暑いのか、秋らしくなったのか、時折ゲリラ豪雨にも見舞われて、日々変わるお天気に戸惑うこの頃です。変化の早いお天気の中を、まるで守られているような穏やかな一日に、念願叶って実家の祖先のお墓参りに行ってきました。
例年ですと赤とんぼが見られるのですが、あまり季節感の無い高速道路を走って、一般道に降りてからは、年ごとに新しい家が建って、迷いそうな道路を間違えないようにして、お墓にたどり着きました。
兄弟の誰かがお掃除をしてくれたのか、石段を昇った芝の墓地は、きれいになっていました。家から持って行ったお花やローソクや線香を供えて、さてお詫びを、とお墓の前にぬかずいたのですが、どうしたことか、何をお詫びしたかったのか、さっぱり思い出せません。 お詫びしたいと思った時は、涙が出る程だったはずなのにです。しかし、父の期待に背いて何かと迷惑を掛けた思いはあって、「目を掛けて育ててくださって有り難うございました」といつの間にか感謝に変わっていました。「親不孝な娘でしたのに、此処までお導き下さって有り難う御座いました。そして、これからもどうか子孫の代までお守り下さい」と、心ゆくまで父や母、祖先にお礼とお願いを述べました。
お詫びの内容を忘れたたことを苦にする私に、夫は「そんな昔のことはもういいよ、忘れて前を向いて生きていきなさいと許してくれたんだよ」と後で慰めてくれました。
例年のように灯籠には、きれいな和紙が貼ってありましたし、子供達とも小さい頃から毎年夏には必ずお参りにきて、父母が亡くなってからも年一回は、欠かさずにお参りに来たのですが、今回はもしかしたらこれが最後になっても良いように、という気持もあって、心残りの無いようにお参りしました。
帰りは海沿いの道を通って、朝夕眺めた海の色を懐かしみ、くねくねと曲がった海岸沿いの道路を通って、やがて川沿いに、山間へ11キロほど入った処にある温泉にたどり着いて一泊しました。
山あいなので、見えるのは狭い空と間近な山々、聞こえるのは、優しい川の音、虫の音、木々を揺らす風の音、そんな鄙びた小さな温泉です。誰も居ない広い夜の露天風呂にも入りました。浴槽の外の石畳の回りは小さな植え込みになっていて、間接照明が、ツツジの間から数本の落葉樹の葉の揺れを照らしていて、本当に別天地でした。細く高い落葉樹の葉先の揺れが優しく、何とも言えない静かな落ち着きを与えてくれました。空を見上げると、深い藍色の空に微かに白い薄雲がたなびいていて、サラサラと微かな川音と共に、日頃の心の疲れが吹き飛ぶようでした。
ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな (啄木)
私の実家は、山裾にありますから、汽車で通りかかる度に菱形が重なったような山が懐かしく、夫もまた30キロほど離れた川沿いの出身で、まな板のような平たい形の山が懐かしく、汽車がそれぞれのふる里近くの海沿いを通りかかるたびに、「ホラ良く見ておけよ」と言われて、車窓から目を凝らします。
ふる里は離れてみると、それまでは感じなかった温もりに満ちていて、そこで育まれた幼い頃の想い出がとても懐かしいものです。ふる里と言えば、今の我が家しかない息子には、私の実家がふる里に思えるらしく、(夫の実家は払って無くなりました)夏休みに蝉やトンボやカブトムシを追いかけ、はては魚を釣った想い出などを懐かしがります。集まったいとこたちと一緒に、毎日のように海水浴に出かけたことも、現在の我が家のような街の真ん中にいては、経験出来なかった自然とのふれあいでしたから、今もとても大切に思っているようです。
思いがけず実現したふる里への小さな旅でした。
ふるさとのかの路傍(みちばた)のすて石よ今年も草に埋もれしらむ(啄木)
石ひとつ坂をくだるがごとくにも我けふの日に到り着きたり(啄木)
いづくにか父の声きこゆこの古き大きな家の秋のゆうべに(牧水)
おゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ(中原中也)
例年ですと赤とんぼが見られるのですが、あまり季節感の無い高速道路を走って、一般道に降りてからは、年ごとに新しい家が建って、迷いそうな道路を間違えないようにして、お墓にたどり着きました。
兄弟の誰かがお掃除をしてくれたのか、石段を昇った芝の墓地は、きれいになっていました。家から持って行ったお花やローソクや線香を供えて、さてお詫びを、とお墓の前にぬかずいたのですが、どうしたことか、何をお詫びしたかったのか、さっぱり思い出せません。 お詫びしたいと思った時は、涙が出る程だったはずなのにです。しかし、父の期待に背いて何かと迷惑を掛けた思いはあって、「目を掛けて育ててくださって有り難うございました」といつの間にか感謝に変わっていました。「親不孝な娘でしたのに、此処までお導き下さって有り難う御座いました。そして、これからもどうか子孫の代までお守り下さい」と、心ゆくまで父や母、祖先にお礼とお願いを述べました。
お詫びの内容を忘れたたことを苦にする私に、夫は「そんな昔のことはもういいよ、忘れて前を向いて生きていきなさいと許してくれたんだよ」と後で慰めてくれました。
例年のように灯籠には、きれいな和紙が貼ってありましたし、子供達とも小さい頃から毎年夏には必ずお参りにきて、父母が亡くなってからも年一回は、欠かさずにお参りに来たのですが、今回はもしかしたらこれが最後になっても良いように、という気持もあって、心残りの無いようにお参りしました。
帰りは海沿いの道を通って、朝夕眺めた海の色を懐かしみ、くねくねと曲がった海岸沿いの道路を通って、やがて川沿いに、山間へ11キロほど入った処にある温泉にたどり着いて一泊しました。
山あいなので、見えるのは狭い空と間近な山々、聞こえるのは、優しい川の音、虫の音、木々を揺らす風の音、そんな鄙びた小さな温泉です。誰も居ない広い夜の露天風呂にも入りました。浴槽の外の石畳の回りは小さな植え込みになっていて、間接照明が、ツツジの間から数本の落葉樹の葉の揺れを照らしていて、本当に別天地でした。細く高い落葉樹の葉先の揺れが優しく、何とも言えない静かな落ち着きを与えてくれました。空を見上げると、深い藍色の空に微かに白い薄雲がたなびいていて、サラサラと微かな川音と共に、日頃の心の疲れが吹き飛ぶようでした。
ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな (啄木)
私の実家は、山裾にありますから、汽車で通りかかる度に菱形が重なったような山が懐かしく、夫もまた30キロほど離れた川沿いの出身で、まな板のような平たい形の山が懐かしく、汽車がそれぞれのふる里近くの海沿いを通りかかるたびに、「ホラ良く見ておけよ」と言われて、車窓から目を凝らします。
ふる里は離れてみると、それまでは感じなかった温もりに満ちていて、そこで育まれた幼い頃の想い出がとても懐かしいものです。ふる里と言えば、今の我が家しかない息子には、私の実家がふる里に思えるらしく、(夫の実家は払って無くなりました)夏休みに蝉やトンボやカブトムシを追いかけ、はては魚を釣った想い出などを懐かしがります。集まったいとこたちと一緒に、毎日のように海水浴に出かけたことも、現在の我が家のような街の真ん中にいては、経験出来なかった自然とのふれあいでしたから、今もとても大切に思っているようです。
思いがけず実現したふる里への小さな旅でした。
ふるさとのかの路傍(みちばた)のすて石よ今年も草に埋もれしらむ(啄木)
石ひとつ坂をくだるがごとくにも我けふの日に到り着きたり(啄木)
いづくにか父の声きこゆこの古き大きな家の秋のゆうべに(牧水)
おゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
吹き来る風が私に云ふ(中原中也)