ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

真岡郵便局事件(北ひめゆり)によせて

2012年07月26日 | 随筆・短歌
 今年も終戦記念日(8月15日)が近づきました。この時期には、忘れてはならない記憶を語り継ごう、という意図で特別番組が作られています。私達も出来るだけ録画しておいて、後に時間を掛けてゆっくりと見るのが、毎年の習慣になっています。
 つい先日、樺太(現サハリン)の真岡の電話交換手が、終戦の後の8月20日になって、ロシア軍が攻め込んで来た為に、混乱の中の情報伝達の仕事に最後まで従事した物語をDVDで見ました。実話に基づいた映画で、最後まで残った交換手12名中10名が青酸カリで自決を図り、内9名が亡くなりました。(これは事実です)全員、終戦後内地に帰るように命じられていましたのに、自発的に残った交換手達です。日本人が無事に帰国するためにも、通信の任務は大切だったのです。まだ10代の女性を含む交換手達の、戦後でありながら壮絶な戦いの記録です。
 樺太は戦後行けなくなりましたので、今は北海道最北端の、樺太が見える稚内公園に9人の乙女の像があり、石碑には「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」と刻まれています。この事件は、「真岡郵便局事件」と呼ばれ、また「北ひめゆり」とも言われているそうです。
 映画の中で、生き延びた一人は、「生き延びてしまってごめんなさい」と涙を流して苦しむのが、いたたまれないほどに痛々しかったです。
 現在も多くの激戦地で生き延びて来られた人がいますが、皆さんは、自分が奇跡的に生き延びたのに、「戦友に申し訳ない」と決まって言われます。死ぬことも生きることも、自由には出来ない時代だったのです。奇跡的に生き延びた人達は、その後、戦後の混乱を働いて働いて生きて来られたのですから、戦後日本の再建に多大な寄与をされた人々です。どうか苦しまずに、誇りを持って人生を全うして頂きたいと思います。
 樺太は、以前このブログで紹介したように、夫の両親と義姉と夫の四人家族が、終戦まで居たところです。映画にあったように、終戦後は、14歳以下と65歳以上の男子、それに女性全員が町内会単位で集まって、一人一個ずつのリュックを携行して帰国しました。夫と義母と義姉の三人は、8月19日の夜に本斗(ほんと)の港から、脱出して帰国しました。勿論義父は残りました。
 終戦になっているにも関わらず、砲弾の落ちる音がして、ロシアの飛行機が飛び交い、貨物船の帰還船に乗っても、生きた心地がしなかったと言います。声も出さず、真っ暗な船倉でじっと耐えて来た恐ろしさは、今も忘れないようです。先に発った船が沈没したと言う噂もあり、「宗谷海峡の国境を越えました」というアナウンスにドッと疲れが取れて、みな拍手をしたと言います。
 丁度真っ暗な船中でお産が始まり、「誰かお医者さんかお産婆さんがいませんか」と言う呼び声が何度もしたのに、誰も声一つ立てず、その後どうなったかと、夫は案じて言っています。
 夫の姉は、真岡の高等女学校に行っていましたので、8月15日に直ちに女学校は在学証明書を発行して、「これを持って内地の女学校に提出し、編入させて貰いなさい」と言われたそうです。 お陰で無事に故郷に戻り、実家から女学校へ通って卒業しました。混乱の中にあって、教師達の迅速で適切な対応に感心致します。道中で出会った優しい兵隊さんの事は以前書きましたが、引き揚げ者同士で助けたり助けられたりしながら、ぎゅうぎゅう詰めの列車に乗って故郷の駅までたどりついたのだそうです。
 樺太で、夫の家族が住んでいたのは、本斗(ほんと)という所でしたから、義姉は真岡の寮に入っていました。16日に寄宿舎の手荷物を纏めて汽車に揺られて、やっとの思いで帰宅すると、母親に「布団がもったいない、せめて皮でも剥いで持って来れば良かったのに」と言われて、義姉はまた一人汽車に乗って取りに行って来たそうです。少しばかり残って居られた先生方に「何故戻ってきたのか、早く帰りなさい」とせかされて、大急ぎで布団の皮を剥いで持ち帰ったと言います。姉が帰宅する間もなく、汽車は運行不能となり、危うい所だったようです。
 今でも、夫と共に義姉の家庭にお邪魔すると、その話になることがあります。何しろ何もない時代でしたから、やっとこしらえた布団の皮も大切だったのでしょうが、結局一人一個のリュックでは、せっかくの布団皮も置いて来ざるを得なかったのです。
 抑留された義父は、労働を課せられましたが、二度にわたってこっそりと、漁師の船で仲間と共に脱出を図り、一度は宗谷海峡の国境近くで、船の舳先が割れて海水が入り始め、必死で掻き出している所を、運良く(?)ロシアの監視船に見つかって連れ戻されて助かりましたが、牢に入れられたこと、一度は船出の前に計画が露見して、失敗したという話を、何度か義母から聞いて、その度に緊張を覚えました。
 義父は二年後に何とか解放されましたが、家には持ち帰る物は何一つ無く、リュックに庭にあったキャベツ1個を入れて引き揚げて来たそうです。「何故キャベツ1個だったのか」と義母は笑いながら言いましたが、義父は余り戦後のことは話したく無いらしく、何も言いませんでした。今になって考えてみると、キャベツは生でも食べられるので、非常食の積もりだつたのではないでしょうか。最近非常時の備えを言われるようになって、私も今頃になってハタと気付いたりしています。家財の全ては、ロシア人に奪われて、何一つ戻っては来ませんでした。
 白く晒されたリュックは、使われないままずっと残っていて、鬚が長くのびた義父の写真は、大切に義父の部屋に飾られていました。義母が「もう捨てたら」と言っても聞き入れませんでしたから、深い思い入れがあったのでしょう。東京から樺太へ転勤になり、つぎは以前に自分が建てた故郷の実家へ戻り、最後は息子である夫の為にこの地に移り住んだのです。
 義父母の来し方を思うと、激動の一生だったようにも思えますが、それでも晩年は、平穏な日々を過ごして貰うことが出来、本当に良かったと考えています。
 夫は、故郷から東京へ、そして樺太へ又ふるさとへと引っ越して、学生時代は4年間に4回引っ越しをしたそうで、、職業について更にあちこちと引っ越しました。私も、実家の父の転勤と共に3回、学生時代と勤めで6回転居したました。けれども夫とは縁があって、こうして出会って、この生活が当たり前のようにして暮らしています。
 皆さんもきっと振り返って見れば、様々な出来事があり、暮らしがあったことかと思います。どのように行き違っても、夫婦の赤い糸は決して絡まないと言われますが、私達もお互い引っ越しを繰り返しながら、こうして繋がったまま過ごしていることを思うと、本当に奇蹟だと言わざるを得ない気持ちです。
 樺太が見える日本最北端にも行って見たいと思うのですが、きっとそれは叶わない事でしよう。先日夫に「行って見ない?」と誘ってみましたが、夫は黙って首を横に振りました。夫は引き揚げ船を待つ間の爆弾の地響きと、真っ暗な船中の恐怖を、二度と思い出したくないのでしょう。
 今年の終戦記念番組は、どんな悲劇が放映されるでしょうか。よく見て、しっかり考えたいと思っています。

昭和天皇御製
樺太に命をすてしたおやめの心を思へばむねはせまりくる

香淳皇后御歌
樺太につゆと消えたる乙女らのみたまやすかれとただいのりぬる 
 1968年9月5日 稚内を御訪問、後日乙女の像に寄せられた(現在は歌碑がある)

無垢な心に還る

2012年07月18日 | 随筆・短歌
 オリンピックが近づいて、様々な大記録が紹介されています。人間の能力の限界が年と共に伸びて、毎回のように記録が更新されて、留まるところを知らないようです。そこ迄行くにはそれ相応の努力と心身の鍛錬があったからであり、その不屈な精神力に畏敬の念を抱きます。
 最近私は、生まれたばかりの赤ちゃんが、授かってきた無垢な心に引かれるようになりました。それは人間のDNAの不思議や、備え持つ体の機能ばかりでなく、未だ感情表現が充分出来ない赤ちゃんが、すでに持っている素晴らしい心に気づいたからです。
 人間は何と穢れの無い、素晴らしい心を持って生まれてくるのでしょう。心は子育てや教育で育まれるもののように思って来ましたが、そうではなく、生まれたばかりの赤ちゃんがすでに持っている心が、一番純粋で美しいのだと気づいたのです。その素晴らしさを大切に保ち続けるには、どうしたら良いかと考えるようになりました。
 赤ちゃんはめざましい発達をして、やがてことばを覚え、育て方によっては、善の心も悪の心も育っていきます。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・・・を経験する度に、次第に様々な知識が積み重ねられ、いわゆる「人間」が形成されていくのですが、その時生まれたばかりの心はどのように変化をするのでしようか。しかし、よく考えてみると、何歳になっても、自らの心にじっと耳をすませて考えれば、自分がどうすべきかは、全ての人が解るのではないでしょうか。心の奥には、紛れもなくまっさらな心があるはずのように思います。
 無知で未熟な私ですから、間違っているかも知れませんが、この常に何もない、片寄らない心で考えたら、もしそうすることが出来たら、どんなに良いでしょう。則ち生まれたばかりの赤ちゃんのような心とは、仏の意思そのものだと言ったら、言い過ぎなのでしょうか。
 私も欲が深く、金銭・健康・見栄など、それはもう我欲に満ちた暮らしをしていますから、時折人を傷つけたり、自己嫌悪に陥ったりして苦しみながら生きています。煩悩ゆえの苦しみです。
 そんな私の家に、最近家族を通して、全日本仏教会会長の禅僧・河野太通老師の墨跡を頂きました。それには「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」と力強く書かれていました。
 この本来無一物という意味を調べましたら、「禅でいう、本来執すべき何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味する」と書かれていました。普段私がよくするように、AかBかと分けて考えたり、あれとこれとと比べて考えたりしない。とらわれない。「分別相対的な観念を全くはさまない世界である」ということらしいです。則ちこれは生まれたばかりの赤ちゃんの心の状態であるようです。
 仏教では、「本来心は仏性である(誰でも心は仏である)」としていて、仏性には塵や埃はない。「空」や「無」という悟りにさえとらわれないから、煩悩・妄想の起きようがない、という心境であるとありました。
 ここまでくると私には到底届かない心境ですが、人間本来の心は、だれもが赤ちゃんだったのですから、その根源は、単純にいうと仏の心から始まったといえるようです。ですから、私達は判断に困ったり、苦しい事に出あったら、分け隔てや比べることから遠く離れて、根本の心を見つめ、静かに心に聴けば、自ずと正しい智慧が生まれるのではないかと思うのです。
 悩み苦しむ時は、ただひたすら「本来無一物」というこの言葉を思って、煩悩から遠ざかるようになれたらいいと思う様になりました。
 私達はこの墨跡に感動して、早速近くの経装店に持って行って、掛け軸にして頂くことにしました。床の間に掛けて折々眺めて、我と我が身の心を正そうと思って、今出来上がってくるのを楽しみにして待っているところです。
 このように「物」にこだわる心も煩悩ですから、言行不一致だと笑われそうです。しかし、この掛け軸を眺めながら、出来るだけ煩悩から遠い所に身を置き、日に幾度か、「本来無一物」の掛け軸を見つめることで、少しでも心平に生きて行きたいと考えています。

 おさな子がしだいしだいに智慧づきて仏に遠くなるぞ悲しき
                        (一休禅師)

明治からの風

2012年07月10日 | 随筆・短歌
 昨日(7月2日)早朝に夫は用があり、私もその近くに用がありましたので、夫の車に同乗して、この市の中心の公園前で降ろして貰いました。久しぶりにの公園の、早朝散歩をしたくなったからです。
 広い公園は綺麗に手入れが行き届き、太い幹の藤棚の下のベンチや東屋に、本を読んだりラジオを聞いたりして憩う人達が数人、静かな雰囲気に溶けていました。大きな池が左右に二つあり、左手の池は中程を木橋で渡られるようになっていて、藤棚や大きな松、刈り込んださつきなどが美しく配置されています。回りは松や大木に囲まれた、自然豊かな公園です。
 池の周りを巡ると、早朝の引き締まった空気が心地良く、誰一人散策している人は居らず、私一人の別天地でした。間もなく小高い丘があり、丘の上には明治天皇がご巡幸の折、ここでお休みになられたとありました。 直ぐ傍に幹の太さが2mくらいの大きな黒松がありました。これは昭和天皇が皇太子でいらした大正5年(1916年)地方ご見学の折、明治天皇がご休息になられたこの地で、往時を忍び小さな松をお手植えになられたということです。今日までには、戦争を始め様々な出来事があり、その長い時間に思いを馳せました。
 この公園は、平安中期ニ建てられたとも言われる神社と共にあり、本殿の創設は正保4年(1647年)と言われていて、庭園は明治6年に全国に25の公園が出来た時に、寺社の土地を整理して、出来たたものだそうです。神社はその後大正13年に県社となりました。
 又その先の回遊の道脇には、コートをヒラリと返し、手をベストのポケットへ入れた立派な銅像があり、これは明治5年に県令として来られた楠本正隆という人です。後に東京府(現、都)知事になり、衆議院議長をされた人です。長崎県の大村郷の上士(士族の最高の身分)でした。新政府の初の県令としてこの地へ来られたのです。
 明治5年で思い出したことがあります。私が20代の頃に、実家の土蔵に保管してある古文書や沢山の古銭、翡翠の曲玉などを見たことがありました。その折り父が明治5年発行の50銭銀貨を一つ、私の手に載せて呉れました。新政府になって発行されたものですし、今は大した価値がある物ではないでしょう。しかし父の気持ちをありがたく思って、今も宝にして持っています。
 私達夫婦は長崎へ何度か行きましたが、大村湾を眺めてゆったりと行ったり、時には大雨で突然列車が諫早で運休となり、乗り換えてやっと船に乗れたこともあって、大村は懐かしい所です。
 その大村の楠本家から、お庭の水鉢がその後この公園に寄贈され、高さ1メートル余り、胴の回りが1メートルはあるかと思われる水鉢が置かれていて、今も竹の樋から水が細く流れていました。黄色ががった茶色で、見事な大きさのものでした。水を受けるくり穴も大きく、小石が沈められてしいました。余程大きな庭園だったのでしょう。
 右の池は、今がハスの季節ですから、ピンクの大きな花が池全面を覆って沢山咲いていました。池の回りを回りましたら、獅子山といって、様々な獅子が沢山置いてある小山もあり、此処もちょっとした想い出の場所です。
 子供たちが幼かった頃に良く来た公園でしたし、想い出に浸りながらの朝の静かな散策はとても素晴らしいものでした。百度石があったり、忠犬タマ公の銅像の前に立って、その説明文を今回は丁寧に読みました。タマ公は、昭和9年にこの県の山際で、雪崩で遭難した飼い主の刈田さんを救い出し、更に昭和11年に雪崩の下敷きになった刈田さん他3名を救ったそうです。このことが新聞やラジオで知らされると、小学生達が1銭2銭と寄付してこの銅像を建てたといいます。戦争で胴・鉄の回収があり取り壊されましたが、昭和34年4月10日に、皇太子殿下(現平成天皇)ご成婚を記念として再建されたそうです。
 アメリカでも渋谷の忠犬ハチ公をモデルにして、映画を作りましたが、こんな忠犬もいたのです。
 庭園にはヒマラヤサクラという珍しい木もあり秋から冬にかけてピンクに咲くそうです。ヒマラヤから中国南部に有るサクラだそうです。また戊辰戦争の時にはこの境内も激戦地となり、弾丸が飛び交って、木々も倒れました。たった一本、皮一枚で残っていた松があり、「戊辰の松」と呼ばれて大切にされていたそうですが、昭和40年の台風で倒れ、今はその場所に「平和」と書かれた大きな石碑が当時の知事の名前で建っています。昭和40年の台風は、我が家も二階が揺れて恐ろしく、生まれて数ヶ月の娘を毛布にくるみ、ミルクを抱えて居間で家族五人がまんじりともせずに夜を明かした覚えがあります。
 池のそばの見事な藤には、白い花が少し咲いているものもありました。私の実家の白藤はこれよりも小さかったですが、株は古く懐かしく思い出されました。実家の物故者名簿を纏めた弟の資料に依ると、一番古い物故者は享保元年とありますから、実家の白藤も結構古かったのでしょう。もう無くなりましたが、私達の心には想い出として残っています。
 子供たちと来た頃のこの公園には、サルも鳥もいろいろ居たのですが、サルは「ただ今病気治療中」とあり、鳥舎は空で、良く豆をやった鳩だけがエサを拾っていました。一巡りした後で正面から、拝殿に登り柏手を打つと、両脇に子供を連れた往時の自分の姿が、ありありと脳裏に浮かんで来ました。沢山の歴史を抱えたこの神社の庭園の、朝の素晴らしい雰囲気に親しめたことを深く喜びました。

明治から吹く風今もめくるめく思いは深し行き交いし人(あずさ)
 

縁切寺

2012年07月02日 | 随筆・短歌
 「♪今日鎌倉へ行ってきました。二人で初めて歩いた街へ・・・」さだまさしの「縁切寺」という歌の出だしです。愛していた人が突然別れの言葉を残して去って行った。三年後に再び恋人を偲んで、源氏山から北鎌倉へと、あの日と同じ道をたどり「縁切寺」に出ます。
 愛し合っていた頃は、「此処だけはよして。貴方との縁が切れたら生きて行けない」とまで言って縁切寺を嫌った人に思いを馳せながら「紫陽花までは未だ間があるから、こっそりと君の名を呼ばせて下さい」と切々と歌います。そして「あの時」に撮ったたった一枚だけの二人の写真を縁切寺に納めるのです。しみじみと温かくせっない歌です。
 娘が亡くなってもう14年が経ちました。鎌倉へはもう何回行ったか分かりませんが、鎌倉駅から若宮大路を上り、八幡宮をお参りして、そこから建長寺へ行きます。此処は鎌倉五山の第一番の臨済宗の寺院です。中国からの渡来僧「蘭渓道隆」によって開山された名刹です。ゆっくりと境内を巡ってから、つぎの浄智寺へ行きます。静謐という言葉がぴったりの静かなたたずまいのお寺です。この静けさの中で、心を研ぎ澄まし、風の音や小鳥の声に耳を傾けます。あまり訪れる人のいないお寺ですが、飾らない静けさと言う点で、大好きです。そのまま下れば次は東慶寺です。此処は「縁切寺」と呼ばれて有名なので、皆さまの中にも行かれた方が多いと思います。
 今はお花の寺としても有名になってきているようですが、私達には、有名人のお墓が沢山あるお寺として忘れられません。和辻哲郎・西田幾多郎・阿部能成・鈴木大拙と言った著名な哲学者のお墓が木漏れ日の下に静かに点在しています。
 大きなお墓ではなく、ささやかなお墓が多く、緑の小木に囲まれて、ひっそりと訪れる人を迎えてくれています。小道を巡りつつここは誰、ここは誰と言いながら手を合わせて回ります。自然に心が和みます。私にとっては学者として名高い人々と言うだけで、私にはその方々の業績を評価する能力があるわけではありません。墓石から立ち昇る学問の雰囲気に、身の引き締まる思いがするのです。その雰囲気が何故か大好きなのです。
 このお寺は、1285年に北条時宗夫人覚山尼が開山したお寺で明治36年までは尼寺でした。江戸時代に豊臣秀頼の娘奈阿姫(千姫の実子ではなく養女)が、大阪夏の陣以来天秀尼となり、東慶寺20世住持となりました。この時代に縁切り法が確立されたと言われています。以来寺は「縁切寺」「駆込み寺」として有名になりました。1643年会津藩主加藤成明が家臣団と対立し、家老の堀主水を殺害した後、東慶寺に逃げ込んだ堀の妻子を引き渡すよう要求してきましたが、天秀尼が一歩も引かず断った話は有名です。
 松ヶ岡宝蔵には、縁切り状の実物や呼び出し状が今も残っていて、妻からの離婚が難しかった時代の名残として、貴重な資料となっています。水月観音などはあらかじめ申し込みが必要になりましたが、優れた仏像や様々な資料は価値あるものです。
 東慶寺の筋向かいの小さな川に沿って少し登ると明月院です。紫陽花寺として有名です。多くの人に踏まれてすり減ったた石段の両側に、見事な青い紫陽花が長く続いて咲き乱れ、それは見事です。上り詰めるとこぎれいな方丈があり、振り向くと美しい石組みや流れるような白砂、形良く刈り込まれた植え込みの枯山水の庭園が眺められます。 方丈の壁を丸くくりぬいて、後ろの庭園が眺められます。開山堂や取り囲む木々からイオンシャワーを浴びて、それはそれは心地良いお寺です。帰りは石段を下りずに木陰の紫陽花群を通り抜けると、明月院ブルーと言われる花全体が青い原種の紫陽花も見られます。
 通りの途中の茶屋については、とても懐かしく、感慨深かったことを以前書きました。
 鎌倉は、娘が結婚した年に、娘夫婦と共に歩いた想い出深い場所です。最後は、やはり宋の禅僧「無学祖元」が1282年に創建した臨済宗の「円覚寺」です。山門から仏殿・方丈と一直線に並び、左側に禅堂があります。また国宝の舎利殿も中へは入れませんが、入母屋造り・こけら葺きのお堂が歴史を感じさせます。右の小高い山の上に国宝の梵鐘があり、その巨大な梵鐘が見たくて、無理をして登って足を痛くしました。
 何回行っても必ず寄りたくなるのは、縁切寺のお墓と明月院です。
 「人の縁とは不思議なもので・・・」とさだまさしは歌っていますが、出会いも別れも人に限らず、仏像や、お墓や、紫陽花や、小さな茶店であっても、その時しか出会えないという、不思議な縁を感じないではいられません。

 露を抱く青あじさゐに包まれて明月院に深き鎮もり (あずさ)
木漏れ日を受けて閑けき墓地巡る縁切寺のあの日あの時(あずさ)