ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

私の生き方を変えた恩師

2009年03月31日 | 随筆・短歌
O女子大の食物科を卒業されて、或る国立大学の教授であり、医学博士でもあったA先生との出会いがありました。40歳に近かった私は偶然その先生に教えて頂く機会に恵まれたのです。とても研究熱心な先生で「一体私は今まで何をしてきたのだろう」 と反省させられました。
 それからというもの私は目から鱗が落ちたように、勉強に励みました。学べば学ぶ程興味が湧き、学ぶ楽しみを知りました。
 丁度夫が単身赴任の最中でしたので、私は育児をすっかり義父母にお願いして、子供達には随分寂しい思いをさせてしまいました。何しろ早朝にでかけ、帰宅は九時頃でしたし、時として11時を過ぎる事もありました。親としては全く失格だったと反省しています。
 私はすっかり別人になったように、学問に対しても仕事に対しても考え方が変わりました。たった三年間でしたが、先生の学問に対する姿勢とか、教育に対する考え方とか、折りに触れての先生のご教示が大変大きな影響を私に与えてくださいました。
 私的にも可愛がって頂いて、良くホテルのレストラン等で、美味しいご馳走を頂きました。人生にはこんな出会いがあるのだと感謝しましたし、今でも深く敬愛し、尊敬しています。もしその先生にお会いしていなければ、その後の私も、退職後の今の私もありません。
 生涯が、学習の良い機会だと云うことも、その先生に教えて頂き、それが生涯学習に取り組んだり、こうしてブログを立てたりする原動力にもなっています。
 一生の宝物を頂いたようなもので、どうお礼申し上げて良いのか解りませんが、それは又、今後どの様に自分を磨いていくか試されているともいえます。私の一生涯の課題です。
 

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四国巡礼の旅 2

2009年03月29日 | 随筆・短歌
 初回の四国遍路を終えた時、もうこれで四国へ行く事は無いと思い、白衣を洗い納経帳と一緒にし「先に死んだ方が自分の白衣と納経帳を棺に入れる事にしましょう」と夫と約束しました。
 ところが一年もしたら、又四国遍路に出かけたくなりました。「お大師様と一緒」の祈りと癒しの道のりが何とも心地良く魅力的で、又行きたいという気持ちがどんどん大きくなりました。夫も全く同意見でしたし、二年後の春には再び四国遍路に出かけました。
 徳島入りしてから、薬王寺へ行き、女厄坂を登り、33歳の女の大厄の年に亡くなった娘を追悼いたしました。そこから電車で甲浦(かんのうら)迄行きました。途中海南町を通った時、夫が急にに学生時代の想い出話を始めました。大学の同級生に海南町の人がいて、同じ下宿で仲が良かった人だけれど、ある日の夜中に突然土砂降りの雨の中を飛び出して行ったかと思ったら、暫くして隣の彼の部屋から泣き声が聞こえて来たといいます。 驚いて襖を開けたら、「死のうと思って出たのだが、死ねなかった」と、ずぶ濡れの着物のまま号泣していたといいます。明るい人だと思っていただけに、本当に驚き、何を悩んでいたのだろう、と呆然とするばかりだったそうです。
 「彼はこのような明るく穏やかな町に生まれ育ったのか」としばし昔の同級生に思いを馳せていました。以後彼は立ち直って、卒業後は紆余曲折も有ったようですが、やがて自分で会社を立てて成功し、後にその業界のトップになったといいます。「どんな苦しみがあったのか解らないけれど、克服したことで人間が大きくなり、成功したのだろう」としみじみと懐かしみ、南国の太陽と美しい浜辺を眺めながら、私に話してくれたのでした。
 甲浦からはバスで室戸岬を目指したのですが、途中に空海修行の霊地とされる御蔵洞(みくろど)があり、私達はそこへ是非行きたかったのです。バスターミナルの売店に親切な叔母さんがいて、バスの運転手さんに「このお遍路さんは御蔵洞へ行きたいそうです」と云いつつ何やら話しかけていましたが、バスが御蔵洞の前に来ると「お遍路さんここですよ」と停留所でもないのに、運転手さんが降ろして下さいました。
 そんな親切を頂きながら、最御崎寺(ほつみさきじ)の登り口にたどり着きました。険しい登り道は誰も歩いて居らず、大きな石がごろごろしていて、濡れた地面が滑って転びそうでした。汗を拭き拭きやっとの思いで登り詰めると、寺にはとても沢山のお遍路さんがいました。皆貸し切りバスで上がって来た人達でした。室戸岬の灯台から海が良く見えて、お参りを済ませた私達を慰めてくれました。
 下りも同じ道を下り、室戸岬の海岸を一周しました。見たこともない大きなサボテン類が生え、流石に南国だと思わせられ、台風が来る度に耳にするこの地を改めて眺めました。何泊かしつつ幾つかのお寺を巡って高知へ出て、四万十鉄道にも乗り、宇和島・松山を巡り帰って来ました。とても疲れましたが、今回も素晴らしい想い出の四国遍路の旅になりました。
 
遍路終へてこれが最後となるらむか棺に入れむと白衣を洗ふ
薬王寺女厄坂のぼりゆく若くて逝きし娘(こ)を偲びつつ
肩に髪に名も知らぬ花しきり降る最御崎寺のへんろころがし
                       (実名で某誌に掲載)

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奇跡の生還

2009年03月27日 | 随筆・短歌
 義父が樺太に抑留された事は以前書きましたが、家族思いの義父は、抑留生活に耐えかねて、樺太から脱出を試みたそうです。数人まとまって漁師さんにお金を払って頼み込み、闇夜に漁船を出して貰って、北海道を目指して船を出したのです。
 二度脱出を試みたのですが、二度とも失敗に終わりました。一回目は間もなく出航というところでチャンスを逸してしまったそうです。
 二度目は無事に出航しましたが、もうじき北海道との中間海域というところに来た頃、船の舳先が割れて、海水が入って来たそうです。必死になってみんなで海水を汲み出しながら、まだまだ遠い宗谷岬を目指したのですが、そのうちだんだん疲れてきて、海水は増えるし、途方に暮れ始めました。このままこの海で藻屑になってしまうのか、と思った時、突然サーチライトが照らされて、拿捕されてしまいまったそうです。直ぐにロシア軍艦に引き揚げられて、樺太の監獄へ直行だったと云います。
 しかしあの時、もしロシア軍に見つからなかったら、間違いなく海に沈んで還らぬ人になっていたといいます。奇跡的に見つかったが為に助かったのです。刑務所の待遇はひどいものだったといい、厳しい強制労働が待っていたのですが、やがて赦されて日本へ帰る事になりました。住んでいた家は形は残っていたものの、中の家具は空っぽで、着物や鍋、釜まですっかり持っていかれたといいます。
 家族の待つ田舎へたどり着いた義父が持って来た物は、自作のキャベツ一つと夫が子供の頃使っていたおむつ数枚で、それだけをリュックに 入れて帰ってきたそうです。何も無かったから、としか言わなかった義父を、同情しながら義母は私に繰り返しその話をしてくれました。樺太に残してきた様々な思い出の品々を挙げながら残念そうに、でも家族全員が生きて帰れた事に感謝していました。
 義父のリュックは義父が亡くなるまで使っていて、私も良く覚えています。命がけで引き揚げて来た時の髭だらけで目だけぎょろぎょろしている写真を、長く自分の部屋に飾っていました。きっとあの時の思いを心に刻み、現在の平安を感謝していたのでしょう。
 それにしてもこんな奇跡があったという事に、私も深く感謝しています。そうでなければ今の私達の平安も無い訳ですから。





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忘れられない恩師

2009年03月26日 | 随筆・短歌
卒業の季節がやって来ました。誰にも想い出深い恩師はおられると思いますが、私も数人の先生を挙げることが出来ます。取り分け今になってしみじみと思い出す一人は、小学校時代のS校長先生です。
 厳しいことで有名だったS校長先生は歳を重ねるに従って、ますます懐かしい先生です。直接授業を受けた事はないのですが、確か三年生のある時、出張で留守の担任の先生の代わりに、工作の時間に出て来られました。その日は竹を使った水鉄砲を作る事になっていて、私も祖父に30㎝くらいに竹を切って貰って、わくわくして授業を受けました。校長先生は、私の竹を一目ご覧になって、「ほう、これはお爺さんにでも切って貰ったのかね」と仰いました。
 私の祖父は、地主で銀行に勤めていた事もあって、校区では有名人でした。小学校の行事にも顔を出したり、小さい学校ですから、みんなが知っていたので、とても恥ずかしく、思わず「いいえ」と云ってしまいました。
 すると校長先生は一寸考えられてから、「じぁあ此処を切って見なさい」と竹の端から3㎝くらいの所を指されました。内心慌てた私ですが、仕方なく云われるままに、ノコギリで切り始めました。でもノコギリなど普段使ったこともない私には、竹を切るのは至難の技で、ノコギリは竹の上を滑るばかりで少しも切れなかったのです。
 汗を流して切ったのですが、どうしても上手く切れません。その時の私は後悔で一杯でした。何故ハイと素直に云えなかったのか・・・と。暫くして来られた校長先生は、ギザギザの切り口を見られたのですが、「もうよろしい」とだけ仰って何事もなかったように授業をされたのでした。
 「嘘をついてはいけない」と身をもって教えて頂きました。
 もう一つは、学校の畑で私達が作ったサツマイモを、茹でて全校で食べた時の事です。お昼に食べても沢山余って、各自家へ持ち帰る事になりました。ところが放課後みんなお腹が空いて来たので、同年の女子が集まって礼法室でこっそり食べていました。その時です。通りかかった校長先生に見つかって、「こらっ」と大声で叱られ、みんな頭を一つずつ叩かれてしまいました。先生に叱られた経験のなかった私は身の縮む思いをしました。
 ひとしきり諭された先生は、私達を用務員室へ連れて行って、此処で食べて帰りなさい、と仰いました。
 その出来事は後々まで忘れられず、「厳しかった先生」として、心に残っていたのですが、成人した後に、あの時叱ってくださった事にとても感謝するようになりました。
 両親にも叱られた覚えは余り無かったので、その時はひどくこたえたのですが、人間は叱られて始めて叱られる人の立場を理解出来る様になる、と云う当たり前の事に、気づいたのです。そして叱ってくださった先生の心の奥底に、温かい愛情を感じられるようになって、「偉大な教師であった」と思うようになり、叱る事の大切さ、叱られる事の大切さ、をしみじみと思うようになりました。
 老齢になった今でも、あの時の厳しく、かつ温かかった先生が、ひときわ忘れられない恩師として心に残っています。



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囁き小路

2009年03月25日 | 随筆・短歌
もう十数年、朝の内にウォーキングして、帰り道にその日の買い物をするのが、日課になってしまっている私達ですが、私が名付けた「囁き小路」という小道があります。勝手に私達がそう呼んでいるだけで、正式に認められた名前では有りません。
 其処は人一人が両手を広げて歩けば、左右の家の生け垣に手が触れそうな狭い道です。昔の集落は、きっとリヤカーが通ればよかったのでしょう。生け垣に挟まれた道は真っ直ぐではなく、少し曲がっているのですが、四季折々に花が咲き、ひっそりとした家々ですが、庭の手入れの良い家や、盆栽が並んでいる家、直ぐ手の届く処にお勝手の窓がある家など、何処か生活の臭も漂っていて、とても好きな通りです。
 いつ通ってもひっそりとしていて、人とすれ違う事は先ず有りません。車が通らないので歩くには好都合ですし、雰囲気がとてもいいので、表通りで買い物が無い時は、「囁き小路をいこうか」となって、少し遠回りしても歩きます。
 今は家の前を車が通らないという事は不便な事ですが、約三百メートルの短い区間で、そこだけひっそりと大切に保存されているような小路なのです。最近は住宅の機密性が高まり、生活臭が漂ってくるということが少なくなりましたが、そこは時としてカレーの香りが漂ったり、サンマを焼く煙が漏れて来たり、少しばかり時間をさかのぼった感じがします。皆さんの住んでおられる所にも、探せばきっとそんな小路はあるかも知れませんね。
 心の安まる郷愁の小路です。

   囁き小路と我が呼ぶ細き裏小道ほのかに漂ふカレーの香り
                       (実名で某紙に掲載)


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