ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

念願叶った墓参り

2010年09月27日 | 随筆・短歌
 暑いのか、秋らしくなったのか、時折ゲリラ豪雨にも見舞われて、日々変わるお天気に戸惑うこの頃です。変化の早いお天気の中を、まるで守られているような穏やかな一日に、念願叶って実家の祖先のお墓参りに行ってきました。
 例年ですと赤とんぼが見られるのですが、あまり季節感の無い高速道路を走って、一般道に降りてからは、年ごとに新しい家が建って、迷いそうな道路を間違えないようにして、お墓にたどり着きました。
 兄弟の誰かがお掃除をしてくれたのか、石段を昇った芝の墓地は、きれいになっていました。家から持って行ったお花やローソクや線香を供えて、さてお詫びを、とお墓の前にぬかずいたのですが、どうしたことか、何をお詫びしたかったのか、さっぱり思い出せません。 お詫びしたいと思った時は、涙が出る程だったはずなのにです。しかし、父の期待に背いて何かと迷惑を掛けた思いはあって、「目を掛けて育ててくださって有り難うございました」といつの間にか感謝に変わっていました。「親不孝な娘でしたのに、此処までお導き下さって有り難う御座いました。そして、これからもどうか子孫の代までお守り下さい」と、心ゆくまで父や母、祖先にお礼とお願いを述べました。
 お詫びの内容を忘れたたことを苦にする私に、夫は「そんな昔のことはもういいよ、忘れて前を向いて生きていきなさいと許してくれたんだよ」と後で慰めてくれました。
 例年のように灯籠には、きれいな和紙が貼ってありましたし、子供達とも小さい頃から毎年夏には必ずお参りにきて、父母が亡くなってからも年一回は、欠かさずにお参りに来たのですが、今回はもしかしたらこれが最後になっても良いように、という気持もあって、心残りの無いようにお参りしました。
 帰りは海沿いの道を通って、朝夕眺めた海の色を懐かしみ、くねくねと曲がった海岸沿いの道路を通って、やがて川沿いに、山間へ11キロほど入った処にある温泉にたどり着いて一泊しました。
 山あいなので、見えるのは狭い空と間近な山々、聞こえるのは、優しい川の音、虫の音、木々を揺らす風の音、そんな鄙びた小さな温泉です。誰も居ない広い夜の露天風呂にも入りました。浴槽の外の石畳の回りは小さな植え込みになっていて、間接照明が、ツツジの間から数本の落葉樹の葉の揺れを照らしていて、本当に別天地でした。細く高い落葉樹の葉先の揺れが優しく、何とも言えない静かな落ち着きを与えてくれました。空を見上げると、深い藍色の空に微かに白い薄雲がたなびいていて、サラサラと微かな川音と共に、日頃の心の疲れが吹き飛ぶようでした。
 
 ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな (啄木)

 私の実家は、山裾にありますから、汽車で通りかかる度に菱形が重なったような山が懐かしく、夫もまた30キロほど離れた川沿いの出身で、まな板のような平たい形の山が懐かしく、汽車がそれぞれのふる里近くの海沿いを通りかかるたびに、「ホラ良く見ておけよ」と言われて、車窓から目を凝らします。
 ふる里は離れてみると、それまでは感じなかった温もりに満ちていて、そこで育まれた幼い頃の想い出がとても懐かしいものです。ふる里と言えば、今の我が家しかない息子には、私の実家がふる里に思えるらしく、(夫の実家は払って無くなりました)夏休みに蝉やトンボやカブトムシを追いかけ、はては魚を釣った想い出などを懐かしがります。集まったいとこたちと一緒に、毎日のように海水浴に出かけたことも、現在の我が家のような街の真ん中にいては、経験出来なかった自然とのふれあいでしたから、今もとても大切に思っているようです。
 思いがけず実現したふる里への小さな旅でした。

 ふるさとのかの路傍(みちばた)のすて石よ今年も草に埋もれしらむ(啄木)
 石ひとつ坂をくだるがごとくにも我けふの日に到り着きたり(啄木)

 いづくにか父の声きこゆこの古き大きな家の秋のゆうべに(牧水)

 おゝ おまえはなにをして来たのだと・・・
            吹き来る風が私に云ふ(中原中也) 


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割れ鍋に綴じ蓋

2010年09月21日 | 随筆・短歌
 来年私達夫婦は結婚50年を迎えます。神前結婚式で、神主様のお祓いの後に三三九度の杯があり、お酒を全く飲めない夫が「酔っぱらいそうだ」と小声で言い、隣に立っていた私がハラハラしたことをよく覚えているのに、誓詞に何を読んだのかすっかり忘れてしまいました。
 往時茫々ですが、子供二人に恵まれ、50歳まで仕事を続けながら何とか健康でこられたことは、何といっても夫の両親に、子育てを手伝ってもらったからです。結婚して4年目に入って長女が生まれ、その後直ぐ義父母と同居しましたが、やがて夫は9年間単身赴任をしましたので、その間義父母、私達夫婦、子供達の間で何の問題もなく過ごしたとは言えません。子供の進路や、私達夫婦の転勤、義父母の病気や介護と、苦しいこともありましたが、何とか此処まで過ごして来ることが出来ました。
 私は自分の勤めに精いっぱいで、子供の話しをじっくり聞いてやる、という子育ては出来なくて、今思うと無責任な母親でした。妻としても全く夫のユーモアに付き合えなくて、夫の言うことを何時も真正面から本気で聞いて傷つくことが多く、「こんなこと冗談に決まっている」と笑われて、初めて気付くあり様です。
 義父母にには誠心誠意付き合い、言われることはよく聞いてきた積もりですが、子供が次第に大きくなって、進路の問題になったりすると、中々従ってばかりはいられなくなって、義父母に対しても至らない嫁であったかと思います。やがて仕事の面では、私も次第に責任の重い立場に立たされるようになり、これではいつ始まるかも知れない介護との両立が難しいので、夫の希望もあって、人より10年早く退職して、義父母の老後に備えました。
 実際私の退職時期は、神様が教えて下さったかのようでした。義母は私が退職して一年半後に倒れて入院生活になり、一ヶ月あまり24時間の看病の生活の後に亡くなりました。お陰で私は自分で納得出来るまで、心をこめて看病出来ました。義父は、その後約四年後に突然倒れて入院し、二日後に亡くなりました。
 義母が亡くなる前、殆ど話せなかったのに「有り難う」と私に言ったことに、私がとても感激したことは、以前書きましたが、義父のほうは、義母が亡くなってから穏やかな晩年を過ごして貰えたように思います。自分の部屋で自由にすごし、友達を時折自分の部屋に招いて歓談していました。
 義母が亡くなって以来、急いで我が家の菩提寺になっていただいたお寺(義父母が家を引き払ってきたので)の住職様に、義母の命日に毎月お経をあげて頂いていました。いつも義父と私と二人で、簡単な茶菓のお接待をしました。主として義父がお話相手をして、私はお茶を出して聞き役だったのですが、義父が亡くなって私一人のお接待になってから、何ヶ月かした頃、住職様が「幸せなおじいさんでしたね」と仰った言葉に私は驚いてしまいました。毎月とはいえ、たった一時間足らずのお付き合いでしかないのに、外から眺めてそう感じられたことは意外でしたが、私にはとても嬉しい事でした。
 夫は退職後、次第に家事を手伝ってくれるようになり、下手をすると翌日のご飯のスイッチを入れ忘れる私に代わって、必ずスイッチを入れてくれるようになったり、ゴミの片付けや、庭掃き、草取りを請け負ってくれたりして、火の元や戸締まりなど肝心なところは、しっかりやってくれますので、ミスの多い私は、本当に助かるようになりました。
 夫は退職後に、自分で食事を作る練習を始めたのに、直ぐにあきらめてしまって、今もってできませんが、片付けを手伝って、いつもきれいにしてくれますから、内外の仕事が丁度うまく回っています。
 気が利かず衝動的に行動し易く、またボーッとして落ち度の多い私と、良く気が回り細かい処まで気の付く夫、小心で何時も自分が悪いとくよくよしがちな私と、大抵は自分が正しいと信じているので生きるのが楽そうな夫と、困った立場になると決まって笑って誤魔化す私と、なにから何まで割れ鍋に綴じ蓋で、家の中が無事に収まっているのです。時として後ろ向きに悩む私に、夫は年老いてから過去を悔いるのは、自ら幸せを追いやっているようなものだ、と言ってはその都度私を救ってくれます。
 割れ鍋の酷いのは私で、綴じ蓋の特大が夫です。夫は娘の誕生日と結婚記念日を混同して、先日私に軽く腕をこずかれました。生まれて初めて夫をこづいてみて、矢張り一寸済まなく思っています。夫は「暴力は止めましょう」と言って笑っていました。日頃から結婚記念日など関心もなく、結婚して何年になったかも知らない人です。でもこの度のことで、きっと来年は、金婚を祝う日が訪れることでしょう。
 ただどこがどうなっているのか解りませんが、いつも誰かに守って頂いていると実感しています。振り返ると、なんとも困難な場面で、誰かに導かれたように難をすり抜けて来たりしたことが度々あったようで、きっとそのお陰で今ここにこうして平穏に過ごして居られるのだと思います。人には信じてもらえないようなことですが、そんな事が人生の中に沢山ありました。
 きっと神仏のお導きがあったに違いないと信じて、感謝しています。けれども、もしかしたら、多くの方が同じようなことを感じておられるに違いないと秘かに思っています。

 新聞をめくる音のみ聞こえきて職引きし夫との静かなる朝 (某誌に掲載)
 古びたる夫の抽出しその奥に昔贈りしシガレットケース  (某誌に掲載)


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写経

2010年09月15日 | 随筆・短歌
 義父母が逝って、娘も息子も家を離れていた頃、私は1コースで半年間の「写経」の通信講座を受けました。少し間を置いて、計三回繰り返し一年半を過ごしました。
 日中は家に一人でいましたから、ゆったりと机に向かい、一文字一文字丁寧に、心を込めて書きました。始めは中々慣れず、はみ出したり文字が崩れたりしましたが、次第に筆の入れ方や、止め、払いなど、加えて文字の空間にも目を向けて、一心不乱に時間を掛けて写経にのめり込んでいきました。それは或る種とても充実した、心地よい時間でした。
 昔から、貴族の間にも写経が盛んで、様々な人の写経を展示してあるのを見かけます。名僧の写経も多く、生真面目で、優しそうな最澄の文字と、力強く、自信に溢れた空海の文字とを眺めて、比べようもない、二人の天才に思いを馳せたりしました。
 私も写経を通して、煩悩の塊の日常からいくらかでも解放されて、静かで落ち着いた心境で暮らしたいと思って取り組んだのです。ところがこの写経講座には、「救いの教典 般若心経のこころ」というテキストがあり、このテキストから、課題が出題されているのです。
 それは、般若心経の経文から、心を引かれた言葉を取り上げて、自分なりに解釈してリポートに纏めるというもので、心経を理解する事さえ大変なのに、自分の考えを述べなければならないので、写経よりずっと苦労が大きく、四苦八苦、七転八倒の苦しみでした。三回受講している間に、テキストを繰り返し繰り返し読んで、少しは心経の心を感じ取ることが出来るようになったと思っています。
 テキストでは、般若心経の仮の定義をすると、「とらわれぬ心である」と書いています。お経の言葉でいうと「五蘊(ごうん)は皆空(かいくう)であると照見(しょうけん)し給う」となるそうです。一切が空であるということを見たら、苦しむ必要がないではないか。物の真実は、とらわれのない世界にこそあるのだということを見て、初めて全ての苦しみから解放されるのだと説いておられます。
 少し難しいテキストの押し売りになってしまいました。繰り返して写経を続けるうちに、次第に暗唱してしまいました。後の四国遍路の時に、各お寺毎に本堂と大師堂の二カ所で般若心経をあげるのですが、経本を必要としませんでした。
 幸せ不幸せは、自分の心で感じるものであり、何事も有り難いと思えば、幸せに過ごせます。喩え災難に逢ったとしても、命があっただけで幸せとも考えられます。この幸せは、自分一人で手にしているものではなく、多くの皆さんに助けていただいているお陰です。紙一枚、糸一本にしても自分では作れません。今夜の献立の食材の全ては、みないただいたものです。
 私は、夫と二人で入れ替わりながら、毎朝般若心経を読経しますが、最後は、「仏様、ご先祖様、守って下さって有り難うございます。今日も一日よい日を迎えることが出来ました。皆さん有り難うございます」と必ずお礼を申し上げて終りにしています。そうすると、心が晴れるのです。これから良い一日が始まると、元気も湧いて来ます。
 写経しても、下手な文字ですし、紺紙に金文字のようなものでもなく、とうとう一枚も納経せずに過ごしてしまいました。ただひたすら写経の時間を無心に過ごしていると、少なくともその時間は、煩悩から少し離れることが出来、安らかな気分になれます。信心の薄い私には、写経によって頂く静かで安らかな心に、写経の意義があるのではないかとさえ思えます。自己満足でしかありませんが、それでも毎朝読経することで、感謝の気持ちを抱きながら、新しい一日が始まっていきます。たとえ十年一日の如き平凡な繰り返しであったとしても。

 朝朝に法灯明(ほうとうみょう)を掲げきて穏やかな今日を生きなんとする(あずさ)  


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庭師さんの目

2010年09月09日 | 随筆・短歌
 私の退職記念に、畑にしていた庭の手入れが出来なくなっていた義父母の了解を得て、小さな庭を庭師さんに設計して造っていただきました。かれこれ25年が経って、小さかった木も大きく育ち、途中に枯れてしまった木もあるのですが、植え替えたものも次第に育って、今では私達に大切な安らぎを与えてくれる庭になっています。
 庭の設計は庭師さんにお願いして、灯籠を置いて、松を植えて、池をつくって下さい、と頼んだだけで後はすっかりお任せしました。庭師さんは、沢山の庭を手がけておられるだけあって、植栽も石の配置も申し分のないものに造って下さいました。
 前庭にあった枇杷の木を後ろに移し、義父が植えた白木蓮を玄関アプローチの右中程に移して、一対の隠れ蓑を玄関に向かって左と、右は少し引っ込めて植えてくださいました。左の隠れ蓑がすっかり大きくなったのですが、すらりと伸びたので、玄関が暗くならず、「この木は玄関に良い木ですよ」と仰った通りになりました。下に斑入りのギボウシと一個の石を置いて下ったので、バランスが取れて少し引っ込んだ玄関が、落ち着いた感じになりました。
 此処に侘び助を植えましょう、庭には欲い木です。と仰って、玄関右の柱の際に白い侘び助を植えて下さったのですが、これは義母がとても好きな花で、背丈よりすこし大きい侘び助と横の大木の白木蓮と並んで、今は義父母を想い出すよすがとなっています。右側の僅かな空間には、さつきやモッコク、山ぼうし、松などを植えてくださいました。ブロック塀が切れたところから奥は、義父が家を建てた後に先ず植えた貝塚息吹の垣根が、今は丈も高く、我が家の歴史を伝える木として、四角にスッキリ刈り込んで続いています。
 さすが庭師さんだけあって、木を見る目が違い、メインの庭には小石を敷いた石池のそばに、しだれもみぢを植えたり、灯籠は、丸い方が大きく見えるし、背の低いほうが安定感があります、と仰って対面中央に配置して下さいました。傍にほどよく曲がった松を植え、池の端にさつきや大小の石組、適当な所に羊歯類も植え、何から何まで自分で決めて、人手を使って造って下さいました。
 庭師さんの目は驚くばかりで、季節折々に花が咲き、高い木から低い木、刈り込みの美しいつげの木、さつき・椿・山茶花の色や、羊歯とか玉竜まで、とても良く考えて、調えてくださって、小さいながら私達には勿体ないような庭に造って下さいました。
 「その内にその土地に合った苔が、石にも庭にも自然に生えますよ」と仰ったのに、それまで我慢出来ずに遠くまで苔を取りに行ってきて、少し植えたこともありましたが、やがて庭師さんの仰る通り、様々な苔が生えて、すっかり苔庭になりました。
 和室の廊下の角にヒイラギ南天を植えて、その脇から竹の樋を通って、石をくった手水鉢に水が落ちるようにして、自然に溢れた水が、下の玉石の小さな小さな池に落ち飛び石の間を通って、大きめな石池に繋がっています。
 私は当初水を張った池を想像していたのですが、砂地だからと仰って、玉石を敷いた石池にしつらえてくださったのです。
 義父は、廊下の椅子に腰を下ろして、飽かずに庭を眺めていました。特に義母が亡くなってからもいつも通りに廊下の椅子によくいましたので、「寂しくないですか」と聞きますと、「いや、此処から庭を見ていると少しも寂しくない」といって、何時もお気に入りの椅子で過ごしていました。庭にも見る角度がありますが、我が家はその場所からの眺めが一番良いように出来ています。
 夫が退職後は、一日も欠かさず庭掃きと草取りをしてくれて、花や木に水をやったり肥料をやるのは私の役目です。義父も元気な間は、私が庭木の消毒をしていると「一人では大変だろう」とポンプを押す手伝いをしてくれました。
 今年は特別暑い夏でしたから、毎朝の水やりも30~40分かかりました。先の庭師さんが、「水を全体にしっかり撒いた積もりでも、一寸脚で蹴ると、ホーラ砂地でしょ」と仰って、「ホースを移動して、しばらく水を出しっぱなしにして、また次へ移動するのが楽なのですよ」と教えて下さったのですが、なかなかそのように実行出来ず、今年やっとその意味が良く解りました。要するに、全体に水を撒くのではなく、所々に水溜まりが出来る程じっくり水を撒けば、木の根は四方に伸びているので枯れない訳です。
 いつでしたか、友達に葉水をやると木が喜ぶと聞いたことを想い出して、夏の暑い日に葉水をやって、アッという間に山ボーシが葉を落とし、一日で枯らしてしまいました。あれこれと失敗を繰り返しながら、今は小さくとも可愛い可愛い埴生の宿なのです。花が咲いたり木が紅葉したりする度に、造園して下さった庭師さんに心から感謝しています。そして、義父のお気に入りだった場所は、今は夫が一人がけのソファーを置いて、誰にも邪魔されない孤独を楽しむ場所となっています。
 25年が経って、庭はあまり変わらないのですが、住人は、歳々年々老いていっています。後どの位元気で庭の手入れが出来るのでしょう。内心冷や冷やしながら、まだまだと暑さに負けず、日々の水やりに励んでいます。
 
 咲くたびに想い出さるる花なりき白連は義父(ちち)侘助は義母(はは)(某誌に掲載)
 落ち着けと斑入り八つ手に雨が降るハーブティーでもゆるりと出さむ(某誌に掲載)



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地デジ移行にもう少し配慮を

2010年09月03日 | 随筆・短歌
 先日の日経新聞に、地デジ移行に対して、「低所得者対策を拡充する」という総務省の計画について載っていました。その記事によると、年収200万円未満の世帯で地デジが見られるようになっている世帯は、今年三月末の時点で、67.5%だそうです。
 今直ぐに地デジになると、この年収200万円以下の人達の3割強が、テレビが見られないわけです。来年の7月24日から、完全移行ですから、このままだと、テレビというものは、一切見られなくなる、いわゆる地デジ難民になります。勿論その為の対策ですから、次第に改善されると思いますが、生きるのに精いっぱいの人達には、一般の消費者のように、来年の7月までに、地デジ化するということは、中々難しいことでしょう。
 地デジであってもなくても、私は一向に困らないのですが、聞くところによると、ケータイが普及したために、電波の振り分けが上手く行かず、結局やがては地デジ化するしか方法がないのだそうです。(これはさるテレビ局の解説で初めて理解したところです)
 もう一つ、国家の経済対策の為に全国民に新しいテレビを買って貰い、経済効果を上げようということのようです。双方向とか、画面が美しいとか、そういう機能を求める人は、おおいに地デジ対応のテレビを買い、今のままで良い人は、アナログ放送が見られるように、もう暫くは現在のように、両方使えるようにならないものでしょうか。
 ある日を境に急にテレビが見られなくなったら、それはとても不便です。心身共に健康な最低限の生活に今はテレビは不可欠です。
 税金でまかなわれている生活保護費を受けている人はある意味で幸せですが、努力して年金を納めていたにもかかわらず、受給してみるとその年金は生活保護費より少なく、これだけで暮らすことは無理のようです。せめて国民年金は、生活保護費と同等でないと、納得出来ない気がします。
 敢えていいますと、私の比較的近くに住んでいる人は、親の遺産数千万円と立派な家屋敷を売り払って手に入れたお金を、短期間ですっかり競馬競輪で無くして、その後なにかと病気を訴えて、今は生活保護費を貰ってくらしています。ご自分は「これが一番」といっておられるそうです。事情は分かりませんが、様々な人が生活保護費で比較的のんびり暮らしているのに、一方では相当年を取った女性が一人で空き缶を集めて暮らしています。片方ずつ違う突っかけを履いて、雨の日も暑い夏の日も、身を粉にして働いています。独り暮らしの家は、ゴミの山のように空き缶が積まれていますが、それでも人には頼らないという信念で暮らしているのでしょう。
 総務省は、専用チューナーを無償で配布する対象を、生活保護を受けている世帯を含む260万世帯を対象としているそうです。それほど緊急性があるのかどうか私には解りませんが、単純に考えると、今までチューナーで見ていた人が新しい地デジ対応のテレビに買い換えれば、本当に安いチューナーも出回るでしょう。もう少し待ってやってもいいのでは、とつい考えてしまいます。
 我が家は、古いアナログのテレビに地デジのチューナーを繋いで、映る限り使って、新しい地デジ対応テレビを買う予定は、今のところありません。これで十分満足しています。
 ただ、地上デジタル放送になって、チャンネルが大変多くなったにも関わらず、見たいと思う番組があまり見つからないのは、どうした事でしょうか。高齢の視聴者が、ますます増えてくるわけですから、テンポの早いドタバタではない、もっと解りやすく、じっくりと鑑賞できる番組を、おおいに工夫して頂きたいと考えますがどうでしょうか。

 大気圏はさしづめ電波の嵐ならむ迷はずケータイ繋がる不思議(某誌に掲載)
 世の中の矛盾に心向けをれば転(まろ)びて居れり蝉の脱け殻(あずさ)
 

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