ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

こころざしを果たしていつの日にか帰らん

2021年11月16日 | 随筆
 「故郷」という日本人には親しみ深い歌がありますが、その3番に「こころざしを果たしていつの日にか帰らん」という歌詞があります。この歌詞が出て来る度に、私は兄を想い出すのです。
 兄は私より三歳上でした。以前書きましたように、我が家は古いしきたりを大切にする家でしたから、長幼の序はきちんとしていて、長男は他の兄弟とは別格の人間として育てられました。約百年続いた女系家族にあって、やっと授かった男の子でしたから、生まれながらに特別の存在だったのです。
 それは食事の時の並び順にもしっかりと現れていました。私が幼かった頃の家長は、当時未だ元気だった祖父でした。祖父に向かって右隣が父、次が母、祖父の左側が兄でした。それぞれ映画に出て来るような一人用の脚の付いた高いお膳を並べて、他の兄弟姉妹は年の順に、兄と母との間にテーブルを置いて、そこに向かい合わせに「姉・私・弟・妹」と年の順に並んだのでした。母は次の弟を抱いていました。今想い出しても、それは家族の多い壮観とも言える光景でした。
 享保元年(1716年)からの祖先の記録が残っていますから、三百数十年の我が家は、相当古いしきたりの中で暮らしていたのかも知れません。
 祖父は「もし希望どおりに孫達を皆大学へ進学させたら、卒業後にこの家に帰って来て、これらの田地田畑と山林の管理をする人がいなくなる」と、この家の将来を心配としていた事を記憶しています。
 当時我が家では土地はあっても家人が耕す事はせず、戦後は農地解放に会って田畑は以前に比べるとごく僅かになりましたが、その後も小作の人達の手によってこっそり耕作されていて、お米が土蔵に運び込まれてやがて売られ、野菜類も早朝に誰かが密かに持って来てくれていたのでした。母も昔は女学校の寄宿舎に入って過ごし、戦後まで農業の経験など無かったのでした。
 野菜類を早朝に運んで来てくれる人達の姿を、私は殆ど見た事がありませんでした。しかしお盆や年末になると、父に指図されて母は反物などを持って、こっそりと日頃働いて呉れている人に賃金を支払い、お礼に回っている事は知っていました。
 戦後時代が変わって子供の教育に熱心な時代になると、祖父は兄の進学の際には「故郷に戻って高校の教師になる事」を希望していました。土地を守りながら勤めが出来ると思ったのでしょう。若かった頃東京暮らしだった父は子供達には高等教育を望み、子供の能力に従って希望どおりに各人が行きたい処へ進学すれば良い、と考えていた様です。
 そのような事情の中で、理数系の兄は故郷の家の事も考えて、東京教育大(現在の筑波大)の物理学科を選んで進学しました。しかし大学院の途中で祖父が亡くなりましたら、すぐさま当時原子物理学の最前線だった東京工業大学の原子物理学科へ入り直しました。結果的に二つの大学院で学び、その後日本の原子力研究所・アメリカの原子力研究所等で何年か研究を重ねて、電力会社に入社したのです。
 人生はどこで進路が切り替えられるのか、進路の先に何があるのか、想像も付きません。望みを果たして原子学の研究に携わった兄は、当時まだ放射線の防御が完全でなかったのか、それとも研究期間が長かったこともあってか、放射線の被爆によって急性骨髄性白血病に罹って60歳の若さで亡くなりました。
 未だ若いのに、妻と二人の男の子供を残して先立つ事がたまらなく辛かったようで、幾たびかの見舞いの最後の頃に「このように頼む」と病床を見舞った私に何枚かのリポート用紙を差し出しました。それを見た私は、絶句して震えるような気持ちで受け取ったのです。
 何事も緻密な兄のメモは、全く読めない「英語でも無い日本語でも無い細かくて一文字も読めない横文字」が、びっしりと綴られていたのでした。
 兄は海外生活の経験も(全て原子力関係でした)イギリスやアメリカ・フランスなど何年かあって長かったので、家族単位の交流や海外からの来客などがある時は、バーベキューが楽しめる炉を設備して広めの庭の家を関東地区に建てました。当時田舎の私達兄弟姉妹が暮らした家は皆成人して、住む人がいなくなってしまい広い屋敷も残っていたのですが、長男としてその維持も気がかりだったことでしょう。
 兄の子供達もまだ教育の最中でしたので、残される家族の生活を案じたりして、様々頼みたい事もあったのでしょう。でも何枚かのそのメモは、一文字として読める文字が無かったのでした。その時も外見はしっかりしていたようでしたが、その兄の変わり果てたメモと真剣な眼差しに、私は言葉も見つからないままに只頷くばかりでした。
 我が家には、古い時代に兄がイギリスを振り出しに世界の原発を視察に回ったりした時、「土産だ」と云って置いていった「ランタンと杖を持った老人と、畳んだ日傘を持った老婦人の人形」が一組飾ってあります。貰った当時私が「アビニヨンの橋で輪になって踊ろう」の様だと云いましたら、「そうだ」と兄は笑っていましたが。人形そのものも実に精巧に出来ていて、今も飾り棚に飾って兄の想いでのよすがとしています。
 
 人々は「故郷(ふるさと)」に一方ならぬ思い出がある様で、私が「ふるさと」の歌を聴く時は、何時もこの兄の様子が想い出されるのです。「こころざしを果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと」未だ高校・大学の頃は、良く「このような田舎には、僕は絶対に帰って来ないぞ」と田舎嫌いの兄でした。しかし歳老いて病に冒されてからは、「ふるさと恋し」の一念になったのです。後に電気事業連合の役員でしたが、結局家族して帰って暮らす事は無理でした。あれこれと周囲の人達に敬われたりした田舎の人間関係も、兄には忘れ難かったようですが。
 地域の人々が我が家の「長男」として特別に大切にして呉れた事も、きっと居心地の良い故郷になっていった原因だったのでしょう。庭には可成りの大木や、松尾芭蕉の「ふる池や蛙とびこむ水の音」と彫った高さ2メートル余りの自然石の句碑もありました。(句碑は現在公的な施設の庭にいわれを添えて展示されていて、とても大きな笠の灯籠も展示されています。)祖先には茶の湯に親しんだ人もいて、野点を楽しんだらしく、お壺(ツボ)(私達はそう呼んでいました)には上部が丸く刳りぬかれた丸みのある一メートルくらいの高さの石や、其処此処の木の下には小さな灯籠があり、1メートル位の大きな笠の灯籠は、お庭のほぼ中心にありました。古いというだけで、この程度の茶室や庭はさして珍しくはないのでしょうけれど。
 兎に角「こんな古い家」となじっていた兄の最後は、本当に故郷が恋しくてならなかったようでした。最後は「こころざしを果たして何時の日にか帰らん」の歌を地で行った人ではと思っています。
 さぞかし無念であったかと思いますが、ある意味では「達成感のあった人生ではなかったか」とも思います。
 北風が寒い季節にななりました。せめて心を温かくしてお過ごし下さい。   
 
 白血病と知らずに退院後を語る兄の虚しき夢を聴きゐる  あずさ
 

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