何故か解りませんが、家族がそれぞれとても不思議なことに出会い、それが全く偶然でありながら、もしかして神の意志に依る必然なのか、と思えるほどの出来事に立て続けに出合いました。
それは私達を思い掛けない方向に導いて下さったり、思うようにすらすらと何の支障もなく、困難なことを達成させて頂いたり、そして次の良いことに連なるという体験です。
作家の遠藤周作も、そういう何とも説明出来ない不思議な体験をして、そこから人生が変わったりした経験があり、多分誰もが一度や二度は、同じように不思議な、奇蹟としか言えない出来事に遭遇しているのであろうと書いていますから、皆さんもきっとそんな経験をなさったのではないかと思います。
最近心に残ったのは、遠い祖先のお墓を今年初秋に訪ねた時に、予め地図に依って教えて貰った道が、今はとても通れない草深い道になっていて、正しいと思って入った道が、どうやらお墓の在る位置からどんどん離れていくのに気付きました。そこで少し戻った時、たった一軒小高い所に建っていた家のおばあさんが、偶然ひよっこりと外に出て来られ、お聞きすることが出来、無事にお墓に辿り付きました。
人が家から外に出るのは、掃除や花鉢の水やりだったり、外出は、ほんの限られた短い時間で道路に出てしまい、この家の住人として認識される時間は本当に僅かな時間でしかありません。たまたまその好機を与えて下さったのは誰なのか、等と後々まで家族でその不思議について話し合いました。そこでお聞きしなかったら、長い年月の間に変わってしまった場所をうろうろするばかりで、私達はお墓にたどり着けなかったでしょう。
雷雨の予報の日の朝に、未だ降って来ないからと歩きに出て、40分歩いて、あと家の門まで5メートルくらいの所で急な雷になり、家に駆け込んだ途端に大雨になったとか、お天気に関する危機一髪の体験は良くあることてす。
列車一本遅ければ、次の列車が事故で予約の飛行機に乗れなかったとか、何故か遙か遠くに住む、全く無縁で過ごして来た見知らぬ人に巡り会い、その方の親切に触れて、自分の進む道が変わったとか、これはもう誰かのお陰としか言いようの無い出来事と言えます。
以後誰がそのように導いて下さったのか、全く説明出来ない不思議の連続でした。日頃は考えも及ばない人達との交流も生まれ、本当に不思議だらけと言えます。
格別気にしないでやり過ごせば、それはそれで気付かずに過ぎてしまうということも多いでしょうが、それを大いなる方のご加護と考えれば、何という有り難いことかと、その奇蹟とも言える出来事に感謝します。
私達は日常の生活の中で、数々の「偶然」に出会っている筈ですが、これを単に運が良かったと思うだけでやり過ごしてしまうのですが、これを何かに助けられたと考えたらどうでしょう。心の温もりも感謝の気持ちも、より深まっていくことでしょう。
幸不幸はあざなえる縄の如しと言われますから、不幸も矢張り突然にやって来て、何故私が、と思うこともあるでしょう。しかし、不幸な経験もその後の自分の生き方に無駄ではなかったと思え、過ぎてしまえばかけがえのない経験として、苦難も必要なものだったと理解出来ます。
そう思えば、私達の人生も、一見昨日の続きであり、何の変化もなく、続いているようですが、じつは奇蹟的な事の連続なのではないか、とさえ思えます。
毎日、新聞・テレビ・書物等様々なものから情報を得て、自分なりに解釈して生活していますが、何を見るか、何を聞くか、そしてそれをどの様に解釈するかで、その先の人生が変わってゆくのですから、矢張り一つ一つの小さな出来事も偶然であり又奇蹟の一つで、その連続が人生だと言える気がします。
ではやる気を起こす力は全て自分の努力か、と言えば、それも誰かの手によって背中を押されたりしていて、100%自分の力とは言えません。多くの人達に陰に陽に励まされ慰められ、お世話になっていると言えましょう。
そして月日を重ねて老いた時、遅ればせながらでも、そこまでの人生を、目に見えない力に支えられて来たことに気付き、感謝出来るようでありたい、と思います。
最後に坂村真民の詩を載せて、生きる意味を考えてみたいと思います。
「老いること」
老いることが
こんなに美しいとは知らなかった
老いることは
鳥のように
天に近くなること
花のように
地に近くなること
しだれ柳のように
自然に頭のさがること
老いることが
こんなに楽しいこととはしらなかった
「念じてください」
念じてください
日に
月に
星に
手を合わせて
念じてください
木に
石に
地球に
額をつけて
念じてください
病に苦しむ人たちのために
貧しさに泣く人たちのために
痩せ細りゆく難民達のために
念じてください
少しでもお役に立つことのできる
人間になることを
そして生きてきてよかったと
自分に言える一生であるように
二度とない人生だから
かけがおのないこの身だから
それは私達を思い掛けない方向に導いて下さったり、思うようにすらすらと何の支障もなく、困難なことを達成させて頂いたり、そして次の良いことに連なるという体験です。
作家の遠藤周作も、そういう何とも説明出来ない不思議な体験をして、そこから人生が変わったりした経験があり、多分誰もが一度や二度は、同じように不思議な、奇蹟としか言えない出来事に遭遇しているのであろうと書いていますから、皆さんもきっとそんな経験をなさったのではないかと思います。
最近心に残ったのは、遠い祖先のお墓を今年初秋に訪ねた時に、予め地図に依って教えて貰った道が、今はとても通れない草深い道になっていて、正しいと思って入った道が、どうやらお墓の在る位置からどんどん離れていくのに気付きました。そこで少し戻った時、たった一軒小高い所に建っていた家のおばあさんが、偶然ひよっこりと外に出て来られ、お聞きすることが出来、無事にお墓に辿り付きました。
人が家から外に出るのは、掃除や花鉢の水やりだったり、外出は、ほんの限られた短い時間で道路に出てしまい、この家の住人として認識される時間は本当に僅かな時間でしかありません。たまたまその好機を与えて下さったのは誰なのか、等と後々まで家族でその不思議について話し合いました。そこでお聞きしなかったら、長い年月の間に変わってしまった場所をうろうろするばかりで、私達はお墓にたどり着けなかったでしょう。
雷雨の予報の日の朝に、未だ降って来ないからと歩きに出て、40分歩いて、あと家の門まで5メートルくらいの所で急な雷になり、家に駆け込んだ途端に大雨になったとか、お天気に関する危機一髪の体験は良くあることてす。
列車一本遅ければ、次の列車が事故で予約の飛行機に乗れなかったとか、何故か遙か遠くに住む、全く無縁で過ごして来た見知らぬ人に巡り会い、その方の親切に触れて、自分の進む道が変わったとか、これはもう誰かのお陰としか言いようの無い出来事と言えます。
以後誰がそのように導いて下さったのか、全く説明出来ない不思議の連続でした。日頃は考えも及ばない人達との交流も生まれ、本当に不思議だらけと言えます。
格別気にしないでやり過ごせば、それはそれで気付かずに過ぎてしまうということも多いでしょうが、それを大いなる方のご加護と考えれば、何という有り難いことかと、その奇蹟とも言える出来事に感謝します。
私達は日常の生活の中で、数々の「偶然」に出会っている筈ですが、これを単に運が良かったと思うだけでやり過ごしてしまうのですが、これを何かに助けられたと考えたらどうでしょう。心の温もりも感謝の気持ちも、より深まっていくことでしょう。
幸不幸はあざなえる縄の如しと言われますから、不幸も矢張り突然にやって来て、何故私が、と思うこともあるでしょう。しかし、不幸な経験もその後の自分の生き方に無駄ではなかったと思え、過ぎてしまえばかけがえのない経験として、苦難も必要なものだったと理解出来ます。
そう思えば、私達の人生も、一見昨日の続きであり、何の変化もなく、続いているようですが、じつは奇蹟的な事の連続なのではないか、とさえ思えます。
毎日、新聞・テレビ・書物等様々なものから情報を得て、自分なりに解釈して生活していますが、何を見るか、何を聞くか、そしてそれをどの様に解釈するかで、その先の人生が変わってゆくのですから、矢張り一つ一つの小さな出来事も偶然であり又奇蹟の一つで、その連続が人生だと言える気がします。
ではやる気を起こす力は全て自分の努力か、と言えば、それも誰かの手によって背中を押されたりしていて、100%自分の力とは言えません。多くの人達に陰に陽に励まされ慰められ、お世話になっていると言えましょう。
そして月日を重ねて老いた時、遅ればせながらでも、そこまでの人生を、目に見えない力に支えられて来たことに気付き、感謝出来るようでありたい、と思います。
最後に坂村真民の詩を載せて、生きる意味を考えてみたいと思います。
「老いること」
老いることが
こんなに美しいとは知らなかった
老いることは
鳥のように
天に近くなること
花のように
地に近くなること
しだれ柳のように
自然に頭のさがること
老いることが
こんなに楽しいこととはしらなかった
「念じてください」
念じてください
日に
月に
星に
手を合わせて
念じてください
木に
石に
地球に
額をつけて
念じてください
病に苦しむ人たちのために
貧しさに泣く人たちのために
痩せ細りゆく難民達のために
念じてください
少しでもお役に立つことのできる
人間になることを
そして生きてきてよかったと
自分に言える一生であるように
二度とない人生だから
かけがおのないこの身だから