ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

見送る・送られる

2022年08月07日 | 随筆
 見送る月・見送られる月と云えば三月~四月を思い浮かべます。数多くの別れや新生活の始まりがありました。しかし近年は転勤も時を選ばず、別れも見送りも年中見かける風景になりました。結婚式も春や秋とは云わず夏にも冬にも行われて年中ですから、当然旅立ちも年中になりました。
 電車の停車時間も短くなりましたし、ホテルや結婚式場での挙式からの見送りになって、始発駅といえども昔の様に万歳で見送られる新婚旅行も見かけなくなりました。駅頭に立つ事も滅多に無い高齢者ですし、列車の始発駅の比較的近くに住んでいますが、現状を知らないだけかも知れません。
 
 しかし、新しい人生の始まりを祝って貰えて、送って貰える幸せはとても良いことです。長い人生ですから、私も送られる立ち場になったこともあり、それは忘れ難いものでした。
 私達が結婚したのは或る春のことでしたが、結婚式の当日は会場で大勢の人達に祝って貰いました。夫と私の上司や親戚や、お世話になった方々や友人が集まってくれました。大勢の祝いの会が引けて、夫の家に、お供の付き添い美容師と共にタクシーで行きました。
 式場とは別に婚家のある町内の全家庭から一人ずつ出席して下さって、二間続きの大きな部屋で、夕方からの又別の祝宴があったのです。式場からの白い打ち掛け姿で行ったのですが、義母のすすめで家までの距離を少しばかり歩き、ご近所の皆さん総出で祝って貰いながら夫の家に到着しました。家に入ると早速仏壇にお参りして、続いて祝いの席があったのです。
 「折角貰って来ているのだから、これを着てね」と云う義母の心遣いで、付き添いの美容師さんに嫁入りに持って来た黒の裾模様の着物に着替えさせて貰って、二度目の晴れ姿になりました。家に集まって下さったのは町内の各家庭からお一人ずつの皆さんでした。
 義母が一人一人に紹介してくれて、出席者全員にご挨拶をし、一献お酒をついで回ったのでした。気分もほぐれていましたし地域の各家庭の人達は親しみ深く、温かくてそれがまた格別嬉しく、くつろいで一人一人に挨拶が出来ましたし、皆さんにとても歓迎されました。
 今は大きな式場で一回上げて、後は友達と二次会のようですが、この様な幾重にも渡るお式はもうないでしょう。
 翌日は新婚旅行に発ったのですが、思いがけなく母が駅頭に見送りに来ていて、旅立ちの私達に手を振って、見えなくなるまで見送ってくれました。「この様な早い時間に、良くまあ遠くからわざわざ母が来て呉れて」とその事に感激して、親とは有り難いものだと心から感謝したのでした。
 そういえば,私の姉が嫁いだ時は、式場でお開きでしたし、私達一族は帰りは列車でした。ガタンと音がして列車がお式のあった駅を離れた時、母は「○子もいってしまった」と涙をスーッと一筋こぼしたのを私は見ていました。ああ母親とはこういうものなのだと、8人もの子供を育て上げた母が我が子を手放すのがこんなに辛いものなのか・・・と、当時その姿に心を突き動かされて、もらい泣きのような感動を覚えたものです。

 私達の娘が結婚したのは、東京のホテルの結婚式場でしたが、文金高島田で白地に金や銀の刺繍の花嫁衣装を着た娘が、私達の控え室に入って来た時は「これが娘か」と驚きで胸が一杯になったことを覚えています。出席の人達に「○○さん綺麗」と云われてにっこり挨拶していましたが・・・。やがて白いドレス姿に着替えて、和気あいあいのパーテイになりました。若いと云うだけで内部から滲み出てくるものが有るようでした。誰もがそのような時期を過ごして来ているのですね。
 喜びの出会いもありますが、春はまた別れの哀しみも待っています。
 卒業の別れ、職場の転勤の別れ、幾つもの春の別れがありました。仕事がら、春の卒業の別れは見送る側が多く、愛しい生徒達との別れも沢山ありました。今はそれぞれアルバムになって残っていますし、時折は書棚から引き出して眺め、懐かしい日々や一人一人の「あの頃」をなぞったりしています。
 
 今から数十年前、私は東京の田園調布での勤めを経てこの県に戻って勤めました。当時は就職も難しく、僻地勤務が採用条件だったのでした。ですから三年間だけ僻地の経験があります。
 僻地と云いますが、JRの駅か4キロ前後くらいでしょうか。川沿いのなだらかな山道を縫うように道路があり、少し手前までバスが通っていました。途中には斜面の雪崩防止の、短い隧道がありました。ごく短いのですが、それが僻地との境になっていました。
 生徒達はみな純真でとても良い生徒達でした。共に勤めていた職員も、集落の人達も優しく温かく、良い思い出ばかりです。そこで3年間の勤務をした後に故郷の町に転勤させて貰いました。職員住宅を引き払って最後に僻地から去る日には、皆さんへの挨拶もすっかり済んでいたのですが、二人の女生徒がずっと送ってくれて、可成りの距離を歩いて隧道まで涙を流しながら送って来てくれました。その温かさは今も忘れられません。

 やがて引き合わせて下さる方がいて、私達は結婚したのでした。現在は県都に住んでいますが、幸い長女の出産の後に、この地に義父が家を建てたのでした。以来同居して子供二人を育てて現在に至っています。
 勤めていた私には、子育てに義父母の手助けがあってとても有り難かったです。現在の安楽な生活も、全て義父母の手助けがあっての事でした。今は義父母共にみまかりました。
 
 「見送る」のもう一つは、命の終わりです。これが安楽なら申し分ありません。我が家で云えば、先が義母でした。愛妻家の義父は、私の看病の大変さを補う為に、すぐに通いの家政婦さんを頼んでくれました。その人と交互に付き添って、何とか24時間傍らに誰も居ない状態が無いように付き添う事が出来ました。良く気が付く温かい義父でした。義母も信頼して倒れて以来寝たきりでしたが、あまり苦しい闘病生活ではなかったと思います。家政婦さんは本当に心の細やかな配慮の行き届いた温かい人でしたし、今でも感謝しています。
 人間は何時どのような道を生きて行く事になるのか解りませんが、義父母を見たり私の両親の最後を見る限り、ごく自然に余り苦しまずに逝けると感じています。見送る側も見送られる側もこれ以上有り難い事はありせん。
 何事も運命に従って、不可思議なこの人生を味わいながら、静かに終わりたいと願っています。