ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

感動的な日本詩の名作

2015年06月27日 | 随筆
 下手の横好きですが、短歌を詠むという趣味を持つ私は、最近詩に興味が向いて来ました。言葉の数が自由であることから、詩はどのような心も漏らさず表現出来るところが羨ましいところです。
 純情詩人佐藤春夫の詩は、みなさんも若かりし頃に沢山読まれたことと思います。高校の教科書にも載っていましたから、たまたまその教科書で国語を学んだ方も多いかと思います。

 望郷五月歌(ごがつか)      佐藤春夫

 塵(ちり)まみれなる街路樹に
 哀れなる五月(さつき)来にけり
 石だたみ都大路(おほじ)を歩みつつ
 恋しきや何ぞわが古郷(ふるさと)
 あさもよし紀の国の
 牟婁(むろ)の海山
 夏みかんたわわに実り
 橘(たちばな)の花咲くなべに
 とよもして啼(な)くほととぎす
 心してな散らしそかのよき花を・・・・(以下略)

 何処からこのような美しい文体が湧き出てくるのか、と感嘆したあの若き日の心のときめきを、再び感じる思いです。
 佐藤春夫の故郷、紀の国のJR紀伊勝浦駅前に代表作の一つの「秋刀魚(さんま)の歌」の歌碑があります。

 あはれ
 秋風よ
 情(こころ)あらば伝へてよ
 男ありて 
 今日の夕餉に ひとり
 さんまを食(くら)ひて
 思ひにふける と。

 さんま、さんま
 そが上にき蜜柑の酢(す)をしたたらせて
 さんまを食うはその男がふる里のならひなり。
 そのならひをあやしみなつかしみて女は
 いくたびかき蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
 
 あはれ、人に捨てられんとする人妻と
 妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
 愛うすき父を持ちし女の児は
 小さき箸(はし)をあやつりなやみつつ
 父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

 あはれ
 秋風よ
 汝(なれ)こそは見つらめ
 世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
 いかに
 秋風よ
 いとせめて
 証(あかし)せよかの一ときの団欒(まどゐ)ゆめに非ずと。

 あはれ
 秋風よ
 情けあらば伝へてよ。
 父を失わざりし幼子とに伝へてよ
 男ありて 
 今日の夕餉に ひとり
 さんまを食らひて
 涙を流す と。

 さんま、さんま、
 さんま苦(にが)いか塩(しょ)っぱいか。
 そが上に熱き涙をしたたらせて、
 さんまを食らふはいづこの里のならひぞや。
 あはれ
 げにそは問はまほしくをかし。
             (佐藤春夫集 新潮日本文学12)

 この詩は、多くの人に読まれた有名な詩ですが、内容を深く理解するには、谷崎潤一郎と佐藤春夫との関係を知らねばならないでしょう。
 文豪谷崎潤一郎は、佐藤春夫より年上でしたが、二人は親友でした。小田原の谷崎の家に折々遊びに来て居た佐藤春夫は、やがて谷崎の妻千代に恋をします。春夫も結婚して妻がいましたので、プラトニックな愛が暫く続くのですが、気付いた潤一郎は、やがて新聞に「妻千代と離婚し、妻は佐藤春夫と結婚する」と発表しました。時に昭和4年8月のことです。谷崎潤一郎の「妻君譲渡事件」として、日本人を驚かせた大事件でした。
 谷崎は間もなく再婚しましたが、根津松子というお金持ちの人妻に出会い、自分は再度離婚して、彼女の家の隣に引っ越しました。松子も夫と離婚、二人は結婚したのです。春夫も元妻とは離婚しましたから、愛薄き父を持ちし女の児というのは、千代と谷崎との間の子供だろうと思います。千代は家庭的な女性でしたから、佐藤春夫と結婚して睦まじく暮らしました。

 さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか、とリズムよく続く詩ですが、純情詩人、佐藤春夫らしい「父ならぬ男」として、腸を呉れようとする女の子を愛しみ、そんな夕餉のならひに、問はまほしくおかし。と綴っています。秋刀魚と言う庶民的な魚と熱い恋と、可憐な少女とを重ねることによって、多くの人の心に浸み入る詩になっています。

 私達夫婦は、10年以上前に、南紀をぐるりと回りました。その時JR紀伊勝浦の駅前に、この「秋刀魚の歌」が那智黒ほど黒くはありませんでしたが、黒ずんだ原石?に彫られて詩碑になっていたのです。(筆者註 那智黒とは碁石の黒を作る石です)とても懐かしいものに出会った気がしました。そうだ詩・小説・戯曲・論評・随筆・翻訳等々広いジャンルを持ち、門弟3千人と言われた三田文学を率いる佐藤春夫は、紀の国の出身だったと気付いたのでした。
 那智の滝や那智大社にお参りしたりして、高貴な女性達も何度も通ったと言われる杉林の中の熊野古道を歩いたりもしました。熊野古道は苔むした緑の道で、清楚な風が吹いていました。
 又補陀楽山寺の本堂脇に渡海船があり、生きたまま船に乗り、外から釘を打ち付け、那智から船出した「捨身行」の哀しく壮絶な証しを見て、息を呑む思いもしました。
 当時は未だ体力もありましたから、新宮から伊勢湾方面に出て伊勢神宮にお参りし、奈良・京都・最後は高野山と、計11日の旅でした。佐藤春夫の詩を二編紹介します。

    海辺の恋

こぼれ松葉をかきあつめ
をとめのごとき君なりき、
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごときわれなりき。、

わらべとをとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ、
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み。

入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか、
海べのこひのはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ。


   しぐれに寄する抒情

  しぐれ
しぐれ
もし
あの星を
とほるなら
つげておくれ
あのひとに
わたしは
今夜もねむらないでゐた
  と
あのひとに
  つげておくれ
しぐれ


少し昔に戻って暗唱して見ました。昔を懐かしむのも心に新しい感動が沸き上がってくるものですね。
 心のときめきを与えてくれるような詩に触れて、後世に残る文学作品とは、どの様なものか教えられる思いでした。



無言の絵画が伝えるもの

2015年06月13日 | 随筆
 私の手元に「戦場から妻への絵手紙」という本があります。ー前田美千雄追悼画文集ーと添え書きがあります。長野県上田市の「戦没画学生慰霊美術館・無言館」の館主、窪田誠一郎氏の前文が載っています。
 その本は、前田美千雄が愛妻絹子に書き送った728枚もの絵手紙の一部と、夫美千雄の戦地便り、そして所々に妻絹子のハガキ絵や便りからの想い出の裏付け文、ともいうべき添え書きによって編集されて出来ています。
 以前私達夫婦が無言館へ行った時の、その強烈な印象と、大勢の観客が居たにもかかわらず、余りに静謐な館内の様子などについてこのブログに書いたことがあります。私の夫の上司だった人からの、夫への贈物の「無言館」関係の三冊の本は、窪田誠一郎氏の著・編でしたが、これは前田氏の妻、絹子夫人の編によるものです。私達が行った時に、館内で手に入れて来たものです。手元に置いて、時折眺めていた4冊です。
 ハガキ絵の、ある一枚には「夏雲や翼を連ね出撃す」と俳句が書いてありますが、葉書の絵は、半分以上は、青く広い空と夏雲と飛行場の赤白の吹き流しです。下に小さく椰子の木と海が?あるだけで、飛行機は一機も描かれていません。青空に重ねて、温かそうな手筆の俳句があります。
 「僕のたのしみは改めて言う必要もないが、このエハガキを描くことに先ず第一指を屈する。」と戦地便りがあります。又、「戦地の記録は、たとえそれがどんな片々たるものでも、召された者のみが為し得る尊いものだ。この片々たるハガキもたまりたまれば、何時かは僕の人生の歴史の何頁かを示すことになるのだと思うと楽しい限りである。」ともあって、軍務の余暇に妻への絵手紙を描く楽しみが明るく綴られています。
 しかし、彼は戦争が終わる十日前に亡くなっていたのです。妻絹子の思いは、残された美千雄のハガキ絵を何とか形にすることでした。短かった美千雄の画家人生に光をあて、永遠の命を蘇らせることが、残された妻としての使命であると思い、戦後50年を経て、ようやくハガキ絵展を横浜で開催致しました。1998年にこの本の完成後は、ハガキ絵は「無言館」に収められているそうです。
 屈託なさそうに描かれた南方の島々の様子や、高床の家や水牛など、どの一枚を見ても、東京美術学校(現在の東京芸大)の日本画科を卒業したらしい、見事な手さばきでさらさらと描かれています。
 無言館では、画学生たちの自画像が沢山見かけられましたし、愛する恋人や妻の絵も沢山ありました。ここにも「誕生日」という夏服の彼の自画像がありました。また、「3月19日お前のハガキを見て」と前書きして、汽車のイスに掛けた絹子が描かれていて「つれづれに絵葉書(ハガキ)取り出す春の汽車」と一句書いてあります。「お前が乗って帰った汽車を外から見たら、かくもあらんかとお前の句によって描いてみた。」とありますから、これは美千雄が絹子を想い出しつつ、絹子の俳句とともに、汽車で帰って行った時の妻の姿を描いたものです。切ない思いが溢れてもいます。彼は、昭和二十年八月五日マニラ東北の山中にて戦死と推定されています。享年三十一歳とありますから、日本画家を目指した短い人生において、戦場に赴かなければならなかった苦しみを思うと、何とも言えない重ぐるしさを感じて、とても辛いものがありますが、せめて佳き伴侶に恵まれたことにホッとするところもあります。
 後十日弾を避けられたなら、生きて帰って来られたものをと思うと、いたたまれない焦燥感に駆られます。無言館では、飾ってある作品から溢れ出てくる、言葉にならない言葉が、館内狭しとばかりに満ち満ちて、高い天井までぎっしり詰まっているようで、胸苦しさを覚えたことを想い出しています。
 絹子さんは、戦後50年ずっとこのハガキ絵と添えられた戦地便りを大切に持っておられました。本となって、ようやくハガキ絵とともに書いてあった戦地の便りのように、夫の歴史をつまびらかにでき、直接戦場に趣く事の無かった私達迄が、今こうして戦時中の様子を知ることができるのです。
 弾丸が飛び交う戦場にあって、兵士達はどのような思いで生きておられたのか、時には自分の進路の希望に対して、かけ離れた人生を残念に思われたことだろうと察しられもします。
 特攻隊の飛行機が次第に不足してきて、出撃待ちの特攻兵達は、何時死の命令が出るか分からない毎日を、強烈なストレスを抱えて生きていたのです。たまたまその順番が来ない内に終戦になった人の中に、夫の上司がいたのです。
 同様な運命のお陰で生き残った人達の多くは、亡くなるまで生きていることに対する自責の念に苛まれ、たまたまそういう巡り合わせで拾った命であっても、生き残って申し訳無いと思う気持ちが強く、大戦の事は言わない寡黙な人になったり、夫の上司のように、自分の身体を犠牲にしてまでも、医療に尽くす医師にもなったのです。
 その方は一年365日の内、元日しか休まない医師として有名だったと聞きます。その医師が、私達が娘を亡くした欠礼のハガキをご覧になって、初めて長々とお悔やみのお手紙を下さり、自分は特攻の生き残りである。と無言館の本を贈って下さったのです。
 娘は幼い頃に突然原因不明の高熱を出して、なかなか下がらず、この医師にお世話になったのですが、日曜日であっても「連れていらっしゃい」と、度々診て下さいました。一ヶ月ほどで熱は下がり、やがて治りましたので、何とお礼申しあげたら良いか解らない恩人だったのです。
 今迄何故正月の元旦しか休まず、昼と言わず夜と言わず、診療に当たり、「小児科医には休みなど無い」と仰っておられたそうですが、特攻隊の生き残りだと伺ってからは、何か胸にすとんと落ちるものがあり、一層尊敬のまなざしで眺めました。
 先の大戦では、私の祖父の甥が、軍医として大戦に参加しました。やはり南方に出掛け、マラリアに罹って復員し、内科医院を継いでいましたが、マラリアは時折再発し、苦しい時期も多かったようです。
 戦時中は小学生だった私は、ある日戦地の兵隊さんに慰問の手紙を書くことになり、授業を一時間費やして書いた覚えがあります。夫の伯父も医師でしたし、どちらの親も高校の教師でしたから、似た価値観であるのは、自然の成り行きであったかも知れません。
 夫婦で無言館に行ったり、知覧を訪れたりしたのも、この似通った境遇による価値観が底に流れていたからかも知れません。
 いずれにせよ愛する人々の絵や文から伝わる、優しさや思いやりやりが、こうも心地よいものであり、又胸を熱くするものであることを、改めて教えられると共に、この生きとし生けるものの幸福の原点を、一瞬の間に吹き飛ばす戦争だけは、絶対に起こしてはならない人類最低の行為であることを、改めて噛みしめたいと思います。そうでなければ、戦死者の皆さんに何と言ってお詫びしたらよいのでしょうか。
 

「ビューティフル・マインド」の栄光と終焉

2015年06月01日 | 随筆
 5月23日に突然の訃報を耳にしました。1994年にノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュ氏が交通事故で亡くなられたという報道でした。
 彼は、映画ファンの人には、なじみの深い「ビューティフル・マインド」という映画の主人公です。この映画は、アカデミー賞の作品賞や監督賞など4部門に輝きました。それはジョン・ナッシュという、アメリカの天才数学者の実話に基づいて作られた映画なのです。勿論映画フアンの私達は、今回亡くなられてからもう一度DVDを借りて観たのを加えると、4回観たことになります。
 彼を演じた男優は、名優ラッセル・クロウです。アメリカの天才的な数学者であるジョン・ナッシュは、統合失調症を患っていました。ロシア軍の暗号解読を依頼されて、とてつもない数が羅列した乱数の中から、暗号を解読するのですが、彼でなくともその極限に近い集中力やストレスには、気がおかしくなるのも理解出来る気がします。
 彼には病気特有の妄想がつきまとい、実在しない人物がはっきりと見え、その人物と会話をします。この映画を初めて見る人には、どれが妄想でどれが真実なのか解りません。はじめに出て来るルームメイトだった人は実在しなかった、とか、彼の前に姿を現す可愛い女の子も、誰も見かけたことが無いとか、ロシアの情報部員という人も、実在していないと解ると、本当にこの病気が恐ろしくなります。
 彼は未だ病気が重くない時に、妻となるアリシアと出会い、結婚します。二人は一児(男)を儲けます。しかし次第に病気は進み、とうとう入院して、電気ショック等の厳しい治療を受けます。その甲斐あって、病は一時的に改善するのですが、病気は繰り返し襲って来て、妄想の人物は、常に身近に現れるのです。
 幾つもの危機に遭う度に、妻の優しい愛情と忍耐力が、彼の危機を救います。二度三度と、実際には有りもしない命令に従って、行動を起こしてしまう夫を、必死に諭して病院へやったり、どれが現実で、どれが妄想なのかを区別させるように導いたり、その優しく勇気のある行動と献身的な支えがなかったら、ノーベル賞を受賞する程の卓越した研究実績を上げる事は不可能だったでしょう。実際にアリシア夫人は、病気を抱えている夫を良く理解し、支え続けました。彼女の夫に対する態度(どれが現実でどれが妄想なのか、区別する)は、今も統合失調症の人の支え方として、参考にされているそうです。
 私はこの病気の人の現実を知りませんでしたから、こんなに妄想が現れて、自分を見失う程にさせてしまう、統合失調症の怖さを初めて知りましたし、一方そんな夫を支えて支えて、ついにノーベル賞の受賞に迄こぎ着けるのですから、夫人の偉大さには敬服するのみです。ノーベル賞の授賞式の時に、受賞者の挨拶がありますが、彼は多くの参加者に混じっている夫人をしっかり見つめながら「あなたがいなかったら、私の今日の受賞は無かったでしょう。」と妻に感謝する場面があり、涙を誘う感動的な場面で、万雷の拍手が湧き起こります。
 現在はこのような病気を持つ人との結婚は、しっかり薬を服用し続ければ、普通に暮らせるそうですが、病気を理由に簡単に離婚を切り出したりされそうな気がします。愛して居ればこそとは言え、ここまで深く愛せる人も居ることに、深い感動を禁じ得ません。
 アメリカという自由な社会だからこそ、このような事も出来たのではないか、日本では、こうもこの病気に理解があり、研究が出来たり、結婚生活を維持し続けることが出来るとは、思えないような気もします。何時もの私の持論ですが、病気の人が悪いのではなく、病気が悪いのです。病気の人に対する偏見は、日本はアメリカ以上に大きい気がします。
 過去における有名人で、世界を見渡した時、統合失調症であったのではないか、とされる人に、画家のムンク(「叫ぶ」の作品で有名)、小説家のフランソワ・カフカ(チェコの小説家)日本では芥川龍之介などが挙げられるそうです。みな天才で、れっきとした成果を残しています。
 ジョン・ナッシュの遭遇したタクシー事故は、数日前に個人タクシーを始めたばかりの運転手だったそうで、ガードレールに激突したのですが、夫妻は二人とも車外に放り出されての死だったそうです。痛ましい事故と未熟な運転手との出会いの偶然性に、一層心が痛みました。しかしこの事故は、ジョン・ナッシュ氏が、顕著な業績をあげた数学者に贈られる名誉ある「アーベル賞」(数学のノーベル賞とも言われる)を、5月19日にオセロで受けての帰途、ニュージャージ州で起きました。ご夫婦としては、人生の様々な苦しみを乗り越え、最高に幸せなひと時を味わった後のことだったのです。
 考えてみると、滅多に無いような深い夫婦愛に結ばれた二人が、あの世までご一緒だったのは、神のお計らいであったようにも思われ、何かしらホッとした気持ちが心のどこかに残った事も事実です。夫86歳妻82歳の希有な人生の終焉に、心からご冥福をお祈り致します。  合掌