ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

存在の証明

2020年05月16日 | 随筆
私が私として今此処に存在している事を、とても不思議に思います。それは誰が、何時決めた事なのでしょうか?
 私はこの世界にたまたま存在することになった、ちっぽけな一人の人間でしかありません。でも生きている以上は一人前に楽しみも哀しみも苦しみも様々抱えて、今日一日も何とか無事に過ごせました。有り難いことです。
 このような日常が何時終わるか誰も知りませんし、今私が手にしている時間をああもしたい、こうもしたいという思いが無い訳ではありませんが、時間は瞬く間に過ぎ去ってしまいます。
 今朝は朝食後に庭に出て、今年初めてホースでの水撒きをしました。昨日、庭の竹垣の一年の汚れを洗い落として綺麗にしましたから、松の木・灯籠・石池・咲き始めた躑躅など朝日を受けて美しく、心を和ませてくれました。
 石池の回りの苔庭を一巡りして簡単に草取りをし、何時ものように庭掃きをしている夫のゴミ袋に草を入れて貰って、私は先に家に入りました。
 股関節の置換手術後は正座が出来ない私は、仏壇の前では椅子に掛けて、毎朝二人で般若心経をあげる習慣があります。その後CDでラジオ体操をして、私が出すモーニングコーヒーで一日の始動体制が整うのです。
 パソコンを開いて様々記録したり、ニュースを読んだり(パソコンのニュースは信頼性に欠けると新聞派の夫は笑います)いずれにしろ思い思いに朝のスケジュールをこなします。
 私は1~2週間の献立を立て、買い物計画も一日一枚の貼りメモに書いていますから、その後二人で外出して、一回りのウォーキングと買い物を済ませますが、大抵は計画通りに一日を過ごす事になります。
 一緒の時間もありますが、午後は殆ど別々に自分の生活を楽しみます。無職ですが何かと予定があって、過ぎてみれば結構忙しい日々だと思います。
 退職後は沢山の旅行をしましたが、今は音楽を聴きに行ったりデパートでの買い物程度で、多くは「お家で過ごそう」です。自分としては、満ち足りた生活に感謝している積もりですが、果たしてこれで良いのか、と思うと、「もっと世の中のお役に立たないと・・・」と反省することもあるのです。
 歩く道すがら、四季折々様々な薔薇の花に囲まれたお宅のご夫婦や、親しい商店の主や店員さんとも言葉を交わします。ジョークが得意の夫は、夫の祖父の遺伝子をそっくり受け継いだようで、時折賑やかして帰ります。

 義母は普段は五時に目覚めて、余り早いと家族をも起こすからと、布団に座って編み物などしていました。家族もご先祖の血を引いて、DNAは次々と引き継がれて行っています。
 祖先には医師や政治好きな人もいて、今コロナで犠牲になる医療関係者が居られますが、夫の伯父も患者さんの病気を貰って亡くなりました。いつの世にもそうした歴史があり、現在に繋がっています。
 その人が在って現在の私達があります。その存在の証明のように、同じDNAが活躍しています。可笑しい位に当時の知らない人たちのことも、そのようなDNAによってまざまざと忍ばれます。
 明日街中のデパートまで買い物に行くという日は、前日の内に玄関の廊下脇に鞄を用意していた義父を、懐かしく思い起こしています。一日一日を大切にした義父でした。
 私は義父母と共に暮らした年月の方が、実父母と暮らした年月よりも長いですし、その方が現在に近いので、何かと義父母との暮らしが懐かしいのです。加えて夫も子供も皆それなりに遺伝子を引き継いでいて、一層親しく想い出されます。
 義父母もそれなりに苦しい時代を努力して生きて来ていますので、私達にはいつまでも良いお手本であり、年を取るほどに懐かしく親しく想い出されます。
 この世に存在していた証しは今目の前にもあって、動かしがたい真実であり、困難に立ち向かう姿勢さえも、全てが同じように苦しみ努力してきた存在の証だと思えます。
 今や生きとし生ける人は皆新型コロナウイルスに苦しめられています。「人生は苦である」と仰った釈尊の言葉を「苦しみながら生きていくのが人生である」と置き換えてみると一層実感が強まります。
避けることのできないこの困難をお互いに助け合って、一歩一歩乗り越えて行きたいと思っています。

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出会いの奇蹟

2020年05月02日 | 随筆
 毎年ゴールデンウィークが終わると旅に出ました。どの旅も楽しかった想い出ばかりです。そんな中で、忘れられない不思議な出逢いも幾つかありました。
 先ずは山陰の小京都と云われる島根県津和野の「乙女峠」を挙げたいと思います。津和野駅から緩やかな登り道があり、小さな川のせせらぎを聞きながら登ると、やがて白い尖塔を持った「マリア教会」に出ます。この小道は以前、全国の「道100選」にも入っていて、有名な道だったようです。
 私達が訪ねた日は午後で穏やかな陽差しがあり、ひっそりと建っていたマリア教会の最後列で祈りを捧げました。キリスト教徒ではないので、祈り方など分からなかったのですが、祈りを捧げる机の前にひざまずいて、胸の前で両手を組んで感謝の祈りを捧げました。
 丁度その時です。教会の奥の入口から、礼拝堂に入ってこられた尼僧がありました。しばらく敬虔な祈りを捧げられて、私達に気づかれました。夫が切支丹弾圧のあった悲劇をお訪ねすると、教会を出て脇の庭に案内して下さって、三尺牢の中から白い手を差し伸べている信者の彫像と、その前にすらりと立ったマリア像を指さして、明治時代に行われた悲しいキリシタンの弾圧の歴史を話して下さいました。
 今は廃寺になったお寺に収容された信者達は、日夜激しい拷問に合ったそうです。津和野に流刑になった153名の信者のうち、37名が命を落としたということです。 
 苦しむ三尺牢の信者の前に立っていたのは、信者の前に夜毎に現れたという、マリア様の像だったのです。
 前庭にはかつて信者達が突き落とされたという池があり、今も満々水を湛えている姿に息苦しい思いになりました。山道を登ると峠に出て、そこにも殉教者の像が在ること、津和野の街には教会もある事などをを話して下さいました。
 そして驚いた事に、「今日が私(尼僧)の最後のおつとめの日で、今日でこのマリア聖堂には、常にお勤めをする尼僧が居なくなるのです。ここまで来る人は滅多に居ないのに、ようこそおいで下さいました。」と寂しそうに云われたのです。
 最後の尼僧のおつとめに出会えるなんて、そして説明を頂くことが出来るなんて、本当に奇跡的で幸せな事だと思いました。(現在津和野は有名な観光地となって、かつて私達が行った頃とは変わったようです。)
 教会を後にした私達に赤い夕陽が名残惜しげに教会の尖塔を照らしているのが見えて、振り返り振り返り下って来ました。この時が最後の尼僧に、殉教の真実を説明して頂けた事で胸が一杯になりました。そして心から感謝したのです。
 このような経験は滅多にないことだと思いました。優しく丁寧な尼僧の、最後のおつとめに出会った好運は、偶然と云ったら余りに軽率で、何か大きな力が働いて私達を誘って下さったように今でも思っています。

 次の奇蹟は古い話ですが、最初の長崎旅行の時のことです。当時長崎市の大浦天主堂の下に、16番館という資料展示とお土産を売るお店がありました。見学当日は、私達しか観光客は居ませんでした。何気なく展示のガラスケースの中をのぞき込んだ私の目に、あの「板踏み絵」の実物が飛び込んで来たのです。本当に驚き胸がドキドキしました。
 木の板に銅板のキリスト像がはめ込まれていました。大勢の人たちに踏まれた木の板は、右足の第一指(親指)の跡が、他の指より大きくやや深くへこんでいました。本では知っていましたが、実物に出会うのは初めてでしたし、「この板のキリスト像を踏む時」の当時の信者の思いに心を寄せると、とても胸が痛く、又実物の重さに深く感動しました。
 この銅板のキリスト像を踏むことが出来なくて、多くの信者達が命を捨てたのです。遠藤周作の小説「沈黙」によれば、どうしても踏むことが出来ずに苦しむ神父の耳に、主の声が聞こえて来るのです。
『踏むが良い。お前の苦しみは私が一番良く知っている。踏むが良い。』
 あの感動の場面の踏み絵が、今私の目の前にあるのだと思うと、訳もなく涙が零れ落ちるのでした。
 ずっと後に再び長崎へ行く機会がありましたが、その頃には16番館も無くなり、再び実物の板踏み絵に巡り会うことはありませんでした。遠藤周作を尊敬していた夫は、当時私以上に喜び感動しました。実物を見ることが出来たのは、とても不思議な事でもありました。
 「遠藤周作も見た」と書いているその踏み絵板は、現在「国立博物館」にあるようです。国立博物館には何回か出かけていますが、私達が再び出会うことはありませんでした。出会いという奇蹟は、そのチャンスを逃すと二度と会う事の出来ない、人生でも数少ない機会だと思います。
 連休の穏やかな日々をつつがなく過ごせる事に感謝しています。新型コロナウィルスも日を追う程に怖いですが、皆さんのご健康を心からお祈りしています。

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