今年も僅かになりました。世界的に気象の変動が激しく、幾多の災害がありました。その度毎に助け合いの精神が、行政にも住民にも次第に行き渡ったようで、災害が発生すると直ちに避難所が開設され、食べ物が支給されます。これにボランティアの人達が加わり、一人一人の手に速やかに食べ物や生活必需品が手渡されるようになりました。有り難いことです。
不満な点に目を向けると、援助が遅かったとか、復興が遅れているとか、様々な事もあろうかと思いますが、兎に角飢えや、雨や風から守られて温かく眠りにつけることは、開発途上国の現状を見聞きする度に、そして先の大戦後の生活状態を考えると、本当に嘘のような現状です。
あの頃は、親が亡くなった為に住む家も無く、靴磨きで命をつなぐ子供も多くいました。敗戦で諸外国から祖国に還る人達も、栄養失調と疲労で、帰る途中で亡くなったり、途中で帰ることを諦めざるを得なかった人もいました。(「流れる星は生きている」藤原てい著より)
シベリアに抑留された人達が、苛酷な労働に駆り出され、命を失ったりした人々の凄惨な実情が、最近もテレビで放映されました。
私達は過去に学び、不幸の連鎖を断ち切り、自分の現在の幸せを、少しでも分け合って行けたらと、年末に当たりこの一年を省みて思うのです。
私達家族は、毎年大きな災害があると、僅かですが出し合って義援金を送るのですが、今年はエボラ出血熱が世間を不安に陥れましたし、未だワクチンの開発も出来ずにいることや、特別にエボラ出血熱の緊急募金がなされていることを知り、「早くこの病から解放されるように」と家族で話し合って、今年の締めくくりに、この願いを形にしたいとユニセフに寄付をしました。
ふるさとから送られて来た、毎年行われている短歌大会の冊子に、「抑留死の戦友(とも)の名四万六千余 紙碑に刻みて夫は今病む」という歌がありました。シベリヤから帰還されて、病に伏せっている夫を介護しておられる人の歌なのでしょう。また、私の友人は、お父上の生死が不明のままに、とうとうシベリヤから帰還されず、母子二人で過ごされ、後に結婚されて子供さんにも恵まれましたが、そのような運命を背負った人達も数多かったと思います。思いを巡らせると本当に胸が痛みます。
私は、日々家族や地域の人達に見守られて、寒さや暑さからも身を守り、家族揃って平和で穏やかに過ごせる幸せを持っています。全ての人々が、人間らしい生活が出来る環境を作り出す為に、小さくてもこの有り難さのご恩返しの行動をしたいと、願わずに居られない気持ちになります。
自己満足に過ぎないのでは、という恥ずかしいような気持ちになることもありますが、「マザー・テレサ」が言われた「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴がなければ大海は成り立たないのです」「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに大きな愛を込めることは出来ます」というお言葉に励まされて、ささやかですが愛を込めて、一滴の水になりたいと思うのです。
日頃から志の高い人は、それなりにこの世を去る迄に様々な努力をしたり、未来を生きる人々の為に希望の種をまいて逝かれます。
今年亡くなられた俳優の菅原文太さんのまいた種について、日本経済新聞の12月2日の記事に「妻菅原文子さんの話」として、次のような文章が載っていました。
7年前にぼうこうがんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格別に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人になった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
恩義ある方に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにおわび申し上げます。
私はこの文章を読んで、戦争の時代から幾多の災難や苦難を乗り越えて、生きて来られた人が、現在の立ち位置に立って、これから先を生きる人々の為に「何か役立つことをしよう」と、種をまき続けられた偉大さ、そして祖霊になられても未だに生者と共に有るという、魂の存在を信じて、将来の日本のために願い続けておられるということに、深い尊敬の念と感動を覚えたのです。
私の残りの時間がどのくらいか、それは誰にも解らないことですが、私にも小さな種をまき続けることが出来るとしたら、それは何だろうと考え込んでしまいます。「この拙文のどこかから一粒の種が育ったらどんなに嬉しいだろう」と夢見る心地で、今年のブログの最後とさせて頂きます。
今年も恥じもせずに、思ったことを書き続けましたが、読んで頂いた皆様に心からお礼を申し上げます。いろいろご批判もあると存じますが、コメントを受ける設定にする勇気がなく、申し訳なく思っています。
どうぞ皆様が健康で良い新年を迎えられることを、心からお祈り申し上げ、同時に来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
樺太の真岡の悲劇語りし後夫は黙せり父母すでに亡く(某誌に掲載)
不満な点に目を向けると、援助が遅かったとか、復興が遅れているとか、様々な事もあろうかと思いますが、兎に角飢えや、雨や風から守られて温かく眠りにつけることは、開発途上国の現状を見聞きする度に、そして先の大戦後の生活状態を考えると、本当に嘘のような現状です。
あの頃は、親が亡くなった為に住む家も無く、靴磨きで命をつなぐ子供も多くいました。敗戦で諸外国から祖国に還る人達も、栄養失調と疲労で、帰る途中で亡くなったり、途中で帰ることを諦めざるを得なかった人もいました。(「流れる星は生きている」藤原てい著より)
シベリアに抑留された人達が、苛酷な労働に駆り出され、命を失ったりした人々の凄惨な実情が、最近もテレビで放映されました。
私達は過去に学び、不幸の連鎖を断ち切り、自分の現在の幸せを、少しでも分け合って行けたらと、年末に当たりこの一年を省みて思うのです。
私達家族は、毎年大きな災害があると、僅かですが出し合って義援金を送るのですが、今年はエボラ出血熱が世間を不安に陥れましたし、未だワクチンの開発も出来ずにいることや、特別にエボラ出血熱の緊急募金がなされていることを知り、「早くこの病から解放されるように」と家族で話し合って、今年の締めくくりに、この願いを形にしたいとユニセフに寄付をしました。
ふるさとから送られて来た、毎年行われている短歌大会の冊子に、「抑留死の戦友(とも)の名四万六千余 紙碑に刻みて夫は今病む」という歌がありました。シベリヤから帰還されて、病に伏せっている夫を介護しておられる人の歌なのでしょう。また、私の友人は、お父上の生死が不明のままに、とうとうシベリヤから帰還されず、母子二人で過ごされ、後に結婚されて子供さんにも恵まれましたが、そのような運命を背負った人達も数多かったと思います。思いを巡らせると本当に胸が痛みます。
私は、日々家族や地域の人達に見守られて、寒さや暑さからも身を守り、家族揃って平和で穏やかに過ごせる幸せを持っています。全ての人々が、人間らしい生活が出来る環境を作り出す為に、小さくてもこの有り難さのご恩返しの行動をしたいと、願わずに居られない気持ちになります。
自己満足に過ぎないのでは、という恥ずかしいような気持ちになることもありますが、「マザー・テレサ」が言われた「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴がなければ大海は成り立たないのです」「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに大きな愛を込めることは出来ます」というお言葉に励まされて、ささやかですが愛を込めて、一滴の水になりたいと思うのです。
日頃から志の高い人は、それなりにこの世を去る迄に様々な努力をしたり、未来を生きる人々の為に希望の種をまいて逝かれます。
今年亡くなられた俳優の菅原文太さんのまいた種について、日本経済新聞の12月2日の記事に「妻菅原文子さんの話」として、次のような文章が載っていました。
7年前にぼうこうがんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格別に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人になった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
恩義ある方に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにおわび申し上げます。
私はこの文章を読んで、戦争の時代から幾多の災難や苦難を乗り越えて、生きて来られた人が、現在の立ち位置に立って、これから先を生きる人々の為に「何か役立つことをしよう」と、種をまき続けられた偉大さ、そして祖霊になられても未だに生者と共に有るという、魂の存在を信じて、将来の日本のために願い続けておられるということに、深い尊敬の念と感動を覚えたのです。
私の残りの時間がどのくらいか、それは誰にも解らないことですが、私にも小さな種をまき続けることが出来るとしたら、それは何だろうと考え込んでしまいます。「この拙文のどこかから一粒の種が育ったらどんなに嬉しいだろう」と夢見る心地で、今年のブログの最後とさせて頂きます。
今年も恥じもせずに、思ったことを書き続けましたが、読んで頂いた皆様に心からお礼を申し上げます。いろいろご批判もあると存じますが、コメントを受ける設定にする勇気がなく、申し訳なく思っています。
どうぞ皆様が健康で良い新年を迎えられることを、心からお祈り申し上げ、同時に来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
樺太の真岡の悲劇語りし後夫は黙せり父母すでに亡く(某誌に掲載)