ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

花が誘う想い出のかずかず

2019年03月20日 | 随筆
 過日我が家の庭に、初めてクリスマスローズが花を付けました。沢山咲きましたから、数本切ってガラスのコップに活け、居間のサイドボードの上に飾っています。細い雄蘂がパラパラ散りますが、花は水を替えてやると、想像以上に長持ちしてくれます。心がホッコリと温かくなります。
 私の八王子の友人が、もう何年も昔に、「我が家の庭で咲いたクリスマスローズです」と云って、メールに写真を添付して、送って来ました。とても美しい紫系のクリスマスローズでした。
 私はそれまでクリスマスローズという花を知らなかったのです。その名前から受ける印象は高貴な花のように思えて、忘れられない花になりました。
 ところがその後、夫と二人でウォーキングの途中で、お庭の垣根の傍で、緑と白のクリスマスローズの株を一生懸命掘り起こしている人に出会いました。形からクリスマスローズかと思って、「クリスマスローズですか。奇麗ですね」と云いましたら、「なかなか掘り起こすのが大変なのですよ。」と云われて、せっせと根を掘っておられた事が印象に残りました。
 昨年のことです。私が近くのバス亭に行く途中で、或る方の前庭に、薄紫のクリスマスローズが咲いていて、つい「奇麗なお花ですよね。羨ましいです。」と正直な感想を漏らしました。するとその方は、「今は移植に向かない時期ですから、その内時期になったら株分けしてあげましょう。」と云いました。
 以前も赤い花を付けるつる草(花蔓草 又は アプテイニア)を良いなあと思って「可愛い花ですね」と云いましたら、間もなく少し土を付けて、わざわざ持って来て下さいました。土に這うように増えて、可愛い小さな赤い花が、葉の直ぐ元に着くのです。しっかりと天を仰いで咲く所が何とも健気に思えます。池の周りの空いている所に植えて、次第に広がっています。
 又ウォーキングの途中に「薔薇屋敷」と私達が呼んで居るお宅があることを以前に書きました。何種類もの薔薇が、家の回りに沢山咲いていて、とても見事なお宅です。玄関にも薔薇のアーチがあって、くぐって入るようにしつらえていた事もありました。
 ご夫婦でせっせと手入れをして居られて、花の大小に関わらず古い花殻が付いているのを見たことがありません。何時も早朝にお手入れしているようでした。
 私達夫婦は、どちらも健康にすごく自信があるわけではなく、「せめて死ぬ迄自分の足で歩きたい」と思い、「健康の元は歩くことから」と夫が云って、もう二十年以上も、殆ど毎日、たとえ雨でも何とかして歩いているのです。そのお宅では薔薇の木の下草にわすれな草を植えておられて、小さな青い花がとても可憐でした。
 これも「奇麗ですね」と云った時「勿忘草です」とお聞きしました。その時奥様が「とても増える草ですから」とビニールの袋に分けて下さったのです。早速前庭の刈り込んだ躑躅とサツキの間に植えました。草だと思うと直ぐに抜き取ってしまう、きれい好きの夫に幾度もむしられつつも、何とか頑張って生きています。
 次第にお花を頂くことも増えて、もう幾つ増えたのか、あれは○○さんから、これは□□さんから、と心温まる草木が増えています。
 また何年か前にも書きましたが、5センチほどの枝に咲いた、とても珍しい椿ばかり、袋一杯頂いたことがありました。お父様が特別珍しい椿を集めて植えるのが趣味だそうで、私には花枝を5~6センチ位に切って(椿は花は下の枝部分が短いのです)、持って来てくれたのですが、今迄見た事も無い見事な珍しい椿でしたから、花だけを大きめの水盤に浮かべて、夫の書斎の窓側のテーブルに飾り、木の部分を水切りして鉢に挿し木にしたのです。すると運良くみんな植え付いて、少し大きくなる迄鉢で育てて庭に降ろしました。
 今は丁度、椿の美しい季節です。ごくごく大輪の赤い絞りの椿や、ピンクや白の本当に珍しい椿ばかり、応接間を回ってお庭までの間に植わっています。去年その近くにあった棕櫚の木を、二本とも庭師さんに依頼して伐採して貰いました。嵐が吹いて、長い年月の間に伸びた棕櫚が倒れたら、出窓のガラスが割れたり、応接間のヒサシが痛むので、心残りでしたが伐採したのでした。椿が伸びて丁度よかったと喜んでいます。
 薔薇好きだった義父の植えたピンクや黄色の薔薇は塀際にあり、その内側の飛び石伝いの道の両側に椿が咲くようなって、庭への道もすっきりしました。たった5センチ位だった椿も、今は私の肩くらいになりました。小倉有亀という画家に、「椿」という赤い一重咲きの椿や、赤と白の絞りの大輪の椿の絵があり、有名ですが「似ている」としみじみ思わせられます。
 またオレンジ色の山吹が咲く度に、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ哀しき」と昔の田舎の我が家の庭に、山吹が咲く度に、私の母が歌に添えられた物語をしてくれた事を想い出します。太田道灌が急の雨に遭って、近くにいた娘に「簑はないか」と聞いた時に、娘はそっと山吹を一枝差し出した、それはこの歌の「実」に「簑」をかけて伝えたものだと。
 亡母から何回聴いたことか、母を偲ぶよすがに前庭の左の塀際に彩りに植えたのです。折角専門家の造園業の方が、一木一草に心を配って選んで呉れてありますので、後て自分勝手に様々植えてしまうと庭の造型が悪くなると思って、余り植え込まないように気をつけては居ます。
 今では白木蓮の大木は義父の、白い侘び助は義母の、ハナミズキは娘の、早世の甥は白槿が、そして野草の名前に詳しかった父にはシャガが、それぞれ様々なドラマがあって、想い出の草木になっています。紫陽花や紫苑やスズラン・山椒・ミョウガなどもそれぞれ物語があります。
 このようにして、花が咲く度に想い出す人があり、ご近所の人達との温かい心の籠もった草花が増えて、喜んでいます。
 花や木にも心があって、日々私達家族の心の慰めになっていると思う私は、花殻摘みや水やりに、夫は花びら一枚でも落ちていれば掃いたり拾ったりで、世話しています。
 
庭をおおう大木となりハナミズキ花のあかりを宵に広げる                          鳥海 昭子

1929年~2005年 歌人 鳥海山麓に生まれる アララギ歌人 エッセイスト
  ラジオ深夜便 誕生日の花と短歌365日(NHKサービスセンター)

 二人共風邪を引いて、家に閉じこもっている日が多く、このブログも遅くなりました。人様に移してもいけないので、もう少し外出を遠慮して、読書をしていようかと考えています。どうぞ皆様もお体をお大事に。 
 

「死ぬる時節には死ぬがよく」

2019年03月05日 | 随筆
 今日でも良寛さまを尊敬する人は多くいらっしゃいます。全国良寛会と云う会もあり、様々な人が研究しておられます。私は良寛さまをとても尊敬している一人です。以前このブログでも、良寛さまの墓地を訪れた時の感動を書きました。
 それはNHKの生涯学習講座の課題として、「尊敬する先人の墓地を訪ねてリポートせよ」と云うテーマを頂いた時のことでした。まだ一度も良寛さまの墓地を訪ねた事の無い私は、先ず「どこに在るのか」を図書館で調べなくてはなりませんでした。矢張り良寛さまを尊敬して居た夫がつき合ってくれて、蝉しぐれの降る夏の日に訪れた時の感動を書いたものです。
 リポートの課題を出された講座の講師先生も未だ訪れた経験がなく、私は写真も添えて提出しましたのでとても感動されて、リポートの余白に書き切れない程の感想を書き込んで返却して下さいました。これも又忘れがたい感動でありました。
 子供の頃から「良寛さまは縁の下から生えて来た竹の子のために、縁側をくり抜かれた」というお話を聞いて育ちましたから、とても親しみを覚えていたのです。良寛さまの、何処に引かれるのか、人により様々ですが、幼い子供達と日がな一日手鞠をついて遊んだ事は、誰もが知っていることです。
 良寛さまは大変多才な人でした。漢詩、和歌に優れた作品を残してもおられます。あれ程の高僧と云われながら、お寺を持つ事もなく、禅を学ばれた良寛さまは、人生をかけて修行され、実践されました。徹底的に自我を捨ててた人として、私はとても尊敬しています。
 かつて当ブログに書いた「ひかりちゃん」と私達夫婦の交流の中で感じた、まるで仏様のような心を、良寛さまも子供達に感じ取っていたに違いないと思いました。(2018年6月5日444号神さまの贈り物)
 人間は「生まれた時が一番み仏に近い」と云われます。
 
 おさな子がしだいしだいに知恵づきて仏に遠くなるぞ悲しき 一休さまの歌です。

 自我が強い大人の姿と、無心な子供では、その心のありようを見れば素直に理解できます。
 子供達と無心に遊ぶ良寛さまと、『僧伽(そうぎゃ)』と云う「だらけてしまった僧呂」を厳しく批判して書いた長い漢詩や、他にも沢山の優れた漢詩や和歌を読まれた学識に富んだ良寛さまと、禅僧として修行にいそしんだ良寛さまとを合わせて考えると、矢張り親しく感じる一方で、近づきがたい様に偉大な人だと思われます。
  
 五合庵と言われる良寛様の庵は、初めの頃は夫の車で山道の下まで行き、赤土で滑り易い細い山道を、汗をかきかき歩いて登ったものですが、長い年月の間に五合庵の直ぐ上の国上寺(こくじょうじ)まで車で行けるようになり、新しく谷を越える吊り橋も出来て、とても簡単に行けるようになりました。
 五合庵は文字通りささやかな萱葺き屋根で、畳6枚ほどの小さな庵でした。吹き込む雨によって、年輪が浮き出た縁側があり、吹き抜けの小窓から月も望まれて、質素で静かで、ここで良寛さまはあの素晴らしい漢詩を書いたり、貞心尼もはるばる訪れたのかと、とても親しみを覚えました。

 君にかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ夢かとぞう思ふ 貞心

 ゆめの世に かつまどろみて ゆめをまた 語るも夢も それがまにまに 良寛

のように歌を交わしておられます。
  
 越後の良寛さまは与板の山田杜皐(やまだとこう)という俳人と親友だったそうです。五合庵から与板までは、歩いて相当な時間がかかりましたが、与板へ行けば杜皐さんの家に泊まり、親しく付き合われていたそうです。
 良寛さまが71才の時、近くの三条市を中心に大地震がありました。良寛さまの地域は被害が少なく、与板の方は被害が甚大だったそうで、良寛さまは杜皐さんへ見舞の手紙を送っています。

 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候  是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候   

 悟り切った高僧の死生観を見事に表現した、良寛さまらしいお見舞といえましょう。
 いつ死ぬのか、どういう風にして死ぬのか、この年になりますと、友人知人の訃報に接する度にふと思わせられるのですが、そのような事には頓着しないで自然に任せておけばよい、と云われてみると、何となく楽になる気がします。
 藤場美津路の「ちょうどよい」と云う詩の一節に「死ぬ時までもちょうどよい」と言う一節がありますが、両者の死生観の見事な迄の一致に、心を動かされます。

 裏を見せ表を見せて散るもみじ (良寛さま辞世の句)


 さて、今年はこのブログを書き始めた2009年3月3日から、丁度10年になり、号数はこれが464号になりました。「石の上にも三年」等と云いつつ、紡ぎ続けて何時の間にか10年の月日が経っていて、自分でも驚く程です。未熟な文章を臆面も無く書き続けて来ました。読んで頂いている皆様には、心から厚くお礼申し上げます。
 この号を一つの区切りとして、心新たに、これからも感じたままに書き続けて、私の生き甲斐にさせて頂きたいと存じます。気弱な人間なので、皆様からのメールを受け取るように設定せず、一方通行の書きっぱなしで、申し訳ありません。
 たまたまひかりちゃんに依って、人間本来の心とは、どういうものかをも教えて貰いました。以来、行き交う子供達に対して、慈愛の心で接するようになった気がしています。
 良寛さまへの理解を一歩深めて、私のこれからの生き方の参考にしたいと念じています。