ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

フォレスタのコンサートを聴いて

2016年05月31日 | 随筆
 3月にチケットを手に入れて、楽しみにしていたフォレスタのコンサートに行って来ました。発売初日にもかかわらず、私達がチケットを買う為に出かけたデパートは長蛇の列でした。ですから、当然大勢の観客のあることは承知していましたが、大ホールにもかかわらず空席無しの満席で、改めてフォレスタの人気に驚きました。
 生で聴くフォレスタのコンサートは、格別でした。何時もはテレビで、一人一人のお顔も解り、親しみ深くお聞きしていました。そしてハーモニーを重んじて周囲に配慮しつつ丁寧に、そして熱意を込めて歌い上げる様子に、感動していたのです。
 今回のコンサートは、自己紹介も兼ねた一人一人のお喋りと短い歌の披露がありまた。私は以前、コーラスだから仕方無いのかも知れないけれど、もっと感情の籠もった歌をお聴きしたい・・・等とブログに書いたことがありました。私の薄っぺらな認識が見事に覆されてしまいました。途中で披露された一人一人の歌の感情表現の巧みさにすっかり驚き、さすが専門家だと私自身の認識不足を恥じました。
 最初に「ひばりの佐渡情話」をお聴きしたのですが、その豊かな声量と感情表現に圧倒されました。皆さんお一人お一人が、ご自分の声に合わせた巧みな選曲で、短いフレーズを歌われたのですが、私は「うーん」と唸って感動するばかりでした。
 歌に会わせて手を叩いたり、観客が一緒になって歌ったり、ステージと観客の間がグッと縮まって、一体感を楽しみました。ユーモアもあり、今迄このような親しみの籠もったコーラスのステージに出会ったことがありませんでした。
 途中で歌手の方達が、客席を回られましたが、そこで歌手の方とハイタッチのチャンスに恵まれて、私も歳を忘れてタッチさせて頂きました。白髪頭のおばあさんのハイタッチに驚かれたことと思いますが、私は若返ったようで隣りの席の夫に良かったねと言われて益々嬉しくなりました。
 人間の声の美しさについては、以前も触れましたが、今回改めてどの楽器よりも美しいとしみじみ感じました。
 声の幅とか深さとか柔らかさとか、自在に表現出来る声の美しさに、私はうっとりしました。どんな楽器もそれぞれに味わいのある音が出せるということは、特に生のコンサートに通って解っている積もりですし、コーラスのコンサートも何度か行きましたが、今回のコーラスほど、身に染み渡ったことも無かったようです。
 迫力のある歌劇なども素晴らしいと思いますが、本当に幸せな二時間でした。
 入場して直ぐにDVDを買っておきましたので、帰ってきてから又二度目の感動を味わいました。来年三月末にまた来られるとお聞きして、今から楽しみにして、「それまではお互い元気でいようね」と夫と話しています。
 なにしろ何時どうなっても可笑しく無い年齢になって来て、加えて私の股関節置換手術を、家族揃って元気な内にすべきかどうか、相談したりしていたところです。
 しばらくは周辺の筋肉を鍛える運動をフイットネスや自宅で朝晩努力してみてはどうか、ということになり、何とか手術をしなくて済むようにしたい等と考えているところなのです。

生きていますと様々な出来事に巡り会います。先頃は、アメリカのオバマ大統領が、サミットで来日されて、原子爆弾が投下された広島においでになり、格調高い演説で、将来を見据えて核の無い世界を築こう、と演説され、慰霊碑に花輪を供えられました。長い間つかえていた喉の異物が取り去られて、これから先に希望が持てるように思われました。
 今度は日本の総理大臣が、予告なしに突然真珠湾を攻撃して、この大戦の幕を切り落としてしまったお詫びに出向く番だと思っています。戦後70年という長い時間がかかりましたが、大戦によって亡くなられた多くの方々や、痛みを背負われた沢山の人々を思いやって、今後はお互い仲良く生きて行きたいものだと願っています。

 平和な日本で、今こうしてフォレスタの歌声に魂を奪われ酔いしれている幸せを、しみじみ有りがたい事だと思っています。


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マリア様に見る母の愛

2016年05月20日 | 随筆・短歌
 午前中の仕事が一通り終わると時刻は約10時半になっていて、午前中の残りの時間は大抵はテレビでニュースか大リーグを見ています。
 そのニュースの時間に先日こんな報道があり、考えさせられました。それは女性医師の診療報酬の不正請求に関するニュースについての時でした。莫大な不正の請求をしていて、逮捕されたこの女性医師に、医師である母親が「結果がどうあろうと私は娘を見放さない」と言うコメントを出しました。
 私はさすが母親だと咄嗟に思ったのですが、このニュースのコメンテータの女性と男性の二人は、「そんな教育をしているから、このような人間になるのだ」という意味の発言をし、その意見はそのまま納得されたように通りすぎて終わりました。
 果たしてその意見は正しいのでしょうか。「こんな甘い家庭教育をしているから、その結果このような詐欺師になって刑罰を受けることになるのだ。」と言う考え方と「たとえどんな罪人になっても母親である私は娘を見放すことはしない」と言う考え方とは、テーマが異なっていますが、二人とも母親のコメントに対して反論していることは間違いありません。果たしてそれは正しいでしょうか。
 母親というものは、我が身を捨ててでも子供を救おうとする、本能とでも言えるような言動をするものです。我が子がたとえ罪を犯したとしても、弱く罪深い人間としての我が子を、決して見捨てないで温かく見守るのが母親ではないか、と私には思えるのです。
 それはマリア様の愛にも似て、深く温かいものではないでしょうか。私はキリスト教信者ではありませんが、遠藤周作の「沈黙」を読んでから切支丹弾圧について学び、その地を何回か実際に訪れています。
 殊に隠れキリシタンの様子など見聞きし、後頭部に十字架を彫った沢山のマリア観音像や、大浦天主堂のマリア像(隠れキリシタンの存在がこのマリア像を訪ねて来た三人の婦人の為に解った)を感慨深く拝見して来た者として、ごく自然にそう思われたのかも知れません。
 遠藤周作には、キリシタンに関する調査研究が沢山あります。その一部は「日本紀行」という本の「切支丹の里」(光文社)に隠れキリシタンについて余す所無く書かれています。
 幕府の切支丹弾圧が厳しくなって、正面切って「私はキリスト教信者です」と言えば、処刑される時代になり、多くの切支丹は偽りの仏教徒になって、それが隠れキリシタンとして一部は近年まで繋がってきました。
 棄教を迫ってどの様な残酷極まりない悲惨な刑をうけるか、知らない人には、殉教者の心も、隠れキリシタンにならざるを得なかった人々の心も、きっと理解しがたいところがあるでしょう。
 殉教によって死をえらぶか、隠れキリシタンとなって、密かに信仰を持ち続けるか、それとも本当に棄教するか、それしか道は無かったのです。たとえ隠れキリシタンとなっても、殉教できなかった自分の弱さを恥じたに違いなく、その為に集落毎にしっかりと団結し、熱心な隠れキリシタンとして決して表に出さず、子々孫々まで長い年月を伝えて来たと言えるのではないでしょうか。
 遠藤周作は、偶然にも十六番館で実物の踏み絵を見た、と書いています。私達も二度目の長崎でしたか、大浦天主堂脇から神学生の学びの部屋など見て、山から下りてきた時に、本当に偶然に十六番館に入って、同じく実物の踏み絵板を見ました。
 親指の跡が窪み、黒く汚れていました。説明書には、「これだけ多くの切支丹に踏み絵を実際に行った」ということを役人に伝える為に少し大げさに手で作られた部分もあるように書いてありましたが、確かに足の指のえぐれ方を見ると、深く大きく、とても何万人の足跡でもこれ程は窪まないだろうと思える程でした。信者でありながら、踏み絵を踏まなければならない人の苦しみを密かに理解していた役人もいたという事でしょうか。
 遠藤周作はまた「隠れキリシタンたちは聖母マリアを特に拝んでいた」と書いています。そして「かくれ切支丹たちは自分達の母親のイメージを通して聖母マリアに愛情を持っていたことを示している。母とは、少なくとも日本人にとって『許してくれる』存在である。子供のどんな裏切り、子供のどんな非行にたいしても結局は泪をながしながら許してくれる存在である。そしてまた裏切った子供の裏切りよりも、その苦しみを一緒に苦しんでくれる存在である。母にたいして父は怒り、自分を裁き、罰する。それは正しく、秩序をもつが、非行の子供にとっては怯え、震える対象だ。かくれキリシタンたちは、神のイメージのなかに父を感じた。父なる神は自分の弱さをきびしく責め、自分の裏切り、卑劣さを裁き、罰するであろう。そのような神にかくれ切支丹たちは怖れを感じながら、しかし、そのきびしさより、自分をゆるしてくれる母をさがした。そして聖母マリアが<それだ>と彼等は感じたのである。
 マリア観音や納戸神として祭られている聖母の素朴な絵の背後には彼等の切実な『許し』への悲願がこめられている。私は彼等の祈り(オラショ)のうち『憐れみのおん母』のオラショほど実感のこもったものを他に知らない。」と書いています。今にして読んでも胸に響く言葉です。
 
 私達が九州の平戸島の「切支丹資料館」へ行った時も、キリスト像よりもマリア観音像が圧倒的に多く、それは正面から見ると子を抱いた観音様に見えますが、後ろに回ると後頭部に十字架が彫ってある、という像で、様々なマリア像が展示されていました。
 隠れキリシタンの納戸神は聖母の肉筆画が圧倒的に多いそうです。キリスト像はグッと少ないそうです。隠れた信者としての心の痛みの為に、一層マリア様に救いを求めたとも言えるようです。
 家庭に於いても、教育者として父親が重視され、それは厳しく秩序を重んじているかも知れませんが、罪を犯したものの母へのコメントとしては、マリア様のような温かく慈悲深い母親像を理解したものであって欲しい、と思いました。
 たとえ我が子が罪を犯したとしても、自分も共に苦しみを背負う母親でありたいと願う人は多いのではないかと思います。しかし、昨今はあまりにも自分本位の母親が多くなり、子供に対する関心の強さが昔に比べて薄いのではないかと感じます。実の親の子供への虐待や、果ては殺人すらも折々ニュースになります。生きとし生ける者の母親なる存在は、子供のためなら命さえ投げ出す者であることを、しっかり認識して、温かい心の籠もったコメントを発言して頂きたいと願わずには居られません。

沈黙のイエスに語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館(某紙に掲載)長崎駅からかなり遠い遠藤記念館を訪れた時の歌です。
  

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お別れが近づく日々に

2016年05月10日 | 随筆
 一昨日、電車で40分位の、私達夫婦が結婚当初住んでいた街へ行って来ました。階段の登り降りが難しくなって来た私には、神社仏閣も必ずのように階段がありますので、行きにくくなりました。せめて一山公園になっているその地へ行って、山裾の池のほとりで森林浴をしたり、想い出に浸ったり、ゆったりした時間を過ごして来ようということになったのです。
 その地に住んで居た当時は、日曜のたびにというくらいに、良く出かけた公園です。もう見納めになるかも知れないし、良いお天気に誘われて、若葉の公園へ出かけたのです。
 小京都ともいわれた街で、一歩街の裏に回ると古い家並みの、懐かしい街でした。夫が独身の頃に下宿していたお宅も、代は変わりましたが未だ残って居て、夫は「つきあい始めて、多分初めて手紙を出した住所になるね。きっと番地は今も同じ筈だよ。」と言いました。私達は引き合わせて頂いて、お付き合いの期間がほぼ一年ありました。結婚後は別居のスタートで、約一年間は週末に当時借りたアパートへ、私が帰って来るという生活でした。
 当時としては珍しい新築アパートで、まだお風呂がなく、お風呂屋さんに通ったり、やがてすぐ裏に住む大家さんが、家を改築されて立派なお風呂を作られ、ご好意でそこに入れて頂きました。
 約一年近くは南こうせつの、まさに「神田川」のような生活だったのです。洗い髪が芯まで冷えて・・・お風呂帰りに近くの食堂で、チャーハンを食べて帰るのが常でした。丁度公園の正門の直ぐ前に店を出しているお菓子屋さんに寄りましたら、現在は三代目だそうで、ご婦人が昔のお風呂屋さんや食堂の場所を覚えて居られて、とても懐かしくお話しました。
「あの頃は私もお嫁に来たばかりでした」とお聞きして、何だか古くからの知り合いのように親しく感じました。帰りにも立ち寄って、名物のお菓子を何種類か買って帰りました。
 公園は正面の急な石段を登ると、彫刻の美しい神社ですが、私が登れませんので脇道のだらだら坂を登って、大きな池が一段一段上に上がって、計四面ある中で、風光明媚な場所へ腰を下ろしました。
 噴水が一と二の池から上がっていて、水車小屋もあり、一番奥の池のほとりには東屋もあります。鯉が泳いでいて、亀の親子が重なって甲羅干しをしています。市民憩いの池で、リュックに水筒の親子連れが池のほとりの道を散策していました。
 ゴザ敷きの縁台で、昔のようにおでんコンニャクを頂きながら、木々の間から零れる日差しにうっとりしました。
 少し登り道を行くと、大きな彫刻が幾つも置いてあったり、子供たちの遊具が沢山ある広場もあります。何枚か記念に写真を撮りました。もっと登ると、リスがいるのですが、そこまでは登らずに戻りました。
 この街の桐タンスは有名で、私も結婚の時に両親がわざわざこの街まで買いに来て呉れましたが、当時の店には今も立派な桐タンスが飾ってありました。
 そういえば私の結婚に際して、両親が最後の水入らずの親子旅行として三人で京都へ行き、私の喪服や江戸褄や小紋・外出着など、それに寝具も京都で仕立てて貰った事を想い出しました。
 「代々そうして来た家だから」と父が言って、私達姉妹四人は全員京都で嫁入り仕度を整えて貰ったのでした。タンスは男の兄弟も記念に一つずつ買って貰ったようです。
 京都で誂えて貰って困ったのは、布団です。関東と違って掛け布団も敷き布団も裏が白絹で、鏡仕立て(額縁のように白絹が表地の縁取りになる)になっていて、敷き布団の幅も現在のシングル幅より広いのです。
 和洋二組ずつ作って貰ったので、和の方を客用にして、鏡仕立てでない洋布団を日頃使いました。ピンクの浮き模様でしたから、陽に当てる為に干すと、如何にも新婚という感じがして恥ずかしく、干す事は気の引けることでした。
 ところが最近、そろそろ身の回りの片付けをしなくてはならなくなり、着なくなって未だ残っている和服類、特に江戸褄や小紋など、どう処理しようか夫に相談しましたら、捨てるのが一番ということになりました。
 確かに兄弟の結婚式には、江戸褄が重宝しましたが、遠くに住む、姪達の結婚の時は、ドレスで失礼させて貰い、和服は着ませんでした。今後着るであろう和服は、もう黒紋付きくらいになってしまいましたから、袷(あわせ)の冬の紋付きと、絽(ろ)の夏の紋付きと、それぞれの帯やバッグなど揃えて残し、他はごく僅かを残して思い切りよく、ゴミ捨ての日に捨ててしまいました。
 折角父母の愛情の籠もった衣類を捨てるのは、忍びない気持ちもしましたが、やがては否応無しに捨てられる運命なのですから、家族に後始末の煩わしさを残さないように、自分が処理するのが一番だと、片付けてみてそう思いました。
 私の実家は古い歴史を持っていましたので、毎年一回行う虫干しの日には、昔の花嫁衣装や、誰が着たのか解らない、何枚もの着物や打ち掛けや帯・上下(かみしも)・等々を、土蔵の二階にあった「長持ち」から取り出して、順々に虫干ししました。広い部屋の襖(ふすま)をはずして家中開け放しにして、柱や鴨居の鈎に麻綱を張り巡らして、満艦飾に乾しました。
 手伝いをさせられた私には、花嫁衣装や美しい着物類は、きらびやかに見えて、とても楽しかったことを覚えています。
 和服の扱い方やたたみ方など、そんな折りに母に教えて貰いました。
 昔のことですから、花嫁衣装も、白無垢一式(長着や帯や打ちかけまで白)・赤一式・道中着(エンジや紫などの色に裾模様の入ったもの)・黒の江戸褄等々があり、どのような時に誰が着たのか、年配の人の着る柄の打ち掛けや丸帯もありました。それらは鳳凰や松や鶴などおめでたい柄が織り込まれた西陣織りなどでした。
 和服は、私には格好な遊び着になって、厚いふき(袷の裾や袖口の折り返しに綿を入れて脹らませる)の表地との調和の美しさや、裾のお引きずりの優雅さに引かれました。干す前に手を通して、まだ背丈の低い頃でしたから、みなお引きずりになり、大奥のお女中のように、楽しみました。但し干した後は、それは厳禁でした。
 何年か前に、私の実家も住む人が居なくなって長い年月空き屋になっていましたが、とうとう家も土蔵も壊すことになりました。きょうだい達が、気に入った品を引き取りましたが、残った品は廃棄物として処分されました。
 今は跡形も無い草むらになっています。祖先のお墓だけは毎年家族でお参りに行きますが、駅からタクシーを頼んで往復して、帰りに宅地跡に回って貰います。駅と高速道に近いので、比較的新しい家も建ち、役所や学校も次々に近くに寄ってきて便利になったのですが、往時の面影が薄れていって、私には次第に縁遠い地になりつつあります。
 誰しもこのように身の回りの整理をして、お別れの準備をして行くのでしょう。様々な人々に出合い、お世話になり、幸せな日々の積み重ねであったことに感謝して、これからも一つ一つ丁寧に終わらせて行きたいものだと思っています。
 

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