ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

美しい日本語が崩れて行く

2018年05月23日 | 随筆
 論語に「過ぎたるはなお及ばざるが如し」があります。「何事もやり過ぎることはやり足りないことと同じようによくない」ということです。日本語ほど豊かに表現出来る言語は無い、といささか自意識過剰かも知れませんが、誇りに思っている私です。例えば、雨という文字を使った表現は400以上あると言います。このことからも、如何に表見が豊かか、推察出来るというものです。
 そんな言葉の中で日々を過ごしていて、最近良く使われる言葉で、「美し過ぎる」とか「美味し過ぎる」と言う言葉が気になります。先の論語によっても、これは「美しい」「美味しい」を過ぎているのですから、言わば良くないと言っていることになります。もし、美しさや美味しさを次第に高めて行く曲線で描いてみると、頂上を過ぎた状態を表現していることになり、言わばピークを過ぎた状態です。
 最高の美しさより、行き過ぎて下りに掛かっています。この表現を「これ以上の美しさは無い位」とでも言いたい時の、感動の言葉として使っているところに、間違いがあります。
 某国大統領の娘さんは、私には、ウットリする位美しいと思われます。昔活躍した名女優の、イングリッ・トバーグマンの「カサブランカ」の別れのシーンでの、あの霧にけむるような美しさも、想い出されます。「美し過ぎる」と言ったら、失礼にあたりませんか。
 又、最近の官僚の国会答弁を聞いていますと、何時の間にこんな言葉が国会で使われるようになったのか、と気になる言葉があります。
 それは、「○○と聞いてございます。」などの言葉です。末尾に「ございます」をつければ、丁寧な返答になっているとでも言いたいようですが、最高学府を出た人とも思えない言葉遣いで、とても残念です。「聞いています」で十分だと思います。心を尽くすつもりなら、嘘やごまかしのない正確な答弁が最良の方法だと思っています。
 日本人とてしての「正しい言葉づかい」をこのような人であればこそ、そしてテレビなどを通して多くの人達に伝えたい事であればこそ、一層正しく使って欲しいと願うのは、私一人ではないでしょう。「言葉の乱れは心の乱れ」で、だんだん品格が下がってしまいます。
 言葉など、どうでもよい、という訳にはいきません。簡潔でも誠実に答えれば、心は伝わります。嘘で言いくるめようとしたら、一層反感を持たれるばかりです。立場上言えないこともあるのかも知れませんが、それを率直に言ってお詫びすれば多分理解されるのに、「記憶の限り存じてございません」とは・・・。何時から突然に、この方は記憶喪失症になったのでしょうか。更に自己に都合の良い事は、鮮明に記憶しているのは不思議な事です。 残念なことですが、記憶の限りと限定すること自体が、已に疑わしい言い方ですね。こういう事が国民の政治不信を高める原因になっていると思います。
 記憶力も下り坂の状態に近い私の記憶の方が、もしかしたら正確なのか、と不安を感じる位です。優れた能力を持っておられる皆さんなのですが「はやくかえってきてくだされ。はやくかえってきてくだされ。」とようやく書けるようになった平仮名で書いた、野口英世の母親の真実の叫びには、遠く及びません。国民が安心して頼れるような、正直で正確な議論を、正しい言葉遣いでしていただきたいと願いつつ、テレビを見ています。
 学問を積んだわけでもなく、本を沢山読んでいるわけでもない私のような一介の老女が、このように物を申すのは、生意気で恥ずかしい事だと思っています。しかし私の亡き後を生きる、この国の全ての人達の幸せを願う時、今言わなければ、とも思うのです。
 優れた言語を使っている日本人が、常用語としている言語を正しく使うことをしないのは、とても残念です。自ら進んでこれを踏みにじり、訳の分からない言葉へと変えていく現状に、たまらない焦燥感を感じながら、何とか正しい方向に、と願っています。
  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五月の風に吹かれて

2018年05月10日 | 随筆
  五月の風が全身を心地良く撫でて吹いています。ゴールデンウィークが終わりました。こどもの日は、お子さんやお孫さんが居られるご家庭では、きっと家族で何処かへ出かけられたりされたのだろうと、懐かしく推察しています。
 わが家では、家の東や南側の庭に置く花鉢に、新しい花を植え換えたり、夏のお座敷の外に、例年のように朝顔で緑のカーテンを造るべく、色とりどりの大輪の朝顔の苗をならべて植えたりしました。 
 また、物置のテラス前に目隠しとして(物干し竿が見えないように)建仁寺垣を造ってあるのですが、毎年この連休中にその竹の汚れ落としをすることが、慣例になっているのです。
 苔庭と石池の組み合わせなので、苔の胞子が飛んで竹の隙間に入ったり、黄砂が入りこんだりして想像以上に汚れています。
石池の周りの灯籠や松、サツキ(お助けサツキも)などの植え込みの他に花鉢も置いたりして、夫は自分の部屋の安楽椅子から、私は居室としている居間の窓から、花々の眺めを楽しんだり、日々の花殻摘みや水やりの管理も楽しみの一つにしています。
 今春は、胸丈程度になっているドウダンツツジのごく一部だけに、何時もより早く白い花が咲きました。驚いているとやがてその白い花が終わる頃に、他の全ての枝に例年通り花が咲いてホッとしました。初めての出来事で、こんな事もあるのかと不思議でした。天候不順のせいでしょうか。
 また何本もある椿のうち、毎年赤い大輪を咲かせる椿がありますが、下枝の一部分にのみ、赤に白の絞り入りの花を付ける椿があります。今年も同じく、いつもの場所に絞りの大輪が幾つか咲いて、年々違わずに一本の木に二種類の花を付けるこの椿に、私は何となく見えない細い縁(えにし)の糸で繋がっているように思わせられるのです。奈良の白毫寺で見た五色の椿のような変わり咲きに、何故なのかと思いつつ気に入って大切にしています。
 白毫寺は幾度目かの奈良で、朝一番の訪問寺として、長い石段(百段はあるとか)を登りましたら、未だ開門に間があって、二人で門前の石段に並んで腰を下ろし、奈良の街を小高い場所から遙かに見渡していた事がありました。
 五色の椿は春でしたから満開に咲いていて、赤、白、ピンク、紅白の絞りなど様々な椿が、樹齢400年を越えると言われる一本の木に処狭しと咲いていて、本当に不思議でした。門を開けて下さった方が、丁寧に教えて下さって、仰ぎ見ながら色の違いに感動しました。一本の樹に何故色々な違う色の花が咲くのか、自然の営みの不思議さは、とても推し量れるものではないと眺めて来ました。
 白毫寺では、閻魔様や悪行を木簡に記しているものもいて、静かなお寺で珍しく拝観させて頂いて来ました。最近は拝観出来ないようで、良い時期に見せて頂いたようです。
 そこからは新薬師寺へ行き、「新」とあるのにこのような古い時代の、怒髪天を抜く想像以上に大きい十二神将にお目にかかったのでした。更に十輪院、奈良町、飛鳥時代の日本最古の薄い赤瓦の部分のある元興寺など。興福寺や東大寺から戒壇院、二月堂など、振り返れば幾日か掛けて精力的に見て回った過去が彷彿と浮かびます。
 唐招提寺では、鑑真和上の像に取り分け心を引かれました。細かな記憶は年々忘れてしまいますが、感動して拝観した仏像や寺院の様子などは、今もしっかり記憶に残っています。先日地図を見ていて、「鑑真和上上陸地」という表示がある所を見つけました。そこは、現在の鹿児島県の南さつま市坊津町秋目です。
 日本の律宗の始祖になった唐の高僧・鑑真和上は、聖武天皇の招聘により、日本に渡航しようとしましたが、暴風や密航差し止めに会い、5回も失敗を繰り返し、目も見えなくなって、それでもくじけることなく、ようやく天平勝宝5年に日本に上陸したのです。ここから奈良までの道のりも、さぞ大変だったことでしょう。
 何故このように嵐に遭いつつ身は盲目となられても、苦難を乗り越えて日本をめざしたのか、それはみ仏のご意志としか言えないように思います。
 奈良の西の京の唐招大寺に行けば、芭蕉が「若葉して御目の雫ぬぐはばや」と詠った像があります。現在は工事中らしいですが。以前は、直接その像が間近に拝観できました。本当に目から涙が零れ落ちているように見える像で、何度見ても震えるような感動を覚えます。
 芭蕉は鑑真和上は泣いていらっしゃると感じたのでしょう。確かに片方の御目から、涙が少し零れているように思えます。和上の像を造った人がそう作ったのでは無いでしょうから、和上の涙には渡航の苦難が伝わって来て、一層芭蕉の句が身につまされます。後に鑑真和上の像は、少し薄暗く思える安置所に移されましたから、像との距離があってハッキリとは見えないように思えて残念です。
 鑑真和上は東大寺に入られ、戒を授ける儀式が出来るようにするのですが、この改革を心良からず思う良弁僧都は、鑑真和上を東大寺から追放して、西の京の荒れ寺に追いやられるのです。三条大路を下りながら、付き従う者達は振り返り振り返り「何故このような目に遭わなければならないのか」と憤慨します。和上は見えない目で「これで良いのだ」と言われて、すきま風の通う荒れで寺に移られ、生涯を過ごされました。現地はその後の姿です。 何故鑑真和上が、其処までして日本に仏教を根付かせようとされたのか、単に聖武天皇の招聘があったからだけでは、五回も死線を越えて、ようやく六回目に渡来した理由にはなりません。鑑真和上のお陰で日本仏教界にも、ようやく秩序ある修行のシステムが確立され、今日まで仏教を極めた偉人か輩出されたのですから。言わば日本仏教の恩人だと、尊敬しています。
「おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」と会津八一の歌碑もあります。西の京には、東西の立派な塔が揃った薬師寺もありますが、鑑真和上を尊敬していますし、「まろき柱」にも引かれて、古い大きな御堂に仏像の並んでいる唐招提寺が好きです。
 初めて奈良へ行ったのは、高校時代の修学旅行でしたが、以来何回訪れたのでしょうか。「やまと は くに の まほろば」で京都と合わせて私の大好きな地です。
 連休が終わった5月6日が、長い間、私達の旅の始まりの日に決まっていました。春は毎回一週間から12~3日は出かけていました。何年このような幸せな時間を過ごしたことでしょう。
 今も若葉が目にしみるほどに美しいだろうと、奈良を懐かしみつつ、「幸せな人生を過ごさせて頂いた」と感謝しているところです。
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする