ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

優しい心遣い

2010年04月28日 | 随筆・短歌
 最近は、何事に因らず自分本位に物事を考え、行動し、人への配慮はしないという殺伐とした空気が、社会を覆っているように思えてなりません。テレビのニュースや新聞記事に、自ずと暗い気分になってしまうことがありますが、そんな中にあって、去年の想い出で恐縮ですが、とても心温まる優しい心遣いに出会いました。
 直接の経験者は夫なのですが、たまたま病院へ癌検診の結果を聴きにバスで出かけたのですが、バスで遭遇した中学生の優しい行動にすっかり感激して帰って来ました。なにしろ病院まではバスを乗り継いで約一時間位かかります。繁華街で乗り換えたバスは、大変混み合っていて、立っている人も大勢いたようです。たまたま夫の前の席に座っていた二人の中学生が、夫を「これは草臥れた老人だ」と判断したのでしょう。ものも云わずに席を立ってバスの出口の方へ移動したそうです。
 夫は生徒達は次の停留所で下車するのだろうと思って席に着いたそうですが、中学生はその後も暫くバスに乗り、やがて下車して行ったそうです。夫が自分の為に席を譲ってくれたのだと気づいた時は、彼等は離れた所に立っていて、お礼を云う機会を失してしまっていたのです。同じ学校の生徒が他にもいましたので、名札から学校名を記憶して帰って来ました。
 「今どき老人に席を譲る生徒を見かけたことがない。お礼を言いそびれたのが心残りだし、社会人としての良識に反することでもある」といって、夫はその中学校の校長先生宛に、「名前が分からないけれど、私の感謝の気持ちを伝えて頂ければ有り難い」と、その時の様子と、下車した停留所を書いた手紙をしたためて投函したのです。
 事はそれで済んだ積もりの夫の所に、やがて心の籠もった返事が校長先生から届きました。バスを降りた場所と日にちから、当日の行事に参加した学生が分かったので、職員一同にも、全校生徒にも話しをしてその生徒の善行を誉めた、とあり、生徒の一人はたまたま保護者会の副会長さんの息子であることが分かったとありました。
 「本人は何も言わないので、外でそんなことをしていたとは知らなかったと」、と親御さんも喜んでおられたとも書いてありました。夫は、「このような行いが自然な行動として表れるのは、日頃の教育が、よく生徒に浸透していることの現れだ」とも書きましたので、校長先生は余程喜ばれたご様子でした。夫も些か驚きながらも「自分ながらも良いことをした」と上機嫌でした。
 ところが良い事は続くものらしく、一ヶ月ほど後に、全国のある作文コンクールで、同じ中学の一年生の女子が、文部大臣賞を受賞したのです。老いた祖母に対する愛情豊かな心の籠もった作文で、新聞でこの作文の全文を読んだ夫は、またまた「感動しました」と手紙を出したのでした。すると再び校長先生から、お礼の手紙があり、本人を校長室に招いて、このことを伝えて誉めたと有りました。本当にささやかな交流でしたが、家族としても心温まるこの交流に感動したのでした。
 この文章を書いていて、ふと亡くなった娘が書いた作文が、市の作文集に載ったことがあったのを思い出しました。ちょうど小学1・2年の時に受け持って頂いた女の先生が、病気で休まれた時のことです。担任の先生を慕って男女数人で、先生のお宅へお見舞に行くべく出かけたのですが、道も分からず途中で丸太が転がっている所で休んだりして、人に尋ね尋ねして、やっとのことでお見舞を果たし、先生に頭を撫でて頂いて、疲れきった足を引きずりながら薄暗くなって帰って来たことがありました。
 それはまるで「二十四の瞳」で、骨折して休んだ先生を見舞いに生徒達が訪ねた名場面を彷彿とさせる出来事でした。その時の事を作文に書いたのです。
 それは、もう本当に遥か昔の事ですが、今も昔も優しい心は、人に感動を与え、世の中に潤いをもたらしてくれるものだとしみじみと想い出しています。

穀雨の恵み

2010年04月22日 | 随筆・短歌
 4月20日は、二十四節気の穀雨に当たります。(穀雨とは、春雨が降って百穀を潤すの意)今年は、とても寒い日々が続き、まだほとんど田圃に稲も植えてなく、百穀を潤すとはいえませんでしたが、雨は大地を潤し、植物には無くてはならないものです。時に雨が降りすぎると野菜など溶けてしまい、穀物も冷害となって、長雨に泣かされる場合もありますが。
 しかし、普通には恵みの雨(慈雨)とも言われ、雨乞いの祈祷やおまじないも有るくらいですから、万物にとってはなくてはならないものだと言えます。
 私の尊敬している杜甫の漢詩の中にも次のような詩があります。
  「春夜雨を喜ぶ」 
 好雨時節を知り
 春に当ってすなわち発生す
 風に随(したが)って潜(ひそか)に夜に入り
 物を潤して細やか(こまやか)にして声無し・・・以下略 ・・ と、春の雨の喜びを歌っています。
 雨は万物の生気を養うばかりでなく、人々の心に潤いを与え、気持を落ち着かせてくれます。また古くから雨降って地固まるとも言われて、雨の日の結婚式もお目出度いと言われたり、喧嘩をした仲でも、済んでしまえば以前よりも強固なつながりとなっていることはよくあることです。
 雨に咲く花と言えば、私には忘れられないのが、紫陽花です。幼い頃は、余り好きでなかった花でしたが、かつて私達夫婦は、娘夫婦と鎌倉へ出かけ、折しも八幡宮で開かれていた紫陽花展を見ました。西洋紫陽花の見事な大輪にすっかり心を奪われました。 夫もそうだったのでしょう。帰って来てから、早速花卉センターに車で出かけて、庭に紫陽花を二種類植えました。一つは、ピンクの大輪の西洋紫陽花、もう一つは、青いガク紫陽花です。この事は以前も少し触れました。
 紫陽花はとても水を欲しがり、少しお天気が続くとしおれて来ます。こまめに水を与えないといけないのですが、水はけが悪いとかえって良くないこともあって、気を使います。

 苛立ちて尖りゆく心を宥めつつ青き紫陽花に降る雨を聴く
 黙したる君の心は愛か否か紫陽花に降る雨に問ひゐる(二首とも実名で某誌に掲載)
 活けられし紫陽花のやうに涼やかに貴女は生きていたのだけれど(再掲)

 この度アイスランドの火山が爆発して、ヨーロッパを中心に、沢山の飛行機が運休になり、多くの人が立ち往生して困っておられますが、まとまった量の雨が降れば、少しは空気中に漂っている火山灰や、道路に積もった火山灰を流してくれて助かるのでは、と考えたりしています。中々思うようにうまくいってくれないのが世の常ですし、自然にはあらがえないと嘆息しています。穀雨に当たって、こんな取り留めもないことを考えています。

大リーグに魅せられて

2010年04月16日 | 随筆・短歌
 我が家のテレビはリビングルームに一台あって、私達夫婦はどちらかの趣味に合わせてテレビを見ることになります。チャンネル権は夫が持っていますので、大の大リーグファンの夫に付き合って私も大リーグを見ます。時には私が自分の仕事をしながらの観戦になることもあります。
 野球は、ゆったりしていますが、なかなかの頭脳ゲームですから、ピッチャーが次にどんな球を投げるかにも関心があり、「次は内角!」等と私が声に出して応援したりしています。大リーグでは、お年を召したご婦人が結構沢山スタンドに居られて、さすが本場のアメリカだと感心して眺めています。
 私はずっと松井秀喜選手の応援をしています。と言うより、松井秀喜という人物を尊敬しています。野球は紳士のスポーツだと聞いていますが、本当に彼は紳士です。第一打席に立つ時は、必ず審判に会釈しますし、決して審判の判定に抗議したりしません。時には誤審と思われる事もありますが、決して誤審だとアピールすることはありません。(事実誤審をした球審が、試合後にこっそり彼に謝ったこともあったと聞いています)
 更に野球はチームプレーですから、当然チームの勝利を最優先に考えるのが当たり前なのですが、ともすると個人の成績を重んじて、チームの勝敗を二の次にする人もいます。これはスポーツマンの心得として、些か疑問に思います。
 松井選手はどんな場合もチームの勝利を第一義としていることは、そのプレーから伝わってきます。真のスポーツマンシップとはそう言うものではないでしょうか。選手の中には、自分の成績を上げたいばかりにフォアボールで一塁に出ることが出来るのに、ヒット数を稼ぎたいばかりに、ボール球に手を出す選手もいます。松井選手がヤンキース時代にトーリ監督の信頼が厚かったのは、彼のこの様なスポーツマンシップを高く評価していたからだと思います。
 その彼が今年から、エンジエルスへ移籍しました。たまたま今日、ヤンキース球場でヤンキース対エンジェルスの試合があったのですが、試合の前のセレモニーで、突然松井選手がマウンドに呼び出されて、監督から記念品を手渡され、ヤンキースの元同僚と肩を抱き合う場面がありました。又、彼が第一打席に立った時、スタンドの人々は総立ちとなって万雷の拍手で松井選手を迎えてくれました。ヤンキースの対戦相手として出場した松井選手が、古巣のヤンキースのファンにこの様に温かく迎えられて、彼も嬉しさの余り涙ぐんだように見えましたが、私も思わず涙が出ました。
 以前マリナーズにオルルッドという大層紳士の選手がいて、大リーグで特に紳士である選手に与えられる賞を受けたことがあります。私もオルルッドのファンでしたから、頷けましたが、松井選手もやがてその賞を手にすることが有るだろうと考えています。
 昨年抜群の成績でヤンキースをワールドシリーズに優勝させて、日本人初のMVPに輝き、トップ選手として讃えられながらのエンジェルスへの移籍でしたから、さぞ残念であったでしょうが、不平も言わず黙々と頑張る彼に、以前より更に熱く応援しています。
 私が大リーグで心に残っている選手は、何年か前のワールドシリーズで、投手を使い果たしたエンジェルスを彗星のように現れて勝利に導いた、フランシスコ・ロドリゲス(我が家では「若武者」と呼んでいます。現在メッツのクローザーとして活躍しています)、ヤンキースの選手会長のジータ、今日も黙々と最後を締めくくった、ヤンキースのリベラなど、何人かの顔が浮かびます。
 日本人では、何と言っても忘れてはならない人として、野茂投手がいます。彼はアメリカに渡って活躍した日本選手のパイオニアとして、ノーヒット・ノーランを二度も達成しました。もっともこれは、ピッチャー一人の力で出来るものではありません。顔色を変えて必死に守るチームメイトが居て、キヤッチャーの名リードがあってこそ成り立ちます。高地で空気が薄いため、スタミナの消耗が早くボールが飛びやすいにもかかわらず、ノーヒット・ノーランを成し遂げたことも記憶に残っています。一時は3Aまで落ちながら、努力を重ねて再び戻ったり、本当に寡黙でいながら努力の人でした。
 野茂投手によって開拓された道を閉ざすことなく、次々と日本選手がアメリカに渡りました。ピッチャーの岡島や黒田、バッターのイチローや松井稼頭央、岩村など、日本の野球のレベルの高さをアピールしています。
 私は現在は、日本の野球は全く見ません。以前はヤクルトや阪神のファンであり、野村監督を尊敬していましたが、アメリカの野球を見ていると、迫力の違いが大きくて、すっかり縁遠くなってしまいました。
 こんなばあさまになっても、野球の面白さに目が向くのは、あながち夫の感化ばかりでなく、母親譲りかも知れません。昼間独り居だった母は九十歳近くまで、良く野球を見ていました。私もきっと母のように命ある限り見続けるでしょう。何故なら野球からは、身震いする程の感動を、時々与えてもらえるのですから。

 

影を愛しむ

2010年04月10日 | 随筆・短歌
 これから日を追って太陽の光が強くなり、それにつれて影も濃くなりす。寒い夜は外出もほとんどしませんが、暖かくなると夜の外出もあって、月光を浴びて帰るということもままあります。
 影は月や太陽の高さに応じて長さを変えますが、何時でも何処でも私達は自分の影と一緒に生きています。日頃は気が付かないのですが、しみじみと自分の影を見る時、その時の心の有り様で、影に対する感じ方が変わります。
 幸せと思う時は、影も何かしら明るくはずんで見え、悲しい時は暗く沈んでで見えます。幸せ不幸せは自分の心が作り出すものですから、何時も幸せでありたいと願う時は、心は何時も穏やかで豊かでなければ、きっとそうは思えないでしょう。
 ずっと前に通信講座で学んだ仏典に、次のような言葉が載っていて、今も心に残っています。
 
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。ー 影がそのからだから離れないように。(中村元訳「ブッダの真理のことば」より)
 
 確かに私達の行動は、心によって作り出され、その結果は全て自分の心次第と言えます。清らかな心で話したり行動すれば、後の幸せはその人の心がもたらしたものです。「影がそのからだから離れないように」という言葉が身に沁みて残っています。
 影と言えば、何時でしたか、このブログに父の手紙という文を載せたことがありました。両親が私達の家に訪ねてきて、私達や孫達にも義父母にも会い田舎の家に帰った後「おまえ達の暮らしに触れて安堵した。余りに月がきれいだったので、駅からは二人で夜道を歩いて帰った。誰も通らない道に影が何処までも付いてきて寂しくはなかった」と、手紙を呉れました。何時も仲良く二人で行動する両親でした。私達の暮らしに安心して帰った様子が、月の光に描き出された二つの影に象徴されているようで、とても温かく嬉しい手紙でした。手にした時はとてもホッとしたものです。
 私も気が付いてみますと、いつの間にかその両親の年になりました。最近は幸せに満たされた自分の生活に感謝の毎日だと、この前も書きましたが、振り返れば決して平穏な年月ではなく、幾多の苦難を乗り越えて生きて来ました。その頃は先々こんな平穏な日々が待っているとは考えもしませんでした。年を取って、欲が少なくなったせいかも知れません。ごく当たり前の自然現象にも感動を覚えるようになり、例えば自分の身に付いてくる影にさえ愛しさを覚えます。
 最近は年のせいで、足腰に痛みも出てきて、私の歩く姿が少し悪くなりました。影は正直ですから、そんな私を素直に映しています。

背と腰を屈(かが)めし影が付いてくるしゃんと歩けと影を励ます(実名で某紙に掲載)                            ガラス戸にうつむき歩く我うつりいよよ寂しき北風の日は  (実名で某誌に掲載)

お彼岸のおこわ

2010年04月05日 | 随筆・短歌
 少し時期が遅れましたが、三月のお彼岸に中国風のおこわを作りました。もう小豆のお赤飯には飽きたという夫に、中国風にしたらどう?と聞きましたら、どんな材料が入るのか、と聞きますので「栗・椎茸・筍・ぎんなん・焼き豚など」といいましたら、それなら良いといいましたので、ネットで調べてあったレシピを勘案して、我が家の好みにあわせたおこわを作りました。丁度圧力鍋を買い換えて二度目の料理になりましたので、火加減が強すぎて焦げ臭くなったので、あわてて時間を短縮して炊きあげました。お陰で少し焦げただけで、無事に炊きあがり、家族からは美味しかったと、OKのサインが出て、ホットしました。
 家族はなかなか料理にはうるさくて、新しい料理を作ると「これは駄目」と一蹴されることがあり、そうすると二度と食卓に上らなくなります。OKが出ると初めてレシピ綴りに仲間入りします。
 一年間には様々な昔からの行事があって、それに従って故郷の慣わしの料理があり、子供の頃の想い出に浸りながら、なるべく手作りしています。 例えば、雛の節句のお寿司、お彼岸のお赤飯や、おはぎ、お盆の笹寿司や秋の栗おこわなどです。沢山作って、同じ市に住む義姉や、私の姉の所へ届けたりもします。
 夫は、そういった行事への関心かが全く無く、食べたい時に作れば良いといいますが、私はかたくなに伝統を守りたい方です。今年の三月三日の雛の節句には、ちらし寿司より生握りが良いと夫が譲らず、不承不承生握りずしを作りました。けれど夫の言うように生握りの方がずっと美味しかったです。
 娘の為に私が手作りした30㎝ほどの高さの木目込みの内裏雛が残っていますので、毎年飾りつけて、桜餅や雛あられなども飾って、後で食べます。四季折々の行事に合わせて、祖先を敬い季節を感じる料理を作って食べる事は、これも一つの生き甲斐になっています。
 毎日の料理は、もう四十年間も、毎週一週間の献立表を一枚の紙(不要になった暦を六っ切りにして)に纏めて献立表作ります。それに従って必要な材料を日ごとに貼りメモに書き出し、冷蔵庫のドアに綴って留めておきます。それを一枚ずつ持って買い物をしてくるのですが、時折書いてあっても買い忘れて、料理が始まった後に気付いた時には、夫が200m程の距離にあるスーパーへ走ってくれることになっています。
 思いついたら直ぐに書き留めないと忘れるし、一つの調味料が無くなると、直ぐに買い物メモに書くように何時も気を付けています。銀行へ寄る日や郵便局へ短歌投稿の日、ホームドクターの予定日などもそのメモに書いておきます。
 何しろ思いついたら直ぐに書いておかないと、後で想い出そうとしてもなかなか想い出せず、困ることが度々です。従って我が家の買い物メモは、生活を円滑に送る為の必需品となっています。
 暦に計画を書いただけでは、その暦を見忘れる日もあるので、ごく大切な用は小さな貼りメモに書いてテーブルに貼り、終わるとはずしていきます。これだけやって、やっと一人前です。亡くなった義母に、まだ私が勤めている頃、夕食の献立を考えるのが億劫になったから献立を立てて欲しい、と言われたのがきっかけになって、以来このやり方が続いているのです。家族の健康に留意しながら、おいしい料理の開発を楽しみ、家族と楽しく会話をしながら、日々を健康に過ごしたいと努力しています。
  後どの位頑張られるのでしょうか。家族に介護の負担を掛けないように、最後まで家族の為に役立ちたいと願っています。

 同郷の夫(つま)と笹ずし作りつつ盂蘭盆のことふるさとのこと (再掲)