ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「がんばりませう」に励まされて

2014年09月29日 | 随筆・短歌
「がんばりませう」に励まされて

 「がんばりませう」と講師の先生が書かれたリポートを折々受け取ることがあります。その文字は私が提出したリポートに、旧仮名で書かれています。何と柔らかく温かな言葉でしょう。
  これを書いて下さるのは私が受けている短歌講座の講師の先生で、日本歌壇のリーダ的存在の有名歌人の方でいらっしゃいます。わずか七文字の一行ですが、この言葉を拝見する度に、何時も何とも言えない温かさと心からの励ましが伝わって来て「私も老いに負けずに頑張ろう」という元気が湧いて来ます。
 時折「今回は佳い歌が揃いました」などと褒めて頂くこともあります。添削教室ではないのですが、ほんの少し言葉を直したり、前後入れ替えたりして下さる場合もあり、それが私の目から鱗を落とし、死に体となっていた私の歌が、俄然生き返って心に響くこともあるのです。もう長くご指導をお願いしていて、とてもよい勉強をさせて頂いています。
 私が職を退いたのは、50歳の時でした。もう20年以上が経ちました。退職の理由は、何時やって来るか解らない、同居の義両親の終末のお世話をするためでした。夫に是非に、と頼まれましたし、勿論私も長い間の勤務の為に、義両親には様々なお世話になりましたから、最後を安心して過ごして頂く為には当然のことだと思っていました。
 自由を手にした私は、早速介護の仕事をどうしたら良いか、その勉強からしようと思い、市の福祉センターで開かれていた、「認知症老人の介護」の講座を受けました。当時は未だ義両親は認知症ではありませんでしたが、老いた人達の気持ちを理解し、どう接したらよいか、介護はどのようにするのか、と言ったことでした。これは後々とても役にたちました。医師や経験者のお話は、大変な価値ある勉強でした。一番心に残ったのは、現在介護のご苦労をしている人にたいして、「今が一番いい時なのです。時を過ごす程に今より悪くなる一方です。今日一日を感謝して過ごすことが幸せへの道です」というものでした。
 確かに老化は進む一方ですから、今日が心安らかに過ごせたら幸せですね。具体的には、「何が起ころうとも、決して叱ってはいけないこと。ものを無くしたと言ったら一緒に探しなさい」ということでした。この二つはしっかり心に届きました。
 叱られる事により人間関係が悪くなり、益々苦労が増えるし、多いのは、お金を無くしたとか、盗られた、というトラブルだそうです。勘違いや物忘れから起きるこの様な事の対処法が悪いと、壁に糞便を塗ったりするようになると聞いて驚きました。そう言われれば、そのような事で、家を建て直した人がいたことを思い出して、双方が気の毒に思えました。
 加えて空いた時間を今迄受けた事のない趣味の勉強に当てることにしました。目についたのが、NHKの生涯学習講座でした。これなら、家を留守にしないでも、義父母の老化が進まず、また軽い病気である間は、合間を見て勉強が出来ます。そうして出会ったのが、この短歌講座であり、日本史、漢詩、仏典、古文書、古典、数学、経済、仏像や焼き物等、実に様々でした。夫が「将来一人になった時の為に囲碁を学んでおくとよい」と言いますので、囲碁も学習し、上級まで合格して止めました。退職してから二十数年になりますが、未だに学生気分のところが残っているようで、今は学習が生き甲斐でもあります。
 この講座は、何れもリポートの提出が数回求められ、写経講座にしても、般若心経の写経だけでなく、心経の解釈を勉強して、感動した心経の部分を取り出して自分の考えを纏めよ、とか、日本史では、尊敬する人のお墓を訪ねてリポートせよ、とか、なかなか厳しい内容のものもありました。苦労したリポートほど、書き上げた後の充実感は大きいものでした。
 良寛のお墓を訪ねてリポートした時は、講師の先生も未だご覧になったことが無いらしく、戻って来たリポートには、講師が記入される部分をはみだして、リポートの回りの余白の部分全てを使って、赤ペンで書き加えてくださってあり、「私も良寛が大好きです」と書いて下さいました。先生の熱い思いが胸に伝わって来て、何とも言えない喜びでした。
 何処にあるか解らないお墓を図書館で探し出した時の嬉しさ、行き方を列車時刻表で調べて日程を決め、実際にお参り出来た時の喜び、写真を添えてリポートが完成した時の充実感、苦労はしましたがとても満ち足りた学習でした。
 数学は60歳を過ぎてから受講しました。いくら好きだったと言っても、60歳になった頭で理解出来るのか、不安でした。何しろ得意の筈の数学を間違った為に、第一志望の大学を落ちてしまったのですから。
 でも「くらしの数」の講座は、いざ受けてみるととてもとても楽しく、一次二次の関数、因数分解、数列、微積分、幾何など、みな何とかついて行けて楽しかったです。講師の田舎一先生がとても褒めて下さって、更に計算機の仕組みに関する私の間違い一つを、長い長い数式によって、まちがっていることを教えて下さったのには、感動しました。大切な時間を惜しまず、私如き間違いに気づかぬ見知らぬ受講者に、このようにご丁寧に何枚にも渡って解説して下さって本当に感激しました。
 これ迄に幾度講師の先生にお礼状を書きたいと思ったか解らないのですが、受講中の先生に対してのお礼状は、時間の浪費を強いることになるのではないかと思われるて、リポートの度毎に短い感謝の言葉を添えて来ました。受講後に是非お礼状を書きたいと思ったのですが、義母が亡くなり、義父が亡くなり、娘が亡くなったりで、悲しみにくれて心に余裕がなく、ついにお礼状は書けずに終わっていました。これにはいつまで経っても本当に心残りでした。
 ずっと数学の講師の先生からのお手紙が入った封筒は、私のリポートの感想文がのった機関誌と共に、本棚に残してあり、折々後悔しつつ眺めて過ごしていました。
 こんなに遅くなっても、「私が生きている内にお伝えしたいお礼は、お伝えするべきだ」と切実に思うようになり、とうとう過日NHK学園に問い合わせをしました。とうに数学の講座はなくなっていますが、NHK学園気付けで、お礼状をお送りしたら届くかと、お聞きしたのです。学園でも時間をかけて探してくださったのですが、矢張り「連絡先不明です」ということでした。私の熱意の不足の結果ですから申し訳無く思いつつ、心の中で「有り難うございました」とお礼を述べて、やっと気が済みました。
 仏典を学習したのは、何の理由もなく、「何故私が今、仏典を学習するの?」と家族に笑って言いながら、とても難しい仏典を多分2年以上かけて学びました。学ぶ程に身が入り、坐禅を組んだりしつつ、リポートを書いていました。何しろ暗記が苦手なので、本を何度も繰り返し読み直し、やっとリポートを書き上げるあり様でした。添削の講師によるリポートには、専任講師の黒川先生が、わざわざ別紙に一筆を書き添えて下さって、返信のリポートと共に届きました。これもとても貴重なご縁でした。仏典は一度くらい学んでもとても学びきれるものではなく、従って修了証書も無いのですが、私はテキストを大切に保存しておいて、何年か後に再学習する予定にしていました。その時が来たと思った頃は、以前よりもテキストも少なく、学習期間は短かかったのですが、その時の仏典の全ての講座を再学習しました。その後に娘が突然亡くなりましたので、私は、これこそ仏様のお心遣いだと確信したのです。この様な悲しみの中で、私が仏教にしっかり支えられ、般若心経を毎日上げて、泣きながらもこうして穏やかに過ごせるようになったのは、全てが仏縁だと感じました。わざわざ一筆書いてリポートに添え、励まして下さった専任講師の黒川先生にどれ程励まされたか解りません。今以て感謝しています。
 学ぶ者と教える立場の人とが、リポートという仲立ちを通して、課題を解くよりももっと大切な、心の温かさや優しさに感動し、人間のあるべき姿を教えて頂いたことが、何よりの収穫でした。
 数知れぬ通信講座の講師の先生方、これを運営して居られる事務の方々に、心からの感謝を申し述べたいと思います。
 この経験を通して、これからの日常生活の中で、私も心のこもった声をかけたり、手紙を書いたりしたいと思いました。皆さんがなさっておられる様々な日々の学びを、共に「がんばりませう」

悠久の時の流れに出会いたるやさしき人に心委ねり(あずさ)

あの入試得意でありし数学を解けざりて有る今の幸せ(某誌に掲載)  


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魂は永遠だと信じたい

2014年09月17日 | 随筆・短歌
 立花隆氏のNHKスペシャル 思索ドキュメントから 「臨死体験」「死ぬ時心はどうなるのか」を録画しておいて、昨日大変興味深く見ました。
 人の心は何処にあるのか、については私もとても興味があり、真剣にまた強い興味をもっ見ました。脳が心を作り出すのか、そうではないのか、どうも脳が心を作り出すのではないのではないか、と私も薄々そう感じていました。私は魂はあると思っていますから、片寄った考えかも知れませんが、魂は体中に存在しているように思っています。心も体中にあって、それを脳がある意味コントロールしているのかなと思うのです。細胞という細胞が私達の全ての遺伝子を持っているわけですから、同じように心を持たないとは言えません。
 私達は見えないものを感じます。それは一般に第六感と呼ばれるものです。どこでそれを感じるかというと体中で、というのが正解みたいに思います。医学者でも科学者でも心理学者でも、哲学者でも、宗教者でもない私には、到底説明すら出来ませんが、心は生まれ落ちた時、いいえ羊水の中にいる時から、すでにありますし、息を引き取っても、微弱な脳波が出ているそうですから、どこかできちんと感じている訳です。
 臨死体験者は、体から魂が抜けてとても美しく心地良い光の中へ進んでいくそうです。私は死ぬ時は痛みも苦しみも悲しみもきっと無い、と以前書きました。生まれる時も死ぬ時も、心地良く幸せな気分の中で、するりと、生まれ落ちたり、死んだりする筈だと思っているのです。誰かが「隣の部屋にいくように冥界にいくのだ」といいました。人体の不思議や大自然の不思議を見ているだけで、科学では説明出来ないものが沢山存在すると思っていますから、私にはそんな大それた仮説を平然といえるのかも知れません。
 心が作り出す不思議な、しかしはっきりと目で見た、と確実に言える出来事を私達夫婦二人で体験した時のことを以前書きました。車で福井県の道路を走っていて、道を間違え、ほんの少し早く右に曲がったために、海の方に出てしまいました。川に出ると思っていましたから、目の前の水を川だと思い、明日はこの川を渡って行けば、良いのだと信じ込んでしまったのです。
 ところがどう行くとよいのか解らず、住んで居たおじいさんにきいても、不明でした。あちこち走り回っていると、川に橋が架かっていて、私は薄緑色の鉄橋のような橋を夫は赤い太鼓橋のような形の橋を見ました。二人ともはっきりと見たのです。でもそれは幻視だったのです。ホテルへはどう行けばよいのか、解らなくなって、切りミミズのように右に左に走って、行きつ戻りつしている私達の車を不思議がって、たまたま道路工事をしていた人達が「何処へ行くのですか」と聞いて下さり、「此処は海です。橋など有りませんよと」言って、「一旦戻って間違った道まで出たら、右に行きなさい」と教えて下さったのでした。本当に助かりました。薄暗くなってやっとホテルに着いてホット人心地がつきました。やがて「あの橋は何だったんだろう」ということになり、いまだに謎です。思い込みが各自に都合の良い幻視を作り出して、橋を見たと認識したのでしょうか。
 まだあります。臨死体験をした人は体から魂が抜け出て、天井から、自分の遺体に集まっている人達を見るそうです。私は逆に義父が倒れた時に反対の体験をしました。朝食を食べつつ義父は「昨夜とても頭が変で眠れなかった」というのです。たまたまリハビリにつれて行く日だったので、診察をして頂くことにして、私はタクシーを呼び、義父はいつものように下着の着替えと背広を着る為に、廊下に出て自分の部屋に行きました。私も着替えてハンドバックを用意した頃にタクシーの停車音がしました。義父を呼びに行くと、炬燵布団に少し寄りかかるように横になって倒れていました。倒れた時にバタンと音がすれば、隣の居間にいた私も気付いたと思うのですが、静かに倒れたようで、気がつきませんでした。動かない義父に驚いて、慌てて救急車を呼び、タクシーには帰ってもらいました。
 そのタクシーが我が家に着くほんの少し前に、居間のソファーにもたれかかって、待っていた、私の頭の上の天井の隅に、義父母と娘の笑顔を見たのです。義父ははっきりと、他は傍にくっついて、でもしっかり見えたのです。直ぐにタクシーが来ましたし、訳が解らない私は義父を呼びに隣室へ行きましたので、映像のその後は知りません。この時義母は既に亡くなっていましたが、娘は東京にいましたし、訳が解りませんでした。義父が倒れている等思い付きもしませんでしたし、とても不思議でした。このおかしな現象は、今までだれにも話しませんでしたから、家族も知りません。でも天井の白い壁に、義父は真面目に、義母と娘はにこにことわらって、確かに三人を目撃したと思っています。
 病院に着いた時は、義父は既に意識は亡く、心臓蘇生術で辛うじて自発呼吸は戻りましたが、亡くなるまでの二日間は意識も無く、すやすや眠っていて、自然に呼吸がひいて行きました。腕や足や体を付き添っていた家族でずっと長く撫でてやりました。きっと私達家族の愛情は届いていたと思っています。
 過日我が家の毎年恒例の故郷のお墓参りに行きました。今年は私の先祖のお墓に続いて、夫の古い先祖のお墓にもお参りして来ました。私が結婚後にお参りに行った夫の昔のお墓は、中心にお墓が一つあり、回りには幼くして亡くなった人や未婚のまま亡くなった人のお墓が一人に一つ、丸い石を載せてあったのです。幾つもの大小の石が置いてありました。
 今の我が家が出来て、義父母が私達と同居してから、義父は新しく我が家のお墓を市内に作りましたから、今はそのお墓に義父母と結婚してから亡くなった娘のお骨の一部も入れてあります。娘は結婚して数年後に亡くなり、子供もいなかったので、先々を考えると毎年遠く迄お参りに行ける自信もないので、嫁ぎ先の両親にお願いして、分骨して頂いたのです。
 夫の故郷の祖先の古いお墓は、その後まだ元気だった義父が中心になって、、全てのお墓を合葬して、立派なお墓を建てました。義父は末の弟に家や田畑などみな譲りましたから、現在は夫の従弟が管理しています。
 しかし、夫の祖先のDNAは、息子にも引き継がれていて、特に祖父はユーモラスな人で、その遺伝子は色濃く我が家の夫と息子に引き継がれています。義父は真面目一方の堅物で、良く働いた人でしたが、人を笑わせることはしないようでした。遺伝子とは 面白いものでもあり、有り難いものですね。私達はもうこの歳ですから、遠くの祖先のお墓参りは無理でしょうし、これが最後の積もりで、祖先に感謝の気持ちを込めてしっかりお参りして来ました。写真にも撮り、お墓の回りの草原から、小さなドクダミ2株とシダ1株を丁寧に掘って持ち帰り、我が家の庭に植えました。
 このお墓の中にある沢山の御霊は、今何を考えておいでだろうと思いました。杉木立の中の湿り気のある静かな空気、苔むした土台や、屋号を刻んだ台座、上の両脇の家紋、「先祖代々の墓」という黒御影石の横に、これを建てた三人の兄弟の名前が彫ってありました。多分「良く来てくれたね」と言っていると思い、私は此処まで私達家族を守って下さったお礼を述べました。般若心経を上げたり暫くは去りかねてそこで時間を過ごしました。
 ところで意識というものは、様々な認識を繫いで複雑に、絡み合った蜘蛛の巣のようなものだという、トノーニ教授や立花隆氏の考えには、思わず「そうでしょうねえ」と共感を覚えました。理屈は解らなくても実感として、きっと誰もが共感を覚えることでしよう。
 私達は死ぬ時は、心地良い光に包まれて天に昇っていくのだと、そう思って死ねたらそれは幸せですね。そしてあの世で先だった人達に再び出会えるとしたら、死もまた楽しからずや、ではありませんか。お彼岸の前に祖先のお墓におまいりして、沢山の幸せを頂きました。
 番組を視終わって、心と魂はどのように違っていて、互いにどのような関係を維持しているのか、番組で触れていなかったのが、心残りでした。

進化してネコのあなたとヒトの吾四十億年引き継ぐ命 (某誌に掲載)

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論語に学ぶ「思いやりの心」

2014年09月06日 | 随筆・短歌
 最近また論語が懐かしくなり、読み返しています。親しまれている一つに、次の文があります。
 「子曰く、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」
 恕とは思いやりです。「人間の一番大切なことは(思いやり)である。自分が望まないことは、人にやってはならない」ということです。この思いやりは、孔子の哲学の根本の「仁(じん)」の中心にあるものだといわれます。
 自分と同じように他人を思いやる、優しくする、相手を許す、といった事を実践する事、と解釈すれば良いのでしょうか。
 私は、最近の経済至上主義が、人間の心の荒廃につながって来てはいないか、と心配しています。豊かな経済、豊かな暮らしは誰しも望みますが、その欲望は何処までいっても満足出来ないものであって、その結果自己本位が強くなり、自分さえ良ければ、人のことなど考える暇も無ければ余裕も無い人間が満ちあふれた社会になって行くことでしょう。その兆候として、責任を取ろうとしない人が政界・経済界・官僚はたまたマスコミの中に跋扈(ばっこ)している気がします。
 そこでこの孔子の教えを引いて来ますと、一番大切なことは思いやりだと説いています。
 企業は金、かねと儲けることを第一目的にするのではなく、そこで働く社員を大切にすること、また教育も豊かな人間性を育むことを第一に考えるようになれば、自ずといじめも減って、心地よい労働や勉学にいそしめる環境が生まれて来るのではないでしょうか。そうなって初めて平和を愛する国家、人間を大切にする国家へと変って行くものと思います。
 私達は、戦後の食糧難を知っています。あの時は、少ない食料を分けて食べました。お米一粒たりと無駄にしませんでした。それが今日では、コンビニなどで、時間切れの食べ物がどっさり捨てられていると聞きます。目を転ずれば、戦後と同じく日々を心安らかに食べられない子供たちが、この日本にもいるのです。
 眼の前の困っている人に手を貸してあげないとか、自殺者が増えても、殺人のニュースが毎日でも、平気になってはいないでしょうか。自分が困らなければそれで良い、将来の子供たちがどうなるか、等考えもしないというのは、矢張り人間としての教育をしっかり受けて来なかったからでしょうか。または、自ら目を背けて生きているのだろうかと思います。
 小渕経済産業大臣が、親として原発は心配だ、しかし原発は動かすことに決まっているから。と苦しい本音を言われましたが、福島の人達のことを考え、日本の未来を考えれば、原発の稼働は大いなる誤りだと思えます。
 政治にも経済にも疎い私ですから、こんなことを書いたら笑われるかも知れませんが、電気料が高くなっても、節約して何とか支払える位しか使わず、自然のエネルギーを巧みに使うことも、私達の年齢の人の中に、工夫する人も出るでしょう。
 日本中の人が室温29~30℃位まで団扇で我慢したら、原発無しでも乗り切れるのではないでしょうか。現在でも原発は一基も稼働していません。それでも何とかやっているではありませんか。
 また、現在高齢者の皆さんは、戦後の何もない時代から立ち上がり、高度経済成長時代の担い手ともなり、もう働けなくなって、年金暮らしになっています。恐らく日本の政府にとっては、こういった働けない人は少ない方が良いでしょう。しかしそうも行かないので年金の支給額を削って、帳尻を合わせようとしています。みな黙って我慢しているようですが、哀しいことですね。高齢者が年々増えていると政府が発表する度に、身を縮めて暮らさなければならないのはとても辛く淋しいことです。税金の無駄遣いをしないように、此処を切ったというはっきりした事実を聞きたいものです。
 私が愛読しているブログに「末永遍(すえながあまね)新・心の原風景・苦悩の克服」というのがあります。2014年8月30日付けで「古代と現代の政治姿勢」というのが載っていました。その中の次のような所に目を引かれました。

『日本の歴史 04 平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏著 講談社学術文庫)を読みました。それによりますと、大宝律令(西暦701年制定)のもとでは、八十歳のご老人にはヘルパーさんがつくような仕組みになっていたそうです。ヘルパーは血縁者がなり、課役を免除されるなど様々な特権が与えられたそうです。九十歳になるとヘルパーが二人つき、百歳になると五人つくことになっていたそうです。
 当時はそんなに長生きする人はほとんどいなかったでしょうから、この制度がどれくらい生かされたか疑問ですが、このように高齢者と申しますか、弱者を大切にする発想が、国の方針としてあったことに驚かされます。国としては財政上、得なことではなかったでしょうが、損得勘定を度外視した福祉政策を持っていたわけです。中国を見習って作った律令ですから、中国にそういった制度があったのかも知れませんが、それでも立派なことだと思います。

(以上引用文)

 私は大いに驚きました。確かに今とは長生きの年齢が違うでしょうから、そのままは現在の日本にも応用することは無理ですが、そういう心が当時の為政者にあったことが驚きです。
多分私達の年齢の人達は、我慢することには慣れていると思いますが、それでも自分が亡くなった後の未来の日本の事が心配です。年を取って初めて解ったこと、それは未来をもっと大切に、その時代に生きる人々のことを真剣に考えて政治を行い、国民はそれを注視しなければならないという事です。
 思いやりの心、それこそが、これから益々大切にしなければならないことでしょう。その教育は何処で誰が、どの様に行ったら良いのでしようか。それすらも考えられていないように思えて、不安なのです。そうしなければ、日本人の美しい心は毀れて行くばかりです。私も含めて、このことの重大さを広く認識してもらい、大いに努力したいものです。

廻り来る自然の則に従ひて紅葉も吾も秋を生きゐる

虫たちの妙なる楽を聞きながら鳴けない虫に心寄す夜半

(某誌に掲載)
 

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