ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

過去を愛しむ

2011年12月29日 | 随筆・短歌
 今年も残り少なくなりました。「歳月人を待たず」といいますが、確かにまごまごしていて何時も置いていかれるばかりの人生を過ごして来たようです。でもふり返って見ますと、ぎっしりとつまった様々な出来事があり、学ぶことが沢山ありました。うれしい事も悲しい事も辛い事も、そこから何かを学び、みなその後の人生に役立つ教訓となりました。
 人生には何一つ無駄が無いと言われますが、確かにそれを実感出来ます。人間には忘れるという、優れた力があるとも言われます。良く物忘れをする私には、何だかホットするような言葉ですが、忘れるから生きていられるという経験もしました。今年の大災害に遭われた人や、愛する人を失われたばかりの人には、未だ生々しい想い出があり、決して忘れられるものではないと思われるでしょう。確かに全てを忘れ去ることは出来ませんが、少なくとも心の痛みは、年月と共に次第に薄れていきます。
 そうして過去に出会った様々な出来事が、どれもこれも全て私にとって受けなければならなかった必然として、丸ごと愛しむような気分になります。偽善だ、と言われるかとも思うのですが、冷静に考えてみても、みないただいた人生として、受け入れることが、私を幸せに導いてくれる道だと言えます。
 今年も新聞にこの一年間の十大ニュースが発表されました。私は、我が家の十大ニュースを纏めて書き出し、新聞記事と共にアルバムに貼りました。毎年恒例の仕事になって、もう20年以上になります。その内容は、一人一人の家族にあった事、家を改装したり、思いで深い買い物があったり、旅行に行った事等、直ぐに十位は挙げられます。年々訃報も増えて、決して良い事ばかりではありませんが、こうして書き出すことで、一年間をふり返る手掛かりにしています。
 この一年間も、何とかブログを書き続けられました。その時その時に頭に浮かんだテーマについて、思いつくままに書き綴ってきたのですが、沢山の人達に読んで頂き、ご厚意を頂きました。何よりこのお礼を忘れてはなりません。また、あの大災害の時は、私自身も体調を崩す程にショックで、当分の間は映像のニュースを敬遠した程です。思いがけず日本人の秩序ある行動や、思いやりの心を外国の人々に褒められて、私まで光栄に思ったりもしました。そして改めて日本人は、素晴らしい民族なのだという思いを深くしました。この国に住む私は矢張り幸せ者です。
 沢山の善意に囲まれて、私の今の幸せが在るのだという思いを、一層強く感じもしました。一方身分をわきまえず時折厳しい意見を述べたりして、後で我が身を恥じたりもしました。最近は、怒りの声を上げるばかりでなく、小さくとも良い出来事や、良い政治や善意の人々にも、もっとしっかり目を向けて行かなければ、と思うようになりました。毎日歩いている道も反対側から歩いてみると、景色が変わって見えるように、気付かなかった新しい発見があるような気がします。
 何しろ狭い社会に生きて、視野の狭い人間の私です。世の中は川の流れのように、常に動いていて、写真に切り取ったその瞬間だけが真実だと言われます。夫の喜寿の記念に合わせて撮った写真より(修正されていると思いますが)、来年はもう少し優しい顔のばあさまでありたいと願っています。
 どうぞ皆様も何よりお身体をお大事に、お元気でお過ごし下さい。心からのお礼を申し上げて今年の最後にしたいと思います。

 オハジキを庭で拾いぬ宝石のやうなり亡き娘の遊びしものぞ

 音もなく雪積む家に一人ゐて静寂といふ優しさを知る(全て実名で某紙に掲載)

住み慣れた家が消えて

2011年12月21日 | 随筆・短歌
 今年は大災害がありましたので、亡くなられた方も沢山あり、住み慣れた家を失われた人も、多かったと聞いています。12月18日の日経新聞に2011年の俳壇と歌壇の今年一年の投稿歌の秀作が発表されていました。俳壇では、「さくらさくらさくらさくら万の死者」「広島の長崎のああ福島忌」「悲しんで泣いてくださいお盆です」などが私の心をぐっと捕らえました。
 歌壇では「ある日突然道を漁船が行き交いぬ朝市開かれし岸壁越えて」「水仙の精が私に会ひに来て「ぼんやりしててもいいよ」と言ひたり」などが載っていました。さすがに秀作ぞろいであり、思わず涙が溢れました。
 私の学生時代の友人もかの災害で住んでいた家を流され、現在も遠く離れた被災者用住宅でお過ごしです。ご家族に怪我が無かったことが、何よりでしたが、立場を置き換えて考えてみると、その辛さが痛い程に伝わって来ます。
 災害ではなく事情により、住み慣れた家を売ったり壊した人も多いのではないでしょうか。別の友人は、年老いた母上の介護の為に、以前長く住んで居られた家を払って、今後の母上の介護の費用に充てると聞きました。ご姉妹は皆他所の土地に住んで、誰も居ない家でも矢張り我が家は我が家です。手放すとなれば心が残りもします。
 私の実家も250年余りの歳月を経て、今年秋に取り壊されました。誰も住まなくなって久しい家です。間もなく壊すと聞いて、最後の家を目に残しておこうと、はるばる家族で駆けつけました。既に瓦が下ろされて、二階のガラス窓が取り外されていました。大きく開いたその窓から、ここで過ごされた沢山のご先祖様のみ霊が、高い空へと立ち昇って行くように思えて思わず手を合わせました。
 二十日ほどで取り壊しがすっかり済んで、更地になった屋敷跡に立った時は、表現し難い思いが込み上げました。消えてしまった家は再びもとには戻りません。「家の跡継ぎ」で無い私は、見ているだけの存在ですが、これを取り壊す立場の人は、大変です。たとえ家が無くなっても、祖先のまつりごとや、まして残された親のお世話をする立場の人は、大変な労力を必要とします。先ずは長男、そして次男或いは長女、といった風に、その役割が回ってきます。
 私の友人も、今は遠くなった実家を売るのに何度も通い、又残された母上の住んで居られる遠い地のホームにも度々行かれて、何かと苦労して居られます。
 家は家族のよりどころであり、これ以上のところは無いという位、温かい思い出が詰まっている処です。ですが子供達が成長し、兄弟姉妹が離れた所に住めば、それから先は、壊すに壊されないとか、売らないと維持管理に困るとか、残された親の老後の為に、致し方なく・・・、という場合も出て来ます。みなどなたかが、苦労をされてその後始末をしておられます。
 長い間慈しみ育てて貰った家を処理することは、なかなか精神的な痛みを伴います。けれどその苦しみを乗り越えて、私達はなお生きて行かなければなりません。心を切り替えて、今日という日に残された仕事に精を出すことに致しましょうか。

 行く末に不安はあれど一先づは入り日に告げる一日の無事を(実名で某誌に掲載)

老いてなお期待するもの

2011年12月14日 | 随筆・短歌
 最近の国会審議を見ていますと、大局に立ち、将来のビジョンを掲げ、熱意を持って国難を乗り切ろうとするのではなく、相手の小さな失点を取り上げて、攻めるばかりのやりとりが続いているようです。
 何かと言えば審議拒否です。国会議員は審議する義務を持っているのですから、義務を果たさないのなら給料を返還して、被災者住宅の防寒対策費にでも当ててほしいと思うくらいです。
 政治家が小さくなったのか、視野が狭くなってきているのか、自己中心的になって、他人の失敗はどんな些細なことも許さないというようなところがあります。政権奪取という念願が先立つのでしょうが、議会での質問の中身も小さくなって、まるで針の先でほじくるようなことばかりです。
 全ての国会議員が新しい国作りに懸命に努力しなければ、この災難から立ち直ることが出来ないと思いますのに、どうも最終的には、ご自分の地位に連綿としていて、力を合わせて国難を乗り切るという責任を忘れておられる人が多いようです。前政権の放漫な政治によって、すっかり内部が腐敗していて、政権が変わってもなお政党の権益だけが残っていたり、驚くようなことが明らかになっています。
 もし、あの大災害の前に、この膨大な借金が無かったら、日本はまだまだ安全な国だと言えるでしょう。でもこの大借金について、だれ一人責任は私達にあるといわないのが不思議です。その原因を作った人達は、素知らぬ顔で、国民に痛みを与える増税は反対だと言い出しました。誰もが増税はいやですが、そうしないと国の借金は益々増えてしまうことに、国民の方が気付いて、増税でも仕方がないと考え初めていますのに、以前消費税アップを高々と掲げた人達は、どうしたことか、反対の立場を取り始めました。口先だけは、国民の為だと甘い言葉を口にしますが、ではどうしてこの大借金を乗り切るのか、何も具体的にしていません。
 増税に先立って無駄を省くのは、当然至極ですが、それが思うように出来ない程、権益が強固なのでしょうか。それを破らなければ、国民の信頼が得られないのは当然です。新しいステルス戦闘機の決定に今度は、幾つのピーナッツが誰の手に渡るのか、と思わず過去の悪夢が甦る程、不幸な時代が想い出されます。
 最近は地方の時代ということで、県知事さんや地方自治体の首長さんに尊大な姿勢を見せる方が多くなりました。県知事と大臣とでは、子供でもどちらがより責任ある立場か知っています。ですが、大臣の訪問に遅れて来たり、先に自ら会議を打ち切って、さっさと退出したり、物言いにも傲慢さが目に付くようになりました。目上の人に対して、礼を失するような態度は、慎むべきで実に見苦しいことです。
 日本人の礼節を重んじる態度には、世界の人々も目を見張る処がありましたのに、今や地に落ちるばかりです。マスメディアも変な権力におもねったりせずに、中立を貫いて報道して欲しいものです。ややもすると、権力のある人におもねったり、公共放送のニュースを担当するキャスターさえ、私見と思われる意見を主張しています。報道は中立でなければなりません。事実のままを正確に伝えるべきであって、善悪は視聴者が判断するものであることを忘れては困ります。指導してやるなどの傲慢な態度は、許されない事です。
 地位もお金も無い一介の年寄りの私が、生意気にもこんなことを言うのですから、私も礼節をわきまえないといわれそうですが、総理大臣をさんづけで呼んだりしませんし、目上の人と待ち合わせる時は、必ず先に行ってお迎えし、お見送りして退出する位はきちんと守っています。上に立つ人の品位によって、住民である皆さんの良識が問われたりしかねません。
 私のような老人でも、この国の将来の為に私には何が出来るのかを考え、痛みはあっても耐えなければならないと考えています。
 沖縄の人々の苦しみは分かります。その代償として支払っている交付金は国民の税金です。沖縄に基地を置くのは、軍事的防衛に適しているからと聞いています。この国を守るという崇高な目的の為に、「剣もほろろ」の態度ではなく、前向きに考えて頂きたいと思います。もし無口な国民にアンケートを採ったら、恐らく同じような結果が出ることでしょう。
 このことについてマスコミは、一切の論評を避けているのは不可解です。先頃ある新聞の社長の問題も、アンケートを採ったらどんな結果が出たでしょう。矢張り力のある人におもねっているとしか、映りません。もっとも、インターネットではこのアンケートは取られていましたが、新聞は「君子危うきに近寄らず」とばかりに逃げて報道を避けていました。
 「文○春○」という月刊雑誌があります。以前は平均以上のレベルの雑誌だったと思っていましたが、今ではすっかり週刊誌並にレベルダウンしてしまいました。今回ほどがっかりした記事を目にしたことがありません。売れさえすれば何を書いても良いと思っているのでしょうか。週刊誌はゴシップ記事が中心で、あること無いことを何でも書く、読むに耐えない雑誌と化してしまいました。皇室までもその対象と考えていることなどに、憤りを禁じ得ません。国民の多くは皇室を誇りに思っています。私達の誇りを汚すような記事は止めて欲しいものです。
 漫画のもてはやされる時代ですが、途中の過程の思考が軽んじられ、短絡的に結果だけを求める時代になってしまったからでしょうか。過程をじっくり考えれば、何が正しいのか、自ずと判断でき、舵を誤ることも少なくなるのではないでしょうか。
 針の先で重箱の隅を突つくばかりの国会の質疑は、時間と経費の無駄遣いです。もっと大局に立って、国家の繁栄に何が必要で、何が障害になっているのか、真剣に議論していただきたいものです。

 今回は大変厳しいことを書きました。載せるべきかどうか、大いに迷いました。失礼だと思うことも、率直に書きました。何分にも残された時間が少ない老人ですので、ついついあせってしまいます。どうぞお許し下さいますように。

思いやりが踏みにじられる時

2011年12月07日 | 随筆・短歌
 思いやりの心は、とても美しいものであり、人間社会に潤いを与えてくれます。今回の大災害でも、沢山の人々の思いやりが、被災者の心にどれ程の勇気を与えたかわかりません。
 しかし一方では、その思いやりの為に、大変な苦労や苦痛を背負い込むことがあります。これは私の親戚の話です。母親が早世して、教員であった父が事故に遭い、上手く歩けなくなりました。残った子供達の為にも再婚が望ましく、回りの人達が心配して、相手を探しました。候補になった女性には、女の子が一人いましたが、古い価値観の為に離婚となり、娘は父親が引き取ったので、独り実家に身をよせていた心優しい人でした。身体が不自由な人である事を承知の上で、結婚して子供の世話をし、家庭を守って来ました。
 優しい女性でしたので、子供達もよくなつき、やがて子供達が成人してみな家庭を持った後は、夫婦で二人暮らしをしていました。時折子供達が集まり、普通の家庭と同じような幸せが続いたのです。その父親が亡くなり、大きな家に義理の母が一人で住むようになりました。山林や田畑や家屋は、多分実の子供も相続したのだと思いますが、心優しい息子や娘達は、その義母に、何くれと無くお小遣いを上げて仲良く往き来して暮らしていたのです。義母には夫の年金があり、畑を作り、老人クラブでゲートボールを楽しみ、幸せに暮らしていました。世間の家庭と同じように、子や孫が尋ねてきて、ご近所でも明るく幸せなおばあさんとして、羨ましがられていたといいます。
 ところが今年その義母がしばらく入院していて亡くなりました。勿論子供達が入院の付き添いや看病をし、亡くなった時は、親戚一同も皆集まって、近隣の人達と共にしめやかにお葬儀が執り行われました。問題が起きたのは、その後です。義母と子供達の間に養子縁組の手続きが済んでいなかったのです。ただ、好意だけで結ばれ、お互いいたわり合って暮らしてきたのですから、当然残された遺産は、子供達の処に来る筈でしたが、現在の法律ではそうはいかなかったのです。
 一度も会った事のない義母の実の娘に、「それでも」と知らせてあげましたら、母のお骨が欲しいと言い出して、数千万円の遺産と共に引き取る権利を申し出て、遺骨も現金の全ても持って行ってしまつたと聞きました。その娘さんは、遺骨は引き取ったものの、自分の嫁ぎ先には未だお墓も無いと言って、母親の実家のお墓に入れたと聞きました。
 育てて貰った子供達はお墓参りも出来なくなり、父親が残した現金は、すっかり持って行ってしまわれたわけです。「法律がそうなんだから仕方がない」とその子供達は諦めたようですが、割り切れない気持が残ったのは当然のことです。
 他にも次のような例があります。子供さんがいませんでしたが、とても仲の良いご夫婦だけの家庭がありました。いつも穏やかに静かに暮らしておいででした。ご主人は、心臓に病を持っておられ、時折救急車で入院したりしている状態でした。ご主人は、奥様が後に残った場合のことを心配されて、土地や家屋の名義を奥様にして、更に家をすっかり直し、年老いた奥様がこの先家の工事をしなくても良いように、すっかり手をいれて下さいました。「私は本当に安心しました」と奥様が言っておられました。ところがあっけなく奥様が先に亡くなられたのです。
 この方の告別式には、私達もご縁があって、出席しました。思いがけなく、普段は一度も見かけた事のない沢山のご親族がいらっしゃいました。それから先は、もう説明をしなくともお解りでしょう。
 私の娘も子供の居ない夫婦でしたので、娘が亡くなった時は、娘の夫には、娘の財産の2/3しか受け取る権利が無く、残りの1/3は、実父母である私達夫婦の処に来ることを初めて知りました。ローンを組んで、新築マンションを買ったばかりでありました。娘の生命保険は一つは受取人は夫でしたが、もう一つは娘が独身の頃からの養老保険で、万一の時の受取人は父親である私の夫名義になったままでした。私達は早速遺産相続放棄の手続きをしました。 年度末ということもあって、なかなか完了の通知が来なくて、いらいらしました。やっと終わったと思ったら、今度は兄弟である、息子に権利が発生します。息子も直ぐに放棄の手続きをして、目出度く遺産がすっかり娘の夫のものになったという知らせが来たのは、亡くなってから三ヶ月近く過ぎていました。
 マンション購入ローンの援助をしたいという好意からこういったことになった訳ですが、親族の中に欲しいという人が一人でもいれば、住んでいる家さえ売らなければならないことがあります。
 私の住んでいる地域は昔の農家が多いので、亡くなられる度に沢山の遺産が分割されます。年老いた義父母の面倒をどれ程良く見ても、お嫁さんには相続の権利がないので、
何も面倒を見ないで暮らしてきた兄弟達が権利を主張すれば、大きな屋敷と家だけを相続して、後の売れる不動産は兄弟の手に渡ると言った例も数知れずです。
 住んでいる家には、多額な固定資産税がかかるだけで、そこからは一円も上がって来ませんが、他の土地は、アパートを建ててよし、売って良し、とお金を稼いでくれます。
 みなそれぞれ良識があれば、何とか上手く行くのでしょうが、一人でも権利のみを主張する人がでれば、気の毒な人が出て来ます。持てる人の悩みともいえますが、僅かなお金にも執着するせちがらい世の中になってきていますから、心の痛む話を耳にすることも多くなりました。自分がそのような哀しい争いを、後の家族に残さないように、お互いに心掛けなければならないと思っています。