ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

旅にまつわる味の記憶

2012年02月24日 | 随筆・短歌
 かれこれ20年くらいにわたって春秋の二回は、何とか旅行を楽しんで来ました。そんな旅先の思い出の中に、おいしかった食べ物の記憶があります。おいしくて忘れられない、となると、その後も買ったお店に電話やファックスまたはインターネットで取り寄せたりします。
 年金暮らしの私たちにも手に入る食べ物の中で、とりわけ記憶に残るものを思い出してみたいと思います。秋田の稲庭うどんと、とても大きくて柔らかい醤油せんべい(今ではいろんな所から似たような様々な形の柔らかせんべいが売り出されています)岩手県大船渡市のさいとう製菓の「かもめの玉子」があります。この「かもめの玉子」には、深い思い出があります。去年の大津波の3年ほど前でしょうか、東北へ車の旅に出ました。釜石市の市立図書館に調べたいことがあって、立ち寄りました。そこの司書の方に何かと親切にして頂いて、お陰で調べ物が済んだ後で、この辺で一番おいしいお土産は何でしょうとお聞き致しました。「東北では「かもめの玉子」がよいでしょう」と親切な司書の方から教えて頂いたのです。
 帰宅して早速家族で味見をしましたら、とてもおいしくて、今でも毎年何回か取り寄せて、きょうだい達にも届けたりしています。去年の大津波の後、私は直ぐにこの大船渡のお店が気になって、ネットで住所をひいて見ましたら、まさに津波で消えたと思われる市街地だったのです。家族で「もうあのおいしいお菓子も食べられないのか」と残念がっていました。そして釜石市のあの親切な司書の方はご無事だろうかと案じていました。
 しばらくしてから、現在は製造中止していますと言う知らせがあり、可成り経つてからお陰様で再開しました、という案内が届きました。以後は又お願いして取り寄せが始まりました。東北の代表的な銘菓なので、ご存じの方も居られると思いますが、口いっぱいの玉子の黄身餡がおいしくて、大災害を乗り越えて変わらない味を提供して下さることに感謝しながら頂いています。
 他に取り寄せまで行ったものに、長崎県の平戸島に「あごくん」というトビウオの燻製があります。少し固いのですが、良く噛む程に味わい深く、あご出しやかまぼこなど他の海産物と一緒にまとめて何年か取り寄せました。平戸島のすばらしさと共に思い出深いものです。又鹿児島に行った時に食べた薩摩揚げがとても美味しくて、本場の味とはさすがにちがうものだと感動しました。以来鹿児島の月揚げ庵とのお付き合いが何年か続きました。
 遍路で高知へ行った折に、鰹のたたきの本場だから何処かにおいしいお店はないですか、とデパートの店員さんにお尋ねしたことは以前書きました。その折りに「司」と言うお店を教えて頂ました。さすがにおいしく、鯖一匹のお腹に寿司飯を入れた鯖寿司と共に堪能しました。お店の案内により、それから何年か、たたき専用の調味料を取り寄せ続けました。
 春の旅行は、平均して一週間は行っていましたので、ホテルは夕食は付けずに、ご当地のおいしいものをなるべく頂けるように計画しました。長崎の本場のチャンポン、高松の讃岐うどん、などはその代表的なものです。讃岐うどんは農林大臣の表彰を受けた店から、何年か取り寄せて、友だちや親戚にお裾分けしたりしました。
 お昼は大抵ちゃんとした食事ではなく、例えば奈良東大寺二月堂の前の有名な大きなおはぎとか、京都の鞍馬寺の前のお餅や、奈良の女人高野で有名な室生寺の橋の近くの草団子、長崎県の五島のかんころもち、愛媛県今治のじゃこ天、平戸島の川内(せんだい)かまぼこ、仙台の笹かまぼこ、防府のかにかまぼこなど、格好なお昼の代用食になったりお夜食になりました。遠い所では青森県の鰺ヶ沢の焼きいかも、おいしかったです。長野県の鬼無里村(きなさむら)のおやきとか、奈良の柿の葉寿司、南紀巡りに行った時に橋杭岩を眺めながら食べためはりずし、夕食としては、珍しかった岩手のわんこそばや下関のとらふく、津和野のガイドブックにあった小さなお店の老夫婦手作りのいなり寿司、それに四国は宇和島の鯛飯も忘れられません。鯛飯についても事前に調べて行ったのですが、とても美味しくて見よう見まねで帰宅してからも作っていたのですが、たまたまJAFの冊子にレシピが載っているのを夫が見つけ、以来我が家のメニューの一品になりました。
 通りすがりの何気ないお店のおまんじゅうが忘れられなかったり、珍しいお菓子や食べ物の記憶も、食いしん坊の私たちには、旅の楽しい想い出を増幅してくれます。
 現在も取り寄せが続いているのは、「かもめの玉子」だけになりましたが、これはまだ当分続きそうです。でもつい先日あるスーパーで、全国銘菓展として、「かもめの玉子」のミニサイズが売っているのに出会い、買ってたべました。注意してみていると意外に身近で全国の銘菓が手に入るようになって来ているようです。
 じつは失敗談もいろいろあるのです。嵯峨野の清涼寺で、国宝の釈迦如来を毎月8日の午前11時から拝観出来ると知って、4月8日に行ったのです。時刻どうり見せて頂き、その美しさに感動しました。霊宝館で、その釈迦如来の胎内から出て来た布製の五臓六腑のレプリカを見た時は、仏像の制作時にこんな事まですでに解っていたのか、と驚きました。やっと長年の念願が叶って拝見できましたので満足しました。折も折お釈迦さまの誕生日でありましたので、本堂脇で甘茶のお接待がありました。喉が渇いていましたので、私は、三杯も頂いたのですが、やがて少し気分が悪くなり、夫に「欲張りだから罰があたった」とからかわれたりしました。
 今回は手当たり次第に旅にまつわる美味しかったものの羅列になってしまいました。年金をやりくりしての私たちの旅行ですが、元気な内にせいぜい許される範囲の贅沢をと考えています。お笑い下さい。

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繋がりのありがたさ

2012年02月17日 | 随筆・短歌
 昨年の大災害から、絆という言葉がしきりに使われるようになりました。人間は一人では生きては行けないと言うことを、この大災害によって改めて感じた人が多かったからでしょう。又同時に多くの人が助け合い、人間は決して孤独ではないということを実感もしたでしょう。しかし個々の場合を考えるとき、急に身よりが無くなった人もいて、孤独に苦しんで居られる人が多いのも事実でしょう。
 私たちはこれから先を、人と人との交わりという観点から、どのように生きて行けば良いのか、考えさせられるこのごろです。最近「無縁社会」と言う寒々しい言葉が使われるようになりましたが、時折、孤独死の人が見つかったというニュースに出会う度に、痛ましい思いを致します。
 それにつけても思いますのは、良い友に恵まれた人は幸せだと言うことです。多くの人は、何らかの出会いによって、それぞれに友人を持って過ごされていると思いますが、真の友人から、良き知人に至るまで、幾たりか数えられる人は幸せです。
 私の場合は、数こそ多くはないですが、ふるさとを遠く離れて暮らして居ながら、中・高・大学時代の気心の知れた友人に恵まれました。一時途絶えていた人間関係が或る出来事から再び強い絆として結ばれ、今では心を割って話しが出来る大切な友人としてお付き合いしている人もいます。
 学生時代や、勤めてからは、価値観の合う人と巡り会えて、得難い友人が多いです。そんな中で不思議なのは、卒業後に勤めの関係で初めて下宿生活となった時に、お世話になった下宿の主婦とは、今もお互いに電話をしたり、写真を交換したりして往事を懐かしんでいます。お父上が士族出身で、世田谷区の広いお屋敷に何人もの学生や勤め人を下宿させていました。私の部屋も独立していて、そこから直接外出出来るようになっていました。何故こんなに長く交際を続けてこられたのかわかりませんが、もう五十数年来続いています。
 故郷へ戻って勤めてから、ルームメイトとして一緒の部屋に下宿したり自炊生活をした人とも長続きしています。その一人が近く私の住む市へ来られますので、ご一緒に食事をすることを楽しみにしています。この人ももう50年来の友人で、時折お茶や食事を共にして来ました。
 現役時代と違って、年々気を遣うようなお付き合いが減り、今は、本当に気心の知れた人たちと、有り難いお付き合いをさせて頂いています。
 一方遠くの親戚より近くの他人と言われますが、いざと言う場合は、近所にお住まいの知り合いの方が大きな助けとなります。市の郊外に住みついて45年になる私たちには、古くからのご近所つき合いがあって、お互いに何よりの繋がりになっています。何か起きると真っ先に力になり合える人たちです。
 夫は毎朝のゴミ捨て係りで、ご近所の男性や女性ととても仲が良く、新しいニュースを持ち帰って来ます。熟年夫婦ほど男性が家事分担でゴミ処理を請け負っておられる人が多くなりました。一昔前に比べると隔世の感があります。皆さんはとても規則正しい生活をしておられるようで、いつも会う人が同じだと言います。徒歩でわずかのゴミ集積所なのですが、出会う時間が同じということは、各家庭の皆さんが、いかに正確な生活ダイヤで過ごしておられるかということになります。
 しかし、たとえ親しい間柄といえども、お互いの生活を乱さないような心配りは必要です。和やかな人間関係であっても、最終的には、人間は孤独な存在であることは否定出来ません。これからの老いを生きて行く為には、孤独に耐えるというよりも孤独を楽しむ人間にならなければと思っています。その上で身の回りの温かい人たちに感謝しながら生きて行きたいと考えています。


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如月という月に

2012年02月10日 | 随筆・短歌
 睦月・如月と数える日本古来の月の名称があり、私はこの呼び方が好きです。特に如月は春が静かに近づいている、という密やかな喜びを感じます。
 立春を過ぎたと言っても春はまだ名のみですが、日一日と目には見えずとも春が確実に近づいています。
 私ごとになりますが、如月は娘の命日のある月でもあるのです。14年前の如月20日は、温暖な日でコートも不要な位に穏やかでした。娘はとても穏やかな表情で、幽界へと旅立ちました。
 私の義父母も父母も、みな亡くなった顔は、穏やかでした。死ぬということは、生まれて来る時に苦しみを感じないのと同様に、苦しくはないのだと、最近はそう信じるようになりましたので、これから迎えるであろう自分の死には、さして怖さを覚えません。
 年月が悲しみを癒やしてくれるといいますが、このように穏やかに娘の話が出来るということは、やはり積み重ねて来た年月のせいでしょうか。生まれて来た時の喜び、成長の過程での、数々の楽しかった思い出をたどると、私たちに育てるという何ものにも代え難い喜びを与えてくれたと、今はそう感謝しています。
子供からは貰うことの方が大きいものだと、つくづく感じています。
 成人してからは、全て自分の意志で生きていき、やがて結婚して配偶者を得れば、今度は配偶者と共にかけがえの無い人生を過ごすのですから、其処に親の口出しは不要です。親は暖かく見守るだけで口出ししない、と言う対応は、私の両親の子育てから学びました。遠いとか近いとかではなく、地球上のどこかで、元気で生きていて呉れる、それだけで親としては、この上ない満足としなければならないのだと、そう思ってきましたし今もそう思っています。
 子供は子供の人生を紡いでいくのであり、それがもし逆境であっても、それを乗り越えて行く見守りは必要でしょうが、ああせよこうせよというのは、子供の判断力や忍耐力を阻害することになりかねません。紆余曲折を経ながらも、子供は自分の力で乗り越えて行くでしょう。事実私も結婚してからは、何事も夫婦で相談したり、自分で考え判断し、親を必要としませんでした。困ったことも親に愚痴ることもなく、何とか此処まで来られたのは、やはり独立を促した両親の教えに依るものであり、共に歩んだ夫や子供達のお陰だと思っています。
 振り返って自分の人生を思う時、良くまあ細々とした絶壁の小道を、墜落することもなく、辿り着いたものだと冷や汗が出る程です。様々な場面で偶然に救われたりして、奇蹟の連続であったようにも思え、見えないものに導かれた幸運な人生でした。
 性格的に後ろ向きになりがちな私ですから、後悔は山ほどありますし、上手く行かない事が多く多難ではありましたが、やはり上手くいったことも上手く行かなかったことも、全てが今の充実感と感謝につながっています。
 以下に一編の詩を載せたいと思います。

 あなたがたの子どもたちは
 あなたがたのものではない
 彼らは生命そのものの
 あこがれの息子や娘である
 彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
 あなたがたから生じたものではない・・・
 あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
あなたがたの考えを与えることはできない
 なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから。
 あなたがたは彼らのからだを宿すことはできるが
 魂を宿すことはできない
 なぜなら彼らの魂は、 明日の家に住んでいるから。
 あなたがたは彼らのようになろうと努めうるが
 彼らを自分のようにならせようとしてはならない
 なぜなら生命(いのち)はうしろへ退くことはなく、
 いつまでも昨日のところに
 うろうろ ぐずぐず してはいないのだ・・・(以下略)
              カリール・ジブラン「予言者」より

 如月に当たり、先立った娘の命日が近づいて来ました。ふと目に触れた一編の詩から、親とは何かと、改めて考えさせられた一日でした。  
 
吹雪く日は亡娘(こ)の買ひくれしカーディガンわれを抱くごと深々と着る(実名で某誌に掲載)

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高僧の深いお言葉に触れて

2012年02月03日 | 随筆・短歌
 離婚の多い世の中になりました。義父母の場合は、結婚式まで相手の顔も知らなかったそうです。しかし義父母の時代には、さして珍しいことではありませんでした。このようにして結婚した義父母も、お互いに理解し合い言いたいことを素直に言い合いながら、相手を頼りにし合い助け合って一生を過ごしました。そして孫娘の誕生に合わせて、今の住所に家を新築し、田舎の家を引き払って私たちと同居しました。働き者で教育熱心の義父と、記憶力抜群の義母とは、孫を可愛がって育て、大家族の日々を過ごした後に亡くなりました。
 私たち夫婦の場合は、紹介して下さる人が居て、奇しくも巡り会い、お見合い結婚を致しました。私たちは、このことを深く感謝していて、私たちも一組くらいは、橋渡しをしてあげて、ご恩返しをしたいものだね、と言いつつ幾度か仲立ちしました。たった一組、こういう良い人が居られる、と紹介しただけでしたが、この人達は今もとても仲良く暮らしておられます。その他はご縁が無くて、お仲人の役割が果たせないまま今日に至っております。
 ところで先日すすめられて読んだ本の内容に深く感動して、是非ブログに載せたいと思いました。長い引用になりますが、お許し下さい。それは、臨済宗妙心寺派管長でいらした山田無文老師(1900~1988)の『無文全集』第十巻(禅文化研究所刊)です。老師が北海道へ行かれた時の列車内の出来事です。

「その密林の木の間をすかして、雨に煙りつつ静かに横たわっておる阿寒湖の水面が、ほのかに蒼白く見えます。
  密林の木の間に湖の静けさを
       かいま見るごと人を見んかも
こんな若い歌が何かの憶い出のように、ふと口をついて洩(も)れました。
(途中略)
 先ほどから、わたくしの様子をじっと眺めていた一見土木屋に見えるような、三十二、三歳の青年が、突然顔を寄せて言葉をかけてきました。
「ご坊!」
 わたくしはこの古めかしい言葉に、ちょっとびっくりしました。北海道ではこんな言葉が日常使われているのであろうか、と。あるいはこの青年は、出家のことを何と呼んだらよいかと先ほどから考えた挙句(あげく)、小説か講談で読んだこの言葉を思い出したのかも知れぬと考えたりしました。
 わたくしが受け答えしますと、「人間にはいろいろな悩みがあるが、金のことや名誉のことや仕事のことなら大概蹴(け)とばせる。だが一番むずかしいのは男と女の問題だ。俺は人妻に愛されておるんだが、俺も好きなんだが、どうしたもんだろう」と訥々(とつとつ)として訴えだしました。わたくしは面白いことを言う青年だと思って、ついニコッと笑ってしまいました。
 しかしその青年は、わたくしをいつまでも笑わせませんでした。それほど真剣さが、その目にこもっていたのです。
「それはむずかしい問題だが、あんたは一人者か」
「俺にも妻がある」
「それはなおむずかしい。愛情は人間にとって最も大切なものだ。本当は好きな人のできるまで結婚しなければよかったんだが、そうもいかんだろうしなあ。両方が、つまり四人がよく理解しあって、奥さんを取り換えた人もあるが、そんな例はまれだし、自分たちだけが幸福になって、相手の夫や子供、自分の妻子、その他周囲の皆を泣かせることも考えものだしなあ」
 そこでわたくしは今朝(けさ)、湖畔で詠(よ)んだ気恥ずかしいような若い歌を思い出して、紙片に書いてわたした。そして静かにその気持ちを話して聞かせた。
 家庭生活は今のままでどちらも破壊することなしに、高く清らかな精神の愛情を守ることはできんものだろうか。肉体の幸福などは瞬間的なもので、心の愛情こそ永遠なものだ。そういう永遠の愛情に生きることはできんものだろうか、と。
 彼はわたくしの言葉を一々うなずいて聞いていたが、眼には涙が光って来ました。そして下を向いて、わたくしの与えた紙片をじっと眺めていましたが、やがて大きな拳(こぶし)で何度か目を拭いました。
「ご坊!」
 青年は再び顔を上げて、わたくしを見つめ、言葉をかけました。
「仏教は生きた人間を救えますか」
「生きた人を救わなくちゃ。生きておるから悩みがあるんじゃないか。人間の世界はすべてが限られておるんだ。そこに絶えず行きづまりがあり悩みがあるんだ。ただ、心の深さにおいてのみ無限を発見することができる。そこにだけ人間の救いがあるんだ。
 恋を貫いても苦しい。恋を捨てても苦しい。所詮、人間は苦しいものなんだ。その苦しさの真っただ中に限りないものを発見する。そこに救いがあるんだ。苦しさを前において、とやかくと眺めるから苦しいんだ。苦しさの中に飛び込んでしまえば、苦しさの中にいて、苦しさを離れることができる。それが救いというものだ。どうかすると人はそういう時、死の道を選ぶが、死ぬのは卑怯(ひきょう)だ」
 青年はまた下を向いて考え込みました。わたくしの目指す帯広はもうそう遠くないようです。それまでにわたくしは、この再びめぐりあうこともないであろう青年のために、何かの結論を与えなければならないでしょう。

(あずさ注・これらは雑誌に連載された文章ですが、ここで連載の回が変わっています)

 青年はじっと下を向いて考えていましたが、たちまち顔を上げ、向き直って尋ねました。
「ご坊! 死ぬのはなぜ卑怯ですか」
 彼の眼にはいっぱい、涙があふれていました。
「結局、苦しさに堪えられなくて逃げるのだから卑怯だ。引き受けた仕事を、苦しいからといって途中で投げ出したら卑怯だろう。人生を途中で投げ出すのも同じことだ。芝居を見ていて、途中であまりに悲しいからといって外へ逃げ出したら、これも卑怯だろう。人生は結局芝居だ。苦しいこと、つらいことが、やがて一番楽しい憶い出となる日もあろうじゃないか。終わりまで忍ぶものは救われんという言葉もあるが、今死ぬのは救われたんじゃない、負けたんじゃ。そう思いませんか」
 彼はまた下を向いて考え込みました。
 しばらくすると車掌が、終点の帯広に近づいたこと、下車の用意をすることなどを告げて回りました。彼は車掌を呼びとめ、切符を出して不足金を支払っていました。わたくしと話すためにいくつかの駅を乗り越したらしいのです。
 わたくしはいよいよ最後の言葉をかけねばならぬと思いました。
「人間が死ぬほど熱烈な愛情を誰かに捧げ得るということは、実に尊いことだ。そうした愛情は宝玉のように大切にしなければならぬ。
 しかし、人間、たった一人のみを愛して、周囲の愁嘆も迷惑も何も感じないとしたら、どうであろう。その愛は盲目的というほかはあるまい。あるいは動物的というほかはない。あるいは利己的かも知れない。
 一人の人を死ぬほど愛される、その愛情をより多くの人々にそそぐことはできぬものであろうか。その人の夫にも、その人の子供にも、あんたの妻にも、あんたの子供にも。もし、あまねくすべての人々を愛されるほど愛情が広められるならば、それを仏の愛というのだ。
 自分を殺しても相手を愛さずにおれぬような、そんな清らかな愛情が、すべての人にそそがれたら、どんなによいことであろう。そこにのみ人生の深刻な苦しさ淋しさを乗り越える、たった一つの明るい道がある。
 古人がよく失恋から出家しておられるが、あれは決して卑怯で逃げたのではない。一人への愛情を、万人のほうへ転換することによって、救いを見出し、光明を発見したのだと思う。
 あんたも、その尊い愛の目覚めを、もう一つ広く育ててもらえんだろうか」
「ご坊! ありがとう。努力します」
 彼はもう手離しで泣いていました。
 わたくしは彼の幸福と平安をひたすら念じつつ、帯広に降り立ちました。そこで大乗寺さまのお出迎えを受け、すばらしく発展した大帯広の活気に満ちた目抜き通りを、たそがれの雲のようにドライブして、お寺の客となりました。
 苦しみの中にいて苦しみを離れる智慧、それを般若の智慧と申しましょう。悩みの中にいて悩みを超える道、それを到彼岸(とうひがん)、波羅蜜多と名づけられましょう。」

 私はこれを読んで、無文老師が悩める人の問いかけに熱心に耳を傾け、真剣に答えを導き出し、またその答えの深く広く温かく、「あまねく全ての人々を愛されるほど愛情が広められるならば」という愛についてのお話に、大変感動したのでした。
 ともすると、自分本位な道の選択をして、双方の家庭を破壊し、まして罪の無い子供たちをほうり出して苦しめるという結果になりがちなところですが、この様なもう一つ大きな深い愛情で包むことが出来れば、苦しみが無くなるとは言えなくとも、もっと大きな愛情を持った幸せが残り、双方の子供たちを不幸にすることもないでしょう。
 私は、決して難しそうな本を読んでいるわけではありません。たまたま勧められて読んだ本に、いたく感動しましたので、皆様にご紹介する気になりました。

 前回引用文献をに誤字があったり、マグニチュードと書くところを震度と書いた事に気づき、後で訂正しました。日に読まれた方には、大変失礼致しました。

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