ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

耳が遠くなる楽しみ

2011-05-12 09:17:00 | 身辺雑事

私の父はもう80を越えました。

少し前のことになりますが、GWの間に一度、家族で食事をしたい、と父が申すので、私とダーリン、私の両親とで夜会食をしました。

去年の暮れには、やはりうちの父がそう申し出るので、私とダーリン、うちの両親、ダーリンのご両親、娘と全員が顔を合わせて食事をしたこともありました。

しかし、うちの父は自分から言いだしっぺで提案をした割りには、いざ席につくと、まるで「来い、と言われたから俺は来ただけ。」というような涼しい顔をして誰に話題をふるともなく、じっと仏像のように座っているだけ。

去年の全員での会食のときには、たぶん、ダーリンのご両親には、「ほんとに恵津子のお父さんが会いたいって言ったのか? おまえらがしくんだことで、あちらは何もそんなこと言ってなかったんじゃないのか?」と勘ぐられているだろうな、と思うほどでした。

けれどまぁ、今回はあちらのご両親はいらっしゃらないから、そうであったとしてもまぁ、そう気を使うこともないからいいや、と思っていましたが、案の定、また仏像。
それはひとつには
父は耳がすごく遠くなっているからなのです。

以前は、団体のバス旅行などにひとりで参加してどこへでも出かけることが大好きで、日曜日のたびごとにあちこち行っていたものでした。

しかし、最近の様子を母にきくと、「もうお父さん、耳が遠いから皆さんに迷惑がかかるからって最近は全然出かけないよ。」とのこと。

あんなに「休みの日に家のなかになんか居たってしかたがない。」が口癖で、出かけることが大好きだった父がぽつねんと家のなかでひたすら読書ぐらいしかすることがなくて座っているのかと思うと可哀そうになってしまいました。

もちろん、補聴器のお世話にもなってみたようです。

しかし、値段が高いものが確実に性能がいいかというとそういうわけでもないらしくて、何個も試してみたけれど、結局、俺にはどれも合わなかった、といってめったに補聴器はつけません。

私たちが食べながら会話をして、途中で「ね? お父さん。」とふっても、それがもう聞こえない。

最初の頃は、自分が聞こえにくくなっているのだとわかっているのなら、なおさら、人の様子や表情を一生懸命見て、今、自分に話しかけられているのだな、ということを気配で感じ取ろう、という努力をもっとしたらどうなの、と腹を立てていましたが、父の身になってみれば、1mも離れていないところで人がいくら楽しそうに会話していたって自分にはほとんど何を話しているのかわからないなら、もう最初っからそんな無駄な努力やーめた、と投げてしまうのも仕方ないのかもしれません。

そして、せめて「同じ場を共有している」「同じ空気を吸っている」という感覚だけが欲しいのかもしれない、と思うともう腹もたたなくなりました。

父はもともと飄々としたところがありましたが、人の話に耳を傾けない、と決めたとたん(決めているのかどうか本当のところはよくわかりませんが・・・)、自分だけの世界をつくりあげている、というその飄々とした感じが加速したような気がします。

しかし、実際のところはどうなのでしょうね?

音のない世界になって、自分の心の声はより聞こえるようになったのか、それとも自分の心の声もやはり聞こえなくなっている、ううん、聞こうとする能力も共に失われていくものなのか・・・

ちょっと自分が年老いて、どんどん耳が遠くなっていく、ということを想像してみました。

それは恐いことでした。

時々聞く話ですが、「もう何も意識はないはずですよ。」と医者に言われ、ベッドに横たわっている病人でも、最後の最後まで耳は聞こえている、ということが往々にしてあるそうだよ、という話。それを伝えられなくなっているだけで。

身じろぎひとつしないし、医者も意識もないというからいいや、とベッドサイドでもうお葬式の話をしたり、「もう助からないよね。」なんてことは絶対に言っちゃだめだ、と聞きました。
身内にベッドサイドでそんな話をされるくらいなら、耳が遠くなったほうがましだ、なんて風にも思ったりします。

事実、もう、少しずつ遠くなっているような気がしますし・・・

例えば、お若い方だと、音楽をかけながら何かを行う、ということは日常のなかでごく空気を吸うようにあたりまえのことでしょう。

けれど、私はもともと音を聞きながら何か別のことをする、ということがあまり好きではなかった、ということもありますが、最近、喫茶店などに入って店内にかかっているBGMが少し大きめの音だったりすると、もう友人との会話の声が聞き取りにくくて仕方がない、というようになってしまいました。聞き取りにくいだけではなく、気が散って仕方が無い。集中力がなくなるのです。

わかったようなふりをして相づちを打ったりしているうちに、その話題自体の興味が薄れていったり、一生懸命聞き取らなきゃ、と思って張り詰めていた気持ちがどこかでぷつんと切れるといきなり、「もうどうだっていいや。」という投げやりな気持ちになったりします。

音楽のジャンルによっては、すごく気持ちがイライラしてくるときもあります。

挙句の果てには、「こんな音量でこんな音楽をかけているこの店が悪いんだわ。」なんて八つ当たりの感情が芽生えたり・・・

テレビを見ていても、「この音量はようやっと聞き取れる音量だな。」と思うぐらいの音量でずっと映画やドラマを見ていると、いつしかイライラしてきます。

「聞こえない」のではなく、逆に「いろんなほかの雑音が混じり込んでいて、それを聞き分けるテストをされている。」というような気持ちになるのです。

そして、1つか2つ音量のボリュームをあげてみる。

すると、すごく気持ちがすっと落ち着くのがわかります。

そして、デジタル表示されるその自分の気持ちが落ち着く音量を見ると、「あれ? ちょっと以前より大きな数字じゃないこと?」とわかり愕然とするのです。

だからひょっとすると私の父も、自然にしていてこの音は聞き取りやすいぞ、という何かしらの音のジャンルがあるとそれだけは聞くようにし、何か自分にとって努力を要請されるようなざわざわとだけ聞こえる音はもう無理に理解しようとはせず、自分には必要のない情報なんだ、と割り切ってほうっておくことにした、ということかもしれません。

年をとると、ある特定の低めの音だけがよく聞き取れ、高い音が聞き取りにくくなる、とは言われていますが、父を見ているとあれ?そうばっかりでもないのだな、と思うことがよくあります。

だから、俗に言う「勝手つんぼ」というやつかもしれませんね。

でも、もし天の声が「おまえはもう十分に人生を歩んできたから、こんな情報は必要ないんだよ。これからはもう本当におまえに必要な情報だけを手渡すようにするよ。」ということで、このようなことが起きているのだ、と考えたら、なんだか自分の人生が濃縮還元のジュースになったようだな、と楽しくなってきました。

人生最後の時期にさしかかったら、「今まではいろんな必要のない情報まで人生の彩りとしてフィルターにかけずにきたけれど、これからはもう本当に重要な情報しか通さないから、存分に無駄のない人生を楽しんでくれ。」となっているのだとしたら、人生そのものはとてもクリアになってわかりやすくなってくるような気がします。

そう思うと耳が遠くなるのも楽しみのひとつだな、と考えればいいかぁ、とまた能天気な私は思うのでした。




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