ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

未病対策

2013年01月25日 | 随筆・短歌
 団塊の世代が高齢になり、医学の進歩で長生きする人が増え、高齢者の占める割合がぐっと増えました。喜ばしいことではありますが、同時に医療費の増加が問題になって来ています。
 私はなるべく医療機関にかからなくてもよいように、日頃から健康には特に気をつけています。基本的には、野菜の献立を多くして、肉より魚を中心とし、塩分は可成り低く抑えています。そして運動ですが、これは毎日のウォーキング40分に、加えてフィットネスジムへ週二回通っています。ジムへ行かない日は、ウォーキングの他に家で約20~30分のストレッチをします。負荷を掛ける為のチューブや、重り用の器具やボールなど、簡単な用具も整って来ました。
 数年前に思いがけなく転んで膝に怪我をして、ギブスを嵌めることになったり、失神して救急車のお世話になったりしました。 失神は、単なる一過性の起立性低血圧と言われましたが、不思議なことに、以来体が思う様に動かず、寝がえりも困難になりました。何処も打った訳ではないようでしたが、お布団から起き上がるのも、容易ではなくなりました。布団がとても重くなり先ず撥ねのけて、そろりと横になり、やっと這い出して立ち上がるというようになりました。やがて治るだろうと考えていたのですが、期待通りには行かず、以来階段の登り降りも手すりに掴まって一段ずつ、やっとになってしまいました。
 特に腰を打ったわけではなく、歩くのには支障が無いのですが、しゃがむと尻餅をついて、しゃがみ位置から立ちあがれないし、あお向けに寝ている状態から、すっと体を起こせず、一旦横向きになってからでないと起きられない、という不思議な体になりました。老化による筋力低下もあるのだろうし、そのうちには治るだろうと、ノンビリ構えてフイットネスに通って筋力を鍛えることに精を出しました。
 倒れた時に整形外科の医師にレントゲンを撮って頂いて、異常なしと言われましたが、以来三年間、フィットネスの階段や駅の階段は、エレベーターに頼るようになっていました。
 最近になって、「今日は試しに階段を上ってみよう」という気持ちになり、フイットネスで昇ってみたところ、意外にすらすら昇れたのです。手すりに掴まりつつですが、交互に足が上がるのです。いつの間にこんなに筋力が付いていたのかと驚きました。以来一度もエレベーターに乗らなくなりました。
 二ヶ月ほど前になりますが、病院で検査の為にベッドに横になっていて、「起きて下さい」と言われましたのに、狭いベッドから起き上がるのに、横になろうとしましたが、なかなか起き上がれず看護師さんに手を借りてやっと起きたのです。「これではいけない」と痛切に思いました。
 ジムの階段を自力で昇れるようになってしばらく経ち、つい10日ほど前のことです。思い付いて家で仰向けになり、試しに両肘を支えにして、エイッと体を起こして見ました。すると何と楽に起きられるのです。すっかり嬉しくなりました。知らぬ間に腹筋も強くなり、体のあちこちが鍛えられて来たのでしょう。何時の間にか出来ないものと決め込んで、行動していたようです。
 誰もが、「死ぬ迄元気」を望んでいます。病気の早期発見も大切ですが、それよりも病気にならない為の指導に、行政ももっと力を入れて欲しいと思いました。
 独身で過ごして定年退職された方とか、家族を失って一人暮らしになられた人が、規則正しい生活を維持し、体力を付け、明るい人間関係を形成するために、せっせとフイットネスへ通う姿を見ると、とても良いことだと思うのです。フィットネスではシャワーやお風呂の設備が整っていますので、自宅に帰って一人でお風呂を沸かす必要がないと、喜んで居られた年配の人もおられます。
 私は家族に勧められて通い始めたのですが、もう5年になります。可能な限り続けたいと願っています。先日新聞に、老人の未病対策として、次の三つのことが載っていました。

 1.運動を欠かさず続けること
 2.野菜・果物・魚中心の食事とし、塩分は可能な限り少なくすること
 3.頭を使うこと

1と2は前述の通り実行していますが、さて問題は3です。頭を使おうとすると直ぐに眠くなってしまう癖がありますので、先ずこの癖を治すにはどうしたら良いか、と頭を使っています。

 喜寿となり卒寿を迎へる確立を調べて薄ら氷に立つ思ひあり(実名で某紙に掲載)


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悲しみとの融和

2013年01月16日 | 随筆・短歌
 新しい年を迎えて1日1日と何とか無事な日が過ぎていっています。何でもない事のようですが、これはこの上もなく有り難いことです。誰もが解って居るのですが、あのミレーの「晩鐘」のように、今日一日の終わりに感謝の祈りを捧げている人は少ないのではないかと思います。私は習慣として朝のお参りの時に、「今日一日を頂いた感謝」を述べるのですが、これは形式化しています。
 しかし、何時も平和で幸せという訳にはいかず、誰しも悲しいことにも沢山出会います。とても耐えきれないと思う程の辛さや悲しみに出会っても、何とか生きてさえいれば、やがて乗り越えられます。
 「時間」がその悲しみとの融和に力を貸してくれるからです。特別に時間を自覚しなくとも、過ぎて行く時間は新しい環境(例えば花が咲く等)新しい人間関係(思いがけない人とのに出会い)毎日の生活がもたらす新たな刺激などによって、とらわれていた意識が、何時の間にか周囲に向けられて、次第に悲しみとの融和が図られて行くようです。
 私は最近、人生の終末における悲しみとどう向き合うか、常々恐れていました。愛する家族との別離、自分の体が思う様に動かなくなる悲しみ、呆ける事への恐れ・・・。湧きあがっては、何とかやり過ごし、又沸き上がる事の繰り返しでした。希望を持って新年の一歩を踏み出したい等と悟ったようなことを言っていても、心は常に迷いの中です。
 ずっと以前私が40代の頃に、尊敬する同僚の女性の一人が「夫婦は早く呆けた方が勝ち・早く死んだ方が勝ち」と仰いました。私は未だ未熟な人間で、自分が老いた先の事について深く考えていない頃でした。
 先ずは目の前の夫の両親の介護に備えることが、最優先の頃でしたから、突然明確に仰ったその言葉が忘れられなくなりました。私の実父は、母を傍に侍らせて片時も離さなかった、典型的な亭主関白でした。一方母は、女学校で良妻賢母の指導を受けていましたので、「お父さんよりも1日でもよい。長く生きてあげないと、お父さんが気の毒だし、子供たちにも気の毒だ」とよく言っていました。
 現に父が脳梗塞で入院した時、私が遠くから駆けつけましたが、父は私に「無理しなくても良いのだよ」と言いつつ喜んでくれましたが、介添えを必要とする時は、母の手を借りる方が遠慮無く、好んでいる事が私にも良く解りました。若い頃から何処へ行くのも何時も夫婦一緒で、夫唱婦随の仲の良い夫婦でした。
 現在の私は、子ども達が幼く、元気に遊んでいたり、子連れで旅行したりしていた頃がとても懐かしく思い出されます。
 父が亡くなって、母が一人で居る時に訪ねた折に、母は「何と言っても、子供達がみんな成人して出て行って、夫婦二人で過ごした静かな時間が一番幸せだった」と言いました。私には少し意外な言葉でした。大勢の子ども達を育てた両親でしたから、育児も大変なことだったのでしょう。父は末っ子の妹を早くお嫁にやって、楽になりたいとしきりに言ったと聞きました。これは先立つ人の心として良く解ります。
 でも夫婦二人っきりの方が楽しいということは、今だ私には、理解が出来ません。私には、家族で暮らす方が余程楽しいと思えるからです。ずっと大家族で暮らして来たせいかも知れませんし、私が寂しがりやだからかも知れません。
 つい先日、夫の知人であり、私の短歌を新聞で見かける度に電話を下さっていた人のところへ、二人してお見舞いに出掛けました。とても知的で優しい方でしたが、ご高齢の為に脳出血で入院され、回復されたものの、今まで出来ていた日常の事が出来なくなって、ある施設に入所されたのでした。 
 暖かな談話室に、大勢の方達と椅子に掛けておられましたが、「私すっかり頭が悪くなって・・・」と仰り、困ったような顔をしておられました。私も自分の行く末を目の当たりにした思いでした。
 そこで先の「早く呆ける方が勝ち、早く死ぬ方が勝ち」と言う言葉を思い出したのです。自分が解らなくなるという悲しみは、自己の確立が成されている時のことであり、解らなくなってしまえば、意外とそれ相応に幸せなのかもしれないと思って、少し和らいだ気持ちになりました。
 時間が悲しみを融和させてくれるように、呆けることも死ぬことも、自然の計らいであって、やはりゆったりした時間が悲しみとの融和を図ってくれているような気がしました。
 今春の友人の賀状にも、砂時計の残りを気にしながら頑張っています、とありました。考えてみると、私達は生まれた時から、自分の砂時計から砂がこぼれ落ちているのですね。
 次の一首目は、娘が亡くなって間もなくの私の短歌で、その次は、10年ほど前の短歌です。

砂時計青色の砂こぼし終ゆ反せば悲しき刻また戻る(実名で某誌に掲載)
砂時計砂の落ち行く確かさに一人居となる時を怖るる(実名で某誌に掲載)

 誰しもきっと、この世で出会った幾つかの苦しかった事、悲しかった事が、穏やかな時間の中で、ゆったりとした心に溶け込んで行くことでしょう。


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忘れられない良いご夫婦

2013年01月05日 | 随筆・短歌
 2013年が希望と共に訪れました。新しい年を迎えることは、何はともあれ嬉しいことですね。今年もポツポツ書きながら歩んで行きたいと思いますので、お付き合い頂ければ有り難く存じます。
 冬は毎日晴天が続く地域で過ごした年月もあるのですが、今はどんよりした空の下に、忍耐の日々ではあります。しかし、そんな中だからこそいたわり合って暮らすというところもあり、考えようによっては、これも又心温まる日々と言えそうです。
 年頭に当たって、新しい暦に一年間の大切な記念日や、大事な用事のある日を忘れないように全て記入しました。11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」だそうですね。何らかの記念日という日は実に様々あるようですが、「いい夫婦の日」は、「余暇やゆとりの大切さをアピールすることを目的に、通産省が制定」したのだそうです。
 この日のことで思い出したのが、忘れられない「いいご夫婦」に出会った想い出です。
 つい昨年の11月下旬のことです。夫が受けた肺がん検診の結果通知が、区役所から届きました。そこには「肺がんの疑いあり、精密検査を要する」と書かれていました。まさに晴天の霹靂と言ったところでした。夫は指示に従って早速拡大したレントゲンフィルムを区役所へ貰いに行って、説明を受けて来ました。どの医療機関で検査をするかは自由ということでしたから、夫は、がんセンターを選びました。
 それから精密検査までの一週間余りを、夫は手元にあった医学書を懸命に読み、肺がんの経験のある友人に電話をしてアドバイスを受け、やがて自分なりの結論を出しました。それは「精密検査の結果万一肺がんと診断された場合でも、そっとこのままにして過ごし、それ以上の検査も治療も受けない」ということでした。「今の自分の年齢を考えると、何もしなくとも多分平均年齢までは、生きるだろう。その間は、静かに余生を過ごせるだろう」と考えたのです。クオリティー・オブ・ライフの立場から、きつい手術や抗がん剤治療を受けて辛い晩年を過ごすより、現在何も自覚症状がないのですから、このまま過ごしたいというものでした。
 二人とも既に尊厳死協会員として登録していますので、私も夫の話には納得出来ました。我が身に置き換えて見ても、やはりそうしたいと思いました。今まで漠然と語り合っていた死生観を、明確に決めなければならない時が来たのだと、体が引き締まる思いでした。検査の予定日は、知らせがあってから8日後だったのですが、とても長く感じられました。当日がんセンターへは、当然二人で出掛けました。
 夫の話によると、今日は三人が同じ肺がん検診の精密検査に来て居られるということでした。一人は40歳代と思われる未だお若い女性、もう一人は70歳代前半の知的な雰囲気を漂わせた男性に奥様がご一緒でした。検査待ちの間に情報交換があり、「80%の人が異常無しなんだそうだよ」と夫がその男性から聞いて来ました。結果を待つ時間は、結構長く感じられました。何となく皆さん近くの椅子に座り、思い思いに辛い結果が出るかも知れない不安に耐えていました。最初に医師に呼ばれたのは、女性でした。にこやかな笑顔で出て来られ、ホッとしました。次は男性が奥様と共に診察室へ入って行かれました。奥様は足がもつれるような感じで、ご主人に手を取って貰って入っていかれました。中々出て来られないので、「もしかしたら」という不安が沸き上がり、私は胸がドキドキして来ました。
 やがてお二人はにこやかに出てこられて、御主人は夫に指を丸めて見せつつ近づいて「大丈夫でした。貴方もきっと大丈夫ですよ」と仰ったのです。「おめでとう御座います」と夫が、「どうぞ今日はお祝いして下さい」と私が言って見送りました。背の高いご主人は、小柄の奥様の肩を抱き寄せて、奥様の頭を撫でるようなしぐさで話しかけ、寄り添って待合室を出て行かれました。奥様は心配の余りすっかり参っておられたようでしたので、お二人が背中一杯に喜びを表して帰って行かれる姿がとても温かく思われ、深く愛し合っておられるいいご夫婦だなあと思ったのです。
 やがて私達の番でした。最後の三組目でしたから、こんどはジョーカーを引くのではないか、と思って恐る恐る二人で入室しました。とてもしっかりとした女医さんが、明確に「心配ありません」とおっしゃった時は、張り詰めた緊張が一気に解けて、その後の説明は良く聞き取ることが出来ませんでした。「多分この当たりが引っかかったのでしょうが、これはガンではありません」と映像を示しつつ仰っていましたが、私には良く理解出来なかったのです。
 会計を済ませて「良かったね」とホッとして外に出ました。すると駐車場を出て来た車がスッと玄関アプローチに寄せて来ました。見るとあのご夫婦がウィンドーを降ろして、「どうでしたか」と聞かれたのです。「大丈夫でした」と夫が答えました。「それは良かった。大丈夫だと思っていましたよ」と仰ってお二人ともニコニコと手を振って去って行かれました。爽やかな風が通い、温かい空気に包み込まれたような感じがしました。
 ほんの数時間の出会いだったのですが、お互いにこんなにすんなりと打ち解けて喜び合えるとは、そしてあの仲睦まじいご夫婦を「何と素晴らしいご夫婦なのだろう」と感じて、立ちつくしていました。日頃は何気なく行き交う人達なのですが、何かをきっかけにした素晴らしい出会いは、何処にでも待っているのだと思いました。もし再びお会い出来ることがあったら、たとえそれが病気をきっかけとした出会いであったとしても、私達夫婦にとって、仲の良い友人になるに違いない、と心温まる気持ちで帰路をたどっていました。
 
かの時にあなたの背中見つめゐて呼び止めざれば今はなきもの(実名で某誌に掲載)

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