ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

啄木に魅せられて

2019年07月28日 | 随筆
 石川啄木は私が心から尊敬する歌人です。もちろん啄木を天才として認める人々は数多く、ノーベル賞を受けた物理学者の湯川秀樹博士も例外ではありません。
 湯川秀樹の著書「天才の世界」(昭和57年 小学館)で、世界の中から選んだ10人の天才にも啄木の名前は入っています。(弘法大師、石川啄木、ゴーゴリ、ニュートン、アインシュタイン、宗達・光琳、世阿弥、荘子、ウィーナー、エジソン)
 かくいう私は、日頃から短歌を友にしています。下手の横好きの類いです。啄木と出会った年齢は、多分中学時代だったと思います。その後歌集として手に入れて以来、私の身近に常にあったといっても過言ではありません。短歌の本はあちこちの本棚に沢山ありますが、啄木の本は、色が変色している位の古い物です。
 私がまだ若かった頃、尊敬する歌人の故郷を訪ねて回った旅がありました。もちろん啄木の渋民村にも、間を置いて二回訪れています。北上川を渡って石川啄木記念館へ行くのですが、「柔らかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」の歌を夫と口ずさみつつ、車から降りて北上川を眺めました。
 
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」
 
 啄木は26歳という若さで惜しくも夭折しましたが、それまでに「一握の砂」「悲しき玩具」の二冊の歌集を残しました。
 貧しかった頃の煤けて小さな部屋の時は、階段脇の小机が啄木が短歌を紡いだ机でした。後に立派な記念館が出来ました。職員が「遠くからようこそ」とお茶を出してくださった事も忘れられません。
 
 湯川秀樹は日本人の『ほとんどだれでもが啄木の歌は好きなんですね。』と書いています。「一握の砂」の中に『だれでも自分の愛唱歌というものがある』『こういう歌よみは石川啄木しかいない』と断言しています。西行とか芭蕉とかいう人は、ポピュラーな人たちだけれども、それ以上に多くの現代人が啄木の歌の、『どれかを好きになる、そのこと自体がきわめて驚くべき事だ』と書いています。
 また『一握の砂の五百何十首、全部が好きです。好きというだけでなく、全部が上手いです。
 
 「いのちなき砂のかなしさよ、さらさらと握れば指あひだより落つ」

が私の一番好きな歌です。』

 『特に物理学のような学問をやっておりますと、そういう自然の法則とか、素粒子とは何であるかというようなことを、探求しておりますと、そういうものは、つかもうとしてもなかなかつかめぬ。握ったつもりでおったのが、指の間からさらさらと落ちていく。これは何度でも経験することです。そういういろいろのことがじつに見事に集約されて、一つの歌に表現されているという意味合いから、私はこの歌が特に好きです。』

 私はこの湯川秀樹の感想から、私達のような平凡な人間の人生にあっても、同様な実感を多々味わうことを思い知らされます。「一時は捕らえたと思って喜ぶのに、いつの間にか指の間からするりと落ちて、無くなってしまっている無念さや虚しさや寂しさ」
「これは長い間探していたものだ。やっと捕まえた」とか、「幸せだと思っていて、確かに手に入っていたはずなのに」ふと気がつくといつの間にか指の間から滑り落ちて失われている、という事に気付いた時の虚無感は辛いですね。
啄木は
「己が名をほのかに呼びて涙せし十四の春にかへる術なし」
「そのかみの神童の名のかなしさよふるさとに来て泣くはそのこと」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」
「わがこころけふも密かに泣かむとす友みな己が道を歩めり」
「病みて四月――その間にも猶目に見えてわが子の背丈のびしかなしみ」
「ひとところ畳を見つめてありし間のその思ひを妻よ語れといふか」
 生活苦と子を失った哀しみと、ギリギリまで追い込まれた孤独感が滲み出ています。これらの歌集の稿料二十円は亡児真一の薬餌の代になったことも、啄木にとって悲しいことであったに違いない、と歌集の最後に記されていました。
 「打明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友と別れぬ」
 「わが恋をはじめて友に打ち明けし夜のことなど思ひ出づる日」
 「ふるさとのかの道端の捨て石よ今年も草に埋ずもれしらむ」
 「ふるさとの山に向かひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」
「頬につたふ涙のごはず一握の砂を示しし人を忘れず」

 どれも私がベッドに入ってから、心のおもむくままに読む(暗唱する)歌ばかりです。つぎつぎに浮かんでくる歌の数々は果てしなく、私自身も不思議です。きっと皆さんもそうなのでしょうね。

 天才啄木は、飾り気の無い有りの儘の真実の心を歌にました。啄木に魅せられて六十年余り経ちましたが、どれも色あせることなく、鮮やかな光芒を放って、人々を魅了しつづけています。本当に多くの人々に愛され続けた、天才歌人です。


ついに新しき詩歌の時はきたりぬ

2019年07月13日 | 随筆
 表題は島崎藤村が書いた「自序」の書き出しです。「ついに新しき詩歌の時は来たりぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき。」と始まります。
 それまで詩型文章と云えば和歌や俳句や漢詩でした。漢詩は、読み下し文にして読んだとしても、平易な文とは云えず、リズミカルと云うにもやや距離があるようです。
 それが一気に「優しい日本語で平易な詩文が作られるようになった」のです。新体詩(しんたいし)と云われる詩形を目ざした人たち(矢田部良吉、外山正一、井上哲次郎)が、広く知られるようになって、藤村もその喜びを「自序」で熱く述べています。
この新体詩は、明治時代に西洋詩の影響を受けて、それまでの日本の和歌・俳句などの定型詩や漢詩から「ヨーロッパの詩歌の形式と精神を取入れた」新しい形式の詩を目指したのです。1882年(明治15年)に刊行された『新体詩抄』で広く世間に知られて、やがて詩人としての北村透谷や島崎藤村らを生んだのです。
 藤村1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年8月22日)は、本名は島崎 春樹(しまざき はるき)と云い、信州木曾の中山道 馬籠(まごめ)の生まれでした。

 私は毎晩ベッドに入ると、日本の詩や漢詩、短歌などをコピーした綴りの中から、その日気が向いたものを幾つか読みます。声を出して読むこともあり、暗唱することも、又心の中でおさらいする時もあります。
 一番多く読むのは、藤村と啄木です。藤村の作品は皆およそ高校時代に学びましたし、学生寮に居た頃は「杉並学生読書会」があって、さまざまな大学の男女が集まり、持ち寄った文学書を読んで、感想を述べ合ったりした事もありました。まあ文学の好きな時代ではありました。

 小諸なる古城のほとり、初恋、惜別の歌、など、藤村の詩の言葉は、とても美しく、心を奪われ、思わず熱いものがこみ上げて来るようです。 次に藤村の有名な「惜別の歌」を取り上げてみます。
 この詩の原詩は明治三十年に刊行された『若菜集』(春陽堂)に載せてあります。

惜別の歌     島崎藤村

遠き別れに たえかねて 
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと云えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ (以下略)

「夢はずかしき涙  さやけき目の色  君が心の琴の音」 少し取り上げてみても、これだけの言葉を詩の文章にすることは、生易しいことではありません。静かに心を整えて、こみ上げて来る感動を詩にして、推敲を重ねて練り上げたのでしょう。
 すぐれた詩や短歌であるほど、平易な言葉で読者の心をしっかり捕らえて離さないのは、何故でしょうか。恐らく、読者に作者の訴えたいことが、充分に伝わってくるからではないでしょうか。

 彼は「自序」で 上記のように、「そはうつくしき曙のごとくなり。」と述べて、新しい詩型に胸を熱くしています。そして、若い詩人達が、新しい詩によって、新しい生涯を築き上げることを宣言しています。感動的な言葉で 「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉は すなわち新しき生涯なり。」と云って、この新しい芸術を「第二の人生である」と云い、この熱い思いで、四つの巻「註 若菜集、一葉舟、夏草、落梅集」をまとめて『われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。 明治37年の夏   藤村』と書いています。
 私は藤村の故郷を訪れて、その心に触れたいと思い、或る年彼の生家である信州の馬籠(まごめ)を訪れました。馬籠宿の入り口から、少し坂を登って行くと、右に彼の父が住んでいたと云われる二階屋がありました。
 郵便配達の人が、藤村の時代のように、菅(すげ)の丸い笠にマントを羽織って、下って来るのに、出会いました。お願いして、夫婦で記念写真を撮らせて頂きました。もう10年以上昔の事です。
 藤村の詩は、現在でも生き生きと立ち上がって、他の詩人を寄せ付けない程だと、私は思っています。
 ジュンク堂が私の通う本屋さんで、市立図書館が、日頃借りて読む処です。どちらも10~20分もあれば行けます。熱中して見て回ったり、読んだりしますから疲れます。でも充実した好ましい時間です。
 過日、日頃から私が大ファンである「フォレスタ」の東京公演の放映がありました。このコンサートで「惜別の歌」を歌いました。静かに耳を傾けて、藤村の望む心で聴きました。素晴らしい時間でしたし、とても幸せでした。テレビの会場は、お年を召した男女が集っていましたが、心持ち男性が多く、世の中も変わったと「同好の士」の集まりを嬉しく思って聴きました。
 純粋で美しい藤村の詩が、味わい深いフォレスタのハーモニーで歌い上げられた時、思わず胸が熱くなって感涙が頬を伝いました。
待ちに待った新しい詩歌の時が来たと、歓喜の声を上げた藤村でしたが、時代の移り変わりと共に詩歌も移り変わり、ともすると現代の詩は難解になる傾向や、平易な言葉であっても、籠められる心が薄くなったようで、私のような者にはやや不可解な方向へと流れて行くように思えます。短歌にしても詩にしても、読者は作者の心の琴線に触れて、感動するのです。「新しき詩歌の時は再び来たりぬ。そは新しき人生の始まりなりき。」と大きな声で言えたらどんなに嬉しいことでしょう。