ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

春です。とらわれた心を解放してやりましょう

2015年04月24日 | 随筆
 「無くて七癖あって48癖」ということわざがあります。癖が無いといっても七つくらいは誰にも癖がある、とも「無くて」の 「な」 に合わせて七癖になったとも言われているようです。
 同じように、48癖は、相撲の48手のように、「沢山」を現す言葉として使われているようです。(現在の相撲協会の決まり手は82手と先日知りました。)
 ところで、女三人集まれば姦しいと言われるように、元来女性は男性よりもお喋りで、男性は寡黙な人が多いと聞きます。確かに、私の友人知人を眺めても、ご主人の方が寡黙のカップルが多いようです。お喋りも多分DNAに支配されているのでしょうから、お喋りの人を黙らせたり、寡黙な人に多くを語らせることは至難の業と言えそうですし、また不得手な行為を強要するようなことは、慎むべきことです。
 いみじくもお釈迦さまは、次のように言っておられます。

 黙しても批判され  
 多く語っても批判され  
 少し語っても批判される。 
 この世に批判されない者は無い。
  
 どんなに偉大な人にも、批判の目は注がれて、それを受け流すことができなければ、悩み苦しみの原因になります。人は日々生活をしている限り、様々な苦労を抱えて、批判に耐えて生きているというのが、日常の身の回りの人々の有りようと言っても、過言ではないでしよう。
 そんな時に心の安らぎを何処に見出すか、皆さんはどう対処しておられますか?
 小さなこだわりなら、音楽を聞く、読書をする、運動をする、散歩して来る、など皆さんも様々な工夫をしておられることかと思います。要するに拘っている心を別の方向に向けさせて、こだわりの苦しみから抜け出すということです。
 しかし、そう何時も気分転換で抜け出せるものばかりではありません。大きな障害が目の前に立ちはだかった時、それをかわして拘らないということは、中々出来そうにありません。
 けれどもそのこだわりを捨てなければ、苦しみは続きます。このことをつらつら考えて見ますと、多くは既に済んでしまった事であることが多いのです。結論が出ているにも関わらず、思い出してこだわることが、私のように後ろ向きに生きがちな人間に、しばしば見られる訳です。
 やはり済んだ事として、流して生きるしかありません。流せれば、これも後の人生の為の勉強だったと思えて、有り難くさえ感じることが出来ます。禍は福を含み、福は禍を含んでいると言えます。「あの時の方が良かった」等とこだわるのは、愚かな事です。 長所と短所が表裏のように、どちら側から眺めるか、それが問題なのだと思います。いとたやすき事とはいきませんが、結論としては、やはりこだわらないことが心を安らかに生きていくこつである事は理解出来ます。
 良寛禅師は、「災難に遭うべき時節には遭えば良く候。死ぬべき時節には死ねば良く候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」と言っておられます。
 心の安らぎは、やはりあれこれ無い物ねだりをせず、こだわらない心、もし何か引っかかりがあっても、さらりと流し去って行ける柔軟な心であるかどうかに掛かっているのでしょう。
 深呼吸でもして、過去は過去に返して、今目の前の春の花を眺めたり、春の風を感じたり・・・、そんなことに心を向けて、安らかな気持ちになりたいものです。「言うは易く行うは難し」ですが、そこを抜け出すように、私も努めなければいけませんね。
 戦後70年。国民の象徴であられる天皇陛下が、皇后陛下と共に、ベリリュー島を訪れられて、戦禍に散った多くの兵士や原住民、苦難の中を戦い、生き延びて来た国民を偲ばれて、深く頭を下げておられました。そういう人々によって、今日の私達の生活が、衣・食・住に困窮することなく、生活出来ていると思えば、やはり私の悩みやこだわりは贅沢なのです。困難に立ち向かい、先に逝かれた人々に、常に尊崇の心をお持ちになり、現在を生きる国民の幸せを念じて下さる両陛下に、改めて感謝すると共に、このような両陛下をいただく日本国民は、世界一幸せな民族であると改めて思いました。

 時まさに春です。とらわれた心を解き放ち、苦しみを流し去るように、鳥も花も若葉も、一斉に誘いかけてくれています。

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愛される喜びと愛する喜び

2015年04月12日 | 随筆
 先日古い映画ですが「マイ・ルーム」と言う映画をDVDで観ました。成人した二人の姉妹は、疎遠なまま約20年の年月が過ぎています。独身を貫いた姉は、痴呆状態で殆どベッドで過ごしている父と、下半身不随で車いすの、しかし明るい叔母の面倒を見ながら暮らしています。家出同然のようにして結婚した妹は、二人の男の子を持ち現在は夫と離婚して、美容師の資格を目指して頑張っています。
 その姉が白血病になり、骨髄移植が唯一の助かる道だと言って来ます。妹は二人の息子と共に、血液型の検査に赴きます。妹は自分の長男としっくり行かなかったのですが、叔母の優しさに触れて、心を開き初め、やがて母との会話を通して、心が少しずつ通じ合うようになっていきます。
 初めは検査に協力しないと言っていた息子が検査を承諾しますが、結果は、妹家族の全員が血液型が一致しませんでした。
 それでも優しく温かい姉は、「人間は、愛されるから幸せなのではなく、愛することこそが幸せなのだ」と言います。そんな叔母の元へ、家族が次第に集まって来ます。ぎこちなかった姉妹も、妹親子も、鏡の光を壁に当てて、舞う様子を喜ぶ父や車イスの叔母の様子に、和やかな心となり、血液型不一致を忘れたように、集まって行くのでした。
 この映画の中で、「愛されることが幸せなのではなく、愛することこそが幸せなのだ」というセリフがとても心にしみました。
 兎角人間は自分が愛されているかどうかで、自分の幸・不幸を判断しようとしがちですが、そうではなく、人を愛する事こそが幸せなのだという言葉に目から鱗の衝撃を受けました。これこそが、人間普遍の真理だと胸を打たれたのです。
 アメリカの映画の「母の眠り」でも出てくる感動的な言葉があります。末期ガンの母の介護をする為に、ジャーナリストになる夢を途中で投げ出さざるを得ず、帰って来た娘は、何時も研究が忙しいと称して、毎日遅く帰宅する大学教授の父と、次第に険悪な関係になって行きます。
 ジャーナリストとして着実に力をつけて来た娘にとって、今が一番大事な時期ですが、その一方で、夫や娘を愛し、完璧な迄に家事をこなしてきた母には、叶わない思いもあります。いらだつ娘に、母は「一度しか言わないから、良く聴きなさい」とキッパリと言います。「幸せに生きることは難しく無い。無いものねだりをするのではなく、今、身の回りにいる者を愛しなさい。そして心豊かに生きることです。」と。
 家族を中心として、身の回りにいてくれる人をひたすら愛することこそが、自分を幸せに導く道だという、この二つの映画の主張が重なって、私の心を揺さぶりました。
 我が家の家族を守って呉れていた夫の病も、昨日「完治しました」と言う主治医の力強い言葉に、ホッとする余り、体から力が抜けていく程の喜びと共に、深く疲れていた自分に気が付きました。図らずも愛することの喜びを感じることができました。同時に今満開の桜の花の美しさを、家族揃って見とれる心のゆとりを取り戻せたことに、感謝しています。


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