石川啄木は私が心から尊敬する歌人です。もちろん啄木を天才として認める人々は数多く、ノーベル賞を受けた物理学者の湯川秀樹博士も例外ではありません。
湯川秀樹の著書「天才の世界」(昭和57年 小学館)で、世界の中から選んだ10人の天才にも啄木の名前は入っています。(弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ、ニュートン、アインシュタイン、宗達・光琳、世阿弥、荘子、ウィーナー、エジソン)
かくいう私は、日頃から短歌を友にしています。下手の横好きの類いです。啄木と出会った年齢は、多分中学時代だったと思います。その後歌集として手に入れて以来、私の身近に常にあったといっても過言ではありません。短歌の本はあちこちの本棚に沢山ありますが、啄木の本は、色が変色している位の古い物です。
私がまだ若かった頃、尊敬する歌人の故郷を訪ねて回った旅がありました。もちろん啄木の渋民村にも、間を置いて二回訪れています。北上川を渡って石川啄木記念館へ行くのですが、「柔らかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の歌を夫と口ずさみつつ、車から降りて北上川を眺めました。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
啄木は26歳という若さで惜しくも夭折しましたが、それまでに「一握の砂」「悲しき玩具」の二冊の歌集を残しました。
貧しかった頃の煤けて小さな部屋の時は、階段脇の小机が啄木が短歌を紡いだ机でした。後に立派な記念館が出来ました。職員が「遠くからようこそ」とお茶を出してくださった事も忘れられません。
湯川秀樹は日本人の『ほとんどだれでもが啄木の歌は好きなんですね。』と書いています。「一握の砂」の中に『だれでも自分の愛唱歌というものがある』『こういう歌よみは石川啄木しかいない』と断言しています。西行とか芭蕉とかいう人は、ポピュラーな人たちだけれども、それ以上に多くの現代人が啄木の歌の、『どれかを好きになる、そのこと自体がきわめて驚くべき事だ』と書いています。
また『一握の砂の五百何十首、全部が好きです。好きというだけでなく、全部が上手いです。
「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと握れば指あひだより落つ」
が私の一番好きな歌です。』
『特に物理学のような学問をやっておりますと、そういう自然の法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、探求しておりますと、そういうものは、つかもうとしてもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することです。そういういろいろのことがじつに見事に集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、私はこの歌が特に好きです。』
私はこの湯川秀樹の感想から、私達のような平凡な人間の人生にあっても、同様な実感を多々味わうことを思い知らされます。「一時は捕らえたと思って喜ぶのに、いつの間にか指の間からするりと落ちて、無くなってしまっている無念さや虚しさや寂しさ」
「これは長い間探していたものだ。やっと捕まえた」とか、「幸せだと思っていて、確かに手に入っていたはずなのに」ふと気がつくといつの間にか指の間から滑り落ちて失われている、という事に気付いた時の虚無感は辛いですね。
啄木は
「己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし」
「そのかみの神童の名のかなしさよふるさとに来て泣くはそのこと」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
「わがこころけふも密かに泣かむとす友みな己が道を歩めり」
「病みて四月――その間にも猶目に見えてわが子の背丈のびしかなしみ」
「ひとところ畳を見つめてありし間のその思ひを妻よ語れといふか」
生活苦と子を失った哀しみと、ギリギリまで追い込まれた孤独感が滲み出ています。これらの歌集の稿料二十円は亡児真一の薬餌の代になったことも、啄木にとって悲しいことであったに違いない、と歌集の最後に記されていました。
「打明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬ」
「わが恋をはじめて友に打ち明けし夜のことなど思ひ出づる日」
「ふるさとのかの道端の捨て石よ今年も草に埋ずもれしらむ」
「ふるさとの山に向かひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
「頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」
どれも私がベッドに入ってから、心のおもむくままに読む(暗唱する)歌ばかりです。つぎつぎに浮かんでくる歌の数々は果てしなく、私自身も不思議です。きっと皆さんもそうなのでしょうね。
天才啄木は、飾り気の無い有りの儘の真実の心を歌にました。啄木に魅せられて六十年余り経ちましたが、どれも色あせることなく、鮮やかな光芒を放って、人々を魅了しつづけています。本当に多くの人々に愛され続けた、天才歌人です。
湯川秀樹の著書「天才の世界」(昭和57年 小学館)で、世界の中から選んだ10人の天才にも啄木の名前は入っています。(弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ、ニュートン、アインシュタイン、宗達・光琳、世阿弥、荘子、ウィーナー、エジソン)
かくいう私は、日頃から短歌を友にしています。下手の横好きの類いです。啄木と出会った年齢は、多分中学時代だったと思います。その後歌集として手に入れて以来、私の身近に常にあったといっても過言ではありません。短歌の本はあちこちの本棚に沢山ありますが、啄木の本は、色が変色している位の古い物です。
私がまだ若かった頃、尊敬する歌人の故郷を訪ねて回った旅がありました。もちろん啄木の渋民村にも、間を置いて二回訪れています。北上川を渡って石川啄木記念館へ行くのですが、「柔らかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の歌を夫と口ずさみつつ、車から降りて北上川を眺めました。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
啄木は26歳という若さで惜しくも夭折しましたが、それまでに「一握の砂」「悲しき玩具」の二冊の歌集を残しました。
貧しかった頃の煤けて小さな部屋の時は、階段脇の小机が啄木が短歌を紡いだ机でした。後に立派な記念館が出来ました。職員が「遠くからようこそ」とお茶を出してくださった事も忘れられません。
湯川秀樹は日本人の『ほとんどだれでもが啄木の歌は好きなんですね。』と書いています。「一握の砂」の中に『だれでも自分の愛唱歌というものがある』『こういう歌よみは石川啄木しかいない』と断言しています。西行とか芭蕉とかいう人は、ポピュラーな人たちだけれども、それ以上に多くの現代人が啄木の歌の、『どれかを好きになる、そのこと自体がきわめて驚くべき事だ』と書いています。
また『一握の砂の五百何十首、全部が好きです。好きというだけでなく、全部が上手いです。
「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと握れば指あひだより落つ」
が私の一番好きな歌です。』
『特に物理学のような学問をやっておりますと、そういう自然の法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、探求しておりますと、そういうものは、つかもうとしてもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することです。そういういろいろのことがじつに見事に集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、私はこの歌が特に好きです。』
私はこの湯川秀樹の感想から、私達のような平凡な人間の人生にあっても、同様な実感を多々味わうことを思い知らされます。「一時は捕らえたと思って喜ぶのに、いつの間にか指の間からするりと落ちて、無くなってしまっている無念さや虚しさや寂しさ」
「これは長い間探していたものだ。やっと捕まえた」とか、「幸せだと思っていて、確かに手に入っていたはずなのに」ふと気がつくといつの間にか指の間から滑り落ちて失われている、という事に気付いた時の虚無感は辛いですね。
啄木は
「己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし」
「そのかみの神童の名のかなしさよふるさとに来て泣くはそのこと」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
「わがこころけふも密かに泣かむとす友みな己が道を歩めり」
「病みて四月――その間にも猶目に見えてわが子の背丈のびしかなしみ」
「ひとところ畳を見つめてありし間のその思ひを妻よ語れといふか」
生活苦と子を失った哀しみと、ギリギリまで追い込まれた孤独感が滲み出ています。これらの歌集の稿料二十円は亡児真一の薬餌の代になったことも、啄木にとって悲しいことであったに違いない、と歌集の最後に記されていました。
「打明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬ」
「わが恋をはじめて友に打ち明けし夜のことなど思ひ出づる日」
「ふるさとのかの道端の捨て石よ今年も草に埋ずもれしらむ」
「ふるさとの山に向かひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
「頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」
どれも私がベッドに入ってから、心のおもむくままに読む(暗唱する)歌ばかりです。つぎつぎに浮かんでくる歌の数々は果てしなく、私自身も不思議です。きっと皆さんもそうなのでしょうね。
天才啄木は、飾り気の無い有りの儘の真実の心を歌にました。啄木に魅せられて六十年余り経ちましたが、どれも色あせることなく、鮮やかな光芒を放って、人々を魅了しつづけています。本当に多くの人々に愛され続けた、天才歌人です。