ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

老いを生きていくために

2017年05月26日 | 随筆
 年々深まりゆく歳に、何かしら哀しみを覚えることが多くなりました。かつては歳を取ったら、ニコニコとした心穏やかな老人になりたいと願って来ましたのに、現実はどうやら「思ったことを素直に言う」と言えばカッコよさそうですが、「感じたそのままを歯に衣着せずに言う」きつい人間になっていそうで、時折反省しています。
 「人に良く思われたい」と見栄を張るわけではありませんが、歳を取ったら、控えめな立場で物言いをするように心がけつつも、咄嗟にそこまで気遣いしきれないで,言わば配慮に欠けるところがありはしないかと、ふとそんな気持ちになって寂しく思う時があります。
「こんな年寄りになってはいけないなあ」と反省しつつ、「あの言葉が、もしかしたら相手を傷付けたかも知れない」と、今更どうしようもないのに気にかかります。
 矢張り見栄っ張りなのでしょうか。或いは幼稚な完全主義を振り回しているだけなのかもしれません。
 老いた人の柔和な顔や物腰は周囲を和ませ、温かい気分に浸らせてくれます。それは恐らくその人の人格と、教養と、歩いて来た豊かな人生経験とが織りなして醸し出されて来るものなのでしょう。決して真似など出来るものではない、素晴らしい人間性だと感服します。
 口は禍の門と言われますが、多くは自分の言葉が至らなかったり、心遣いが不足したりで、わずかな思いやりの不足が原因となる場合が多いようです。
 私には、何時も心置きなく話せる友達がいて、折々二人でゆっくり話しをしながら食事を共にするのですが、それですっかり元気に成って、「楽しかった」とそのまま明るい気分が続く時と、何故か帰って来てしばらくすると、至らない自分の言葉が気になって後悔に似た寂しさを覚える時があります。
 それは、元気一杯の若かりし頃には、無かった気持ちです。昔は忙しい日々に埋没していたからかもしれませんが。
 友人はとても気配りの行き届く人で、文学的な才能も豊かで、私は教えられる処が多々あります。とても立派なご兄弟がおられて、その方のお話しを間接的に伺うことも、勉強になるのです。私が一歳年上ですが、お互いに思うところを心置き無く話せる相手だと思っています。私にとっては生涯の親友です。多少の心の行き違いがあっても、必ず包んで下さる広い心を持っている方なのです。
 何事かにとらわれている心を切り替えるために、私は毎晩休む時に暗唱している藤村の「千曲川旅情の歌」等をを心で繰り返します。するといつの間にか心が安らかになります。
 日本語の美しい詩の旋律に、重かった心が慰められます。川端康成の「美しい日本の私」を再び読み、ブログに書いた頃から、私は日本語の美しさを改めて認識しました。
 今から15年ほど前にNHKの生涯学習講座で「漢詩」の3コースを全て学び、その時は「漢詩の素晴らしさ」を身に沁みて感じたのですが、川端康成の文章と、毎晩の詩の暗唱で、今では「日本語の美しさ」に叶うものは無いと思っています。
 ごく微細な心の動きをも的確に表現出来る日本語ほど、素晴らしい言語は無いと思うのです。フランスの詩人、ポール・ヴェルレーヌの詩「落葉」の上田敏訳から拾ってみます。

秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの
身にしみて ひたぶるに うら悲し。

鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ
過ぎし日の おもひでや。

げにわれは うらぶれて ここかしこ
さだめなく とび散らふ 落葉かな。

 この詩の中で私は特に「ひたぶるに」や「色かへて」などの表現に心を奪われます。と同時に「いろかへて涙ぐむおもひで」とは、どんな想い出なのかと思いを巡らせます。
 そんな詩の深い言葉に心が引かれていくと、今までの重い心は晴れて、何だか元気になりますから、単純な私ではあります。
 ところで皆さんもきっと、 フランス領アルザス地方の小さな小学校の、アメル先生の「最後の授業」の話しは読まれたり聞かれたことがあるでしょう。

 アメル先生は「私ががここで、フランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争(独仏戦争)でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になり、ドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが、私のフランス語の、最後の授業です」と話し始めます。
 そして先生は「フランス語は世界でいちばん美しく、一番明晰な言葉です。そして、ある民族が奴隸となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」と語りかけるのです。
 やがて終業を告げる教会の鐘の音が鳴った時、先生は蒼白になり、黒板に「フランス万歳!」と大きく書いて「最後の授業」を終えるのです。

 母国語を大切する事は、国家に誇りを持つことですから、フランスにかぎらずどの国家にも同じことが言えます。日本人が日本語を大切にする事は、ひいては自国に誇りを持つことに繋がり、ましてこれほど繊細で美しい言葉は他に類を見ないと思われますから、アメル先生のように自信と誇りを持って,後の世にも伝えて行きたいと思っています。
 かたや年老いたならば、何事にも「ありがとう」という感謝の心を持ち、それを素直に口に出せば、己ずと心が通じて良い方向に導かれて行くように思います。しかし何ゆえかこの先に不安な気持ちがよぎることも確かです。 でも不安のない人生などある筈もないのであって、要するに心のありようの問題なのでしょう。ゆったりと穏やかに生きて行く老人、静かな中にも自国を愛する老人の姿は、それなりに美しいのではないかと思っています。


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お助けサツキ

2017年05月12日 | 随筆
 わが家の庭を設計施工して下さったのは、長く造園業を営んで来られた、ベテランの庭師さんでした。庭の中央にはほどよく曲がった松を植えて、かたわらに灯籠を配置しました。その灯籠から少し離れて、右側に白いサツキを植え、玉石の枯池を挟んで、こちら側の斜め向かいに、ピンクのサツキを配置して下さいました。
 庭師さんによると、それぞれに決め事があり、むやみに庭木々を植えるのではなく、決まりに従って植えながら、かつ四季それぞれに何かの花が咲くように、秋は紅葉が美しいようにしつらえるのだそうです。
 石組みもそうです。石池の周りに大小幾つもの石を、デコボコに並べてありますが、一番大きい石の中程の切れ目には、やがて羊歯の小さな形のものが生えました。
 「その内に石それぞれに、ふさわしい苔が生えて来ますよ」と云われた通りに、やや表面がざらついた石は、今はすっかり緑の苔に包まれています。なめらかな表面の石にも、少し苔が生えるほどの苔庭になりました。
 池の左端には、丸くて上が平らな大きめの自然石が据えられましたが、今はすっかり苔に包まれて、家の工事に来られる人の中には、この苔石が素晴らしいと仰って下さる人もいます。庭面も石も苔に包まれて、良く見るとその場その場に相応しい、様々な珍しい苔が生きています。
 ゼニゴケは不要と云われて、これは手で取り除くしかない様で、見つけるとせっせと抜きましたので、今は殆ど見かけません。
 ひとねじりしたような、変わりひょうたん型の池は、夫の部屋の外のヒイラギナンテンの中から、竹の樋を通って、手水鉢に水が流れ込みます。溢れた水が石を伝わって流れ出て、池がくびれたところで飛び石の間を流れ、その先の矢張り少しくびれた横に長く広い石池に出ます。うまく傾斜が付いていて、石池に水は溜まらず、中央よりも右側の玉石の下に、取り付けた金属の網皿から先は、暗渠の導水管に繋がり、本屋の角の沈殿枡まで地下を真っ直ぐに通って行きます。そこからやはり暗渠の管で下水道に水を導いています。
 近くの元高校のグランドから砂が飛んできますから、沈殿枡は役に立ちます。私などには想像も付かない仕組みです。庭に向かって左端の方に車庫、右端の方には物置が建ててあります。物置の庭側にテラスを付けて、洗濯物干し場になっています。透明な屋根から日が差し込み、風が抜けてよく乾く物干し場です。テラスの庭側から、ぐるりと本屋の側迄、建仁寺垣で囲み、干し物などは見えなくしています。黄色い竹の高い建仁寺垣が、苔庭を一層引き立てて呉れています。
 今から8年前のことです。この対のピンクのサツキに、夫が命を救われる事件がありました。それは本当に奇跡としかいいようがありません。
 その日夫が居間の南側に、夏の太陽をさえぎる為に、ひさしの先端に大きな葦(よし)のすだれを吊す為、高めの三脚を開いて登ったのです。
 ところが体のバランスが崩れて、三脚の最高部から三脚もろともに後ろの石池の方向に倒れてしまいました。池の周りには石が並んでいますので、落ちた体は頭を下にして、池の石に逆さまに落ちて行きました。
 もしそこにサツキが生えていなかったら、きっと頭を直接池の石か、或いはふちの石に当たって大けがをしたことでしょう。落差を考えると、打ち所によっては死んでいたかも知れません。
 ところが、たまたまそこに生えていた例のピンクのサツキが、枝一杯を天に向けて広げていたのです。夫はサツキにすっぽりと包まれて、体の何処も打つことなく、直ぐ石池の中に立ち上がりました。
 跡には夫の身体の重さによって、枝が折れ、根を裂かれて、潰れた痛々しいサツキの変わり果てた姿がありました。
 以来潰れたサツキは、いくら手入れをしても、何年経っても花を付けなくなりました。夫の命を救ってくれた訳ですから、大切に肥料を与えたり、枯れてきた枝を切り取ったりして、養生に努めましたが、とうとう今年も花芽は見られません。あれからもう8年が経つのですが。
 わが家ではあの事件以来「お助けサツキ」と名前を付けて、殊更大切にしているのです。よほど根に強い衝撃が当たったのか、毎年枝の一部が枯れてくるのですが、丁寧に切り取り、浮き上がったような根の回りに土を足したりして、声をかけ、水を与え、大切に育てています。ひょっとしてサツキの根の先端の、細い根までがバラバラに千切れてしまって、いまだに息も絶え絶えなのかも知れないと思うと辛いです。
 ところで私達は既に高齢者ですから、医療費にしても出来るだけお医者さんのお世話にならないように努力していても、年金を合わせて考えると、矢張り現役の人達にお世話になっています。
 政府には、やがてオブジーボなどの高価な癌の薬などは、後期高齢者には使わせないことにする動きがあるようです。医療保険を圧迫するからで、喩え治癒して生きながらえたからと言って、世の中のお役に立てる人はほんの僅かです。多くは現役の人達に支えて貰わないと暮らせません。
 以前は私達も支える側でありました。時代と共に少子化の波が押し寄せて、もはや好むと、好まざるとに関わらず、援助なしでは暮らせない人が多いのです。
 私は、末期には痛みや苦しみを取り除くようにしてさえ貰えば、積極的な延命治療は不要だと思っています。ですから日本尊厳死協会にも加入して,家族にもその意志を伝えてあります。
 少なくとも意識の無い状態で生きて居ても、それは命の尊厳の無い人生ですから、静かに逝きたいと願っています。
 私は義母のように、「有り難う」と看病の人にはっきりお礼を言って逝きたいと、何時もそう願っています。
 しかし、生きるということは、自分一人の意志で出来ることではありませんから、「盥から盥に移るちんぷんかん」と小林一茶が歌ったように、人間の一生は何も分かりません。人智を超えた大いなる方に、全てお任せするのがよいのかと思っています。
 今年も元気な若葉が、威勢良く伸びてきて、さやさやと優しい風を送ってくれています。もし来年「お助けサツキ」が一輪でも良いから、あのピンクの花を咲かせたら、精一杯のご馳走を作って、祝賀会を開こうと家族で決めています。
 前庭も含めてサツキは何株もありますのに、花を付けないのは、お助けサツキだけです。どうか来年は元気に美しい花を付けますように。

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