ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

京都の苔庭に魅せられて

2020年11月22日 | 随筆
 京都の「青蓮院門跡」の静かな苔庭ををご覧になられたことがおありでしょうかか?私は庭園が大好きですから、もう随分過去になりますが、夫と二人で奈良や京都の庭園巡りの観光バスに乗った事もありました。
 大徳寺高桐院や東福寺の苔庭も有名ですし拝観もさせて頂きました。美しい苔庭を見るととりわけ心が安らぎます。私は青蓮院門跡のとても静かで落ち着いた雰囲気の苔庭には、特に想い出が深いです。
 青蓮院のお庭は、池泉回遊式庭園です。池には大石があり、龍の背に例えられることから「龍心池」と呼ばれているそうです。また右手には跨龍橋(こりゅうはし)と呼ばれる石橋が架けられています。龍心池の近くには高く石積みした築山(つきやま)泉水滝口を中心として、柔らかな曲線の築山が苔に覆われていて、宸殿前の苔庭と共に美しさが忘れられないお庭です。京都の苔庭は、長い年月をかけて苔に覆われていますから、とても美しい苔庭になつていますし「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されています。
 青蓮院と共に心に残っている苔庭は、三千院です。深々とした苔に境内は覆われていて、苔の間には頭部を寄せ合った石仏などもさりげなく置かれていて、幼い笑顔の石のお顔が実に可愛いのです。何とも言えない安らぎがあります。何時までも心に残る、苔の美しい静かなお寺です。
 三番目には、疎林の下に陽差しを受けた苔庭の美しい「祇王寺」をあげたいと思います。落ち着いた気品のある苔庭です。祇王寺は、当時は室内にも入れて頂いて、風情のある丸窓の障子戸から日が透けて見え、心が静かになった事が思い出されます。
 平家全盛の頃、都で評判の高い祇王・祇女という白拍子の姉妹がいました。白拍子とは「今様」という当時の流行歌を謡い、舞を披露する女性です。姉の祇王が清盛の目に留まり寵を受けたのが16歳の時、家に残された母の刀自(とじ)と妹の祇女は、当時は贅沢に暮らしていました。三年の月日が過ぎた頃、仏御前という若い白拍子が舞を見てほしいと西八条邸に現れました。呼びもしないのに押しかけて来た仏御前を清盛は追い返そうとしますが、祇王の取りなしで対面できました。
 ところが清盛は若くて美しい仏御前にすっかり心を奪われてしまい、祇王は折角掴んだ自分の座を仏御前に奪われた形となり、清盛邸から退いたのでした。
♪萌え出るも枯るゝもおなじ野辺の草 いづれか秋にあはではつべき
(新しく芽ぶくのも、古く枯れゆく草も、所詮、野辺の草はみな同じなのです。どちらにしても秋になると枯れ果て消えてしまいます。人もまた同じです。愛されていても、いずれは飽きられてしまうのでしょう。)
と祇王は障子に書き残し、邸を去っていきました。
 翌年の春、清盛から嘆き悲しみの日を送る祇王に仏御前を慰めるようとのお達しがきました。母に説得され、心ならずも清盛の館に赴いた祇王に与えられたのは下座でした。
♪仏も昔は凡夫なり我等もついには仏なり、いずれも仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ(仏も昔は普通の人でした。私たちもいずれは悟りを開いて仏になれるはずです。仏御前も私も仏になるべき本性を備えていますのに、分け隔てなさるのは、まことに悲しいことです。)と非情な清盛を前にして今様を謡い舞うと、並み居る平家の人々は皆涙を流したといいます。
 その後、人生の無常を感じた祇王母娘は尼となり、嵯峨野の奥に庵を結び念仏生活に入りました。しばらくすると仏御前が、「自分もいずれ捨てられ、追い出される身の上」とこの庵に祇王を訪ね、四人は念仏三昧の日を送ったといわれています。
祇王二十一歳、祇女十九歳、刀自四十五歳、仏御前十九歳の時だったそうです。この悲しい物語を背景にした、清楚な中にも美しい祇王寺のたたずまいを見ると、人間の哀しさがしみじみと伝わって来ます。

 ところで三千院の参道奥に勝林院という寺院があります。私達が訪れた時は、ひっそりとして居てお庭の掃除をしている人が一人いただけでした。お参りに寄った私達にその人は「ここは勝林院という寺院です。本尊は阿弥陀如来です。この紐は」と云って阿弥陀如来の手から伸びている組紐を手に取って、「阿弥陀様と繋がっていて、これを持ってお祈りすると阿弥陀様と心が通じ合うと云われています。」と云いました。私達は云われた通りにお参りをしましたが、静かな雰囲気の中で、何だか心の蟠りが溶けて感謝の気持ちが満ちてきたように思われました。
「この先の宝泉院には大勢の観光客が来ます。けれどもここ迄くる人は少ないのです。」と少し寂しそうに云われて、直ぐ近くの宝泉院の話しをして下さいました。
 宝泉院(ほうせんいん)の血天井と云って、かつて伏見城で、鳥居元忠ら300人以上が自刃し、その際、血に染まった床板を 供養のために、宝泉院の天井の板としたのだそうです。私達も訪れて、説明を聞きながら血天井も見学しました。赤みを帯びた血の足跡が板に残っていました。そのお堂の畳の上に座って外の庭を眺めると、柱や鴨居があたかも額縁のようになって見える額縁庭園になっていました。

 ところで我が家は築五十年程になりました。同居していた義父母が、庭で僅かずつの野菜を育てて楽しんでいましたが、やがて手に余るようになり、造園業の方にお願いして庭にして貰ったのでした。
 作庭には、石にしても植え込みにしても約束事があるらしく、素人の私達には何一つ知らない事ばかりで、全てお任せしました。今ではそれが良かったと感謝しています。
 日々のお掃除と、大切な松に雪が積もった時等、枝が折れないよう竹の棒で軽く揺すって、雪を払ったりしてきました。庭師の方が「この土に合った苔が生えてきますからね」といわれました。散水しても中々生えて来ないので、諦めて放っておきましたら、やがて苔は自然に生え来たのでした。「苔の付く石も付かない石も組み込みました」と庭師さんが云われた通りで、今は苔石も苔の生えない石もある庭になって、その専門的なしつらえに、今は故人になられた庭師さんですが、時折思い出して感謝しています。
 苔庭になったら雑草が生えず、朝朝に草取りとお掃除に出る夫に付いて私も庭に出るのですが、庭と家の回りを一巡りしても、殆ど片手一つの草で終わります。
 何時でしたか銀閣寺に行きましたら、「銀閣寺に必要な苔・不要な苔」と苔が並べて置いてあった事がありました。今でもどれが不要な苔なのか、ゼニゴケしか私には判別できません。もっと良く見て来れば良かったのでしたが・・・。京都のお庭の足元にも及びませんが、今では日々の庭草取りも生き甲斐の一つになったようで、有り難い事だと思っています。
 京都の寺院の苔庭を思い出す時、長い年月をこの世の哀感を見つめ続けて来た苔の静かな輝きは、私達に何を伝えようとしているのかと、ふとそんな事を考える時があります。


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