ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

芭蕉の「笈の小文」をひもといて

2017年06月18日 | 随筆
 先の号で、芭蕉の句碑について書いていて、「奥の細道」他の芭蕉の優れた文章と俳句に再び触れたくなり、とうとう1992年に受講したNHKの生涯学習講座の「野ざらし紀行・笈の小文」をひもとくことになりました。

 芭蕉の「奥の細道」は有名な『月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。』と云う序文ではじまります。

 芭蕉の文章は、不要な言葉をそぎ落とし、核心を突いた表現が、簡素にしてかつ的確であるために、より心を捉えられます。恐らく多くの人々も、その文章と俳句に、心引かれた由縁でありましょう。
 今回私が特に心を捉えられた一節は『笈(おい)の小文(こぶみ)』の序文です。
 『笈の小文』は、貞享4年(1687年)10月、伊賀への4度目の帰郷に際して、創作された作品を集めて一巻としたものです。このとき芭蕉は44歳でした。
 前文の『百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)』から始まる文章は、俳諧に取り組んで、さまざまな葛藤に思い悩んだ末に、ついに俳諧を一生の仕事に決める迄の心の内を書き、更に俳諧をたしなむ人が、どうあらねばならないか、にも触れています。
 次がその序文です。
『百骸九竅のうちにものあり、かりに名付けて風羅坊(ふうらぼう)といふ。まことに薄物の風に破れやすからむことをいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。つひに生涯のはかりごととなす。
 あるときは倦(う)みて放擲(ほうてき)せむことを思ひ、あるときは進んで人に勝たむことを誇り、是非胸中にたたかうて、これがために身安からず。しばらく身を立てむことを願へども、これがためにさへられ、しばらく学んで愚を悟らむことを思へども、これが為に破られ、つひに無能無芸にしてただこの一筋につながる。
 西行(さいぎょう)の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌(れんが)における、雪舟(せっしゅう)の絵における、利休(りきゅう)が茶における、その貫道するものは一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見るところ花にあらずといふことなし。思ふところ月にあらずといふことなし。像(かたち)花にあらざるときは夷狄(いてき)に等し。心花にあらざるときは鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化に従ひ、造化に帰れとなり。』
 ー訳ー
百骸九竅とは、百の人骨、九窮とは、人体の九つの穴、即ち両目・両耳・両鼻孔・口・前陰・後陰の九つの穴をさし、人体を構成しているもの、百骸九竅は転じて人体のことを現します。難しい言葉で、江戸時代に生きた芭蕉の知識の深さを知りました。
「ものあり」の「もの」とは、心または霊とでもいうもので、それがあって一個の人間が形成されるのである。それをかりに名づけて「風羅坊」という。誠に風にひるがえる薄い織物のように、破れやすいくはかない存在であるせいだろう。(その風羅坊にもたとえられる)彼は(※芭蕉は自らを客観視して「彼は」と云っている)長く俳諧を好んで、終には一生涯の仕事とするに至った。ある時は飽きてしまって投げだしてしまおうと思ったり、ある時は進んで(精進して、句作の上で)人より勝っていることを誇ったり(俳諧をたしなむことの)是非に迷ったために、わが身が落ち着かない。
一時は仕官して立身出世を願ったりしたが、俳諧の為に妨げられ、(また)ある時は(仏の道を)学んで我が身の愚かさを悟ろうと思うこともあったが、俳諧への(執着の)為にその決心が破られて、結局無能無芸の身で、ひたすら俳諧の道を一筋に携わることになってしまった。
 西行が和歌で求めたもの、宗祇が連歌で求めたもの、雪舟が絵画で求めたもの、利休が茶道で求めたもの、(それぞれ携わった道こそ違え)それらを貫く根本精神は、たった一つ(風雅の誠)である。
 (俳諧も同じであるが、それに)加えて俳諧は、天地自然(の動きや姿など)に随順して四季の移り変わりを大切にするものである。(風雅の心さえあれば)目に映るものは全て美しく見えるのである。(※美を花・月にたとえている)心に思うことも全て美しいのである。見るものが美しくないなら、その人は未開人と同じなのである。内に思うことが風雅でないならば、その人は鳥や獣と同じであると云ってもよいのである。(だから)未開人(のような境地)から抜け出し、鳥や獣の(ような)境地からも離れて、大自然に順応し、大自然と一体となれというのである。(※「造化」は天然自然の万物を創造した神。造物主。)(※「自分の心を自然と一体にして、心安らかに幸せに生きる こと」を目指す思想は、中国の老荘思想とも同じです。)
 
 芭蕉は自身の俳諧の道を極めることは、先人の西行・宗祇・雪舟・利休などの目指した処と同じであって、道は一つに行き着くと云っています。最後の「大自然に順応し、大自然と一体になれ」と云うことは、仏教にもあり、禅にも通じていますし、また荘子の思想にもあります。宗教・哲学などには、疎い私ですから、絶対的にこうだと云うことは出来ません。しかし芭蕉は、それらをしっかり身につけて、かつ実践し、かくあれと書いています。芭蕉の、芸術や俳諧に寄せる心の強さ、俳諧に対する自信が伺われるようです。
 笈の小文には、沢山の俳句が載っていますが、その中で、心を引かれた数句を上げたいと思います。
 貞亭4年(1688年)44歳の芭蕉は 10月 25日に江戸を発っています。
 
旅人と 我が名呼ばれん 初時雨 10 月25日出立の日に
冬の日や 馬上に凍る 影法師 10日吉田に泊まる
雲雀より 空にやすらふ 峠かな 初瀬にて
父母の しきりに恋し 雉の声 初瀬にて
若葉して 御目の雫 ぬぐはばや  4月上旬 奈良唐招提寺                       などを見学
草臥れて 宿かるころや 藤の花 4月11日 奈良を出立。八木、耳成山の東                     に泊まる
 
 私と夫が、唐招提寺を訪れた折りに、鑑真和上の像を拝観して、鑑真の苦労をしみじみと偲びました。
 私達夫婦は何回か唐招提寺に行きましたから、鑑真和上の本当に目から涙がこぼれているように思われる等身大の像に、解説の芭蕉の句碑と共に感動して拝観しました。しかし、訪れる度に少しず像も傷み、周囲が変わり、初めは像を身近に、そのままの姿で拝観できたのですが、後には周囲の木々が茂ったせいか、建物の中に納められ、目の雫も定かに見て取られないようになってきました。その後また変わったかも知れませんが、親しく眺められた頃を偲んで、寂しい思いをしたことを思い出します。

 俳句は私が、殊に気に入った句を「笈の小文」から時系列に従って、載せました。こうして紀行文を詠んで行くと、歩くしか無かった当時の苦労が偲ばれ、推敲に推敲を重ねた芭蕉の、俳句を詠む時の心がけなどが伝わって来て、益々芭蕉の偉大さを思いました。
 何時の世でも、大いなる人は、それなりの努力を積み重ねて居られることに、改めて尊敬の念を禁じ得ません。
  

芭蕉の句碑の想い出

2017年06月07日 | 随筆
 深い緑の美しい水無月になりました。やっと毎春恒例の、竹塀磨きや苔庭の細かい草取りが終了して、小さな旅に出掛けて来ました。
 毎年気候の良い季節を選んで、故郷のお墓へのお参りと、今は取り壊した実家の跡地に立ち寄り、それぞれ記念写真を撮って、最後はゆったりと温泉で一泊して来るのが習いになっています。
 ところが今年は思いがけない「おまけ」が付きました。実家の土蔵の隣に
「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」
という、高さ2メートル 幅70センチ位の、自然石の芭蕉の句碑がありました。句碑から石段を少し降りたあたりに昔は瓢箪池があり、石碑の傍を通って水が池に落ちていたようです。池の中程に幅70~80センチ×2メートル位の大きな石橋が架かっていました。大きな牛が寝そべったような形で笠が円形の灯籠や、手水鉢などもありました。木々が茂る庭としては、池に飛び込む蛙の音がふさわしい感じだったのでしょうか。
 祖先には、芭蕉の弟子のそのまた弟子に当たるらしいと伝え聞く俳人がいて、この石碑などを作り、「嬉しさや 敷居またげば 花の道」と言う辞世の句がこの句碑の裏に刻んであります。安政3丙辰年(1856年)9月吉日と刻まれているのが、やっと読める位です。黄泉への旅立ちを、このような気持ちで迎えようとしていたのかと、そこに深い仏教への信心を感じます。
 私は小学校入学前の年に、高校教師の父と母や兄弟姉妹と共にこの家に戻って来たのですが、大きな池は家が湿気るからと、石橋と灯籠・飛び石・樹木などを残して埋められていましたから、茶人でもあったこの祖先の作った庭の全貌は伝え聞くだけでした。
 ところが今年になって、この石碑と前庭にあった石風呂が文化財として、実家近くに出来た公民館の前庭に移築されました。
 結婚後に子供連れで実家に帰る折々に、句碑の前で撮った写真が残っていますから、懐かしくて今でもお墓参りの帰途に寄ることにしています。
 綺麗に磨かれた句碑と、「子供が落ちたりすると危ない」と半ば埋められていた石風呂が全貌を現して並び立ち、真ん中に「由緒書き」が建てられていました。
 石風呂は父母に聞いた通り、円形の深い石のお風呂で、釜の部分がくり抜かれていました。ゆったりと庭の石風呂で優雅に夕涼みを楽しんだであろう祖先を、偲ぶよすがになりました。
 芭蕉の句碑については、また格別な深い思い出があります。夫の友人に公立医科大学の助教授だった人が居たのですが、年老いて病がちになったその方が、「金沢へ芭蕉の句碑巡りに行きたかったのだけれど、もう行けなくなって心残りだ」と夫との電話の中で、ポツリと漏らしたのです。それは今から10年前の夏の事です。
 夫が、「では代わりに、私達夫婦が句碑巡りをして、写真を撮って来てあげよう」と云い、その年の秋に出掛けました。先ず金沢市にある芭蕉の句碑を調べ上げて、見学順を決めました。
 最初の成学寺境内には、山門を入って直ぐに「芭蕉墳」があり、背面に「あかあかと日はつれなくも秋の風」と彫ってありました。丁度夫の胸の高さくらいあったでしょうか。風雨に曝されて苔むした芭蕉墳には、それなりの趣がありました。
 この境内には又、若くして亡くなった芭蕉の弟子の「小杉一笑」の「一笑塚」がありました。丸みを帯びた「一笑塚」と刻まれた塚には、ピンクの秋海棠と緑の小笹が植えられていました。
 野町一丁目には念願寺があり、山門脇に芭蕉翁来訪地・小杉一笑墓所という石碑が建ち、「つかもうこけ我泣く声は秋の風」の一句が彫られていました。境内の一笑塚は、成学寺の丸石とは違って大きく、真ん中に一笑塚と大書してありました。右端に「心から雪うつくしや西の雲」という一笑36歳の辞世の句が添えて彫られています。ここは、小杉家墓所になっていて、一笑も此処に眠っているのです。
 一笑塚の傍に、塚と小杉一笑の説明の立て看板がありました。芭蕉は一笑の早世を悲しみ「塚も動け」という強い言葉で悲しみを表現したのですが、芭蕉の深い悲しみが伝わって来て、胸ふたぐ思いがして、しばらくはその場を立ち去る気にはなれませんでした。
 兼六園小立野の山崎山の登り口に立つ句碑は、金沢の俳人「梅室」の筆で「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」と刻まれていました。本長寺境内の句碑には「春もややけしき調ふ月と梅」の句碑が、寺町五丁目の長久寺は訪れる人も無いような閑寂な境内に「秋涼し手毎にむけや瓜茄子(うりなすび)」の句碑がありました。
 それぞれに写真を撮り、帰ってからコメントをつけ、小冊子に製本して、送ってあげました。夫の友人は、「白川までは行ったのだけれど、金沢が後回しになって・・・」と、冊子を喜んで下さいました。
 病がちだったその友人には、好きだという歌手の歌やクラシックCDなどを編集して、当時はテープが主でしたから、何本も送って上げました。彼はそれを擦り切れるほど聴いたと、喜んで下さいました。歌は越路吹雪が一番好きだ云い、クラシックはべートーベンを一番喜んだようで、それらのテープを大切にして下さったようです。
 たいていは暇な私が、夫の云うままに、楽しみ楽しみ編集させて貰い、これも忘れがたい想い出です。もう5年前に亡くなられました。少しずつ大学の同期の友人が減って、夫もメールや電話をする相手が少なくなりました。
 芭蕉が取り持ってくれた縁について考えると、長く豊かな時間が、其処に流れていることに気づきます。私も今思い出して書かなければ、ただ通り過ぎて行くだけの時間であったかも知れません。改めて当時の冊子やアルバムをひもといて、芭蕉翁の素晴らしい俳句と、それに触れた小旅行などを思い出して、ひととき懐かしく往時を偲ばせて貰いました。