ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

日本の誇りを守りたい

2013年04月29日 | 随筆・短歌
 日本に生まれ日本で育ち、日本以外行った事のない私ですから、全くの井の中の蛙です。でも文明の発達により、書物や、テレビや、インターネットなどから、様々な情報が得られますから、居ながらにして様々な知識を身に付けたり、世界文化遺産巡りさえも出来る便利な世の中になりました。
 日本人として生まれて良かったと、最近はしみじみと思っています。四季の変化が美しく、綺麗な水と森の緑と青い海と、そしてそこに長く住み続けて育まれて来た日本人の温かさや思いやりは、今も生き続けていると思っています。
 その素晴らしい長所がやや消えつつあるのではないかと気になりますが、まだまだ捨てたものではありません。サムライ日本、ヤマトナデシコといえば、世界で活躍する日本選手を思い出す人も多いと思いますが、侍の精神や大和撫子の心意気は、長い間に身に染み込むようにして、受け継がれてきたものといえましょう。
 武士という階級が出来たのは、後のことですから、もっと昔から助け合いの精神的土壌が生まれていて、「和」を尊ぶ精神へと育まれていったのです。
 その日本人の象徴として、おいでになられる天皇は、日本という国が始まって以来(有史以来)、現在まで続いていて、今上天皇(平成天皇)は、第125代目でいらっしゃいます。これには様々な学説があるのは承知していますが、それをさしおいて、世界中にこれだけ続いた天皇家をいただいている国は、日本だけということは事実です。
 細かく見れば、国の内外で様々な争いがありましたが、それを乗り越えて今日まで続いていることは、奇跡とも言える貴重な伝統として、世界に誇れるものだと思っています。
 第二次大戦に敗れた後にもなお「天皇は国の象徴」として、引き続き日本の歴史を受け継いで続いております。大戦の後の天皇のご心痛について、昭和を代表する高名な禅僧「山田無文禅師」の書物を読んで、強く心を動かされましたので、以下に引かせて頂きます。

 『今上天皇(昭和天皇)が満70歳になられた時のことです。ある新聞記者が那須の御用邸にうかがって、「この70年の間で、一番ご印象に残っていることは何でしょうか」とお尋ねいたしました。すると天皇は、こうお答えになったそうであります。
 「マッカーサーに会ったことです」
 わたくしはこれを報じた新聞記事を読みまして、なるほど天皇は正直なことをおっしゃっている、本当のことをいわれているな、と思いました。天皇がマッカーサーに会われましたのは、昭和20年9月27日のことでした。この日の会見が実現したのは、天皇ご自身から「マッカーサーに会いたい」と希望されたからだということです。
 敗戦直前まで、天皇が公式にお召しになられていたのは、陸軍か海軍の大元帥服でしたが、当日天皇が着ていかれたのは古いモーニングでありました。そして、侍者一人だけお連れになり、空襲ですっかり焼け野原になった東京の街を見つめながらマッカーサーに会いに出向かれたのです。けれども玄関までお迎えに出たのは、参謀と副官だけで、マッカーサーはワイシャツ姿のまま部屋で待っていたというのです。
 一通り初対面の挨拶がすみますと、天皇はこうおっしゃいました。
 「このたびの戦争の最高責任者は私です。政治家も軍人も、みなわたしの命令によって動いただけでありますから、彼らには何の罪もありません。そこで本日、あなたにお目にかかりに来たのは、実はお願いしたいことがあったからです。私はどのような処分でも受けます。しかし、いまの日本は大変な食糧危機です。どうか八千万の日本国民が飢え死にせんだけの食料をご援助頂きたい。それがわたしの頼みです」

 このように天皇は申されて、持参した風呂敷包みをマッカーサーに差し出されたのです。そこには、天皇の私有財産目録が入っておりました。天皇はこのとき、ご自分の運命も私財も全て捨てて、国民の生活を守ろうとされたのであります。
 これにはマッカーサーも驚いて、それまで傲然と構えていた態度を改め、通訳に告げることばづかいも最上級の敬語に変わったそうであります。そして、天皇がお帰りになられるときは玄関までお見送りに出て、鄭重にお車にお乗せしたということです。
 どこの国でも戦争が終わったあと、敗戦国の皇帝が戦勝国の将軍に会見を申し込むのは、かならず賄賂を持ってきて、自分の罪を軽くしてくれと嘆願するためであります。ですから今回もきっとそうだと、マッカーサーは思っておったのです。ところが日本の天皇は軍人をかばい、政治家をかばい、すべての戦争責任はご自分が負うとおっしやいました。そしてさらに、全財産を投げ出して、国民の食料に代えてほしいとまでいわれたのですから、それ以来、マッカーサーが極力、天皇を擁護しようという考えに変わったというのも、十分に頷けることであります。
「日本の天皇はご立派な方だ。その天皇を日本からなくしてはいかん」
 といって、天皇が無罪になられるように、ずいぶん努力されたことと思います。その後マッカーサーはアメリカに帰国いたしましたが、日本人と会うたびにこのときの話しをよくされたそうであります。天皇もまた、これが一番感激の深い出来事であったとおっしゃったのも、もっともだと申せましょう。(山田無文「自己を見つめる」禅文化研究所)』

 このことについては、これ程具体的ではないにしろ。臣下万民を思う天皇の偉大さに感服したという話しは聞き及んで居ました。現在の平成天皇と皇后さまも24時間国民の為にのみ生きておられると言ってよいかと思います。くたびれたといっては大あくびでごろりと横になったり、そうかと思えば一方では、夜も寝ずに賃金の為に働いたり、国民は、思う様に生きていますが、ご自分の人生を犠牲にしてまでご公務に励まれる両陛下を拝見していますと、本当に頭が下がります。
 この度皇太子ご夫妻がオランダへお出かけになられましたが、皇太子さまが雅子さまを同道されて顔面一杯のお幸せそうな笑顔を拝顔し、私は心から嬉しく思いました。
 皇室の記事を書くと必ず売れるといって、各週刊誌は多分あることないことさまざまな憶測記事を載せるという不遜な現状に、さぞお心を煩わせておいでであったと思います。
 誰しもそうですが、好んで病になる人はいません。病気の人に鞭打つ行為は、人間として恥ずべきであります。一方的な誹謗中傷の記事は、公平という面からも、出版社の良心を疑いたくなります。
 私は右翼でも左翼でもありません。平凡な一国民として、歴史を学び、自国に誇りを感じているだけの人間です。けれども世界に誇れる皇室を頂いて、これを大切に守り抜いて行くことは、現代に生きる私達日本人の責任だと思っています。


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女人高野 室生寺が招く

2013年04月19日 | 随筆・短歌
 寺院や仏像に関心があるために、私達夫婦の旅行先はどうしても奈良・京都が多くなってしまいます。これまでに訪ねたお寺は100を越えると思われます。
 中でも忘れられないお寺、もう一度行きたいお寺は幾つかありますが、今回は仏師の彫刻の技術に驚かされた仏像がまとまっている、奈良の室生寺を取り上げたいと思います。
 近鉄奈良駅から室生寺迄は中々遠く、簡単には行けないお寺です。私達が行ったのは、せっかくの古い五重の塔が台風で毀れたため、新しい塔が建てられてから後しばらくしての拝観となりました。
 高野山が女人禁制であった為に、女性のための真言宗のお寺として、「女人高野」と呼ばれる名刹です。
 どれ程多くの女性の足がこの石段を上ったのだろうと考えつつ、磨り減ってしかし心持ち他の寺院よりも低い石段が並び、足に心地良く伝わるその感触を愛しみつつ、金堂に続く鎧坂を登って行きました。
 美しい仏像は、金堂と弥勒堂に静かに並んでおいででした。金堂は中央の国宝の釈迦如来立像を中心として、五体の仏、菩薩像が並んでいて、さらにその前に少し小ぶりな十二神将が並んで居られます。
 私が今も忘れられないのは、これらの仏像を彫った仏師の木目を活かした彫刻の見事さでした。お顔も左右の頬の膨らみに木目の中心が見られ、実にふっくらとして見えました。鼻筋、鼻の頭、眉間のしわさえありありと木目が覗いて見え、光の加減と柱の間から覗く窮屈さをおいても、仏師の木目まで見抜いた彫刻の素晴らしさに陶然としたのでした。
 釈迦如来立像の、衣文の流れるような美しさも素晴らしいものがありました。尤も衣文の美しさは、京都の清涼寺のご本尊も見事でしたし、此処だけとは言えませんが、十二神将も含めて幾つも揃って美しい木目が見られるのは、この室生寺が、私には一番でした。
 誰もいない静かなお寺でじっくり眺めたので、気がついたのかも知れませんし、塗りがはげている古い仏像のせいかも知れませんが、兎に角この時初めて木目の美しさに気が付いたのです。
 私が一番好きな中宮寺の弥勒菩薩も、法隆寺の百済観音も木造ですが、このように木目まではみられません。仏師は、木材の木目とお顔の中心や、腕の肘の曲がりとか、眉や眉間のしわをどう彫るのか、じっと一心に木目を見つめて彫ったのでしょう。外からは見えないその木目にどう着目し、彫り上がりを想像し見抜いたのか、私には想像も出来ません。
 是非もう一度行って、あの美しい木目をしっかりと見て来たいと思います。室生寺周辺の実に静かな里の雰囲気や、今は足に痛みを持ち奥の院までは登れない私の、当時の記憶も強烈に残っています。
 桜の花見に行きたいというと、夫はあの室生寺に行く時に下車する、近くの大野寺のしだれ桜より美しい桜はないから、あの記憶で良いではないか、と言います。まさにその通りと言えるかも知れません。大地にまで届く数本の垂れ桜が丁度見頃で、カメラマンが大勢集まっていました。桜の季節とか、修学旅行の混雑時期はなるべく敬遠していたのですが、この時ばかりは、偶然にも桜の満開の時期に当たり、帰りに長谷寺の全山の桜など素晴らしいお花見もすることが出来ました。
 法隆寺の大工の棟梁西岡常一が、木と相対してその特性を深く理解し、木の持つ力を無駄なく組み合わせたように、仏像を彫った人達もその材質に相対して、木目のありようと、仏像の姿形をどのようにするかを決めたのでしょう。そうでなければこのように丸い木目の芯が、頬や肘に合わせられる筈もありません。 何時もぼんやりの私が、何故この時に気がついたのか解りませんが、以来仏像、特に木造の仏像を拝観する時の観点が変わりました。
 現在は、本当の大工さんという人が殆ど居なくなったと、我が家のかかりつけの棟梁さんが仰います。
 日本が世界に誇る文化財である古寺・仏像を未来永劫にわたって、維持し管理して行かなければなりません。これだけの技術を持った彫り師は、今も居られるのでしょうか。木材に対峙している時の仏師の心を思いやりながら、その心眼、その一体感に心が熱くなっていくのを感じます。
 もう一度あの女人高野室生寺の御仏や、あの界隈の優しさ暖かさに触れたいと思うこの頃です。 

御仏に縋らんと来し女人等にすり減りし室生寺の石段登る(あずさ)

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大いなる力に支えられ

2013年04月10日 | 随筆・短歌
大いなる力に支えられ

 春の爆弾低気圧が今年もあちこちに被害を出して通り過ぎました。最近のこの異常気象はかつて体験したことのない現象のように思えます。海の上に不気味にぶら下がった竜巻の尾を、不安に眺めた幼い頃の記憶は残っていますが、本物の竜巻に遭ったことはありません。旅先の宮崎の日南海岸で、スコールのような雨に出会い、「雨は上から降って来るものと思ったら、下から吹き上がって来た」と、跳ね返る雨脚の激しさに目を見張っていたら、次の瞬間ピタリと止む切れの良さに驚嘆したものです。一時間に60ミリとか80ミリとかいう豪雨はどのようなものか、今以て予想も出来ません。
 先日、NHKで巨大地震の「活断層」についての番組を視ました。2年前のあの大地震の後に、内陸で頻繁に起きるようになった地震を、私は何となく不安に感じていました。それが次第に高じて、今では毎朝ネットでニュースを見た後NSMのお天気予報を見て、必ず「地震」という所をクリックして、直近の25の地震のデータで震源地・規模・最大震度・地震発生時刻を見るようになりました。 震度1や2は普通に起こりうることとして余り気にしませんが、3や4になると、どの地域まで揺れたか分布図を見ます。地震の頻度にも気を配り、多いと大地震の前触れではないかと不安になります。
 この放送で活断層の分布を見ましたら、日本中どこも活断層だらけで、何時何処で地震が起きても不思議では無い気持になりました。実際に大きな揺れは、活断層の真上ばかりでなく、少し離れたところの方が、かえって大きく揺れる事があるとも聞きました。
 地震ばかりでなく、政治もこのところ国外では紛争の種を抱え、国内に目を転ずれば、日本経済も良くなる期待と、益々借金に苦しむようになるかも知れない不安が交錯いたます。こうなると何時ものように「死ぬ時節には死ぬが良く候」と言われた良寛禅師の言葉が思い出されて、「心配しても始まらない」と、全てを御仏に委ねる気持ちになって何とか心を静めています。
 最近私はNHKのシルクロードのDVDを図書館から借りてきて、少しずつ見始めています。初回のシルクロードは、昔テレビで同時進行で見ましたが、二度目以降は、DVDで見ています。今は廃墟になった都市の跡や、発見された洞窟の壁画のみごとさ、はぎ取られた壁画を再現したものを見たりして、感動に震える思いです。
 はるか彼方の砂漠を越えて、インドから経典を運んだ玄奘三蔵法師が居られて、仏教は、その後中国から東へ東へと受け継がれ、日本に辿り着き、そして我が家にも連綿と引き継がれて来ました。
 仏教は平和を尊ぶ宗教として、世界にも注目されてきているとも聞きます。信教は自由ですし、他の宗教をとやかく言う積もりはありませんが、はるばるとシルクロードを通ってもたらされたこの仏教を、私は日本の誇れるものの一つだと思っています。古くはインドそしてシルクロードを通って、中国で盛んだった仏教が、今は日本がその主流になっているのですから、有り難い時期に私は生まれたと言えそうです。
 世俗的な欲望への執着を断つように努力出来れば、私達は概ね、つつがなく暮らしていると言わなければなりません。小鳥が囀り花が咲き、何処の家の庭にも春の花が咲き乱れています。寒椿か、山茶花か、赤い花が咲いている間は、毎朝鳴いてくれた鶯もこの春嵐で、花が全て散ってしまって、もう鶯の姿は見えません。
 地球上に沢山の小鳥がいて、虫をついばんでくれなければ、三年くらいで地球上のあらゆる植物は、緑の葉を虫に食い荒らされて無くなると聞きました。そんなに恐ろしい程の虫を、こともなげについばみつつ、私達の目や耳を楽しませてくれる小鳥達は、地球にも私達にも幸せを運んでくれる天使のように思えてきます。
 地球上のあらゆるものがバランス良く配分されていて、お互いにじゃんけんぽんのような状態で、上手く支え合い、輪を描くように回っているという現象は、考えてみると実に不思議なことです。だれがそのような仕組みに造りあげてくださったのか、考えも及びませんが、その中の小さな小さな生命として、現在私が生きているということは事実です。
 足が少し不自由になりつつあって、立ち居振る舞いがスムーズにできなくなりはしましたが、まだ歩けて、三度の食事を家族の好みの献立にして、楽しんで料理をして・・・と思いますと、ささやかではあっても、何と幸せなのかと思わざるを得ません。その食材やエネルギーなどに思いを寄せると、それは多くの人達の働きに依って支えられていることを、忘れてはならないと思います。私自身もその循環する輪の中の一員ではありますが、支えられている力の大きさには、言い表せない程の重みを感じています。
 このブログを読んで下さって居られる皆様にも、大きな支えを頂いてきました。「有り難う」は言える内に言っておかないと後悔します。皆様に本当に心からの感謝をお伝えしたいと思っています。どうか私の心が届きますように。


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