「さだまさし」の歌に「償い」という歌があります。私の好きな歌の一つです。以前、或る裁判で裁判長が判決を言い渡した後で、被告人に「さだまさしの償いという歌を聞いたことがないのなら、是非一度聞くように」と言ったことで有名になった歌です。
ある日とても疲れていた男性が、車で事故を起こして一人の男性を轢いてしまいます。以来その償いの為に、働いて働いて少ない給料から遺族の奥さんに送金し続けます。やがてある日「死んでも許さない」と言っていた被害者の奥さんから手紙が来て、「貴方の優しい気持がわかりましたから、どうぞ貴方の人生を取り戻して下さい。もうお金を送らないで欲しい。貴方の手紙を見る度に主人を思い出して辛いのです」と言ってきました。お金を送り続けていた加害者の友人が、「神様有り難う。優しい人を許してくれて」と涙が止まらないという内容の歌です。
似たような話が身近にもありました。夫の知人が矢張りふとした不注意から事故を起こして、過失致死罪を犯してしまいました。その遺族は、「これから10年間毎月命日にお参りに来るように」と言ったそうです。その後その人は、一度も欠かさずに毎月の命日にお参りに通い続けていました。その後どうなったか、私たちとの音信も途絶えましたので解りません。とてもお気の毒な気がして、ずっと心に残っています。
事故を起こす人は勿論全て悪人とは言えませんから、たまたま起こしてしまった事故で人を傷付けたり死に至らしめるということは、とても不幸なことです。亡くなられた人が生きて帰ることはないのですから、取り返しが付かない罪を犯したことになります。被害者とその家族は突然の不幸に見舞われて、そこから先の人生が変わってしまうのですから、こんな理不尽なことはありません。
一方過失による加害者とその家族もまた突然の不幸を背負い、或る意味では被害者と同じような苦しみを背負います。決して加害者の肩を持つ訳ではありませんが、どんなに多くの人が加害者として、或いはその家族として、悩み苦しんでおられるか解りません。強盗殺人といった凶悪な罪を犯した人の場合であっても、その家族は、自分が起こした訳ではないのに、しかも加害者が一人前の成人であるにも関わらず、家族は世間の冷たい目をを背に生きていかなければなりません。とてもその地域に住んで居られなくなって、転居せざるを得ない場合も、よくあると聞きます。こういうケースを耳にする度に、加害者の家族もまた被害者に他なららないと気付き、気の毒に思うのです。
そう考えると、償いということは、癒されない傷を抱えながら身を削って生きて行かざるを得ないことだと言えます。この「償い」の歌を聴いて、私も何度も泣きました。人ごととは思えない気持がして、また同時にその友人の優しさに胸を打たれて、涙が溢れて止みません。
生死にかかわるような事件や事故ではなくても、例えば私たちの日常でも、不注意にふと零した言葉を誤解されたりして、それを訂正出来ないまま、結局償って行かなければならない場合もあります。考えてみますと、或る意味で人生は償いの連続であるとも言えるのかも知れません。自分の非を認めて償おうとする心は、矢張り他人への思いやりと優しさかもしれないと考えたりしています。
さて、あと僅かで弥生三月となります。この時期は保育園から定年まで、卒業の季節でもあります。償い続けるばかりでなく、人生の節目を元気に越えて行って欲しいと願っています。
不注意に零しし言葉にこだはりて春浅き庭の小さな草引く(実名で某誌に掲載)
ある日とても疲れていた男性が、車で事故を起こして一人の男性を轢いてしまいます。以来その償いの為に、働いて働いて少ない給料から遺族の奥さんに送金し続けます。やがてある日「死んでも許さない」と言っていた被害者の奥さんから手紙が来て、「貴方の優しい気持がわかりましたから、どうぞ貴方の人生を取り戻して下さい。もうお金を送らないで欲しい。貴方の手紙を見る度に主人を思い出して辛いのです」と言ってきました。お金を送り続けていた加害者の友人が、「神様有り難う。優しい人を許してくれて」と涙が止まらないという内容の歌です。
似たような話が身近にもありました。夫の知人が矢張りふとした不注意から事故を起こして、過失致死罪を犯してしまいました。その遺族は、「これから10年間毎月命日にお参りに来るように」と言ったそうです。その後その人は、一度も欠かさずに毎月の命日にお参りに通い続けていました。その後どうなったか、私たちとの音信も途絶えましたので解りません。とてもお気の毒な気がして、ずっと心に残っています。
事故を起こす人は勿論全て悪人とは言えませんから、たまたま起こしてしまった事故で人を傷付けたり死に至らしめるということは、とても不幸なことです。亡くなられた人が生きて帰ることはないのですから、取り返しが付かない罪を犯したことになります。被害者とその家族は突然の不幸に見舞われて、そこから先の人生が変わってしまうのですから、こんな理不尽なことはありません。
一方過失による加害者とその家族もまた突然の不幸を背負い、或る意味では被害者と同じような苦しみを背負います。決して加害者の肩を持つ訳ではありませんが、どんなに多くの人が加害者として、或いはその家族として、悩み苦しんでおられるか解りません。強盗殺人といった凶悪な罪を犯した人の場合であっても、その家族は、自分が起こした訳ではないのに、しかも加害者が一人前の成人であるにも関わらず、家族は世間の冷たい目をを背に生きていかなければなりません。とてもその地域に住んで居られなくなって、転居せざるを得ない場合も、よくあると聞きます。こういうケースを耳にする度に、加害者の家族もまた被害者に他なららないと気付き、気の毒に思うのです。
そう考えると、償いということは、癒されない傷を抱えながら身を削って生きて行かざるを得ないことだと言えます。この「償い」の歌を聴いて、私も何度も泣きました。人ごととは思えない気持がして、また同時にその友人の優しさに胸を打たれて、涙が溢れて止みません。
生死にかかわるような事件や事故ではなくても、例えば私たちの日常でも、不注意にふと零した言葉を誤解されたりして、それを訂正出来ないまま、結局償って行かなければならない場合もあります。考えてみますと、或る意味で人生は償いの連続であるとも言えるのかも知れません。自分の非を認めて償おうとする心は、矢張り他人への思いやりと優しさかもしれないと考えたりしています。
さて、あと僅かで弥生三月となります。この時期は保育園から定年まで、卒業の季節でもあります。償い続けるばかりでなく、人生の節目を元気に越えて行って欲しいと願っています。
不注意に零しし言葉にこだはりて春浅き庭の小さな草引く(実名で某誌に掲載)