ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

償い

2011年02月25日 | 随筆・短歌
 「さだまさし」の歌に「償い」という歌があります。私の好きな歌の一つです。以前、或る裁判で裁判長が判決を言い渡した後で、被告人に「さだまさしの償いという歌を聞いたことがないのなら、是非一度聞くように」と言ったことで有名になった歌です。
 ある日とても疲れていた男性が、車で事故を起こして一人の男性を轢いてしまいます。以来その償いの為に、働いて働いて少ない給料から遺族の奥さんに送金し続けます。やがてある日「死んでも許さない」と言っていた被害者の奥さんから手紙が来て、「貴方の優しい気持がわかりましたから、どうぞ貴方の人生を取り戻して下さい。もうお金を送らないで欲しい。貴方の手紙を見る度に主人を思い出して辛いのです」と言ってきました。お金を送り続けていた加害者の友人が、「神様有り難う。優しい人を許してくれて」と涙が止まらないという内容の歌です。
 似たような話が身近にもありました。夫の知人が矢張りふとした不注意から事故を起こして、過失致死罪を犯してしまいました。その遺族は、「これから10年間毎月命日にお参りに来るように」と言ったそうです。その後その人は、一度も欠かさずに毎月の命日にお参りに通い続けていました。その後どうなったか、私たちとの音信も途絶えましたので解りません。とてもお気の毒な気がして、ずっと心に残っています。
 事故を起こす人は勿論全て悪人とは言えませんから、たまたま起こしてしまった事故で人を傷付けたり死に至らしめるということは、とても不幸なことです。亡くなられた人が生きて帰ることはないのですから、取り返しが付かない罪を犯したことになります。被害者とその家族は突然の不幸に見舞われて、そこから先の人生が変わってしまうのですから、こんな理不尽なことはありません。
 一方過失による加害者とその家族もまた突然の不幸を背負い、或る意味では被害者と同じような苦しみを背負います。決して加害者の肩を持つ訳ではありませんが、どんなに多くの人が加害者として、或いはその家族として、悩み苦しんでおられるか解りません。強盗殺人といった凶悪な罪を犯した人の場合であっても、その家族は、自分が起こした訳ではないのに、しかも加害者が一人前の成人であるにも関わらず、家族は世間の冷たい目をを背に生きていかなければなりません。とてもその地域に住んで居られなくなって、転居せざるを得ない場合も、よくあると聞きます。こういうケースを耳にする度に、加害者の家族もまた被害者に他なららないと気付き、気の毒に思うのです。
 そう考えると、償いということは、癒されない傷を抱えながら身を削って生きて行かざるを得ないことだと言えます。この「償い」の歌を聴いて、私も何度も泣きました。人ごととは思えない気持がして、また同時にその友人の優しさに胸を打たれて、涙が溢れて止みません。
 生死にかかわるような事件や事故ではなくても、例えば私たちの日常でも、不注意にふと零した言葉を誤解されたりして、それを訂正出来ないまま、結局償って行かなければならない場合もあります。考えてみますと、或る意味で人生は償いの連続であるとも言えるのかも知れません。自分の非を認めて償おうとする心は、矢張り他人への思いやりと優しさかもしれないと考えたりしています。

 さて、あと僅かで弥生三月となります。この時期は保育園から定年まで、卒業の季節でもあります。償い続けるばかりでなく、人生の節目を元気に越えて行って欲しいと願っています。
 
 不注意に零しし言葉にこだはりて春浅き庭の小さな草引く(実名で某誌に掲載)

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今鳴いておかなければもうだめだ・・・というふうに

2011年02月18日 | 随筆・短歌
 先日ある短歌誌に、秀作としてある女性の短歌が数首紹介されていました。私が去年初めてお逢いする機会に恵まれた方です。随分前から感性の鋭い素晴らしい短歌を詠む人として、注目し尊敬しいた人でした。去年の秋に初めて言葉を交わして、未だ三ヶ月にも満たなかったのですが、先日そのレベルの高い優れた短歌が、短歌誌に掲載されているのを目にした時、すっかり嬉しくなって、自分の身分も考えずに、「おめでとう御座います」と明確な宛先が解らないまま手紙を出してしまいました。しばらくして、その方のお母様から突然の訃報を手にしたのです。私は驚いてしばらく絶句してしまいました。
 私が短歌を学ぶようになって、かれこれ20年近くなります。何年か後に自分の短歌をあちこちに投稿するようになり、たまに入選する事がありました。そうなると、優れた人の歌集や短歌を沢山読むようにもなり、それに感動したり、刺激をうけたりする機会も増えました。それが同郷の歌人となると、一層注目するようにもなります。
 私と似た方向の短歌を目指しておられて、私よりずっと上手い方が、同じ市においでのことを知りながらも、住まいも解らずお顔も知らないので、「何時かお逢い出来たら良いなあ」と心の何処かで思っていました。その方の短歌を紙上で見る度に、自然に注目するようになり、「また載っている」といっては、私がまるで友人の作品ででもあるかのように喜んでいましたので、やがてその方は我が家では有名人になっていきました。いつも鋭い感性と明るさを持っておられ、上三句と下二句を思い切って転換されたりして、「上手いなあ」と感心していたものです。
 去年ある文学賞の授賞式があって、その後に著名な作家の講演がありましたので、私たち夫婦もその講演を聴きに出かけました。夫が「○○さんも居られるぞ、挨拶して来たら」と言いました。事前に配布された受賞者名簿を良く見ると、その方は4つの部門で受賞されていて、一つは文学賞、あとは佳作と入選でした。
 授賞式の開始前は、文学賞の人は会場の指定席に座っておられますので、この方と思しき人の所へ出向きました。元々お逢い出来たらと秘かに期待していましたので、喜んだ私は臆面もなく名字を名乗り、御祝いを述べました。するとその方は、私のフルネームを口にされて、応えてくださったのです。とっさの出来事なのにフルネームを言って頂いたことに、すっかり感激しました。それが去年の11月下旬のことです。私には忘れられない出来事でした。お逢いした感じでは私より可成りお若く、穏やかで温かそうな感じの方でした。
 訃報が届いたその前日にも、ある新聞の文芸欄の川柳の部に、その方の優れた一首が載っていました。私たちは、「今日も載っていますね。上手いですね」と話題にしていたのでした。様々なジャンルでご活躍でしたし、その才能は誰しもが認める素晴らしいものがあり、本当に惜しい人を失ったと残念に思うと同時に、今だにショック状態です。私よりずっとお若い方の訃報に接することは、とても辛いことです。二月は娘が逝った月なので、その悲しみも加わって一層辛いものがありました。
 逆縁の悲しみが解るだけに、私の様な名前も知らない者から、突然届いた御祝いの手紙に、お母様のお悲しみは一層増されたことと、申し訳ないことをしたと思っています。全ての予定を後回しにして、早速心を込めてお悔やみの手紙を書きました。
 病とはいえ、神様は何故このような優れた人を早々と連れ去ってしまわれるのでしょうか。若くして逝った天才歌人啄木を思いながら、如月の空を仰いでいます。
 私の好きな詩人、八木重吉の「虫」という詩を想い出しました。次に引かせて下さい。

 虫が鳴いている
 いまないておかなければ
 もう駄目だというふうに鳴いている
 しぜんと
 涙をさそわれる

 その人も、今作らなければできなくなるという気持に背中を押されて、命を削りながら、歌や文章を紡いでおられたのでしょうか。そう思うと一層心が痛みます。心から深くご冥福をお祈り致します。

 今回は私の短歌は悲しみをうまく表現出来ず、また作ってもみすぼらしく思えて載せられません。

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長生きを悔やむ人ありて

2011年02月11日 | 随筆・短歌
 私が在職中に大変お世話になった上司が、退職後、生まれた田舎に戻って暮らしておられるとお聞きしていました。ある時そちらの近くを通る機会があったので、国道を外れて、山あいの細い道を辿って、お宅を尋ねたことがあります。
 ところが既に故人になっておられて、お宅は空き家になっていました。丁度集落の老婦人三人が集まって立ち話をしていらしたので、いろいろとお話をお聞きすることが出来ました。それによると奥様は息子さんご夫婦の住む遠方へ行かれたということで、ご主人のお墓を教えて頂いて、遠い昔のご恩に感謝して、お参りいたしました。
 住めば都といいますが、そこは雪深い山間で、今この集落は全員70歳以上の人達だとお聞きしました。でも此処が良いので、離れる積もりは無いのだと全員が口を揃えて仰っていました。少し登った所にその方のお姉様が住んで居られると伺ったのですが、面識がなかったので、私たちはもう少し奥の小高い土地にある日帰り温泉施設に立ち寄り、疲れを癒してから、周辺を散歩しました。
 誰も住んで居ないらしい家と荒れ果てた庭、古民家がドウとばかりに倒れたままになっているのもあって、そういう光景は初めて見ましたので胸が痛みました。昔は大勢の子等の声で、きっと賑やかであっただろうと思うと、バスが一日に数本通っているとはいえ、古く大きな家の多い集落を、もの悲しい思いで眺めて来ました。
 ゆっくりと坂道を下ってきましたら一人の老婦人が、垣の無い広い庭に干してあるモチ草を、裏返して広げているところに出会いました。この集落では誰一人として出会いませんでしたので、つい懐かしい気がして、声をかけました。私がお世話になった方を尋ねたことを言いましたら、何とその方はその人のお姉様に当たられる方だったのです。
 奇遇と言えば余りにも奇遇で、元上司が導いて下さったのではないかと思った位です。その方はご主人が教員だったので、新婚時代には大きな市に住んでいましたのに、突然の赤痢でご主人が亡くなってしまい、子供二人を抱えてこの地のご主人の実家に戻ったということでした。義父母に従って田畑を耕して子育てしたこと、今ではその長男と春から晩秋迄、この地で田畑を耕し、冬は平場にある長男の家でお嫁さんやお孫さん達と暮らしていると、初対面の私に懐かしそうに話して下さいました。
 緑豊かな山川草木に囲まれて、こうして老いても自分の仕事があることが、とても良いことに思えて、つい「お幸せですね」と言ってしまいました。するとその方は、「いいえ、良いことなんて何一つありませんよ。食べては寝ての繰り返しで・・・」と仰ってから「息子にも、こんなへんぴな所に生むから、自分は苦労しなくてはいけないと言われますし・・・」と目を遠くに投げて仰ったのでした。そして更に駄目を押すかのように、「長生きなんかするものではありません」と仰いました。私もハッと胸を突かれて次の言葉が出ませんでした。 
 苦労人のお姉様のことは、元上司からもお聞きしていましたので、この様な地で暮らす厳しさをつい忘れて、ヒョイと尋ねた旅人の私が、実情を解りもせずに言う言葉ではなかったと後悔したのでした。テレビの普及で、今は何処でもある程度の文化を享受出来ると思っていましたが、暮らしの不便さは喩えようもないのだと、今更に思い知ったのでした。そこに生まれた事がその人の人生の幸、不幸に大きく関わってくるとしたら、それは避けがたいことであると思いながらお聞きして来ました。ご婦人と二人で記念写真に収まり、優しいお顔のご婦人の何処に悲しみがあるのか、と思うほどですが、アルバムで写真を眺める度にあの「長生きなんかするものではない」という言葉を思い出すのです。
 確かに山間地の生活の不便さは大変であろうと思いますが、それだけで人生が不幸とは言えるものではないと思います。このご婦人の場合、結婚生活は数年で終わって、以後六十年余りに渡って義父母に仕え、子供を育て上げて、こうして暮らしている自分の生活を振り返った時、虚しさだけが込み上げて来たのでしょうか。
 せめてこういう人達が、安心して生をまっとう出来るように、老人福祉の網をきめ細かく張り巡らせることが急務だと感じたのです。かつて私たちの国は、戦争を起こして負けました。塗炭の苦しみを耐え抜いて、世界に例の無い程の復興を成し遂げた、その原動力となった人達が、今や超高齢者となっているのです。少なくとも「長生き出来て幸せだった」と述懐出来る国家でなければならないと、痛感させられた日でした。

辺地ほど人は優しくなるものか老い人乗せたバスは和やか(実名で某誌に掲載)

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墓マイラー?の一人として

2011年02月04日 | 随筆・短歌
 最近は墓マイラーという人達がいて、少しずつ増えてきているという記事を目にしました。先人のお墓を尋ね歩く人達のことを呼ぶようです。すると私達もれっきとした墓マイラーに入ります。静かなブームとありましたが、私には、お墓を尋ねることの素晴らしさが解りますので、墓マイラーが増えているのも納得出来ます。。
 仏像が好き、寺院が好き、庭園が好きで、従って古寺を巡ることが旅の最大の目的となることが多いです。寺院には、各界で活躍された著名人、或いは歴史に名を刻む人物のお墓がありますので、予め調べておいて、必ず探してお参りしてきます。
 最初からお墓参りを目的にした旅行もあります。例えば良寛や西郷南州の墓がその例です。以前述べましたが、良寛のお墓は、新潟県の隆泉寺というお寺の裏にあります。良寛がお世話になった木村家の墓地に建てられていて、一人一個ずつ持ち運んだのかと思われそうな大きさの石積みの基礎の上に、立派な墓石を載せて出来ていました。
 近郷の名もない人達の大勢の寄進があって、建てられたものです。大きな墓石には弟由之の選で、「僧伽(そうぎゃ)」という僧の堕落を嘆く、良寛作の長い漢詩が小さな文字で刻んでありました。後に亡くなった由之の墓は良寛の墓の左に並んでいます。お世話になった木村家代々のお墓が一番小さく、しかし品良く右側に立っていました。木村家より何倍も大きく、良寛を愛しまた慕った人々の熱い気持が、現代を生きている私にまで伝わってきました。
 ただ「このような見事なお墓を建てて貰うことを、良寛は喜んだだろうか」という違和感みたいなものを感じました。良寛の人生やその質素な暮らしぶりを知り、調べるほどに強い宗教心と学問の造けいの深さを知りました。世間の様々な執着を捨て、人間の欲望から離脱した無我の境地で、日々それを実践した良寛を、心から尊敬してきました。その立派なお墓に対して、建てた人達の熱意と、建てて貰った良寛の心とに思いを馳せ、いささかとまどいを隠せませんでした。何年も前から、一度は訪れたいと願いながら、なかなか実現出来ませんでしたので、様々な感慨に浸って、すっかり時間を忘れてお参りし、降るような蝉時雨の中を、長いことその墓地から離れられませんでした。 
 もう一つの西郷南州のお墓は、鹿児島市にあり、錦江湾を間において、桜島と対峙する美しい丘にありました。西郷隆盛のお墓を中心にして、生死を共にした大勢の同志たちの沢山のお墓が、全て桜島に向かって林立していることにも感激したものです。黒っぽい色の同じ石で出来た墓石群は、それだけでも圧倒するものがありました。愛するふる里のこの丘に埋葬された彼等は、きっと安らかに眠っているに違いないとホッとした気持ちになりました。
 私たちが鎌倉を訪れる度に必ず立ち寄るのは、東慶寺(縁切り寺)です。ここには東慶寺を開山した覚山尼を初めとして、徳川秀頼の娘である天秀似尼など、戦国の世を生きた女性達を筆頭に、和辻哲郎、西田幾多郎、阿部能成、鈴木大拙、などそうそうたる倫理、哲学、仏教に関する高名な学者のお墓があります。どれも境内の奥の苔むした静かな木立の中にこじんまりと佇んでいて、幽境に入っ後も思索を深めているような、荘厳な気配を感じました。沢山あるお墓から、高名な人々のお墓を探して歩くのも楽しいものです。岩波書店の創立者の墓や、太田瑞穂、川田順、田村俊子といった詩人・歌人の墓もあり、それぞれにとても印象深いものがあります。近くの円覚寺にも開高健の大きな墓もありますが、太陽が燦々と照る下の大きな墓所より、この東慶寺や、京都の法然院の谷崎潤一郎の「空」と「寂」と刻まれた二つの石がさりげなく並んでいる、静かな墓所の方が、その人を偲ぶには適しているように思います。
 何故このようにお墓に魅せられるのかと考えて見ますと、其処には、長い歴史の中で確かに生きていた人の偉大さや、心を打つ何かを感じることが出来るからではないでしょうか。充分な知識もなく、良く理解しているわけではありませんが、それでもその人のお墓の前に立っているというだけで、身震いするような厳かな気分に浸れるのです。
 高野山の数多くのお墓の中で一番大きなお墓は、徳川二代将軍秀忠の正室お江(ごう)の方のお墓です。本当に見上げるほど高く、将軍秀忠の妻を思う気持ちが良く表れていると察しられて、お墓を建てた人の気持ちまで伝わってきます。
 仙台の伊達政宗の瑞鳳殿、ここは輝くばかりの御霊屋ですが、君主の後を追って、切腹した重臣の墓がズラリと両側に並んでいて、胸が痛みました。取り分け重臣に仕える家臣までも切腹していて、主人の墓の脇に、今もそっと従っている有り様は涙を誘います。
 米沢市の上杉家廟所のずらりと並んだ同じ形の歴代藩主の墓も、誰一人いない静かな空間でした。またその妻達の墓は、別の場所の木陰に静かに点在し、知恩院の千姫のお墓、大徳寺の細川ガラシャの墓など、夫人達もそれぞれに、後の人達によって祭られており、悲しい運命を生きなければならなかった戦国時代の女性の悲劇を思う時、矢張り込み上げてくるものがあります。
 それに萩や山口市にある毛利氏の大規模な墓園と、大内氏の本当にささやかなお墓、いずれ劣らぬ権勢を誇っていた者達が、時代の流れと権勢の逆転によって、現代になって見ると、歴史の非情さも伝わってきて、盛者必衰のことわりを身に沁みて感じます。
 お墓というものに対して、最近ではあまり拘らない習慣が出来てきているようですが、私たち家族としては、先祖を敬い毎年何回も我が家と私の実家のお墓にお参りにいきます。
 京都の智積院には我が家の、東本願寺には実家の祖先の納骨がしてありますので、今春元気な内に最後になるかも知れないお参りを計画しています。
 DNAを引き継いで、現在を生きているということは、紛れもなく遥か昔から長く続いて来た祖先のお陰です。その人々に守られて今が在るという感謝と、生きていればこそ巡り会えた先人のお墓に 、思いを巡らせつつ立春を迎えています。

階(きざはし)に礼装の門衛二人立ち御所に千年の春流れゆく(実名で某誌に掲載)

「寂」と「空」谷崎眠る法然院苔むす茅の山門に雨(あずさ)

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