前回歌詞を味わうことについて書きましたが、家族にその話をしましたら、いつの間にか日本語の美しさについて話し合っていました。例えば「雨」という語の付く言葉にしても、とても沢山あると息子に聴いて、早速手元の角川の「類語新辞典」で調べてみました。
すると例えば、糠雨(ぬかあめ)、驟雨、時雨(しぐれ)、氷雨(ひさめ)、慈雨、遣らずの雨 など50を越える文字が出て来ました。これには引いた私も驚いた程でしたが、小糠雨といえば、何となくしとしとと柔らかく優しく降る様子を想像しますし、驟雨といえば、さあっと過ぎる雨、慈雨は、恵みの雨ですが、適わなかったことがやっと適った時にも使われます。このように実に日本語は豊かです。
こんな事を考えていたら、フランスの「最後の授業」という教科書にも載っている話を思い出しました。フランス語の教師が、やがてドイツに占領されるという時に、生徒に「この美しいフランス語を誇りに思い、決して忘れてはいけない」と教えられたという内容だったと思います。
私は語学に疎いので、良く解りませんが、「雨」という一つの言葉でこの様に多種多様な表現が出来る国語は、日本語だけなのではないでしょうか。日本語は実に奥深く豊かで、美しいと思います。そうであるからこそ、短歌とか俳句のような短詩形の文学があるのだと思います。
ところが最近とても残念に思うのが、この日本語がだんだん本来の意味とは違う表現になったり、曖昧な表現になってきたことや、短縮語というよりも勝手な造語や、日本語の大幅な省略や、折角の日本語をローマ字で表現する風潮等です。
例えば、政治家や官僚が良く使う「遺憾」という言葉ですが、広辞苑に拠ると、「思い通り行かず、心残りなこと。残念。気の毒。」と載っています。政治家が諸外国に対して「遺憾に思う」と表現したとき、翻訳する人はこれをどう表現するのでしょうか。可成り誤解を生む使い方だと以前からハラハラして聴いて居ました。残念だとか、気の毒だとはっきり言ったほうが良く意志が通じます。また彼等は自分の側にミスがあった場合にも謝罪の積もりで「遺憾です」といいますが、これは「残念だ」と言っているのであって、陳謝していることにははならないのです。「バレてしまって残念だ」と言っているように思えて来ます。
最近多くの人が、「○○じゃないかなあって」と言い、「○○です、とか○○だと思います」とはっきり言いません。なにやら幼児っぽく甘えているようでもあり、また自信の無い感じの表現です。
「就活」「婚活」、なども最近良く使われますが、就職活動、結婚活動と何故きちんと表現出来ないのでしょうか。「結婚活動」と、結婚する為に相手を探すことを、活動にしてしまうことにも引っかかりますが、「婚活」という言葉に省略することによって、打算的で軽薄な感じを受け、これからの人生の苦難を共に乗り越えて行こうとする熱意が伝わって来ない気がして、少し寂しい思いです。
又、KYというローマ字は「空気が読めない」ということだと知ったのは、ずっと以前ですが、こんな隠語のような使い方をするごときは、侮蔑的にすら聞こえてきます。もっと柔らかな心遣いに満ちた日本語を選んで使ってもらいたいものです。
加えてもう一つ、調子が出ないスポーツ選手などに、「まだ結果が出せない」などという表現がなされることがあって、これもとても気になります。結果というものは、何か成せば必ず良くも悪くも「出る」ものです。「まだ良い結果が出せないでいる」と何故言えないのでしょうか。これも短く表現することの現れでしょうか。正しい日本語の見本を示すべき公共放送のアナウンサーが、平気でこういう使い方をしているのは、とても残念です。
今回は少し厳しい内容になってしまいました。水清く、緑美しく、大らかな海にかこまれた豊かな日本に住んで、世界に類のない美しい国語を持っていることは、私達の誇りです。大切に大切にこの国の言葉を使い、次の世代へ伝えて行きたいものです。
すると例えば、糠雨(ぬかあめ)、驟雨、時雨(しぐれ)、氷雨(ひさめ)、慈雨、遣らずの雨 など50を越える文字が出て来ました。これには引いた私も驚いた程でしたが、小糠雨といえば、何となくしとしとと柔らかく優しく降る様子を想像しますし、驟雨といえば、さあっと過ぎる雨、慈雨は、恵みの雨ですが、適わなかったことがやっと適った時にも使われます。このように実に日本語は豊かです。
こんな事を考えていたら、フランスの「最後の授業」という教科書にも載っている話を思い出しました。フランス語の教師が、やがてドイツに占領されるという時に、生徒に「この美しいフランス語を誇りに思い、決して忘れてはいけない」と教えられたという内容だったと思います。
私は語学に疎いので、良く解りませんが、「雨」という一つの言葉でこの様に多種多様な表現が出来る国語は、日本語だけなのではないでしょうか。日本語は実に奥深く豊かで、美しいと思います。そうであるからこそ、短歌とか俳句のような短詩形の文学があるのだと思います。
ところが最近とても残念に思うのが、この日本語がだんだん本来の意味とは違う表現になったり、曖昧な表現になってきたことや、短縮語というよりも勝手な造語や、日本語の大幅な省略や、折角の日本語をローマ字で表現する風潮等です。
例えば、政治家や官僚が良く使う「遺憾」という言葉ですが、広辞苑に拠ると、「思い通り行かず、心残りなこと。残念。気の毒。」と載っています。政治家が諸外国に対して「遺憾に思う」と表現したとき、翻訳する人はこれをどう表現するのでしょうか。可成り誤解を生む使い方だと以前からハラハラして聴いて居ました。残念だとか、気の毒だとはっきり言ったほうが良く意志が通じます。また彼等は自分の側にミスがあった場合にも謝罪の積もりで「遺憾です」といいますが、これは「残念だ」と言っているのであって、陳謝していることにははならないのです。「バレてしまって残念だ」と言っているように思えて来ます。
最近多くの人が、「○○じゃないかなあって」と言い、「○○です、とか○○だと思います」とはっきり言いません。なにやら幼児っぽく甘えているようでもあり、また自信の無い感じの表現です。
「就活」「婚活」、なども最近良く使われますが、就職活動、結婚活動と何故きちんと表現出来ないのでしょうか。「結婚活動」と、結婚する為に相手を探すことを、活動にしてしまうことにも引っかかりますが、「婚活」という言葉に省略することによって、打算的で軽薄な感じを受け、これからの人生の苦難を共に乗り越えて行こうとする熱意が伝わって来ない気がして、少し寂しい思いです。
又、KYというローマ字は「空気が読めない」ということだと知ったのは、ずっと以前ですが、こんな隠語のような使い方をするごときは、侮蔑的にすら聞こえてきます。もっと柔らかな心遣いに満ちた日本語を選んで使ってもらいたいものです。
加えてもう一つ、調子が出ないスポーツ選手などに、「まだ結果が出せない」などという表現がなされることがあって、これもとても気になります。結果というものは、何か成せば必ず良くも悪くも「出る」ものです。「まだ良い結果が出せないでいる」と何故言えないのでしょうか。これも短く表現することの現れでしょうか。正しい日本語の見本を示すべき公共放送のアナウンサーが、平気でこういう使い方をしているのは、とても残念です。
今回は少し厳しい内容になってしまいました。水清く、緑美しく、大らかな海にかこまれた豊かな日本に住んで、世界に類のない美しい国語を持っていることは、私達の誇りです。大切に大切にこの国の言葉を使い、次の世代へ伝えて行きたいものです。