ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

間に合わない新型インフルエンザワクチン

2009年08月31日 | 随筆・短歌
 心配していた新型インフルエンザが流行し始めて、少ししか確保出来ていないワクチンを巡って、誰を優先して打つか、ようやく方向性が出たようです。しかし、実際にはどのように行われるのかは今もって未定です。そもそもこのインフルエンザの流行は、去年の秋から世界的な広がりを見せて来ました。日本の専門家からは、度々今年の秋からは大流行するだろうと警告されていましたが、それが予想以上に早く夏になっただけです。今になっても未だワクチンが全く不足だと厚労省が大騒ぎしているのは、何故でしょうか。
 かつてミドリ十字という製薬会社があって、そこが作った血液製剤には肝炎ウィルスが混入されていることを承知で販売を続けました。自社で安全な加熱製剤を生産する技術が完成するまで、安全な外国の加熱製剤の輸入をストップさせて、汚染製剤を患者に提供し続けました。
 当時の厚生省は度々情報を無視し、その後訴訟に持ち込まれることになっても、418人の患者リストに、個人を特定出来るものがありながらそれを隠し、その為に治療が遅れたと、今回このブログを書くに当たって、ネットで検索したりして知りました。
 この製薬会社の首脳陣には、厚生省の天下りが大勢いて、血液病の権威と云われる大学教授まで抱え込み、都合の悪い情報は隠し、都合の良い発表を繰り返したのです。私はこの期間に開腹手術を三回していましたが、さいわい何れもこの種の製剤を使用しませんでしたので、かろうじて難を逃れました。今思うとぞっとします。
 何故このようなことが起きるのか、今回は、日本の4社がワクチンを製造しているそうですが、これで間に合わないのなら、何故もっと沢山の会社にワクチンを製造させないのでしょうか。
 ミドリ十字の例を想い出して勘ぐってしまうのですが、またしても天下りを抱える会社にみ生産を許可して、その社の利益を守ろうとしているのだとしたら、今度こそ国民は許さないでしょう。この度は予想していたより、軽いインフルエンザのようですが、これが毒性の強い鳥インフルエンザとなると、多くの国民が死ぬことになります。ワクチンが間に合いませんでは、済まされないことです。
 アメリカでとうに承認されている薬で、日本では承認されていない薬も多々あると聞きます。安全性が問題だと云って、中々承認してくれないのだと聞きます。優れた技術を持つ中小企業が開発しても、天下りを引き受けていないと、なかなか許可されないケースがあるとも聞きます。また日本の薬価は高いと聞きますが、天下りを引き受けている会社には、高い薬価が付けられるとも聞きます。何とも腹立たしいことです。
 今回はこのブログを書くにあたって、様々な情報を調べて書きました。横着者の私には珍しく、今までに無いほどです。あんなにこの秋から流行すると云われていたにも関わらず、今になって慌てている厚労省の「責任力」をどう評価したら良いのでしょうか。
 私は、国民全員にタミフルを配って、病院へ行かずとも飲めるようにすれば、と考えたりしますが、そうすると誤飲や予想もしないような問題が発生するのでしょうね。
 このまま行けば早晩私も新型インフルエンザに罹ると思います。そうなったら良寛のように、「死ぬ時がくれば、死ねば良く候」と腹をくくったら、不思議と心が穏やかになって来ました。

  なんとなく楽になりたき日のありぬ極まりて散るもみじ一片(ひとひら)
                         (実名で某誌に掲載)
 

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もっと陽に当たりましょう

2009年08月27日 | 随筆・短歌
 最近は、紫外線を気にして、長袖、日傘、サングラスといった出で立ちで歩いている人が多くなりました。紫外線に当たると皮膚癌になるし、シミやソバカスの原因になると云われているので、それが怖いようです。
 しかしそれは正しいのだろうか・・・と私は思うのです。農業や漁業や外で工事をしている人に皮膚癌にかかっている人が多いとは、聞いたことがありません。それより太陽に当たらない為に骨が弱くなって、骨粗鬆症で悩んでいる人の方がずっと多いように思います。エルゴステリンという物質が紫外線に当たるとビタミンDになることは、多くの人が知っていることかと思います。ビタミンDがカルシウムの吸収を良くして、骨を丈夫にすることもご存じだと思います。
 霧の深いロンドンや、日光の少ない地方に、くる病が多いと昔中学生の頃に習ったように記憶しています。そこで私達は子育ての頃に、未だお座りもできない頃から、陽の当たる場所に座布団を敷いたり、ゆりかごを置いてオムツを外し、気候の良い時期は裸にして帽子をかぶらせて日光浴をさせました。午前中の少しの時間を毎日行い、その後白湯を与えて、水分補給をしたりして、陽に当てることを大切にしました。
 最近は、痩せ願望が強く、必要以上に痩せようと努力している人が多いようです。イタリアでは、余りに痩せたモデルさんは、健康教育上良い影響を与えないといって、大きなファッションショーでは、痩せすぎのモデルさんを使わないと聞きます。
 ツイギーが来日して以来、日本でも痩せていることが美しい人の条件のように思われて、ダイエットブームがやって来ました。しかし、30代までに骨の形成がほぼ完成するそうですから、この年齢までの人は、せっせとカルシウムを摂取して、適当に陽にも当たり、丈夫な骨を作っておかないと、年を取ってから骨粗鬆症になって、転倒すれば直ぐに骨折しやすくなります。私の知人が蒲団の上で転んで骨折しましたが、もし運悪く大腿骨頸部でも骨折すれば、下手をすると寝たきりになります。この場合更に悪いことは、てきめんに呆けが進むそうで、怖いことです。
 最近になつて、適度な紫外線に当たる必要性を云う医師が出始めたようですが、どの程度浸透しているのでしょうか。ウォーキングの人は今でも長袖ですが、せめてこの時くらいは半袖で、太陽にあたったらどうなのでしょう。太りすぎの人が標準体重くらいになることは、成人病予防や、膝を痛めたりしない為にも大切ですが、余りに痩せ過ぎるとその負の作用の方が大きくなってしまいます。骨粗鬆症ばかりでなく、不妊症になったり、身体の抵抗力も衰え、体力が落ちると気力まで衰えてしまいます。
 アナウンサーにも痩せすぎの人がいるようで、見ていて気の毒な感じさえします。美しさは、何より心身から発せられる健康美に優るものはないのではないでしょうか。身体の中から輝きを発する健康の美しさが何よりです。また心を磨くことも当然必要になってきます。心が美しければ、自ずと言葉も動作も付いて来ます。品性と教養の伴った心の美しい人に接すると、それだけで心が清められていくように感じられます。顔が美しく、痩せてすらりとしている人だけが美しい人ではありません。
 年齢を重ねて皺だらけのお婆さんが、時としてとても味わい深い面差しであることがあります。その人の人生の重みが自然に現れてくるからでしょう。
 少し脱線しました。もっと太陽に当たって、健康な身体を作りましょう。心身の健康に気を遣いましょう。言葉や動作にも気を配り、優しく思いやりのある人間を目指すことが、いつの時代でも美しい人の条件であり、それは普遍的なことだと思います。

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ベルリンの壁

2009年08月24日 | 随筆・短歌
 1989年11月9日夜遅くにベルリンの壁が壊され、東西ドイツはその後1990年10月3日に正式に統一されました。丁度その壁が破壊されている日に、娘が西ドイツを旅行していました。図書館に勤めていた娘は、そこでドイツからの研修生のお世話を受け持つことになりました。いろいろとお世話している内にすっかり友達になって、その女性が帰国してから半年位して、一週間ほど休暇を取って西ドイツに旅行しました。丁度その人の家に一泊させて頂いていた時の事です。全くの偶然で、ベルリンの壁が壊されるという出来事に遭遇したのです。
 ベルリンの壁の撤去は、そのご家庭の家族の皆さんもとても喜ばれて、娘も一緒になって喜び合ったそうです。娘は目の前で壁が壊されていく様子を見ようと駅迄行き、何とかキップを手に入れようとしたものの、ベルリン行きの列車は超満員でとても乗れなかったと云います。リュックを背負って呑気な一人旅でしたので、私達は娘がどの様な計画で、何処をどう回ったのか知りません。余り心配もせず、成田への送り迎えもしませんでした。
 大学が語学の学校でしたので、3年の夏に40日ほど西ドイツに行き、大学のベルリンゼミの後、ホームステイで西ドイツのケルンの近くの家にお世話になりました。その後卒業の時に、「勤めれば海外へも出かけられないだろう」と、ヨーロッパ10カ国余りを巡る旅行に出してやりました。本人は、一人でノルウェーやスウェーデンまで巡る相当大規模な計画を立てましたが、その時は女の一人旅を心配した私が、もっと小回りにして、と云ったのでした。卒業してからは自立した女性として娘の意志を尊重し、できるだけ口出しをしませんでしたので、このときが三回目のドイツ旅行でした。
 人間が、歴史的な事件に遭遇することは滅多に有りませんので、そんな時に縁の深いドイツに居合わせて、国民の皆さんと喜びを共にできたことを、私達家族も喜び合いました。
 高校二年になる時に、進学先を理系か文系かに絞らなくてはならなくなり、どちらが得意ともいえない娘だったので、どのような進路を選ぶか関心を持って眺めていたのですが、娘は語学を学びたいと云いました。私は暗記が大の苦手でなので、娘がまさか語学を勉強するなど思いも依らず、ただ驚くばかりでした。私達は呆気にとられながらも、本人の希望がそうなら、好きな道に進むのが一番良いと、一も二もなく賛成しました。
 私は暗記が苦手でしたから、高校の頃は英語にとても苦労しました。試験勉強はいつも泥縄でしたので、前夜は必死で単語を覚えようと努力しましたが、座っていると眠くなるので、家の中を歩きながら覚えていました。しかしフット気が付くと、座敷の真ん中の柱にもたれて眠ってしまっているのです。驚いて又歩いて覚えるといったように、それはそれは苦労をしました。今でも他人の顔はなかなか覚えられず、いつも忘れっぽくて失敗だらけです。
 夫も英語並びに暗記ものが大の苦手で、理系の大学を卒業したのに、退職後素人小説を書いたりしています。或る文学賞に応募した時に、選者と歓談する会に出席したのですが、その折り名前を聞かれ、とっさにペンネームを思い出せず、「さあー」と云って、皆さんに笑われてからやっと思い出し、冷や汗をかいたそうですが、ホッとする間もなく、次に「何という題名でしたか」と聞かれて、再び出て来ず「さあー」と云ったら、一層ひどく笑われたという人ですから、どちらに似ても、語学が得意の素質はないのです。強いて云えば、私の父が英語の教師であったことでしょうか。
  娘は、これからは英語はだれでも話す時代だし、フランス語は、発展途上国が多く使っているので、将来そちらへ行かねばならない危険性があるし、ドイツ語は文化水準が高く、安全な国で使われている言葉だから、と云って決めたのです。慌てて世界地図で使用されている言語の分布を調べて、アフリカで余りにも多くの国がフランス語を使用していることを知って、驚いたことも忘れられません。
 私達が娘の大学に行ったのは、娘が一年生の秋、学園祭で自分たちもドイツ語劇をするので見にこないか、と云われてでかけた時が初めてで、それが最後でもありました。
 行ってみて驚いたことは、実に世界各国から様々な人種が集まっていて、色んな民族衣装を纏った人達が校内を闊歩していたことです。毎日こういう所に居たら、外国人とか、国境という意識が無くなって、自然に国際感覚が身に付く筈だと、初めて見た構内環境に目を見張りました。
 娘達のドイツ語劇や、各国語で演じられた劇も幾つか観て、学生主催の模擬店で珍しい国の食べ物を食べ歩いたり、ガーナの大使館の人の講演を聴いたりして、珍しくもあり、楽しくもある一日でした。
 娘が買ってくるドイツ土産は、何時も質素な簡易包装で、物を大切にしながらも質実剛健なお国柄を偲ばせました。
 私達が想像もしなかった進路を自分で選んで進んで行った娘の選択は、間違っていなかったとしみじみ思いました。たとえ時間をかけても自分のやりたい事を見つけ出して生きて行くのが、最も幸せにつながる道だとそう思っています。
 
  亡娘(こ)の書棚置き去りにされし夢いくつ文集アルバムタイプライター
  地方から東京の予報気にしてる吾娘逝きてなほ一年経ても
  亡き娘よりのメールがどこかにありはせぬか電子の森は謎めいている
  シナモンの枝でコーヒーに渦を描く亡き娘の微笑が浮かびてやまず
                           (全て実名で某誌・紙に掲載)



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碌山美術館に観る「女」の美

2009年08月20日 | 随筆・短歌
 私は信州(長野県)がとても好きです。何時訪れても空気は清らかで美味しく、四季折々に緑豊かな山野や河、それに白雪を頂いた高山の美しい処です。信州は大変広いので、例えば木曽路や伊那谷、八ヶ岳や清里高原、ビーナスライン、小諸から軽井沢、志賀高原、上高地、鬼無里村(きなさむら)から戸隠、善光寺などなど、それは見所一杯ですし、どこも素敵な処です。
 もう何年も前になりますが、安曇野(あづみの)というところへ車で出かけたことがあります。是非行って見たかったのが、碌山(ろくざん)美術館です。とても小さな美術館でしたが、蔦が絡まるレンガ造りの建物には、日本の近代彫刻の最高傑作とされる、碌山の「女」が飾ってありました。重要文化財のそれは、苦悶の恋の相手であった、友人の妻の面影があるといわれているそうで、両膝をついて上を振り仰いだ若い女性の、それはそれは美しい裸体でした。デスペアという作品は、両手を伸ばして地に伏した姿が、絶望のあまりに慟哭している女性のように私には思えました。
 東洋のロダンと云われた碌山が、心血を注いだ作品の美しさに、暫く其処を離れられませんでした。30歳にして逝った鬼才を惜しみながら、小さな美術館を廻りました。
 「抗夫」という作品は、初めは未完成の作品だと解釈されて、文展(日展の前身)では受賞しなかったと書いてあったと思いますが、文字通りに抗夫の筋肉の一つ一つが盛り上がっている様子が克明に現されていて、迫力満点でした。生きていたら、きっともっと凄い作品の数々を生み出したでしょうに。天才と云われる人は、短命な人が多くて、人類にとっても惜しいことだとしみじみと思いました。
 このような穏やかな、山に囲まれた内陸の静かな里に、こんな素敵な美術館があるということが、とても信州にふさわしい感じで、何だか嬉しくもありました。教会のような塔のついたこぢんまりした建物の前で、夫婦して写真を撮り合いました。
 それから少し登ったり下ったりして、道祖神を見たりしながら、ジャンセン美術館も見て、わさび農園へ行きました。とても大きなわさび農園で、黒い寒冷紗で覆われた幾筋ものわさびの畝の間には、清冽な安曇野の水が流れていました。伊豆で見た段々畑のわさび田ではなく、遠くまで畝が続いていて、うねりながら上流迄伸びている様は壮観でした。
 このような清らかな水でないと、わさびは育成出来ないのでしょう。わさびのソフトクリームというものも、初めて食べてみました。とても暑い六月の午後でしたので、喉に冷たくて爽やかな味でした。
 その日は安曇野に泊まって、翌日ヴィーナスラインを通り、蓼科高原の芸術の森、彫刻公園を見たり、ピラタス高原から蓼科高原美術館で、矢崎虎夫の彫刻を見て、白樺湖畔のホテルにたどり着きました。素晴らしい旅の想い出に耽っている時、突然の電話で現実に引き戻されると、それは親しい友の死を知らせる電話でした。自然美と人工美に酔っていた自分が、不謹慎であったかのように思われて、胸を痛めました。現実は無常と無慈悲な時間の中に過ぎて行くのでした。

  わさび田の透明な流れに吹く風は微かに渦巻き溶け入る静かさ(実名で某紙に掲載)

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熊野古道と補陀落山寺

2009年08月17日 | 随筆・短歌
 何時でしたか、南紀一周の旅に出た時のことです。幾日かかけて回りましたが、特に心に残った一つは、熊野古道の歴史の重みと古道の奥ゆかしさです。そろそろ足に自信が無くなって来ていましたので、那智の滝と熊野那智大社のお参りを済ませ、隣の西国三十三カ所第一番札所の青岸渡寺(せいがんとじ)にもお参りして、熊野古道を大門坂まで歩いて下りました。
  両側には樹齢数百年の杉の巨木が天を覆っていて昼なお暗く、苔むした石畳の古道は、いにしえからの多数の参拝者が踏みしめて、長い時間にすっかりすり減っていて、それがひときわ趣深いものにしていました。時間が許せばもっと別の処も歩きたかったのですが、これだけでも充分に歴史の中を歩いているという、素晴らしい感動を体験させてもらいました。
 間もなく大門坂というところまで下った時、突然市女笠(いちめがさ)に透き通る垂衣(たれぎぬ)を垂らし、広袖の丈長の衣を着て下に白い小袖、赤い脚絆(きゃはん)、わらじばきの、平安時代の女性の旅姿をした二人の若い女性が登って来るのに出会いました。一人は紅の、もう一人は薄緑の広袖を着ていて、まるで平安末期の頃にタイムスリップしたようで、私達は声も出せずに見惚れていました。木漏れ日が僅かに照らす熊野古道に、突然平安時代の高貴な女性が現れたのですから。二人の女性は微かに微笑みながら会釈しました。私達は金縛りに遭ったように、道の脇に除けて、深々と頭を下げました。私達がそうせずには居られない雰囲気を彼女達はかもし出していたのです。 
 聞くところによると、大門坂に昔の旅の衣装を借りて、貴族の女性の旅の気分を味わうという趣向のお店があるのだそうです。思いがけずそんな楽しみにも出会いながら、樹齢800年と言われる夫婦杉を眺めて、大門坂に出ました。一度は訪れたいと思っていた熊野古道と那智の滝、熊野那智大社に詣でられて、その上やんごとないお姫様にまで出会えて、記憶に残る豊かな旅になりました。
 そこからはバスでJR那智駅前まで下りました。那智駅のすぐ近くに、鄙びた補陀落山寺(ふだらくさんじ)というお寺がありました。この寺は日本の仏教史においても特異な歴史を持っていて、インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人(らぎょうしょうにん)が開山したお寺です。補陀落とは、古代サンスクリット語で「ポータラカ」の音字で、観音菩薩の住む浄土を意味するそうです。かつての那智の浜は、補陀落浄土に通じていると信じられ、この寺の住職となった僧は、やがて歳を取ると、みな僅かな食料を屋形舟に積み、扉を釘で外から封印して、補陀落へと旅だったのです。これを補陀洛渡海と言い、境内に渡海船が復元されていました。
 868年の慶龍上人から始まって、平安時代に3回、室町時代に10回、江戸時代に6回行われて、最後は1722年であったと言われています。渡海僧は11月の北風の吹く頃の夕刻、たった一人で四方に赤い鳥居と忌み垣のついた小舟に乗り、沖の綱切り島まで伴船に曳かれて、ここで白綱を切り、南海の彼方へと旅だったのです。
 最初は宗教的な情熱で渡海していきましたが、行きたくないと思った僧も出て、船出の後に島に逃げ、やがて捕まって無理矢理入水させられるといったこともありました。この金光坊(きんこうぼう)事件の後、生きたまま渡海することを止めて、住職が亡くなった時に遺体を舟に乗せて流すという形に変わったそうです。
 実物大の渡海船を見て、胸に迫る切ない思いがしました。狭い舟の木の棺のような処に、僅かな食料を持って渡海船にのり込んだ僧は、暗闇の中で何を考え、何を祈りながら耐えていたのでしょうか。全ての僧が自ら望んで渡海船に乗ったとも思えません。また乗った後で後悔したかもしれません。生きたまま成仏するというのは、仏教僧としては、究極の仏への帰依(きえ)であったのでしょうが、私には到底出来ないことです。
 すっかり朱色が寂れて色褪せた、四本の赤い鳥居が一層哀れを誘うようでした。二人とも暫くは無言で眺めていました。少なくとも江戸時代の金光坊まで十数人は、生きたまま渡海したことになります。渡海していった僧の悩み、苦しみ、嘆き、そして悟りに思いを馳せながら、しばらくじっと合掌する以外に何もできませんでした。
 井上靖の「補陀落渡海記」によると、金光坊以来、一人が生きたままの渡海をしましたが、それは金光坊の時に綱切り島まで同行した僧で、30歳であったとあります。生きたままの渡海は、北風の吹く頃でしたが、住職の物故の後の渡海は、その死の月でしたから、季節とは無関係になったそうです。
 信仰心の厚かった時代のことですが、人間の生への執着を考えるとき、それはとても深い意味を持って私の胸に迫り、この小さな舟が一層哀れを誘うのでした。

  やがて来る死もまた眠りの一つにてさよならできる苦しみの海 (実名で某誌に掲載)



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