ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

正月に読んだ本から

2019年01月22日 | 随筆
 正月はもう遠い過去になりつつありますが、多くの日本人が休日である「正月休み」をどう過ごすか、皆さんも良く考えて計画的に過ごされたのではないでしょうか。
 去年の暮れのBS11イレブンで、評論家で多摩大学学長・教授の寺島実郎氏は、「正月休みにお勧めの5冊」の本を紹介しておられました。私は政治も経済も疎いのですが、この時間は大抵、夫と二人で毎週テレビを観ています。学ぶことが多い時間で、殆ど無知に近い私には、大いに勉強になります。夫に解説して貰いながらですし、次から次へと聞いては忘れますから、何が役立ったか、と聞かれても答えようのない有り様です。
 でも早速書店に出かけて、寺島先生ご推薦の5冊の中から面白そうな一冊を買って来ました。それは「神童は大人になってどうなったのか」(小林哲夫 太田出版)というものでした。とても興味深く読みました。
 「そもそも神童って何だろう」の章で「神童のIQを測ったらすごかった」では、世界の偉人のIQが載っていました。キャサリン・コックスの調によると
 IQ 210がゲーテ、195 パスカル、 190 ニュートン、 185 ガリレオ、 180 レオナルド・ダ・ヴインチ、175 カント 、170 ルソー、ワグナー等々とても書き切れない天才がひしめいていて、当時の時代性もあるのでしょうが、文学者や哲学者が上位を占めていました。
 メディアが伝える現代の偉人では、物理学者のアインシュタインのIQは145だそうですが、こんな逸話に感動しました。
 「アインシュタインがノーベル賞受賞直後、近くに住む少女に数学を教えていた。少女の母親が娘の家庭教師がノーベル賞学者であることに驚いて、ただただ恐縮して深くお礼を言うと、アインシュタインはこう言ってのけた。『私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっています。それゆえ、礼など必要ありません 』と。」何と謙虚で感動的な言葉でしょう。アインシュタインは教え子である少女の心の中に、「人間本来の意識」を見出していたのでしょう。
 江戸時代後期の名僧「良寛禅師」が子供達と遊び戯れることを好んだことは有名な話ですが、私は両者に共通する意識があったのではないか、と勝手に想像して心温まる思いが致しました。

 また、ノーベル賞受賞者の多い大学は、「1位ハーバード大 151人、2位コロンビア大 101人 3位ケンブリッジ大 90人」「5位マサチューセッツ工科大 83人」「7位オックスフォード大、スタンフォード大 58人」等となっていて、残念ですが、16位までに日本の大学は入っていません。日本では京都大学が第一位だと聞いています。
 神童は大人になってどうなったか、を簡略に書くと、それぞれ取り組んだ分野で相応の力を発揮して、自立した立派な人物になった、と纏められると思います。
 可成り手前勝手に云いますと、私は木村草太という首都大学教授(憲法学者)が歯切れが良く解りやすく話して下さるので(テレビで)、尊敬出来る学者だと思っています。杉田敦(法政大学教授)、山口二郎(法政大学)の両教授も、若くして名前の知れた教授です。
 これらの天才は、努力をして天才に変わったのではなく、その基礎にIQや素晴らしい芸術のセンスがあって、加えて日夜を問わない努力を積み重ねた、ということでしょう。
 考えてみると直ぐに解ることですが、努力によってのみ、運動の優れた瞬発力が身に付くわけもなく、非凡な才能なしには、名作は書けません。優れた外交官の家系や、学者一族も出ていて、それを裏付けています。
 アインシュタインは、 『天才とは努力する凡才のことである。』と云っています。また『挫折を経験した事がない者は、何も新しい事に挑戦したことが無いということだ。』などの言葉も考えさせられます。
 ここでちょっと立ち止まって考えたいことがあります。それはIQだけ優れていても、人間を幸せにすることは出来ないということです。人間として優れている事が何より大切だと思っています。この世の多くは平凡な人達ですし、命を頂いて生きて行くのですから、過ごしやすい世の中を作るために何をしたか、が重要です。国の政策は優れたIQの人達の能力を頼みにしたとしても、日頃身近な世の中を構成している私達のような一般人としては、矢張り豊かな心を持つ事が大切ではないか、そういう方向への努力が必要なのではないかと思うのです。
 ストレスに満ち溢れた今の世を、生き抜くのは容易ではありません。こんな時代に人々が求める人材は、必ずしもIQの高い天才ばかりではありません。どう生きたら生き易いか、温かい灯火を照らしてくれる人を期待しているのではないでしょうか。
 市井(しせい)の中に埋もれた無名な人に、これに該当する人が結構居るのではないではないか、とも思えます。大変勿体ないことだと考えます。今年はその様な方に光を当てて、温かい気持ちになれるような年であって欲しいと祈っています。
 

みんな違ってみんないい

2019年01月09日 | 随筆
皆様明けましておめでとう御座います。今年は平成天皇のご退位と新天皇のご即位という、歴史の節目の年となります。昨年のような災害に遭うこともなく、平和な年でありますように祈りつつ、私も心を引き締めて努力したいと思っています。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

金子みすずの詩に「わたしと小鳥とすずと」があります。多くの人が知っているものですが、次に掲載させて下さい。

  わたしと小鳥とすずと 金子みすず(1903~1929)

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

 温かく清らかな詩で、私の大好きな詩です。最近のニュースを見聞きして、しみじみと感じることがあります。人間は、誰しも自分を大切に思い、家族を友人を知人を大切にしています。それはこの地球に生きとし生けるもの全てに共通するものだと思われます。
 例えば、百獣の王といわれるライオンも、空駈ける小鳥も、土の下に住むモグラやミミズも同じです。それぞれにふさわしい所で生きて、何かの役に立って、結果としてみんなで地球を支えています。
 それぞれの生物は、それぞれ別の生物を食して生きています。AがBをBがCをCがAをと言うように、丁度円を描くように回っていて、終わりがありません。特別の事が起きない限り、種は絶えることなく永久に次々と命のバトンタッチをして行っているのです。
 人間社会も、一見バラバラな人間の集まりの様ですが、それぞれが自分に出来る範囲の役割を果たして、この社会は保たれています。健康な人、病気の人、気の強い人、弱い人、スポーツが得意の人、芸術家、政治家などなど。
 もっと言えば、社会の人々に迷惑を掛けたりする人もいれば、多くの人々の役に立つ人が居て、それぞれみな社会の中でバラバラに存在しているようですが、良く考えると、お互いにその役割を果たして、社会が成り立っていると言えそうです。
 私達は相手の人間性を観察して、自らの足りない点をそこから学んで成長して行きます。罪を犯した人を見て己を律したり、相手に哀れみをかけたりする、犯罪を犯した人もそうでない人の心の清らかさに打たれて反省する、そう考えてゆくと、この世に不要な人は一人もいない事になります。
 今、此処に100人の、全員知能の高い人ばかり揃えて何か同じことをさせたら、しばらくすると、その集団はどうなると思われますか。何時か何かで読んだのですが、必ずその集団の中で、更に頭角を現す人が出てくる一方、優秀であった筈なのに落ち零れたりする人もあって、デコボコの100人になるというのです。それだけ揃えば、立派な成果をあげるに違いないと誰しも思うのですが、そうは行かないと言うから不思議です。
 大勢の集団には、優れている人とはみ出したり遅れてしまう人が出て来て、初めて人間同士、支え合い助け合って良いチームとなっていくと云うのですが、それは私にも解る気がします。
 上手く仕事が出来ない人を見て、「私はあの人よりは仕事が出来る」と思って自信が生まれる。「私は不器用だけれど真面目な人間だ」「仕事は優れている訳ではないが、笑わせて周囲を和ませている」等々、不思議なことですが、このようにして社会が円満に成り立つもののようです。落ち零れることも人の役に立っていると言えます。
 マラソンでもトップもあればビリも居て成り立っていますし、コーチのような人、競技役員、応援する人など、一つの競技でも、それぞれ別の役割を分担して、その役割を誇りとして協力し、大会を成功させています。それぞれが出来る事、出来ない事があり、お互い補い合っています。
 金子みすゞの詩のように、みんな違った役割を果たしていて、その行いを肯定してよしとする人間の心の美しさを、ひしひしと感じます。
 リーダーになる人は、落ち零れた経験を持つことによって、より優しくより強いリーダーに育ちます。切磋琢磨と言いますか、玉や石を磨くように、学問や道徳を身につける事に勉め、日々励んでやまないとか、仲間どうし互いに励まし合って生きて行くことを大切にしたいものです。
 人間の能力を学力だけで計ったりせず、スポーツや芸術などや、優しさや厳しさなど、様々な方向から眺めたいものです。全ての人間は様々な能力の芽を内に潜め持っているのですから、それに早く気付いて、伸びるべき芽を伸ばせたら幸せですね。
 恐らく人間は沢山の能力を持ちながら、気づかないまま、一生を終えることも方が多いのではないか、と私は思っています。実に勿体ないことではあります。
 一方何かの拍子に誰かと出会い、それが契機となって前途が開ける人も多いようです。自分の良い所を探したり、「好きこそ物の上手なれ」で好きな事に力を注ぐとか、備え持つ能力を考えたり、「自分は何も出来ない。駄目人間だ。」などと決めつけないで、のんびりした休日などには、長所探しをしたらどうでしょう。
 たとえ何歳になっても、そのように考えることが、それから先の生き方を一層充実させてくれるように思えます。
 きっと「みんな違ってみんないい」と詠うみすゞの心が、ひたひたと浸み込んで来て、満ち足りた日々が送れるのではないでしょうか。