ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

生まれた時の心に還る

2017年07月23日 | 随筆
 「本人も家族も幸せになる介護」について、月刊文芸春秋の8月号に高見国生氏(「認知症の人と家族の会」前代表)と柳田邦男氏の対談が載っています。その中に、心を引かれる逸話がありました。
 「夫が認知症の夫婦の話です。妻は外出する時、紙に<外に出ないようにお願いします>と書いていた。夫はそれを守っていた。しかし、ある雨の日に妻が帰宅すると夫がいない。外に探しに行くと傘を二本持って警察に保護されていた。夫は、妻に傘を届けようと外出して帰れなくなっていたーー。認知機能は落ちていても、感情はあるし、妻への愛情だけは、生きている。」と・・・、私は胸が熱くなって涙が込み上げてきました。
 私の身近にも、現役の頃には、社会的地位の高かった人で、現在は認知症の人がいます。その方は、私達に出会うと、これ以上の笑顔は無いと思えるほどの笑顔で、両手を高く挙げて手を振ります。
 私達も手を振って近づき、「お元気ですか」と必ず声をかけます。「元気、元気。私は元気。」と何時も仰います。スーパーで奥様がお買い物中で、待合室の椅子に座って待っておられる事も、お二人で行き帰りの道路で出会う事もありますが、百年の知己に出会ったような破顔の喜びようです。
「一人家に置いて買い物に出掛ければ、外出して帰って来られなくなる」とお聞きしていなければ、認知症とは私達さえ気づかないのでは、と話しています。
 もう一組、数年前から奥様が認知症になって、施設に入っておられるご夫婦があります。毎朝ご主人が自転車でその施設に通っています。お元気な頃は、よくお二人で買い物に出掛けられて、出会うと奥様はとても嬉しそうに挨拶する人でした。3年ほど前にご主人から「私の顔も分からないのです」とお聞きしました。それでもご主人は、毎朝必ず面会に出掛けられるのです。
 私は「分からないようでも、きっと心は通じているのですね。」と云いますと、「わかりませんが、そうあってくれたらいいと思っています。」とか「頭を撫でてやると嬉しそうな表情を見せるので・・・」と云われます。
 バスの便が遠回りになる方角ですから、少し離れたホームへ毎日欠かさずに通うことは、自転車と言えども大変な労力です。お天気の良い日ばかりではありませんから、80歳を越えたご主人には、辛い日々もあることだろうと察しられます。ご主人の奥様への愛情の深さには、本当に頭の下がる思いです。
 同誌にも「どんなに医学が進んでも人間は何時かは必ず死ぬ。皆平等に死に向かって歩いているんです。認知症はその一つの通過点に過ぎません。その通過点をどう受け入れて、生きていくか。認知症と向き合うのはそういうことではないでしょうか。」と締めくくっていました。
 京都で行われた、国際アルツハイマー病協会の国際会議で、若年性認知症を患っている福岡市の越智俊二さん(当時57歳)が、日本人として初めて実名で家族への思いを語りました。
 「これからの望みは、良い薬ができてこの病気が治ったらもう一度働きたい。どんな仕事ができるかわかりません。どんな仕事でもいい。今度は私が働いて、奥さんを楽にしてあげたい。そして今まで苦労かけた分、お返ししたいーー。」何と感動的な言葉でしょう。
 彼のスピーチは世界的にもインパクトを与えました。それ以降、欧米では、認知症の人の気持ちを尊重する「パーソン・センタード・ケア」という手法が、認知症ケアの主流になったそうです。
(パーソン・センタード・ケアとは,認知症をもつ人を「一人の“人”」として尊重し,その人の視点や立場に立って理解し,ケアを行おうとする認知症ケアの考え方です。この考え方を提唱した英国の故トム・キットウッドは,当時の業務中心のケアに対して,人中心のケアの重要性を主張し,世界的に大きな影響を与えました。)
 私は、認知症になった人は、だんだん生まれたばかりの子供の心、つまり「仏の心」に還って行くのではないか、と思えてならないのです。それは彼等の表情が、汚れを知らない嬰児の清らかな表情に似て行くからです。
 江戸時代中期の高僧、盤珪禅師の「不生の仏心」に還っていくと云ったら間違いでしょうか。
「親が生んでくれた仏心は、一切の物を超越して清浄で無垢なものだ。だからこそ生まれたままの無垢な心をもってすれば、全てのことがよく調う」ということのようです。
 「生まれたばかりの赤ちゃんは、泣いたり眠ったり笑ったりに余念なく、泣きたい時には一生懸命泣き、寝たい時には一生懸命寝ます。これを盤珪さんは「不生の仏心」と呼んでいて、つまりは生まれたばかりの赤ちゃんが、一番欲もなく悟りに近い存在だと言うことになります。
 しかし人間は、残念なことに、成長するにつれて好き嫌いや損得などの様々な煩悩を、まるで鎧の様に身にまとってしまうのです。しかも、その煩悩の鎧は、時を重ねるにつれて増えて重くなり、私たちは身動きがとれなくなってしまうのです。その様な人生の迷いや、ストレスでがんじがらめになった私たちに対して、盤珪禅師は「不生禅」を教え導いて下さっているのです。」
 高見氏は「できれば認知症にならない方がいいですし、認知症の人の介護など経験しない方がいい。しかし、もし認知症に巡り会ったなら、その経験は必ず自分の人生にプラスにすることができる。以前よりもきっと深い人生を送れるようになる。だから、私は認知症介護の経験を、悲しいだけのこと、嫌なだけのことと決めつける考えは間違っていると思います。」
 とあって、私は救われる思いです。なるようにしかならない世の中です。しかし、「以前よりもきっと深い人生を送れるようになる」という言葉が心にストンと落ちました。
 私の大切な友人の一人(90歳に近い人)が、去年車に接触されて、思いがけなく入院治療されました。「すっかり良くなった」と云いながらも「これから先は薬などすべて止めて、自分流に、終末まで充実した人生を生きて行きます。」と一昨日電話で話していました。尊敬する先輩で、しっかりと自立し、生きて行こうとする精神力を見て、胸を打たれました。
 私も認知症の人達の汚れない童心の一端を見る機会に触れて、周囲の人達と明るく交わりながら生を全うしたいと願っています。

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菩提寺で聴くコンサート

2017年07月12日 | 随筆
 地方にお住まいの人の多くの方達や、または都市部でもご両親等を亡くされた方達は、告別式を行うために、何らかの宗教で繋がりのある菩提寺や、教会をお持ちの事と思います。
 これら菩提寺や教会が既に決まっている方達は、現在それらとどんなおつき合いをして居られるのか、次第に老いを増して行く私には、気になる事柄です。最近の経験を通して、菩提寺との繋がりを有難く思うようになりました。
 私達は約50年前にこの地に家を建てて、田舎に住んでいた夫の両親に家を払って出て来て貰い、生活を共にするようになりました。産まれたばかりの娘のお守りを快く引き受けて貰い、何とか二人の子供が成長するまでを、平穏に過ごしました。
 その後に義母が突然倒れて入院し、一ヶ月余りで亡くなりました。
 そこで、はたと困ったのは、菩提寺のことです。遠い田舎の菩提寺にお葬儀をお願いするのは無理で、近くの同じ宗派のお寺にお願いしなければならなくなったのです。同じ宗派と云っても寺町があり、沢山のお寺のあるこの市の、どのお寺にするかが問題でした。
 夫は、喪主経験は勿論初めてでしたし、義父は息子である夫に全てを任せていましたから、お願いした葬儀屋さんの職員に「同じ宗派の高僧が居られませんか」とお聞きしたのです。
 そのご縁で、現在の菩提寺の先代のご住職を紹介てもらいました。以来毎月の棚経もあげて貰って、正式に檀徒になりました。
 あちこちで講演もされると云う菩提寺のご住職は、豊富な知識と人生経験から、なにかと来られる度によいお話を聞かせて頂いたりして、お世話になりました。義父も義母が逝ってから4年後に旅立ちました。いまは次の代のご住職のお世話になっています。
 真言宗の智山派の総本山は京都の智積院です。夫が退職した後に、本山納骨の為に私達は夫婦で二人分の納骨に行って来たのでした。
 それが私達夫婦の「全国の寺院巡り・史跡巡りの旅」の始まりになりました。私の実家の菩提寺は、東本願寺ですから、京都へ行く度に先ずは智積院に詣で、国宝の絵画や名園を眺め、それから東本願寺にもお参りするのが習わしになったのです。
 北海道へは、小樽から網走までの12日間車の旅、その他にも船で行き来したり、私と学生時代の娘と二人で行ったこともありました。南は長崎に三回、鹿児島に三回、それぞれ知覧や最南端の指宿・地震の前の熊本城や阿蘇・湯布院なども回りましたが、一度も土を踏まなかった県は、全国で佐賀県一県です。
 青森県の三内丸山遺跡は青森市に泊まっての見学でしたのに、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は何時も列車の中から眺めるだけで、5回ほど通りましたのに、とうとう下車の機会に恵まれず、今なお心残りです。
 私達は何となく価値観が似ていて、(似て来るのか)寺院巡りやキリスト教の迫害の歴史を語る遺跡などに、足繁く出掛けました。 夫は読書家でしたから、出掛ける前には、蔵書の中から必ず関係ある本を私に読ませてから、揃って見学の旅に出るのです。
 関係書物が沢山収集されていますから、拝観して来る寺院等は、先ず私が国宝の有り無しや見所を調べます。ネット検索してプリントにしたものに、必ず見て来たいものを調べ上げて書き込むようにしました。一箇所ごとの資料を作って、それに従って見学してくるのです。前日の夜に、ホテルで事前の勉強をしました。
 ついでに美味しい料理店やお土産も調べて、そこでしか味わえない珍しいものを食べたり、お土産にしてわが家当てに発送して貰いました。
 紀伊勝浦の駅前の佐藤春夫の「秋刀魚の歌」の歌碑を見て、近くの海産物店から、自宅へ荷物を送ったり、古くはハウス・テンボスや鹿児島県の名物など、その時々のお土産は先に送って、何時も空手で1週間くらいは見学するのが、毎年の春や秋の旅行でした。
 京都は通過する時には、必ずのように一~二泊して、お寺巡りになりました。最近五木寛之の「百寺巡礼」をよく録画して観るのですが、懐かしい寺々をもう一度画面で見直す機会として、とても嬉しく思っています。
 今年の6月24日は、わが家の菩提寺で、毎年恒例の大般若という行事がありました。日頃大切にしているお経を箱から出して、パッと宙に広げて一巻読み終わりとして、一冊ずつ虫干し?のようにする行事です。放物線を描いて宙を舞いながら、又手元に戻る経典が、とても美しいのです。
 京都の黄檗宗の大本山「万福寺」の山門左に、鉄元禅師の経文の印刷所があります。今も毎日そこで、日本国の全ての寺院の為の一切経を印刷しているそうです。
 二階建てで、所狭しとばかりに、鉄元禅師が彫らせた経の版木が積み上げられていて、二階から下を眺めると、経文の版木の棚の間に挟まるように、印刷するスペースがありました。ある意味で社会福祉事業として、多くの食べられない浪人達の救いともなり、時には飢饉の民を救ったと云われています。偉大な鉄元禅師の思いを身近に感じて、感動を覚えます。
 大勢の僧が菩提寺に集まって「大般若」の行事が行われました。各寺協力して順にこの行事をするようで、終わると簡単なお斎(おとき)があり、午後は本堂での室内音楽会でした。三人のプロによる親しみ深いクラシックを楽しみ、又音楽に合わせて一同で歌ったりと、なかなか楽しい会でした。
 以前からお聞きしてはいましたが参加は始めてで、お寺の本堂でのクラシックも独特の味わいがあって、良いものだと思いました。この寺院の二人の僧も、太鼓とシンバル様の、読経の際に使われるものをあやつり、相和して中々の演出でした。
 この宗派の次の大僧正候補、と噂される高僧のお説教もありました。お葬儀以外でのお説教は、東本願寺でお聞きして以来のようで、親しみ深く、また有りがたいお話しでした。
 私の故郷の心優しい友人も、知恩院がご本山で、去年ご主人を病で亡くされて,ご本山へ納骨されたとのことでした。
 京都の知恩院は、法然上人が「専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道場」として開いたもので、徳川家の菩提寺であります。二代将軍秀忠によって建立された三門は、日本最大の二階建ての門です。五木寛之がここを訪れ、三門の二階から京都の市街を眺めている映像がありました。このTV映像が撮された頃は、丁度私達が頻繁に奈良・京都を訪れていた頃にあたり、とても懐かしく市街の様子を眺めました。
 知恩院の大鐘は、NHKの除夜の鐘として、馴染み深いものです。17人の僧侶によって撞かれると言います。アイン・シュタインが日本に来た時、鐘の真ん中に入れば音が消える筈だと、もぐったと云われます。その卓越した好奇心に感動して、四国遍路の時に、ある寺院の鐘の真ん中に私達も交互に入って、鐘を軽く撞いて確かめました。鐘の大きさも段違いですが、高潔な人格を持ち合わせていない私達には、音は相殺されることはなく、自由に行き交っていました。
 知恩院の一番奥まで見学すると、千姫のお墓があります。(千姫は徳川秀忠の娘です。姫路城には、千姫の化粧櫓があり、等身大の千姫と侍女達が置かれていました。)
 お墓の好きな私達には、千姫のお墓との出会いは嬉しいことでありました。(秀忠は妻の「お江の方」のお墓を、高野山奥の院近くに、高野山で一番丈の高い見事なお墓を作っています)
 千姫のお墓にお参りの後、下りの道路に出ましたら、大伽藍を見学している内に、何時の間にこれ程登って来たのか・・・と思う程に高く、広大な華頂山知恩院の境内に取り込まれていました。
 私の実家の本山である東本願寺には、数百年続いた祖先の代々の納骨がしてあり、私の実父母も兄も弟も一般に「のど仏」と云われる部分のお骨が治められています。
 このように、菩提寺とご本山との縁(えにし)は、常に親しく、身近に感じられます。この度の菩提寺の大般若の行事に参加して、益々このような菩提寺との関係を好ましく思ったのでした。
 盂蘭盆会が近づくにつれて、義母に教わり、私が継いで来た行事の形を大切にしたいと思っているところです。


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君死に給うことなかれ (2)

2017年07月01日 | 随筆
 先日も中学生が自殺したと報道されていました。前途ある10代で死を選ばなければならないということは、実に痛々しいことです。
 総務省の統計によると、成人の自殺者は平成26年は合計25.427人、平成27年24.025人と減って来ているのに対して、19歳までの年齢の合計は、26年538人、27年は554人と、かえって増えています。
 ここ数年は、日本全体としては自殺率が下がって来ているのですが、中学生の自殺率は増えているのです。
 交通事故で死亡した人は、平成28年は4.117人でしたから、自殺者の方が交通事故死の約6倍も多いのです。
 世界保健機構(WHO)2012年によると、日本の自殺率は世界第6位とあります。悲しむべきことです。
 男女の差は、中学生は2/3が男子。高校生も約6割が男子。社会人も当然男子が多いです。ストレス社会ですから、こうなるのでしょうか。それとも産む性として、DNAに組み込まれているのでしょうか。
 私は、2013年5月12日に一度「君死に給うことなかれ」という題でブログを上げました。この時は、就職活動中の自殺者が増えたことが気になっていました。現在は前述した通り、その後約4年間で自殺者は可成り減少したのですが、中・高校生の自殺率に絞ると一層悲しい結果になっています。
 どうしても学校へ行かなければならないでしょうか。行こうと思っていても、どうしても行けない人には、「行かない選択」もあるのではないでしょうか。
 ご両親やご家族にも、この苦しみを良く理解して貰いましょう。ご両親もご家族も「学校に行くことがたった一つの選択肢だ」と、背中を押すことで、結局死を選ばなければならないように追い込んでいませんか。
 家の中に居場所がない、ということが起きさえしなければ、時間が経ち成長する内に、やがてやりたい事、生き甲斐、更に生きる喜びが見つかります。
 私はいじめに遭っている本人が、家族に相談するのは、恐らく死の直前まで追い詰められた時ではないか・・・、と先頃の中学生の自殺に思うのです。そんな時はきっと事態が切迫していますから、素早く立ち上がって、ただちに行動を起こす必要があると思っています。子供たちの悩みは真剣に受け止めましょう。
 家族に理解して貰えて、力になって貰えれば、自殺することには至らなくて済む確率は高いと思っています。
 次の人達の若い頃をご存じでしょうか。

<トーマス・エジソン>(1847~1931年)発明王の異名を持つ発明家
 彼は小学校の教師に「学習する知能がなさすぎる」と言われ、仕事は2度「生産性がなさすぎる」と解雇され、電球の発明に1000度の失敗があった。後にインタビューで記者に「1000回失敗したという気持ちはどういうものですか」と尋ねられ、「1000度の失敗をしたわけではない、1000のステップを経て電球が発明されたのだ」と答えたそうです。失敗は全て成功の元なのです。
 
<ハリソンフォード>(1942~現在も) スターウォーズやインディ・ジョーンズなどでの人気俳優 現在も活躍中  

 高校のときに「最も成功しそうにない少年」というタイトルで選ばれ、いじめられっ子で女の子にももてなかった。初めての役柄はベルボーイ役で、当時の副社長に「君は才能がない」と言われた。今では大変な人気俳優です。

<アルベルト・アインシュタイン>(1879~1955年)相対性理論を築きあげた物理学者 20世紀最大の天才と言われる。
 彼は4歳になるまで話すことができず、7歳まで文字が読めなかった。両親は彼の知能が低いと思い、先生の一人は彼のことをこう表現した。「精神的に遅れており、社会性はなく、いつまでもとりとめのない空想にふけっている」学校を退学になった後チューリッヒの学校から入学を拒否されている。後になんとか読み書きができるようになった。

<ルートヴイヒ・ヴァン・ベートーベン>(1770年~1827年)ドイツの古典派音楽の偉大な作曲家

バイオリンを自己流に扱い、自己流に作曲した曲を弾いた。そのことで先生に作曲家としての才能はないと言われる。後に偉大な5つの交響曲を聴覚を失ったまま作曲する。

☆日本人で登校拒否であった有名人
 宮本亜門(演出家)千原ジュニア(お笑いタレント)

☆ADHD(注意欠如多動性障害)の日本人 長嶋茂雄(プロ野球選手)黒柳徹子(TV司会者・タレント)
 このような人が・・・と驚くのですが、自らそう発表していて、なおさら偉いと思える人達です。
 
 こうして見ると、何だか引きこもりも登校拒否も、学業成績不振も、そう大した問題では無いのだと思われても来ます。幼い頃から何か目的を持って、ひたすら努力する人も居るけれど、自然に「自分の好きな事」をしている内に、「自ら道は開けてくる」のだと考えましょう。
 私自身も「絶対この道に進む」とは、親も私も思っていませんでした。どこでどのように人生という列車を乗り継いで来たたのか、明確には分かりませんが、それなりに良い選択だったと、振り返って思っています。

 現在は、フリースクールと云う所が出来てきて、学校になじめない人も、気楽に通える施設も増えたようです。通信教育もあります。堅苦しく考えないで、もっと親も子もユッタリと構えて欲しいのです。人と同じ道を歩かせないと不安だと思う親ごさんの気持ちも分かりますが、何が一番大事かを考えましょう。新聞が読めて、加減乗除の計算が出来、ある程度健康体であれば、あまり困ることはありません。
 先ずは家庭の中に「居場所」を作りましょう。子供の悩みを受け止めて、切羽詰まっている人には、何も学校や職場に、どうしても行かなくても良いのだということが分かるように話しましょう。そして何よりもその悩みを真剣に受け止めてやりましょう。
 こんな統計もあります。18歳未満の子供のいる世帯で,一週間のうちで家族そろって一緒に朝食を食べる日数は,「ほとんどない」が32.0%で最も多い。家族そろって夕食を食べる日数は,「2~3日」が36.2%と最も多いものの,「ほとんどない」も7.0%となっている。※家族そろって食事をとる日数(18歳未満の子供のいる世帯 平成21年厚生労働省)
 だんだん生活が苦しくなって、共働きをしないと教育費も大変だ、という世の中になって来ました。工夫して出来るだけ子供を孤独にしないようにしたいものです。
 内閣府が昨年夏に発表したデータによると、「18歳以下の自殺者において、過去約40年間の日別自殺者数をみると、夏休み明けの9月1日が最も多くなっているほか、春休みやゴールデンウィーク等の連休等、学校の長期休業明け直後に自殺者が増える傾向がある」(内閣府『平成27年版自殺対策白書』)といいます。
 休みの後の登校が辛いと思うことを共感出来る人も多いかと思います。ですからその時期に「学校に行きたがらない」様子が見えたら、細やかな配慮をしてやりましょう。
 決して脅かしたりするつもりではありません。一つしかない命を大切にして、先に上げた人達のように、与えられた命を、ゆったりと心豊かに生きて欲しいのです。
「君死に給うことなかれ」どうか死に急がないで欲しいのです。
 これはお年寄りであっても、これから先にどのような良い日々があるか、明日に希望を繋いで元気に生きてゆきましょう。

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