ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

美しい日本語を大切に

2010年01月26日 | 随筆・短歌
 前回歌詞を味わうことについて書きましたが、家族にその話をしましたら、いつの間にか日本語の美しさについて話し合っていました。例えば「雨」という語の付く言葉にしても、とても沢山あると息子に聴いて、早速手元の角川の「類語新辞典」で調べてみました。
 すると例えば、糠雨(ぬかあめ)、驟雨、時雨(しぐれ)、氷雨(ひさめ)、慈雨、遣らずの雨 など50を越える文字が出て来ました。これには引いた私も驚いた程でしたが、小糠雨といえば、何となくしとしとと柔らかく優しく降る様子を想像しますし、驟雨といえば、さあっと過ぎる雨、慈雨は、恵みの雨ですが、適わなかったことがやっと適った時にも使われます。このように実に日本語は豊かです。
 こんな事を考えていたら、フランスの「最後の授業」という教科書にも載っている話を思い出しました。フランス語の教師が、やがてドイツに占領されるという時に、生徒に「この美しいフランス語を誇りに思い、決して忘れてはいけない」と教えられたという内容だったと思います。
 私は語学に疎いので、良く解りませんが、「雨」という一つの言葉でこの様に多種多様な表現が出来る国語は、日本語だけなのではないでしょうか。日本語は実に奥深く豊かで、美しいと思います。そうであるからこそ、短歌とか俳句のような短詩形の文学があるのだと思います。
 ところが最近とても残念に思うのが、この日本語がだんだん本来の意味とは違う表現になったり、曖昧な表現になってきたことや、短縮語というよりも勝手な造語や、日本語の大幅な省略や、折角の日本語をローマ字で表現する風潮等です。
 例えば、政治家や官僚が良く使う「遺憾」という言葉ですが、広辞苑に拠ると、「思い通り行かず、心残りなこと。残念。気の毒。」と載っています。政治家が諸外国に対して「遺憾に思う」と表現したとき、翻訳する人はこれをどう表現するのでしょうか。可成り誤解を生む使い方だと以前からハラハラして聴いて居ました。残念だとか、気の毒だとはっきり言ったほうが良く意志が通じます。また彼等は自分の側にミスがあった場合にも謝罪の積もりで「遺憾です」といいますが、これは「残念だ」と言っているのであって、陳謝していることにははならないのです。「バレてしまって残念だ」と言っているように思えて来ます。 
 最近多くの人が、「○○じゃないかなあって」と言い、「○○です、とか○○だと思います」とはっきり言いません。なにやら幼児っぽく甘えているようでもあり、また自信の無い感じの表現です。
 「就活」「婚活」、なども最近良く使われますが、就職活動、結婚活動と何故きちんと表現出来ないのでしょうか。「結婚活動」と、結婚する為に相手を探すことを、活動にしてしまうことにも引っかかりますが、「婚活」という言葉に省略することによって、打算的で軽薄な感じを受け、これからの人生の苦難を共に乗り越えて行こうとする熱意が伝わって来ない気がして、少し寂しい思いです。
 又、KYというローマ字は「空気が読めない」ということだと知ったのは、ずっと以前ですが、こんな隠語のような使い方をするごときは、侮蔑的にすら聞こえてきます。もっと柔らかな心遣いに満ちた日本語を選んで使ってもらいたいものです。
 加えてもう一つ、調子が出ないスポーツ選手などに、「まだ結果が出せない」などという表現がなされることがあって、これもとても気になります。結果というものは、何か成せば必ず良くも悪くも「出る」ものです。「まだ良い結果が出せないでいる」と何故言えないのでしょうか。これも短く表現することの現れでしょうか。正しい日本語の見本を示すべき公共放送のアナウンサーが、平気でこういう使い方をしているのは、とても残念です。
 今回は少し厳しい内容になってしまいました。水清く、緑美しく、大らかな海にかこまれた豊かな日本に住んで、世界に類のない美しい国語を持っていることは、私達の誇りです。大切に大切にこの国の言葉を使い、次の世代へ伝えて行きたいものです。

詩と曲の織りなす名曲に酔う

2010年01月20日 | 随筆・短歌
 私は余り歌を歌うことが上手くはありません。やや音痴に近い位です。でも歌うことは嫌いではなく、夫と二人で、カラオケルームへ出かけることもあります。(初めはうつ状態の私の為に、夫が無理矢理歌いに連れ出した事から始まったのです)最近は少し回数が減っていますが、以前は良く行きました。悲しい時、寂しい時、唱いながら涙を流したりしましたが、二人で二時間くらい唱うと気持が晴れて、清々して帰って来ました。
 腹式呼吸ですから、お腹にも力が入り、食欲も出て、健康にも良いと思っています。良く通うようになって、もう何年にもなります。最近は何かと時間に追われるようになって、なかなか出かけられなくなりましたが、時間を作ってまた行こうと思っています。
 処で、良い歌というものは、優れた歌詞に優れた曲が相まって、できるものであることは、言うまでもありません。ですから歌う時、作詞者の訴えようとするものを表現したいという気持になりますし、聴く時も、歌詞を深く味わいながら聴きます。
 しかし小さい頃に、口覚えで唱っていて、何を言っているのか、知らずに唱っていた歌詞もあり、この年になって初めてしみじみとその歌詞に感動することもあります。
 誰でも知っている歌に例を取りますと、卒業式に必ず歌われた「仰げば尊し」の「思えばいと速し(とし)この歳月」という「とし」が当時ひらがなであったために、その意味も解らずに「なんということなのだろう」と疑問を感じながら歌っていたのです。またその次に出て来る、「今こそ別れめ」の「め」も「目」だと思いこみ「時期」という意味だと長いこと思っていました。別れましょうという意味だと知ったのは、成人してからでした。小学一年生で覚えた歌ですから、知らないまま唱って来ていて、恥ずかしいと思っています。
 後に文法が好きになって、気になる言葉があると、文法を調べるようになりました。堀辰雄の「風立ちぬ」という小説の中に「風立ちぬ、いざ生きめやも。」という詩句が出てきますが、この、めやも、がどういう品詞に分かれるのか分からず、従って意味も正しく把握出来ず、これも文法の本を手に調べたこともあって、何かと言葉は気になります。
 「歌は世につれ、世は歌につれ」と言うことばがありますが、青少年の頃から、50代位までの歌は、何かと想い出と共にあって、歌ったり聴いたりする度に往時が想い出されて胸が熱くなります。
 昔の歌は日本語のイントネーションに合わせて、音階が出来ており、無理なく歌えましたが、今は平坦な歌が多いようで、変な処で音階が急に飛び上がったりして、歌詞と共に有るというより、歌詞と曲がバラバラに存在しているようで、私のような老人には、胸にしみこんでこない気がしてなかなか馴染みにくい思いです。
 土井晩翠の「荒城の月」の「春高楼の花の宴」というところで「えん」は半音で習いましたが、いつの間にか全音に変わっています。あそこは半音が多分正しいのではないかと思いますし、その方が曲としても美しいし、しみじみと味わえます。何だか長所を台無しにしてしまったようで、とても残念に思います。(米良美一のCDは半音で唱っています)
 先頃アンサンブル・プラネタのCDをネットで買いました。アカペラですが、一枚は、有名な歌曲集で、一枚は日本の叙情歌です。前者ではメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲に詩を付けて歌ったりしていますから、意味は解らずとも音として、その美しいハーモニーを楽しんでいます。けれども矢張り、音だけで詩の解らない歌は、美しくても心を揺さぶる力に欠けて物足りなく、日本語の歌詞のCDも買ったのです。
 金子みすずという詩人の詩が好きですが、彼女は若くして亡くなったので、曲の付いたものが少なく、残念に思っていました。以前佐藤しのぶが歌っているのを見つけて、期待してネットで買いましたが、今ひとつ、みすずの心の世界に入ることができませんでした。
 美声であるということは、一流のオペラ歌手としては、必須の条件なのかも知れませんが、心を歌うとなると失礼かも知れませんが、美声であるということよりももっと大切なものが無ければならないと思ってしまいます。船村徹が歌う歌には何時も泣けくるというのが、その良い例だと思います。日本人のシャンソン歌手として好きな人は、越路吹雪です。あの迫力と豊かな情感には、いつも虜になってしまいます。「千の風になって」というあの有名になった歌は、何人もの歌手が歌っていますが「Yucca」(ユッカ)という人が歌っているのが一番心に響きます。
 人にはそれぞれ好き嫌いがありますし、歌は、その時代の世相を現す鏡のような面もありますから、このばあさまの年齢では、こんなことしか解りませんが、是非もう少し、現代の若者の歌も聴いて、時代に置いて行かれないようにしたいものだと考えたりしています。

「棄てないと片付かない」と思うけど

2010年01月14日 | 随筆・短歌
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 年を重ねることとは、不要品を溜めることかと思う程、いつの間にか不要品が溜まっていきます。何年か前に思い切って棄てた筈だったのに、またまた年と共に不要品が溜まり、埃をかぶっています。もう少し暖かくなったら、又思い切って棄てよう、と心に決めています。
 私が退職した時、義父母が亡くなった後、市のゴミの捨て方が変わった時、と幾たびか思い切って棄てて来ました。それは不要品の整理というだけでなくて、死の準備の一環として片付けたのですが、矢張り私の日頃の管理に問題があるようで、いつの間にかまた不要品が溜まってしまいました。
 夫はそんなに熱心に片付けけなくとも、最後は業者がみんな持って行って棄てて呉れるのだから心配しなくても良い、と言います。けれども私は、少しでも片付けて置かないと、後々迷惑をかけるような気がして、気が済まないのです。
 夫は身の回りの片付けが上手で、何時も不要な物を置かず、きちんと整頓しています。
その片付け方は見事なまでです。私が新聞を読もうと、テーブルに出して来て、自分の座席に着き、さて、と新聞に手を出すと、新聞はもう其処にはありません。夫が既にラックに片付けてしまっているのです。私は何時も、次の行動に移る迄に少し時間が掛かる、いわゆる尻の重い人間です。ですからそのちょっとした隙に、綺麗好きの夫にサッと片付けられてしまうのです。 
 衣類は一枚買ったら、一枚棄てよ、とか、洋服ダンスに3年手を通さなかった物があればそれは不要だ、とか言われて、私も毎年努力はしているのですが、それでも「勿体ない」という思いが生まれて、棄てかねることがあります。
 沢山の雑誌類も、図書館で読むものとして、例外の1~2冊を除き、購入しなくなりました。
 夫は目に見えるところは何時も「たった今掃除したばかり」という状態に保つ綺麗好きですが、見えない押し入れや物置などは、余り気にならない人間です。反対に私は、見えるところは少し雑然と、新聞など出ていてもさして気になりませんが、見えないところも気になる性分なので、二人合わせて一人前で、何とかここまで大過なく過ごして来たと言えるでしょう。物置の二階に使わなくなった電気ジュータンが残っている、とか、一度も使わない電磁調理器がある等と時々私がぼやくので、「最後は業者」と言われてしまいます。
 市の方針で、粗大ゴミはそう簡単に棄てられなくなったので、思い立ったから直ぐに、とはいかないのです。それが尚更災いとなって、埃をかぶったものが残っていく事になってしまいます。 
 しばらく使わない物は物置に持って行くのが常で、記念品とか、引き出物とか頂いた品々もその一つです。娘が結婚した時、姪が結婚した時に気に入った物はみな持って行って貰いましたが、まだまだ残っています。子供達が小さかった頃の作品集の入った箱とか、娘がドイツから持ち帰った物とかは、捨てようとして一旦は手にしてみても、矢張り時折は眺めたり読み返したくなるので捨てられません。 
 一冊の本を読んで、今後不要と判断すると、直ちに捨てるという思い切りの良い夫と息子の書棚は何時も整然としていますが、また何時か読むかも知れない、などと思い切りの悪い私の書棚には、いつの間にか何年も開かない本が溜まっていきます。読書量が少ないと家族に笑われている私ですが、本にしてももう少し捨て上手にならないといけないとしみじみと感じています。
 今や不要となった品々であっても、一度は使用して重宝した品であったり、我が家にとって出番は無かったものの、贈って下さった人が、これが最適と思って選んで下さった気持を思うと、どうしても捨てがたい愛着を感じて、ついつい辛くなってしまう為、何時までたってもスッキリとは片付かない我が家の物置なのです。

  ガラクタとなりしもそれなり役立ちぬ今日捨てし物みないとおしき 
                         (実名で某誌に掲載)

「母の宝物」から

2010年01月09日 | 随筆・短歌
 新年になって書いたブログを読んだ夫が、新年なのだから、もう少し内容の深い新年にふさわしいものを書いたら良かったのに、と言いました。そう言われてみると、恥じ入るばかりで、私のブログは惰性に流されて、つまらなくなっていると改めて思わせられました。
 さりとて高尚なことを書く力もないし、パソコンに向かって、はたと考えあぐねてしまいました。その時ふと今は亡き母が、私の宝物は・・・という話をしたことが二回あるのを想い出しました。(もしかしたらもっと何回か言い、兄弟達も聞いているかも知れませんが、私の記憶に残ったのは二回です)
 一回目は私が子供だった頃の事です。その時のことは今でも忘れません。「大勢の子供がいるのだから(母は8人の子供を育てました)是非一人くらい養子に貰いたいという人もいるけれど、私にはどの子もみんな大切な宝だし、どう考えても誰一人として養子にやる子はいない」と言ったのです。その時私は、母は子供達を平等に愛しているのだなあと、しみじみと思い、親の愛情の深さに触れて嬉しかったことを覚えています。
 もう一度は、母が晩年になって弟と暮らしていた頃に、昼の間は独りの母の所に、毎週必ず通って話し相手になっていた私に「私にはこれ一つが宝物」と言って、にっこりしながら、手元から離さずに置いていた、お針箱を指さした時のことです。
 父が亡くなった時、子供達の意志で、遺産は全て母に相続してもらいましたから、母は田舎に家も不動産もあり、成長した子供達家族も、方々にそれぞれ元気で暮らしていましたから、この世に未練を残すものは無くなっていたのでしょうか。お針箱一つが宝物というのは、何と無欲な、と思ってしまえばそれだけですが、私は何故母にとってこの古ぼけた針箱が宝なのか、と思いました。その時私が思ったのは、母にとってこの針箱は、何時も身近にあって、せっせと繕いをし、夫の世話をしながら(父は明治の男らしく、立ったまま母に着物を着せかけてもらうような人でもありました)八人の子供を育てた母の苦労と、母としての責任を成し遂げたという達成感と誇りの象徴だったのではないかということです。
 一般に宝物というと、形をもった物体である場合が殆どですが、アルバムや母の針箱のように、自分の生涯で最も愛し大切にしてきた人達との思い出に直接つながる物が、金銭への執着が無くなったときには宝物となるのだと、母の何気ない一言に教えられた思いでした。
 けれども「あなたの宝物とは何ですか」と言われてみると、普段は思っても見ないことなので、改めて考え込んでしまいます。日常生活の中では、物欲にとりつかれていて、あれも宝、これも宝、と大切にしまい込んでいても、いざ正面切って聞かれると、それは、お金や物でないことははっきりと言えます。矢張り母の言葉のように第一に「愛する家族」といえますし、その家族をもし失ったら、「健康な心身」と言いたいところですが、不幸にして健康でない人もいます。私自身も病気であったことを考えると「健康」もたった一つの宝とはいえないと思います。それでは心身を病む人には何が宝となるのでしょうか。 もし晩年病気を抱えて独りで暮らすようになっていたら、「今自分が生きていること」または「生かしていただいている私を支えて下さっている全てのものへの感謝の心」とか、誰でも持っている「自分の心の中の良心」とでも言える、外からは見えない心の中にある思いに収斂されていくように思えます。哲学にも宗教にも疎い私には、難しいことは分かりませんが、ここまで生きて自信を持って言えることは、感謝の心を持ち、常に良心に従って生きて行けたら、怖れるものは何もないと思えることです。
 財宝に縁の無い貧しい人間 の理想論であり、空想に近いものと笑われるかも知れませんが、あなたにとって、「宝物」とはどのようなものでしょうか。

引き継がれ来しもの

2010年01月04日 | 随筆・短歌
 明けましておめでとうございます。年が改まり、清々しい気持でPCに向かっています。どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。
 年頭に当たって、仁左衛門に引き継がれてきたものに思いを馳せてみたいと考えています。日本の何処にでもある渓谷から流れ出した、清らかな水を集めた河のほとりに仁左衛門の家はありました。家から海岸まで直線距離で約7キロほどの所でした。義父は次男で、兄は医師だったことは以前書きました。教育熱心だった義父の父が、子供に高等教育を受けさせたのですが、長兄が、患者さんの腸チフスに感染して亡くなり、次男であった義父が家督相続をしました。義父には他に姉が一人と弟が二人いました。
 義父はその頃には珍しい二階建ての家を新築し、先祖代々のお墓も整理して、昔は子供が亡くなると一人に一つ小さなお墓があったようですが、それらも纏めて、立派なお墓を建てました。
 ところが私達が現在住んでいる市に家を建て、義父母と同居するようになったので、義父は自分の建てた家を一番下の弟に譲り、お墓も弟に管理して貰うようにしました。付随して田畑も、すっかり弟に継いでもらいました。義母の話に依ると弟達の学費も、義父は自分の給料から援助していたそうで、なかなか苦労も多かったと当時を偲んでいました。
 義父母は現在の家に移る時に、少しばかり想い出の品を持って来ました。それは蒔絵の三段重ねの重箱、蒔絵の長方形のお盆二枚組、河に流れ着いた埋もれ木を磨いたという、仏像のような置物、太い榧(かや)の擂り粉木、漆塗りの流し箱、掛け軸二本、アルマイトの大鍋、そして手頃な漬け物石二個です。市街地に行けば、漬け物石に困るだろうと考えたのでしょう。
 義母は漬け物がとても上手で、太い大根を毎年美味しく漬けてくれました。勿論例の漬け物石が役立ちました。それはそっくり私に受け継がれて、私も沢庵漬けをつくりました。 義父母を送り、夫も退職して暇な時間が持てるようになった私達は、秘湯と言われる山奥に日帰り入浴に通い始めました。鶯やカジカが鳴き、ヒグラシやツクツク法師の聞こえる秘湯で、渓谷にあるその温泉がすっかり気に入りました。
 帰りに産地直販のお店で、四季折々の山菜や野菜を買って来るのが、また楽しみでもありました。秋も深まり、スーパーの店頭に漬物用の大根が並び始めた頃、その店主が貴方がたの住んでいる所は海の近くなので、大根は全て砂丘大根で水分が多く、漬け物には向かないと言うのです。ここで取れた大根は土地も良いし、美味しい漬け物になるから、一度試して見なさいと言われました。それがきっかけとなって、以来十年位でしょうか、毎年秋には大根を頼み、何時もとても美味しい沢庵漬けを食べて来ました。
 山菜が出る4月から11月まで毎月二回ほど通っていましたが、3年前からは、夫が車での日帰りが困難になり、残念ながらその美味しい沢庵漬けとは縁が切れてしまいました。 大根よりも何倍も残念だったのは、店主と、そのご子息のお嫁さんとの誠実で温かなお二人に会えなくなったということです。いつも明るいお二人で、夫との間に止めどなく冗談が飛び交うこともしばしばでした。
 その時青首大根にもいろいろあるのだということを知ったのでしたが、昨年の暮れに、再びとても美味しい大根に巡り合うことになりました。それはキッチンで同時に使えるアンペア数を増やす為に、配電盤からすっかり新しく工事をして貰った時です。工事に見えた職人さんが、とても人なつっこい感じの良い人で、「これは自家製の、おでん大根と呼んでいるとても美味しい大根なので、食べて見てください」と二本持って来て下さったのです。早速煮てたべましたら、とても甘くて柔らかく美味しいのです。工事の代金を支払いにお宅に立ち寄りましたら、とても感じの良い優しそうな奥様が丁寧に応対して下さいました。このご主人にしてこの奥様有りと納得しました。おでん大根の美味しかったことを感謝してお礼を述べてきましたら、翌日またご主人が例の大根二本と、一人では抱えられない程の大きい白菜を二つも持って来て下さったのでした。この白菜も無農薬の自家製とのことでした。それが早速おせちの煮しめや、お雑煮の材料になって、私達は心の中まで温めて頂きました。
 話がそれてしまいました。新年を迎えるに当たって、夫は仏壇の掃除をし、床の間に置いてあるその仏像のような置物を磨き、私は義母が持ってきた大鍋に煮しめを作ったりしました。先祖の位牌はすっかり田舎の家に引き継いできましたから、我が家の仏壇には義父母の位牌と、夫の弟の位牌、そして娘の位牌しかありません。毎年男性が仏壇の掃除をするのが伝統なので、夫がこつこつと仏具を磨き、息子がお飾りを飾って門松を取り付けました。
 幾つもない形見のような品々ですが、半分位にすり減った擂り粉木や、使い古した流し木箱、漬け物石、どれも置いてくるには愛しすぎるものだったのでしょう。私もそれらを大切な物として今も丁寧に使っています。あの田舎の大きな家の中にあったものがこうして、私達に引き継がれて来ていると思うと、何だかそれらの品が、仁左衛門のDNAの一部であるかのように思えて、とても愛しく思えます。
 年の初めにこの受け継いだ愛しき物を大切に、そして先祖から夫、息子へと連綿と繋がるDNAを愛しみながら、心豊かに過ごしたいと願っています。
 どうか皆様には「今年は幸せであった」と実感出来る年でありますようにお祈りしています。「自分は幸せな人間だ」と思えば、本当に幸せに思えてくる、人間とはそんな不思議な生き物なのですね。

  焼き付けし「仁(カクニ)の文字も懐かしく榧(かや)の擂り粉木で胡麻だれを摺る
                             (実名で某誌に掲載)