京都の竜安寺の石庭から回廊を渡って裏の庭に出ると、茶室に繋がる路地に、手や口を清めるつくばいがあります。これは「知足のつくばい」として知られています。石の中央に真四角の水受けを作り、竹筒から落ちてくる水を受け止めています。良く見ると、四辺は縁取られていて、「吾唯足知(吾、ただ足るを知る)」の口の部になっていて、上、右、下、左と右回りに四文字の口の部が共有されているのです。初めて見た時は、何と良く考えられているものか、と感動しました。
本物は水戸光圀の寄贈と伝えられているそうですが、私達が拝見したのは、レプリカです。私達は禅にも疎く、「知足(足るを知る)」とは、「知足のものは貧しいといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧しい」という禅の教えだと知ったのは後のことでした。
では私は知足といえるかと我が身に問いかけてみると、「このままで十分満足です」と答えるでしょう。煩悩まみれですから、日常は美味しそうな料理の写真を見ると、ああ食べてみたいとか作ろうかなど考えたりしますが、もし杜子春のように、何か希望を叶えてあげようと言われても、「ではこうして下さい」というものも見あたりません。
私達が子供の頃は、戦中戦後の食糧難の時代であり、衣も食も貧しい時代でした。住んでいた家も、現在の私の弟や甥や姪の家の様にオール電化や、床暖房の住宅などでは無く、炭や薪を焚いたすきま風の入る家でも、有ればそれで充分という有り様で、それで不満はなかったのです。
夫が小学生の頃は、谷あいの集落に住んでいましたので、肉といえば、何処かの家の牛舎が地滑りにあったり、雪崩に遭ったりして、牛が死んだ時にのみ、牛肉が食べられたと言います。何処の家庭でも鶏を飼っていたそうで、卵が食べられたこと、廃鶏を処理して食べることによって、蛋白源が摂取されたものだと良く話してくれます。
私の家では子供達がウサギを二匹飼っていて、年末になると、業者が来て、皮を貰う代わりに処分してくれたものです。ピンクの肉塊になったウサギを可哀想とは思いましたが、すっかり家族で食べてしまいました。お正月にはキジを他所から頂いて、お雑煮にしていましたが、普段は専ら鯖の水煮缶詰で作ったカレーなどが、一番のご馳走だったのです。夕食がカレーだと解ると、嬉しくてワクワクしたものです。
洋服や学習の用具などは、兄や姉のお下がりで結構不満もありませんでした。強いてあの時代に比較して言う積もりもありませんが、現在の暮らしは、「何とか食べていける」という事と「温かい家族がいる」という安心感、そして「日々やりたい趣味があって、忙しくしている」ことが、私に「足るを知る」を知らしめているのでしょう。
私が以前一緒にに勤めた人の中に、とても優秀な女性がいて、ご主人と二人で休暇を取って海外へも旅行されていました。退職後は、夫婦で大いに海外へ出かけるのを楽しみにしておられたのですが、その日が来ない内に人間ドッグで癌が見つかりました。子供さん達もそれぞれ遠くに家庭をもって居られ、お母様もご病気で、私がお見舞に伺った時は、あれこれと心配だらけで、お気の毒な位にやつれておられました。「今は死にたくないし絶対死ねない」と仰っておられたことを考えると心が痛みます。
やがて心を残して、この世を去って行かれましたが、彼女が亡くなったという訃報は、夫との旅先で受けました。遠くにいたので、告別式にも伺えず、寂しいお別れでした。このように気の毒な人がどのように足るを知るべきか、私には解りません。
私の長兄も60歳で、妻と二人の子供を置いて、母より先に亡くなりました。後に残す家族を思い、きっと「自分の人生はこれで充分だった」とは、思えなかったでしょう。
後々のことを私にも頼み込み、以前書いた様に、誰にも読めない乱れた文字で、ビッシリ書かれたリポート用紙数枚が残されていました。早世せざるを得ない運命を嘆いたり、後を託す事柄をこまごまと綴ったものだったのでしょう。
しかし人間の欲望は止めどもなく、何処かで折り合わないと、何時もああであって欲しい、こうであって欲しいと、際限がありません。これではいつまで経っても幸せにはなれないでしょう。死を目の前にして、もし何かの途中であったにしても、此処まではこれで良し、としないと矢張り心が残り、足るを知った安息感とはいかないでしょう。自分が幸せを感じるかどうかの鍵は此処にあるように思えてなりません。
私も義母のように、周りのお世話になった人達に「有り難う」という言葉だけは是非伝えて、魂のふる里へ旅立ちたいと秘かに思っています。
ヒヤシンス涙のやうな露を抱く死にたくないと言ひし友逝く (実名で某紙に掲載)
本物は水戸光圀の寄贈と伝えられているそうですが、私達が拝見したのは、レプリカです。私達は禅にも疎く、「知足(足るを知る)」とは、「知足のものは貧しいといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧しい」という禅の教えだと知ったのは後のことでした。
では私は知足といえるかと我が身に問いかけてみると、「このままで十分満足です」と答えるでしょう。煩悩まみれですから、日常は美味しそうな料理の写真を見ると、ああ食べてみたいとか作ろうかなど考えたりしますが、もし杜子春のように、何か希望を叶えてあげようと言われても、「ではこうして下さい」というものも見あたりません。
私達が子供の頃は、戦中戦後の食糧難の時代であり、衣も食も貧しい時代でした。住んでいた家も、現在の私の弟や甥や姪の家の様にオール電化や、床暖房の住宅などでは無く、炭や薪を焚いたすきま風の入る家でも、有ればそれで充分という有り様で、それで不満はなかったのです。
夫が小学生の頃は、谷あいの集落に住んでいましたので、肉といえば、何処かの家の牛舎が地滑りにあったり、雪崩に遭ったりして、牛が死んだ時にのみ、牛肉が食べられたと言います。何処の家庭でも鶏を飼っていたそうで、卵が食べられたこと、廃鶏を処理して食べることによって、蛋白源が摂取されたものだと良く話してくれます。
私の家では子供達がウサギを二匹飼っていて、年末になると、業者が来て、皮を貰う代わりに処分してくれたものです。ピンクの肉塊になったウサギを可哀想とは思いましたが、すっかり家族で食べてしまいました。お正月にはキジを他所から頂いて、お雑煮にしていましたが、普段は専ら鯖の水煮缶詰で作ったカレーなどが、一番のご馳走だったのです。夕食がカレーだと解ると、嬉しくてワクワクしたものです。
洋服や学習の用具などは、兄や姉のお下がりで結構不満もありませんでした。強いてあの時代に比較して言う積もりもありませんが、現在の暮らしは、「何とか食べていける」という事と「温かい家族がいる」という安心感、そして「日々やりたい趣味があって、忙しくしている」ことが、私に「足るを知る」を知らしめているのでしょう。
私が以前一緒にに勤めた人の中に、とても優秀な女性がいて、ご主人と二人で休暇を取って海外へも旅行されていました。退職後は、夫婦で大いに海外へ出かけるのを楽しみにしておられたのですが、その日が来ない内に人間ドッグで癌が見つかりました。子供さん達もそれぞれ遠くに家庭をもって居られ、お母様もご病気で、私がお見舞に伺った時は、あれこれと心配だらけで、お気の毒な位にやつれておられました。「今は死にたくないし絶対死ねない」と仰っておられたことを考えると心が痛みます。
やがて心を残して、この世を去って行かれましたが、彼女が亡くなったという訃報は、夫との旅先で受けました。遠くにいたので、告別式にも伺えず、寂しいお別れでした。このように気の毒な人がどのように足るを知るべきか、私には解りません。
私の長兄も60歳で、妻と二人の子供を置いて、母より先に亡くなりました。後に残す家族を思い、きっと「自分の人生はこれで充分だった」とは、思えなかったでしょう。
後々のことを私にも頼み込み、以前書いた様に、誰にも読めない乱れた文字で、ビッシリ書かれたリポート用紙数枚が残されていました。早世せざるを得ない運命を嘆いたり、後を託す事柄をこまごまと綴ったものだったのでしょう。
しかし人間の欲望は止めどもなく、何処かで折り合わないと、何時もああであって欲しい、こうであって欲しいと、際限がありません。これではいつまで経っても幸せにはなれないでしょう。死を目の前にして、もし何かの途中であったにしても、此処まではこれで良し、としないと矢張り心が残り、足るを知った安息感とはいかないでしょう。自分が幸せを感じるかどうかの鍵は此処にあるように思えてなりません。
私も義母のように、周りのお世話になった人達に「有り難う」という言葉だけは是非伝えて、魂のふる里へ旅立ちたいと秘かに思っています。
ヒヤシンス涙のやうな露を抱く死にたくないと言ひし友逝く (実名で某紙に掲載)