ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

五十年目の鯛

2011年04月29日 | 随筆・短歌
 私達夫婦は、今年結婚して50年目になりました。記念日には、家族だけでささやかに金婚を祝いました。何かに付けて、ご馳走が食べたい私ですから、今はもう目にすることがなくなった、あの30㎝位の鯛の生菓子を食べたいと思い、比較的近くの大手のお菓子屋さんに、「今も鯛の生菓子がありますか」とお聞きしました。すると「注文して頂ければ作ります」とのことで早速注文しました。
 私達が結婚した頃は、私達の地方では結婚式と言えば、どの家庭でも必ず30㎝位ある鯛の生菓子を引き物に付ける習慣がありました。ですから鯛の生菓子を食べる機会は結構あったのです。勿論私達の結婚式は、引き物のお菓子は鯛でした。最近は結婚式も洋菓子が多くなり、せいぜいで真ん中にお目出度い生菓子が何個か入り、両側がブランデーケーキのようになって、鯛 一匹というのは目にしたことがありません。
 もう20年以上前の親戚の結婚式にも付きませんでした。無いと思っていた鯛があるとお聞きして、とても嬉しく思いました。受け取りに行った時、お店の人が箱を開けて見せて下さいましたが、矢張り30㎝位の大きな鯛でした。昔と違ったのは、鯛の背中の赤く染めたところに金粉が付いていたことです。
 家に持ち帰って、早速頂ました。甘さが控えられていて、賞味期間が三日とありましたが、三日目になっても柔らかく、味が全く落ちませんでした。家族だけでは食べ切れまいと思ったのですが、みんな甘い物には目のない方なので、家族で3日間かかって一匹全部食べてしまいました。昔は、砂糖の少ない時代だった筈なのに、だから尚更なのかもしれませんが、とても甘くて、その上翌日にはもう固かったと思います。技術の進歩はこんなところにも及んでいるのだと思ったことです。
 さて、当日の夕食は車で20分程の所にある懐石料理のお店で、膝が痛くて座れない私の為に椅子席の部屋を予約して、美味しい料理を頂きました。「是非自分に祝わせて欲しい」との息子の言葉に甘え、夫婦して花束を貰ったり写真を撮ったり、自慢になって恐縮ですが、温かく和やかで楽しい祝賀会をしてもらいました。こんなに幸せな気分になったのも最近では珍しいことでした。
 娘と息子から銀婚式の年には、25本の赤い薔薇を貰った話が出て、あの時は東京にいた娘から息子に電話があり、近くの大学生だった息子が、姉に命令されて準備して手渡したのだと言いました。そう言えば、私は職場の同僚と、ある温泉ホテルで一泊していたのですが、夫から電話が入って、とても嬉しく思ったことを思い出しました。今は亡き娘を偲んだり、幾多の悲しみや苦しみを越えてこんな日が来るなんて、と感激ひとしおでした。
 織田信長は、炎上する本能寺で「人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を受けて滅すせぬ者のあるべしや」、と平家物語の幸若舞「篤盛」を歌いながら舞ったと言われていますが、「下天」とは、天界の最下位である「四天王天」のことで、その一日は人間界の五十年とされるそそうですから(倶舎論・・・インドの仏教論書)人間の五十年は下天の一昼夜という訳で、人間界の五十年は全く夢幻のような一瞬に過ぎないほど儚いものだと歌っているのです。
 すると私達はその一瞬を共に暮らしただけであり、過ぎてみれば本当に短い年月でした。けれどもこうして、DNAをバトンタッチして逝けるのですから、苦しみの多かった分、それに見合った幸せを手にしてきたと言えるでしょう。
 この下書きを書いている日は、奇しくも亡くなった娘の46回目の誕生日に当たります。33歳で亡くなりましたのに、今以て一度も欠かさずに誕生日を家族で祝っています。何だか何時も近くにいて、私達を不幸から守ってくれているように思われてなりません。時には娘の体温の様な温もりを身近に感じることがあります。亡くなったとはいえ、毎年誕生日を祝うのもそんな感覚を持っているからなのです。
 この度の震災で身元の分からない人の衣類を、手掛かりにするために洗って乾かしているというニュースを読みました。まだ1万名以上の人が行方不明で、身元の分からない遺体も多いと聞きます。探しておられる方達はどれ程辛いことでしょう。少しでも手掛かりになって、身元が分かりますように祈っています。
 様々な理由で永遠に金婚式の来ない人や、来たのに祝えずにおられる方達を思うと辛いのですが、誰でも与えられた今の一瞬を大切に生きるしかないと、そう考えているところです。
 年々離婚率が高まる現代にあって、50年添い遂げる夫婦は珍しいと言われる時代がやがて来るのでしょうか。おめでとうの一言でも良い、温かい言葉を掛けて貰ったり掛けて上げられる、そんな家族が増えて欲しいと願っています。

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国民の総力を信じたい

2011年04月22日 | 随筆・短歌
 今更なのですが、今回の地震と津波の経験から、地球は生きていて私達と同じように呼吸していることを強く感じました。遥か何億年も昔に大陸は一つだったのに、長い年月をかけて、ユーラシア大陸や南北アメリカやアフリカといった陸地に別れて行きました。一年に数㎜でもずれて行くと、遥か長い年月の間には、陸が海の上を浮いて動いて行ったような錯覚さえ起きるくらいです。それが地震という現象で一気に動いたのが今回でした。
 東北の沖では海底がかなり隆起したそうですが、一方満ち潮になる度に海水が溢れる程に地盤が沈下した沿岸地域もあって、今だに津波の水が引かないような、お気の毒なところがあります。有明海のように海さえ干拓する技術を持っている日本ですから、全国の土木工事の関係者が集まれば、短期間に揚水機で水を汲み上げて、潮水を引かせる土地改良事業は出来る筈だと思います。
 その為の費用は、矢張り国民全体が出し合って、まかなうことが大切でしょう。以前はテレビを付ければ、政府や東電が後手だったとあげつらうばかりの原子力の専門家が多く、原発事故も最悪の状態を予想して、いたずらに恐怖をあおるような放送が多く見られました。やっと最近は「今日はこの様な進展がありました」ということが放送されるようになって、私はホットしています。
 評論するばかりでは何も解決出来ません。既に起きてしまった地震や事故について、如何に悔やんでも、時間は逆回し出来ません。これが最善の策だという方策があるのであれば、それを東電や政府に教えてやるべきであり、こんな時に自分の手を汚さずに、批判ばかりを繰り返している政治家や専門家は、自らの責任を放棄しているとしか思えません。
 阪神淡路大震災の時のことを例に出して、やり方がまずいという人がいますが、地震の規模も強度も全然違いますし、津波も伴いました。それに、原発事故という未曾有の大事故が加わっていてます。もはや阪神淡路大震災を引き合いに出すこと自体がナンセンスと云っても過言ではないでしょう。
 今求められているのは、無責任な立場に身を置いた評論家的な意見ではなく、日本の将来の為の建設的な意見であり、その行動なのです。老人の私には、義援金を出したり喩え消費税が10%になり、所得税が多少引き上げられても、税金を納めて復興を応援することしか出来ないのですから、現在の生活をもっと切りつめ支出を押さえてでも、少しでもお役に立ちたいという気持はあります。
 以前から消費税を上げるという意見が出て、国民はこの国の大借金を何とかするためにそれも仕方ないと半数以上の人が言っていたはずですが、この大災害の復興の時期に、復興の為の消費税アップを反対だという政治家がいるのはなぜなのでしょう。もし消費税でないとしたら、変わってどの様な方法で復興の財源が確保出来るというのか、是非とも明らかにしていただきたいのです。そこをはっきりと明示していただかないと、責任ある政党とはいえず、今日の大借金王国にしてしまった責任を、今日の事態になってもまだ反省していないように思われて、暗澹たる気持になってしまいます。何十年も重ねて来た大借金が無ければ、復興の為の財源に今ほど苦労をしなくて済んだでしょうに。 
 一方被災者の中には、国や自治体が何かをしてくれるのを待つばかりではなく、被災地にあって、被災者が自ら立ち上がり、避難所が自分達の手で快適に運営されるように、幾つかのグループに分けて、掃除とか、食事の手伝いとか、伝達の仕事とかに活躍しておられるというニュースがありました。更に地域によっては、行政の工事開始を待たずに、地域の人達が総出で道路を修理したり、がれきの撤去をしたりしたとも聞いています。これこそ頼もしい精神の復活です。
 イギリスの哲学者ジョージ・ルイスという人は、「悲しみのための唯一の治療は、何かをすることだ」といっています。心のケアを、と云われますが、何か一心に熱中出来ることがあれば、それがもっともよい癒しになると私も思います。大人も子供達もそのようなものを見出していけるようにと願ったりしています。慰めのことばを掛けてあげる事、寄り添ってあげることも大切でしょうが、有形無形の何かを共に作ったり、スポーツや音楽をする機会を持つことも、効果的なのではないか、と考えています。
 そういう観点からも、被災者の方達が同じ被災者の為に、自ら行動したことは、お互いに運命共同体の絆を感じさせて勇気も湧き、茫然自失していた状態から、自ずと困難に負けずに立ち上がる力を与えてくれたのではないかと思うのです。とても参考になる出来事であり、熱い思いが湧いて来るのを覚えました。
 「神を雲の彼方に求めるなかれ。神は汝の手の中にあり」とフイヒテが云っています。今私達の手の中にある自分にできることを考えて、努力していきたいものです。批判ばかりしている専門家や評論家には、大いに義援金でも沢山だして頂いたり、建設的な智慧を出して頂きましょう。そして被災地域が復興し、原発事故が一日でも早く解決出来ますように。
 これは人災だという人もいますが、1000年に一回の天災があった為に起きたことでもあるのです。責任の所在の詮索などは後回しにして、これから先をどうしたら良いか、総力で解決するしかないではありませんか。まちがっても震災に乗じて政争や、利権や、お金儲けに走るような卑劣な考えは、持たないでください。中古車が値上がりしていると聞きました。被災者に対してまで便乗値上げをするのかと情けない思いです。
 困難に出会うと、ついその困難の原因を誰かのせいにして、ぼやきたくなるのも分かりますが、こんな非常時には、政党も敵も味方も一体となって団結し、国民が総力を挙げて取り組まなければならない時の筈です。こういう時に日本国民とはどういう行動をとる民族なのか、世界が注目しています。
 広島で原子爆弾が落とされた時、灰燼に帰した土地に、もう何十年も花も咲かないだろうと云われたのに、翌年には草も生え樹も芽を出したと聞きます。私達はそういう世界に例の無い悲劇から立ち上がってきた民族なのです。福島から避難して来た人に、「被爆していないという、証明書を貰ってこい」なんていう役所に日本は何時からなってしまったのでしょう。たとえ被爆していても、抱きかかえて苦労を慰めてあげるのが人間というものではないでしょうか。このような例を見ると、地方分権などまだ100は年早いと云いたくなってきます。
 宇宙レベルで見ると、寝ていた地球がちょっとくしゃみをした程度なのかも知れません。しかしこんな時こそ、人間は小さな小さな存在であり、ましてや弱い生き物であることを思い、助け合って生きて行かなければならないのだと改めて教えられました。現に、一日一ドルで暮らしている国からも義援金が送られてきたそうで、涙が出る位に有り難いことです。せめて日本人は心を一つにして、総力を出しあって力強く立ち上がりましょう。それが助けて下さった人々へのせめてもの感謝の姿でもあると思うからです。

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尊厳ある死を迎えたい

2011年04月15日 | 随筆・短歌
 夫が今年の秋に喜寿を迎えます。この年まで何とか二人揃って無事に過ごして来られたのも、沢山の皆さんに支えられてであることをしみじみと感じています。夫は幼い頃病弱で「この子は成人する迄は生きられないだろう」と云われて育ったそうです。私もその話は良く義母に聞きました。文部省に勤めていた義父が、樺太(現サハリン)に赴任して、住んだ官舎に元結核の人が住んで居たのを知らなかったとかで、小児結核に罹り、小学校の二年から四年までは、殆ど学校を休んでいたといいます。「40歳迄は生きられないかも知れない」と義母は時折心配しましたが、その頃私達は「何も怖くない時代」を生きていましたし、子育てと仕事に夢中で、さして気にも留めませんでした。心配性の義母は、更に私の息子が「ランドセルを背負う迄生きていたい」とか「中学生姿を見られたら」とか云っていましたが、とうとう娘も息子も大学生になるまで元気でいてくれました。お陰で私達は育児を手伝って貰い、大いに助かりました。
 思えば今から38年前に、私の父の喜寿の祝いがありました。発起人は長兄です。八人の子供を育てた両親でしたから、子供達がそれぞれ夫婦して集まり、孫も一同に会したのですから、大層な人数になりました。会場は両親が毎年初夏と秋に、一週間位ずつ保養の為にお世話になっていたある高原のホテルでした。
 家族毎に一室取って、大きな部屋で会食しました。子供と孫に囲まれて、「祝喜寿」と書かれた紙を長兄の長男が持って両親の脇に立ち、一同満面の笑みで撮った記念写真が、今では良き想い出となって残っています。
 9月1日の生まれだった父ですが、少し早くして夏休みを利用しました。私達は、その温泉より更に奥の高原で、四人家族で一泊のキャンプをしてから、その帰りに合流しました。昔から人生の節目として、還暦や古稀を祝いましたが、古稀は文字通り古来希な歳になったことを祝ったわけです。
 吉田兼好が「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」と云いつつも、実際は享年68とありますから、当時としては長生きの方であったと思われます。お釈迦様も80歳まで生きておられました。現在は喜寿ばかりでなく、80歳の傘寿、88歳の米寿、99歳の白寿などを祝います。
 現代医学が進歩して、長生きするようになりました。矢張り長生きは幸せというべきなのでしょうか。兼好法師のように、辱の多い人生をいたずらに重ねるだけが能ともいえませんが、そこは天命ですから、出来るだけ足腰を鍛え頭を使って、死の直前まで元気で過ごしたいものだと願っています。
 白状しますと、私達夫婦は最近日本尊厳死協会のリビングウィルに加入しました。初めは70歳になったら加入しよう、と云っていたのですが、ついつい延び延びになり、先日友人から「とうに加入した」と聞いて、この機会を逃さずに、とばかりに申し込んだのです。
 私の叔母は93歳で亡くなりましたが、脳梗塞で倒れてからの二年間は、ベッドに寝たきりで経管栄養となり、話すことも出来ず目は開くのですが、意識もあるのかどうか解らないまま生きていました。その様子を見て、これでは叔母もその家族も両方とも気の毒だと思いました。私はそんな状態で生き延びて、家族に迷惑をかけたくないのです。
 作家の遠藤周作も、最後は、沢山の管を外してあげたら、とても安らかな顔だったと夫人が書いています。人間の尊厳を守るのも医療ですが、最近は訴訟が多くなったせいか、本人が生前に自分の意志を自分で書いて署名捺印してあっても、「本人の書いたものか確認が出来ない」となかなか納得して貰えず、人工呼吸にしてしまったと、私の友達が云っていました。何と乾ききった世の中になってしまったのでしょう。死んで行く人の心さえ信じて貰えない世の中になってしまったのかと、とても哀しい思いで聞きました。この様な場合に備えて、元気な内にしっかりと公式な書面にしておきたいと考えていましたので、今はホッとしています。
 長く生きてきますと、若い頃には考えが及ばなかったことにも気付いたりして、歳を取ることも悪いばかりではないと思うところもあります。何より感謝することが多くなりました。今のままで充分幸せだと思えるようにもなりました。それはとても満ち足りた気分にしてくれるのです。もしこれを読んで居られる方にお若い人がいましたら、是非私の言葉を信じて、老いることを悲しまないでください。
 そうは云っても、老いることに対する不安が無いとはいえず、無常な世の中ですから、生きている限り何が起きるのか分かりません。「放射能汚染で東日本に住めなくなるかも知れない」と書いてある本をつい最近読みました。そういうときが来たら、そうするだけで、ゆらゆらとのんびりと暮らして行こうかと思っています。この度の震災被害者の映像を見ていると、年老いた方の中に運命を容認しているかのように、悠然とされている方を見かけます。私もそのようでありたいと尊敬の念をもって眺めています。

 山繭の糸なるやうな雨が降り老いゆく不安の癒されてゆく

 ゆうらりと陽が登りきて菜の花を照らせば体一杯の春(全て某紙に掲載)

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ふる里の祭りも自粛でしょうか

2011年04月08日 | 随筆・短歌
 地震と原発のニュースに明け暮れている毎日ですが、余りに悲惨な映像や、怖いよ怖いよという原発のニュース解説に身も心も疲れ果てて来ました。そういう状態の中にあって、季節は確実に移っていて、気付かぬ内に春の花が開いていたりします。被害に遭われた方達や、その対応に日々追われている人達には季節の移ろいなど関心を持つ心の余裕など無いことでしょう。しかし国民全体が縮こまってしまって、全くの沈滞ムードで過ごすことが、被災者や国にとって良いことだともいえないように思います。
 災害当初、即刻家族で義援金を出しましたが、その後家計を預かる者として、毎日幾ばくかを、再びの義援金の為に貯めています。復興には何年も掛かり、一回の義援金で済むとも思えません。ごく僅かでしかありませんが、今日も一日何とか健康で過ごせたことへの感謝の気持を込めて、今まで様々な形でお世話になった社会への恩返しに、と思っています。
 それにしても被災者の皆さんは、どの様なテレビ番組をご覧になっておられるのでしょうか。直接の被害もなく、健康であった私でさえ、これだけ悲惨な情景を毎日毎日見ている内に、元気が無くなったのですから、同じ映像を見続けておられるとしたら、心の傷は深まるばかりで、今後の不安は一層増大するのではないかと案じられます。
 時折は、昔のことでも想い出したり、咲き始めた花に心を寄せたりして、ストレスから心を解放してあげることが大切ではないかと思うのです。世界からの励ましのメッセージの特集とか、心を慰める音楽とか、人間の優しさに心を打たれる名画とか、もっと心を癒し元気付けてあげられる放送が必要な気がします。
 そんな気持もあって、今日は少し現実から離れて昔の想い出にしたいと思います。間もなく私のふる里の祭りの日がやってきます。もうお墓参りしか縁の無いふる里ですが、毎年きょうだいの誰かから「間もなく祭りの日が来るね」とか「今年の祭りは良いお天気だったね」とかメールが届いたりします。
 私が小学校に入学する前に、空襲を逃れてふる里に戻って住むことになったのですが、小さな集落にそれぞれにこぢんまりした神社があり、小さいながら舞の舞台も付いていました。宵宮からお店も出て、僅かなお小遣いを握りしめて、おもちゃを買ったりしました。祭りの当日は、その舞台で鯛釣りとか、ヒョットコなど、集落の踊り上手が、毎年踊っていました。
 釣れそうで釣れない鯛釣りがなかなかに面白く、最後には舞台の下に控えている人が、鯛釣りを舞っている人の垂らした針の先に、描かれた大きな鯛を付けてやっていました。釣り上げた鯛を肩にして、意気揚々と引き揚げていく鯛釣りの様子に、上手いなあと何時も満足して観ていたものです。
 ヒヨットコのひょうきんな事と云ったら、もう笑い出したら止まらないという状態でした。鄙びた娯楽でしたが、心の温かい想い出ではあります。
 ふる里の家から1.5キロ程離れた、私の中学校のある町(現在はどちらも市になっています)では、稚児の舞や現在では無形文化財の大人の舞もあり、それは美しく優雅な一日が楽しめます。母の妹(叔母)が住んでいましたので、良くおよばれして、終日神社へ詰めて楽しみました。
 私は祭りには決まって出る、あのフワフワとした綿飴がとても食べたかったのですが、両親が大道で造る綿飴は不衛生だといって買って貰えませんでした。ずっと長い間とても残念に思っていたものです。後に私が親になって、私達の子供をお祭りに連れて行くようになると、早速綿飴を買ってやり、私も三十歳を過ぎてから、生まれて初めて食べて見ました。その頃には衛生にも気を遣い、周りをビニルで覆っていました。フワフワな飴は、なめると瞬く間にしぼんで、大して甘くもなく、憧れていたものとは大きな違いでした。今考えてみると可笑しいような我ながらいじらしいような懐かしい想い出です。
 現在の住む市では、三日ほどに渡って大きな夏祭りのあるところが近くにあって、子供達と毎年出かけて、決まって金魚掬いを楽しんだり、お化け屋敷に入って、さして怖くもないお化けを笑ったり、混雑している夜店を冷やかして歩きました。掬って来た金魚や、買ってきた緑亀は、毎年幾日か育てている内にみんな死んでしまいました。子供達はお墓を造って埋めてやり、墓標を建てて花を供えたりしました。そういった小動物のお墓には、今もヒヤシンスが植えてあり、丁度今紫の花が美しく咲いています。
 この金魚や亀や生まれたばかりのひよこなど、私の子供達が世話をしたことに何かしら縁のようなものを感じて、ヒヤシンスが咲くたびに綿飴のこと、夏祭りの風景、そして無邪気な顔に目を輝かせていた幼い日の子供達の面影が浮かんでくるのです。

 祭りにはいつもヒョットコ踊りゐし剽軽(ひょうきん)なりし人も逝きたり

 香具師(やし)の口上夜店の楽しみ大花火同郷の夫と偲ぶふる里

 篠笛の甦りくる里神楽(さとかぐら)笑ひさざめく時の幻 (全て某誌、紙に掲載)

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たとえ住民のがんが手遅れになろうとも

2011年04月02日 | 随筆・短歌
 これからは地方分権の時代だ、と主張する首長が増えて来ました。あちこちからその意見の賛同者が声高に唱えているのを聞いていますと、私はいささか不安を覚えます。振り返ってみますと、明治維新は何故起きたのでしょうか。中央集権となり、廃藩置県がおこなわれたのは、藩によって格差が大きくなったことも一つです。勿論諸外国から日本を守ったり、鎖国状態から脱却して国を開き、貿易を広く行う必要があったからでしょう。
 中央集権になって百年以上が経ちますが、現在では、全国何処でも同じような医療や福祉が受けられ、日常生活に欠かせない道路や交通網が発達しました。財力のある都府県だけが発展するのではなく、全国が平等に発展するように計られて来ました。
 国民全体のレベルが上がると、国政に対する不満も出てきて、特に地方自治体の首長は、地方のことは地方に任せよ、と主張するようになってきました。
 ところが過日たまたま「日本のがん医療を問う」(新潮社2005年)という「NHKがん特別医療班」のレポートを読みました。そこに今まで気も付かず、ましてや考えても見なかったことが書いてありました。次に少し引かせて頂きます。
 「1998年、集団検診の補助金は、使い道を限定しない地方交付税交付金として配分されるようになった。これは補助金の一般財源化と呼ばれる措置である。それまでの補助金は癌検診に限って使うことができるもので、受診者が増えれば、その分支給額も増える仕組みだった。しかし、地方分権の流れの中で、集団検診は、国が補助する事業から市町村がすべての裁量を持つ事業に変わった。つまり、自治体はがん検診が必要ないと判断すれば、がんの集団検診を行わなくてもよいということだ。検診の為に使われていた金が、地域によっては道路や橋の建築費として使われることを事実上認めたものだと専門家は指摘する」とありました。
 そこで、東京都の北区では、2004年に乳がんの検診を抽選制にして、外れた人は受けられないことになったとありました。これは大変なことになっている、と私は感じています。我が家の周りでさえ、数人が特定検診でがんが見つかって手術し、いずれも早期がんであった為に完治しました。もし私達の市が東京都北区のようであったとしたら、この人達の何人かは、手遅れになっていたことでしょう。仮に市政の方向がそのように少しずつ変化して来たとしても、市民はきっと気付かないのではないでしょうか。
 首長や、議員の考えによって、大きく地方自治体の行政が左右されるようになる訳です。例年2~3月になると、予算消化の土木工事が行われることは、皆さんもご存じだと思いますが、今年は、未曾有の災害があったにもかかわらず、矢張り予算消化の工事が到るところで行われていました。ほんの少しの舗装道路の傷を治す工事などがそれです。
 狭い地域内のあちこちで、きょうは此処、明日は此処、と行われていました。ほんの少し掘ってはまた埋めて舗装するのです。これは毎年の事なのですが、今年は特にこの予算消化工事を止めて、そのお金を急いで市町村や県や国で取りまとめて、災害に遭った県に廻したらどうなのだろうと思ったりしました。以前から予定の工事だったと云われるかも知れませんが、一昔前は、冬の間にスノースパイクタイヤですり減ったデコボコの道路もなかなか治りませんでしたし、夏は舗装が太陽熱や車のタイヤの摩擦熱で溶けて、矢張りデコボコになりました。それが当たり前の状態だったのですが、今は直ぐに治っています。  
 国民の辛抱が足りなくなったのではなく、土木事業にお金を注ぐという思考が根強く支配しているとしか思えません。(今回の災害のような場合は別です)全く利用価値の少ない箱物も近年沢山出来て、その建物が存在する限り、維持管理に莫大のお金が必要になっています。
 ひも付き予算では行政がやりにくい、といいますが、今回のような災害でも、国の大局からの構想によって、どの県も平等に復興して欲しいと思うのは私だけではなていでしょう。しかし一方、平時にあっては、利権を伴う土木工事に沢山のお金が注がれて、住民の健康維持がおろそかになったり、福祉がおろそかになるのは、如何なものでしょうか。
 もし、どうしても地方分権というのなら、その権限に恥じないように、首長や議員はしっかり調査、研究を怠らないようにして、真に住民の為の行政をして頂きたいのです。
 がん検診のように、いつの間にか、土木事業にすり替えられる仕組みになることが、地方分権だとすれば、どう考えても間違っているのではないでしょうか。
 ここまで社会は成熟して来ましたが、まだまだ誰の為の行政をやっているのか目を離せない状態のようです。情けなくもあり、哀しくもあることですが、私達もまたしっかりと見聞きし、判断して、常にどうあるべきかを考えつつ選挙に望まなければならないと考えています。

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