによる恋愛傾向というものを自分の手を使って見ていきました。

手を見て、どの元素タイプかがわかるなんて!

これでいくと私は「火、風、水、地」のうちの「火」の傾向を持つ手でした。

そしてなんと、この日に参加した受講者のうちおひとりだけ「水」の方がいらっしゃいましたが、あと全員「火」のタイプだったのです!

別に世の中の分布として「火」のタイプが特に多い、というわけではないそうですから、これは異常な「火」率の高さです。


そうしたら先生がこうおっしゃいました。

「オーラソーマやってる人って『火』の人が多いのよ~」って。

「火」は、「直観の手」と言われ、未知に挑むパワフルな輝きの人、だそうです。

「火」の性質をそのまま思い浮かべればたいてい合っているので、4大元素の話なんて馴染みがない、とおっしゃる方でもイメージしやすいと思います。

火は、燃え盛る炎ですよね。

なので、このタイプの人にとっては、生きがいや情熱を持つことがとても重要で、情熱を持って取り組めることに全力をそそぎ、これを大切にするんだそうです。

ですよね~

オーラソーマやってる、ってこと自体が情熱がないと続きませんもの。

ちょっと惹かれて、何なに? 1回ぐらい見てもらいたい~と受ける側でとどまらず、プラクティショナーとしてやっていく、ということはいろんな意味で情熱がないと続きません。

でも、恋愛で見たとき、火のタイプは「ぶつかりあえるパートナーとの活気に満ちたパートナーシップを望む」とありましたが、ここに関していえば、私はそんなタイプではありません。

まぁ、年齢によっても変わるかもね。

確かに20代なら、そんな相手を求めていました。

今は、「ぶつかりあえるくらいのことを私からは言うけれど、それを適度に受け流してくれて同じような強さで真正面からは来ない相手のほうがいい。」です。

はは、なんて身勝手。そんな都合のいい人がいたら、誰でもそうがいいって? 

ですよね~

まぁ、ダーリン、割とそうなんですけどね。(と、さらりとノロケる。)

しかし、私は誕生日から割り出した星座でいくと、「地」になるんです。

「地」の性質は「現実の手」で、着実な人生を優雅に歩む人です。

地に足が着いていて、実質的で現実的なタイプ。

この乙女座の性質を小さい頃から「当たってないな~」と思っていました。

今は、この「地」の性質と「火」の性質をちょこちょこつまみ食いしている、っていう感じがします。

どちらも当たっているところがほどほどにあり、当たっていない部分もある、って感じです。


参加者の中には、星座も手から見た元素も同じタイプだったという方もいれば、私のように別だった、とい方もいらっしゃいました。


このこと1つについても以前の私だったら、「なんで一緒のタイプが出てこないのよ? どちらで考えればいいの? そもそも別々のものが出てくるなんて、どちらも信用できないわね。」っていう捉え方をしていたと思います。

先生にも、「せんせい、私、星座では乙女座で地のタイプのはずなんですが、手で見ると今日は火のタイプになりました。これはどう捉えれればいいんでしょう?」ってすぐに質問していたと思いますね。

でも、今の私は「どっちもありでいいんだよな~」とすぐに思います。

正直、違うものから出していくと違うものが出るってことのほうが面白い~とまでそれを面白がれるところまでは行っていませんが、ま、色々あっていいんだよな、ということを受け容れられるまでにはなっています。

ほんと最近、自分の身の回りで起こることや、たまたまよく拝見させてもらっているブログの方の記事にもそんなことが書いてあったりでそのシンクロにびっくりです。

私は確実に「現実の人」と「直観の人」の両方を兼ね備えつつあります。

さて、このそれぞれの4大元素のタイプを見ていくとき、先生はそれぞれのタイプだと言われている星座に対応しているボトルを出して、「ボトルを見ながらでもいいし、単に火なら火、ってことからイメージすることでもいいし、どちらでもいいけれど、恋愛に関してどんなタイプだろう、って思えるかを挙げてみて。」とおっしゃいました。


このとき不思議でしたが、例えば「火」なら「火」をその言葉だけで推察しようとするよりも、ボトルを見ていたほうが、圧倒的にイメージが広げやすいというか、深い洞察ができたのです。

例えば「水」のタイプだと、「水」とだけ聞くと、「感情に流されやすい」とか「相手によって形を変えそう。合わせてあげそう。」とかいうイメージしか浮かびません。

けれど、水に対応する星座として蠍座がありますが、蠍座に対応しているボトルのB78「クラウンレスキュー」(上部バイオレット/下部ディープマゼンタ)を見たとたん、私には「普段はぎりぎりまで相手に合わせてあげているけれど、もうどうにも我慢がならない、となったら蠍の一撃、って感じでキツイ一言を相手に投げつけて別れそう。」というイメージがわきました。

そしてそのとおりに発言したら、「水」の方が「当たってる・・」、先生が「ひとりの友達が思い浮かんだ・・・」とおっしゃいました。

ボトルの力ってすごい、と改めて認識した瞬間でした。

この4大元素の一事だけをしても、とても面白い講座でした。