ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

室生の里の女人高野

2015年02月22日 | 随筆・短歌
 五木寛之の「百寺巡礼」(講談社2005年)を発刊と同時に買い揃えたのは夫ですが、その頃までに私達夫婦が巡った寺院の数は、大小を合わせると、100を遙かに越えておりました。全国くまなく巡られた五木寛之は、その10倍も20倍も巡られたことでしょう。
 その中で、五木寛之の目を通して、推薦するどのお寺がどう見えるのかを知りたいと思いましたし、彼の勧める寺院の内で、未だ行った事のないお寺には、どのようなものがあるか興味を持ちました。そして是非行きたいとも思いました。
 今眺めると、第一巻の奈良、第二巻の京都、第九巻の京都Ⅱの計三冊に載っているお寺は、私達も全て行っています。 五木が選んだ第一巻の「奈良」の第一番目のお寺が、女人高野と言われる「室生寺」であることが、とても嬉しいことでした。
 室生寺は本当に心に残った素晴らしいお寺でした。金堂も五重塔も国宝の建造物を含めて控えめで上品であり、静かなたたずまいの背景には、豊かな自然がありました。機会があったら是非もう一度行きたいお寺です。 
 室生寺に行きたいと思ってから、実現する迄には、多分5年以上経っていたでしょう。途中に平成10年の台風があり、五重塔が倒れた木の下になって、一部破損して、それが再建されてからの拝観でした。
 近鉄奈良駅の近くにホテルを探しても、(翌日のバスや電車の便を考えて)その頃は未だ気に入ったホテルも見当たらず、仕方無く、何度か小さなホテルで我慢しました。当時の日程は4月2日~11日までの10日間の旅でした。4月5日の朝早めの電車で、先ず行ったのが、室生寺です。我が家に写真家の土門拳の「古寺巡礼」の厚い本があり、それを見て是非行きたいと思っていたお寺でもありました。五木、土門という二人の尊敬する専門家の推薦するお寺ですから、期待も大きかったのです。
 室生寺へ行ったのは、四月であった為に、丁度桜の季節で、室生口大野駅で下車したところ、大野寺の見事な三本の大しだれ桜が、濃いピンクに染まった花を地面に迄届かせて咲いていました。このような豪華な桜ともなると、近寄りがたい気品を湛えており、勿論このような美しく迫力のある桜は初めて見ました。
 駅前からバスでひなびた道を走り、室生寺前バス停で下車しました。室生川に掛かる赤い太鼓橋の先きに「女人高野室生寺」の大きな石柱が立っていました。赤い橋から先は結界ということでしょう。
 高野山への参拝を拒否されていた女性達は、どれ程多くの願いを込めてこの橋を渡り、仁王門をくぐり祈ったことかと思い、ひんやりした朝のお寺の雰囲気を感じつつ、境内を登って行きました。
 此処は、平地ではなく、自然のなだらかな山の斜面で、道筋にある石段を登って行くと、所々木々が切り開かれて、弥勒堂や金堂、本堂などの建物が点在しています。皆石段を登って行くのです。大きな山が丸ごと大勢の女性の悩みや願いを受けとめて来たように思えました。澄み切った空気が、心を自然に美しく洗い流してくれます。
 有名な五重塔は、土門拳の写真に見るように、ハッとするほど美しく、それは写真で見るよりもずっとこじんまりとして、それが一段と女性向きで、優しく親しみを感じさせました。台風で傷んだ所は新しく修理してあり、創建当時(はっきりしていないが、平安初期に出来た高野山が女人禁制であったため、高野山と同じく真言宗の寺院で、女人の悩みも受け入れた寺院の一つが、この室生寺で、従ってやはり平安初期にあったようです)からの長い歴史を思うと、吹き替えた屋根などは、傷ついた時の痛々しい思いがこみ上げ、沢山の浄財が集まって、5年計画が2年で改修出来たというのも嬉しいことでした。来て良かったとしみじみと喜びを感じました。
 順を追うと弥勒堂、金堂、本堂、五重塔の順に登りつつ拝観したのです。弥勒堂の結跏趺坐の釈迦如来座像は、土門拳の本に大きく載っていて、仏師の魂の籠もった業といいますか、指の指紋と彫刻の木目の円が一致している、それが五指全部です。第一指の付け根の膨らみと木目、かかとまでグルリと輪になった木目が彫り出されていて、どうして材木の中の木目と指紋全部がピッタリ彫りだされるのか、不思議で不思議で、たまりません。また弥勒菩薩立像は、鼻の真ん中が木目の中央の輪で、お顔の左右は、対照的にきっちりと木目が顕れていて、頬や顎の膨らみは木目も対称に脹らんでいます。金堂の本尊釈迦如来立像(国宝)や十二神将なども皆外に塗った塗料ははげ掛かっていましたが、薄暗い中でも眼を懲らして拝観して来ました。定かに見えないものもありましたが、目をこらして、しっかり記憶に留めて来ました。金堂の仏像群のすばらしさに、格子の前を行きつ戻りつして、ご本尊の美しさや、前に並ぶ十二神将の勇ましいお姿に心を奪われました。
 五木寛之によると、入り口から奥の院までは、登り片道700段くらいに成るとのことなので、恐る恐る石段の下に出ましたら、まっすぐに天に向かうように石段が見えて、「登りきれるかしら」と思いましたが、元気を出して休み休み登り切りました。変形性関節症を患っている現在の膝と股関節では、とても無理です。省みて何とか登って来て良かったとしみじみ思っています。
 全山杉や桜や楓でしたから、四季折々に美しく、静謐で、敬虔な祈りには実に向いていると思われました。室生の里は、こじんまりとした里で、家々が思い思いに建ち、この里をもひとくくりして、女人の悩みに耳を傾け、祈りを受け入れて来た聖地のように思われ、とても有り難く思えました。
 土門拳の写真集がありましたので、木目を掘り出した仏師にも心を動かされましたが、そうして出来た素晴らしい一体一体の仏様に、ただひたすら「お守り下さいまして有り難うございます」と手を合わせて祈るばかりでした。私もその時は、大勢の悩める女人の一人になりきっていました。
 今年は密教の教義を開いた法大師空海の、高野山開創1200年に当たり、高野山ではお祭りがあるようです。太くてまっすぐな杉木立の高野山の、あの神々しい雰囲気に浸りにも行きたいですが、女人高野もまた、とても魅力があります。行きたい所ばかりです。奈良に行った何回かの旅をアルバムで見たりしながら、歴史の重みや素晴らしさを再度確認しました。
 人間世界に生きて、溜まりに溜まった煩悩を、全てすくい取って頂いたようで、足取りも軽く室生の里を後にしました。

東大寺の仁王古りてもそのままに哀しきまでになほも睨みゐる(某誌に掲載・特選)

会いたき人に似たる羅漢に会へるとふ天寧寺訪ひ亡き娘(こ)を探す(某誌に掲載・天寧寺は彦根駅から行かれ、500羅漢があります)


参考 五木寛之の100寺、奈良は、室生寺・長谷寺・薬師寺・唐招提寺・秋篠寺・法隆寺・中宮寺・飛鳥寺・当麻寺・東大寺
 京都は、Ⅰ.金閣寺・銀閣寺・神護寺・東寺・真如堂・東本願寺・西本願寺・浄瑠璃寺・南禅寺・清水寺
 Ⅱ.三千院・知恩院・二尊院・相国寺・満福寺・永観堂・本法寺・高台寺・東福寺・法然院


日だまりのように

2015年02月12日 | 随筆
 現在40~50代以上の人達は、幼少期に太陽の下で走り回り、大勢の友達と遊び、ケンカし、仲直りする、という人間関係の基本を自ら学んだのではないかと思います。草野球や公園でのメンコやボール遊びが男子の遊びで、ごっこ遊びとか縄跳びや柔らかいボール遊びなどが女子の遊びだったのでしょうか。少なくとも家の中ばかりで遊ぶようなことはしなかったと思います。
 しかし、現在10代~30代に近い人達は、下校後に遊ぶにしても、約束しないで突然「遊ぼう」では駄目で、それも一つの家に集まった仲間が、皆個個にピコピコとゲームを楽しみ、友達の会話が殆ど無い状態だったとも聞いています。ゲーム機でバーチャルな世界に浸り、残虐な殺し合いも平気、リセットすれば元通りになる、という遊びが多かったように思います。
 その頃私は、身近な人には、「こんな状態では、この人達が大人になったらどうなるのでしょう。怖いようですね。鍵っ子も増えたし」と言っていました。最近は、以前は考えも及ばなかったような事件が次々と起こり、心配していた事が現実になってきているようで、胸が締め付けられるようです。
 リセットしたくても出来ないのが人生です。困った時に助け合える友達は大切です。携帯やスマホで繋がっている気になっていても、現実には絆はしっかりとは繋がっていないのです。相手の目を真正面から見つめて話し、対話を深めて理解し合い、反対意見も謙虚に聞いて、良く消化して、初めて自分の意見が固まるのであって、これは実体験する事で育つ、大切な基本だと思います。それは塾通いよりも、もっと大切なことではないてせしょうか。
 そのことを良く理解し、育てる仕事に適しているのは、何時の時代でも、やはり先ず母親でしょう。私は「女性の自立」といって、全ての女性が社会で仕事をするのは反対です。子供は母親によって愛され、抱きしめられるのが、最も心安らかになって、伸び伸びと生きることが出来るのです。結果として当然立派な成人に成長すると思うのです。
 全ての母親が、そう出来ないのが現実ではありますが、可能な限りそのように努力するのが、母親の務めであろうと思いますし、国の努めでもあります。労働力不足を補う為に、女性を駆り出すのは、間違っています。両親が揃って協力して家庭は築かれるものですから、勿論父親も深い愛情を持って、妻と子供を守らねばなりません。男女平等というのは、それぞれの特性を生かして、支え合うことで、男と女が同じことをするということでは無い筈です。
 子供たちは、この生きづらい世の中を生き抜いていく為に、欠かせない愛情の交流を育くむ場が不十分なまま、成人になってしまう恐れがあります。母親が家にいて、「おかえりなさい」と抱きしめてやれた子供は、どれ程幸福感を覚えることでしょうか。
 最近私は、共働きで子育てして来られた人に、折があるとお聞きしています。皆さんは親も子も立派な人達ですが、やはり幼い子供を育てている間位は、せめて家に居たかったと言います。それが出来なければ、せめて祖父母に育てられるのが、好ましいと、私と同じことを言っておられました。
 何事も、完璧にいく訳ではありませんし、身分不相応を望むのではありませんが、せめてもう少しゆとりを持って、子供を育てたかったと、振り返って反省しています。職業によっても違うでしょうが、家に仕事を持ち帰る場合がある職業の人は、四六時中が仕事になっていく場合もあります。止むを得ない事情からとは言え、子供たちから母親を引き離して育てれば、必ず後悔することになるでしょう。それは一家族の問題ではなく、幸せな国を創る為の基本的な問題でもあります。
 勿論父親も、企業戦士として、家を不在にして良いものではありません。妻や子とのふれ合いを今以上に大切にしなければならないと思います。
 いつでしたか、テレビでサルでの実験を見ました。小猿だけで集団を作り、育てられたサルたちは、何時も固まって不安そうで、自由に伸び伸びと遊びません。一方母親にぶら下がって移動し、群の中の多くのサルと遊んだサルは、元気に大きくなり、やがて子育てもしました。幼い頃からの育て方が如何に大切かを、しみじみとと感じました。
 最近私は、私や家族の遺伝子が如何に人間の性格や行動を左右しているか、良きに付け悪しきに付け、感じています。
 子育てに全て原因があるのではなく、素質と環境の両方が相まって個性が出来るのだと、改めて学生時代に教わったことが思い出されます。
 子供達は、やがて成人して国を支えます。ですから、子供を如何に育て上げるかは、国の興亡を決める最も重要な事業だと思っています。社会の最小の単位である家庭が、温かく、幸せでないと、国家の繁栄はあり得ないでしょう。
 三つ子の魂百までも、と言われるように、少なくとも三歳までは母親を子供の傍に居させて欲しいと思っています。
 多様な働き方を女性にもと言う前に、先ず第一に、母親が子育てする家庭の父親の給料を二倍にして、半分近くを妻の収入にして、子育てする主婦を高く評価してやれば、母親は今の生き方に自信と誇りを持つことが出来るのではないでしょうか。せめて子供が幼少期の間だけでも、母親を子供たちの元に返してあげて下さい。加えて働きたい女性も、安心して子供の面倒を見て貰えるような充実した育児施設に、国は真剣に取り組んで下さい。
 定年で退職された人達の中や、ご自分の子育てが終わった人で、幼い子供たちの遊び相手を希望する人は、男女を問わずきっと多く居られると思います。そういう場所をもうけてあげて欲しいのです。 子供は国の宝です。愛情豊かに育てられた子供達が、次代の日本や世界を背負うわけです。より一層心の教育をしっかりとする必要があります。恐らく皆さんも同じように感じておられると思います。
 専業主婦の方は子育ては崇高な仕事だと誇りを持って下さい。とても立派な主婦が、ある会で「私は収入が無いから、自立していない」と言っておられて私は驚きました。とてもしっかのりした方なのに、働いて収入がないと自立出来ていないなどとは思えません。
 マスコミも、離婚の勧めのようなテレビ番組は造らないで下さい。離婚は親にとって都合が良くても、子供が最大の犠牲者となります。アメリカの映画「クレーマー・クレーマー」を観て欲しいです。まずは子供の立場でしっかり考えたいものです。何事も、相手の立場で考えられるようにと、私も何時もそう思っています。それは決してやさしいことではありませんが。問題解決には、欠かせないことです。
 少なくとも、経済的に不安定だつたり、精神的に追い詰められた暮らしからは、良いアイディアも、ゆとりある心も、生まれて来ないことは、言える筈です。
 母親は、家庭にあって、太陽であって欲しいと思います。母親の居る所が、まるで日だまりのような温かい家庭を、夫婦協力して、造って行きたいものですね。
 平沢興元京都大学総長が「社会の中で、何が尊いとか、何がすばらしいとか言っても、恐らく幼児の教育に携わることほど、尊い仕事はなかろうと思います」と書いておられます。(心に響く全言集)今日はこの言葉で締めくくりたいと思います。