ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

名刹に生きる知恵を頂く

2009年04月29日 | 随筆・短歌
 我が家は真言宗智山派です。又私の実家は浄土真宗大谷派です。私達夫婦は共に仏教信者です。ですから寺院や仏像を拝みに良く出かけます。
 各寺院に行きますと、時折とても心をとらえる言葉が紙に書いて張ってあったりして、そういう言葉に出会うとメモして来てノートに写し、時折読んで心の糧にしています。  高野山の金剛峯寺の金堂では「小雨が大地をうるほすように ほんの少しの悲しみは 人の心をやさしくする 心配せんでもよい 必ずよいようになる」という言葉に出会いました。
 ほんの少しの悲しみ、それが人の心をやさしくするなんて、なんと素晴らしい言葉でしょう。確かに悲しみを知った時、心は優しさに向かうかも知れない、と思い、次に「必ず良いようになる」という言葉に出会って、どれ程励まされ慰められたか分かりません。それ以後この言葉を折りに触れて心の中で繰り返しています。苦しい事に出会う度に「心配せんでもよい必ず良いようになる」と。
 東本願寺は京都ですから、四国遍路の帰りや仏像巡りや、汽車時間の待ち合わせに良くお参りに行きます。私の父母も兄も弟も代々の先祖も京都の此処に眠っていますので、お参りに行く度に故郷へ帰ったような懐かしさを覚えます。
 以前行った時に、大通りに添った歩道の脇に
 あなたはあなたに成ればいい あなたはあなたであればいい 
汝成汝即可 汝是汝即可 釈尊
と書いて貼ってありました。煩悩にまみれて、どうしようもない自分だと思っている私が、そのままでいいといわれると、何とも言えず心から安堵するのです。素直に自分のあるがままでも赦して頂けるのか、こんな私でもそのまま認めてくださるのかと思うと、心が大きく広がっていくのを感じます。
 08年5月15日に行った時に、東本願寺の掲示板に掲げられていた多くの言葉の中から特に私の好きなものを少し抜粋させて頂きます。
 煩悩をやめることはできぬけど、煩悩を知ることは出来る  仲野良俊
 時にしくじりながら一日一日の味ふかくなる 榎本栄一
 道は近きにあり迷える人はそれを遠きに求む    清沢満之
 悩むということは自覚である、悩まされるということは無自覚である 曽我量深
 生まれた意義と生きる喜びを見つけよう   東本願寺 
こうした言葉の数々が、きっと多くの人の深い悲しみに沈む心を慰め、生きていく道しるべを示してくださったに違いありませくん。
 自分の心の有り様を省みて、なるべく穏やかにこれから先の人生を過ごして行きたいものだと思うのです。
 話は少し逸れますが、大谷祖廟に親鸞の墓があります。私の実家の古い祖先が自分の家の墓に親鸞の墓石に似た石を、沢山の谷を巡り何ヶ月もかけて探して墓を作らせたと聞いていましたので、お参りの序でに確かめましたら、何と本当にそっくりだったのです。子供の頃他所のお墓はきちんとした墓石がのっているのに、どうして我が家だけ自然石なのかと思っていたものですが、言い伝えが事実であった事に夫と二人で驚いたことでした。

特攻隊の生存者の証言と知覧

2009年04月26日 | 日記
 今日テレビの「兵士達の戦争」で、重爆撃機特攻隊の生存兵士の証言をみました。戦争末期になって、もう勝てる望みが無くなってから、一人乗りの特攻隊機ばかりでなく、六人も搭乗した飛行機が、非常に重い爆弾を抱えて特攻として飛び立ったのです。そして沢山の人が還らぬ人となりました。「出撃ハ特攻トス」と云う命令一つで出撃することになった沢山の兵士は、必ずしも訓練を充分に積んだ人達ばかりでは無く、まだ若く未熟な兵士も沢山いたようです。
 勿論生きて帰る事は考えられませんから、覚悟しての出撃でした。沢山の証言者達が、様々な立場で選ばれ、特攻として飛び立つ事になった運命について、彼等は「正直に言うと死にたく無かったし、同僚に聞いたら同じ事を言うのでほっとした」と云っていました。 たまたま様々な理由で生きて帰って来られた人達の証言でしたが、一度、或いは二度、三度と繰り返し出撃し、覚悟しての出撃とは言え、さぞ辛かったに違いありません。
 それが如何に辛い事か、私は以前夫の希望で、知覧の特攻記念館へ行った事がありますので、良く知っていました。特攻に飛び立つ前夜に泊まる三角兵舎というのがあって、多くの若い隊員が涙して、眠れぬ夜を過ごしたであろう、と書いてありました。
 記念館には特攻隊の兵士の写真が貼られていましたが、どれも二十歳前後で、不思議なくらい明るく屈託ない笑顔でした。遺書にはお国の為に頑張りますとか、先立つ不幸を詫びる言葉、残していく家族を思いやり、弟や妻などに後を頼む等というものが沢山あり、淡々と綴られている遺書に一層涙が溢れたものです。 
 又、送る立場の母の手紙もありました。お国の為に立派に逝きなさい等と言えない母は、「ひたすら南無阿弥陀仏を唱えながら行きなさい、そして阿弥陀様の足許で又逢いましょう」という言葉が書いてありました。日頃は文字など書くことも無かったであろう、たどたどしい文字でした。我が子を思う精一杯の心が伝わってきて、思わず泣けて来ました。
 私も子を持つ親として、その母の気持ちを思うと溢れる涙をどうしようもなく、散っていったあの若人達の冥福を祈らずは居られませんでした。
 茶色に変色してしまった写真が、戦後の長さを示していましたが、知覧の岡にはもんぺ姿の特攻隊の母の像や、零戦の実物が私をその時代に引き戻し、胸が締め付けられました。 麓から岡の上迄続く長い道路の両側には、遺族が建てた灯籠が延々と続いていて、OO県などと遺族の住所が表示され、鎮魂の岡は緑の中に、全山が慟哭している様でした。
 知覧は手入れの行き届いた庭を持つ武家屋敷が多く、茶畑も広々としていて、美しい処です。この戦争の悲劇を伝える記念館は、後世まで長く残して欲しいと思いました。
 鹿児島市からの往復には不便な処で、バスの本数も少なく、帰りは丁度下校の高校生で混み合いました。あの特攻隊員達と同じ位の年齢の高校生達は、矢張り屈託無く明るかったですが、茶髪にピアスという姿を見るにつけ、特攻隊として散っていった人々は、天国からどんな感慨を持って見つめているだろうかと思わずにはいられませんでした。
 ところがその茶髪の生徒が、老人がバスに乗ってきたら、サッと立ち上がって席を譲ったのです。特攻隊員達の魂が今もなお此処知覧には生き続けているのだと感激して、心が暖まる思いで帰って来ました。忘れられない旅になりましたが、今日80歳を過ぎた老齢の元兵士達の証言を聞きながら、知覧の思い出と重ねて、再びこのような悲劇を繰り返してはいけないと心に誓ったことでした。

知床のカモメと不気味な峠道

2009年04月23日 | 随筆・短歌
 随分前になりますが、夫の運転で北海道12日間の旅をした事があります。夫一人の運転で北海道を西から東まで、よくまあ元気があったと今にして思っています。その時東はオホーツク沿岸の知床まで行きました。小清水原生花園のクロユリを見たりしながら、知床へ行ったのですが、途中6月でしたのに、クマゼミのような大音響の蝉時雨に驚いたり、北の海というと荒々しいイメージですが、とても静かで波も全く無く、まるで湖のようでした。あんな鏡のような海は初めてです。北の海では珍しくない事なのでしょうか。
 知床では、ウトロから遊覧船に乗りました。岬の先端まで切り立った崖に点々とある様々な滝や自然の洞窟を楽しみながらの快適な船旅でした。人間に慣れているカモメが船の回りを飛び交い、チイチイと餌をねだります。エビせんべいをさしだすと、私の手をかすめてくわえて行くのが楽しくて、一袋を二人ですっかり与えて無くなってしまいました。
 この知床の船に乗るのは二回目でした。娘が大学生の頃に、娘の夏休みを利用して、私と二人で北海道3泊4日のツアーに行った事がありました。娘と二人きりの旅としては、これが初めてでした。お天気もよく、想い出深い楽しい旅でした。その時に矢張りこの船に乗るのが、コースに組込まれていて、カモメの餌やりも楽しんだのでした。
 その後娘が亡くなって、傷心の私は何かと当時を想い出して辛い思いもしました。
    海鳴りは娘の呼ぶ声か知床の旅にしありて悲しみ底ごもる (実名で某誌に掲載)
 船旅を終えて、車で知床五湖へ行き、三湖までを徒歩で、熊よけの鈴を付けて往復しました。再度車でキタキツネに出会ったりしながら峠まで登って下車し、展望台から国後・択捉といった北方領土を望み、間近に今はロシア領土になっている島々を眺めて、戦後60年も経っているのに、還ってこないとは一体どういうことなのか、と理不尽な現実に胸の痛む思いをしました。
 そこから羅臼のホテルまでは、長い下り坂でした。ところが間もなく車がゴロゴロと音を立て始めたのです。長い間お世話になって、もう何時故障しても可笑しくないオンボロ車でしたし、何処か傷んでいるようで不安になりましたが、対向車は一台も来ず、民家も給油所もありません。地図によると結構長い距離を走らなければならず、助けを求める事も出来ないまま孤立している事に気が付きました。
 幾つカーブを曲がっても、下りに下っても音は絶えず聞こえ、心臓がバクバクしてきました。無事に連絡出来る所に出られたら・・・と祈るばかりでした。ついに一台の車にも出会わず、やっとホテルの駐車場の所に来て曲がりましたら、途端にあのいやな音が消えたのです。なあんだ、安全運転に注意という道路の仕組みだったのかと気がついたのですが、あんなに不安な思いをした事も、初めてでした。無知だった事も、今は懐かしい想い出です。 北海道の旅を終えてから、私達は長い間私達の足になって健闘してくれた車を手放しました。愛車といいますが、あれほど良く働いてくれた忠実な車はなく、写真に納めて別れを惜しみました。 また、あの恐怖以来、それまで持っていなかったケータイを買って、車で外出したり、旅に出る時は必ず持って行く事にしています。

勝者と敗者の墓によせて

2009年04月20日 | 随筆・短歌
 またまたお墓の話になって恐縮ですが、山口市の毛利氏のお墓にお参りした事があります。墓に続く広い石畳は鶯張りになっていて、歩くと音がします。正面の石段を数段登った所に、13、14、15代のとても大きな立派なお墓が並んでいました。いにしえの毛利家の繁栄を目の当たりにして、思わず合掌いたしました。
 近くに枕流亭(ちんりゅうてい)という幕末維新の指導者たちが集まって、密議を行ったという二階建ての家が残っていました。蛤御門の戦いなどで、薩長両藩に大きな溝ができましたが、王政復古の大義を果たすには、両藩の結合は絶対に必要だと、土佐の坂本龍馬が仲介の労をとり、密議をこらした町屋の離れ部屋を移築した二階建ての家です。二階に上がると、床の間のついた畳敷きの少し広い部屋が一つあって、この畳に西郷も龍馬も大久保も座ったのかと思うと、胸の高鳴る気分でした。どんな縁があって、この同じ畳に座っているのかと思うと、不思議な感慨を覚えるのでした。あの時代に今のこの日本は予想出来なかったでしょうし、多くの先輩達の努力で、平和な日本になって、私のような一介の庶民さえもこうして、維新の立役者達の香りの残る部屋に座っている事が夢のように思えるのでした。
その後下関市の毛利一族のお墓にも行きました。一族の墓が纏まっている小高い丘の上に登って眺めますと、流石に毛利家だけあって、立派な石で作られた大きなお墓が群れを成しており、それはそれはみごとな景観でした。
 それからの事です。確か近くに大内家の墓地がある筈だと聞いていましたので、探してみました。大内氏は陶氏に滅ぼされ、その陶氏が毛利氏に滅ぼされたわけですが、かつては一大勢力を持って貴重な大内文化を後世に残した、大内家のお墓はどんなお墓なのか、興味をもって探したのです。
 すると、どうでしょう。墓地の斜面の左側の端に四角錐の屋根を付けたような三基の小さなお墓ががありました。真ん中の一つが少し大きく、両脇はこじんまりしていて、主従行儀良く墓までが遠慮しているかの如く並んでいるのが、大内家の墓だったのです。少し他の墓と形が変わっていたので、見つかったようなものの、うっかりすると見つからないような小さな墓でした。
 何とも言えない切ない気持ちになりました。勝者の墓はこれ見よがしに大きく、誇らしく建っていますが、敗者の墓は隅っこに縮こまるように建っているのです。ああこれがこの世の現実かと思うと、何とも憐れで哀しい気分になって、蝋燭を立てて線香を焚き、お参りしました。
 滅ぼされたと云えども大内の名は、戦後日本史を学ぶ機会に恵まれなかった私でさえ知っています。どちらが偉かったとか、どちらが優れていたとか、それは歴史を受け取る人に依って異なるのではないかと思い、人間の営みの非情さに胸が痛む思いでした。歴史は常に勝者によって作られていくことを見せつけられた墓地でした。
 歴史は私達が生きていく際の道しるべとなります。敵に塩を送ったという上杉謙信のような人もいた事を思って、何とも複雑な心を抱いたまま長州を後にしたのでした。


ヒヤシンスの涙

2009年04月18日 | 随筆・短歌
 庭の石池の傍で苔の生えた所に、ヒヤシンスが植えてあり、丁度今紫の花を咲かせています。そのすぐ近くに、息子が子供の頃可愛がって育てていた九官鳥のお墓があります。
 小鳥が好きて、幼い頃から雀さえも可愛がっていた息子が、ある日九官鳥が欲しいと云ったので、二人で小鳥を売っているお店へ行って、一羽買ってきたのです。共働きで日頃寂しい思いをさせていたので、話をする鳥を飼っていれば、少しは淋しさから救われるかも知れない等と、安易な考えで、早速買いに行ったのでした。二軒のお店を回って、何羽かの九官鳥の中で、どれが良いのかお店の人にも相談して決めました。
 まだくちばしが少し淡い黄色で若い鳥でしたが、小学生だった息子に良くなついて、息子はエサやりから、毎日の水浴び、鳥かごの掃除まで、独りで全部責任を持って、やり遂げました。
 生き物を飼うと云うことがこんなに大変な事なのかと思う程、良く手入れをして可愛がっていました。
 九官鳥には、チコと名付けました。籠にかぶせるカバーを縫ってやったら、毎日自分が寝る時に、必ずかぶせて寝ました。「もう少し大きくなると話すようになりますよ」とお店の人が言い「鳥によって、良く話すのと話さないのがいます」と教えて下さいました。 チコにはオハヨウとかコンニチワとか教えたのですが、余り覚えの良い鳥ではなく、義父の自転車が止まる時の、キー、キーというブレーキ音を覚えて、義父が帰ってくるとすぐにキー、キーと鳴くのです。オアヨと云い、オハヨウと教えても、なかなか上手く云えませんでしたが、アハハと家族の笑い声は良く真似ていました。そんなチコでしたが可愛いがって、自分の弟のように、子分のように、良く面倒を見ていました。
 二年近く飼ったでしょうか。12月のある日、私の父が危篤だと云う知らせがあって、私達は急いで私の実家へ駆けつけました。すでに意識の無かった父はその日の夜に亡くなりました。田舎でしたし、今の様な式場も無いので家の襖を開け放って、そこに沢山の生花や供え物を置いて、父のお葬式は行われました。母が家に独り取り残されるのが気がかりでしたが、子供達には学校があり、私達にも勤めがあって、そう長くは居られず告別式の翌日、名残を惜しんで帰って来ました。
 すると留守の間、チコの面倒を見ていてくれた義母が、チコが死んだというのです。朝から苦しそうな息をしていると思ったら、ぱたりと横になってしまって、目をつむってしまったそうです。すでに身体は固くなっていて、息子は涙を流しながら亡骸を抱きました。
 私は、「きっと田舎のおじいさんと一緒に天国に行ったのね。」と云いますと、息子は黙って頷いていました。
 息子はそれで気が落ち着いたのか、娘と二人でお墓を作り始めました。それが今ヒヤシンスが植えてある近くなのです。
 それ以来、ヒヤシンスの花に露が溜まると、父とチコを想い出し、露が涙のように見えてくるのです。
 
ヒヤシンス青き涙を零(こぼ)しをり子等が埋めし小鳥の墓に (実名で某誌に掲載)