ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

一滴の水・一粒の種

2014年12月28日 | 随筆・短歌
 今年も僅かになりました。世界的に気象の変動が激しく、幾多の災害がありました。その度毎に助け合いの精神が、行政にも住民にも次第に行き渡ったようで、災害が発生すると直ちに避難所が開設され、食べ物が支給されます。これにボランティアの人達が加わり、一人一人の手に速やかに食べ物や生活必需品が手渡されるようになりました。有り難いことです。
 不満な点に目を向けると、援助が遅かったとか、復興が遅れているとか、様々な事もあろうかと思いますが、兎に角飢えや、雨や風から守られて温かく眠りにつけることは、開発途上国の現状を見聞きする度に、そして先の大戦後の生活状態を考えると、本当に嘘のような現状です。
 あの頃は、親が亡くなった為に住む家も無く、靴磨きで命をつなぐ子供も多くいました。敗戦で諸外国から祖国に還る人達も、栄養失調と疲労で、帰る途中で亡くなったり、途中で帰ることを諦めざるを得なかった人もいました。(「流れる星は生きている」藤原てい著より) 
 シベリアに抑留された人達が、苛酷な労働に駆り出され、命を失ったりした人々の凄惨な実情が、最近もテレビで放映されました。
 私達は過去に学び、不幸の連鎖を断ち切り、自分の現在の幸せを、少しでも分け合って行けたらと、年末に当たりこの一年を省みて思うのです。
 私達家族は、毎年大きな災害があると、僅かですが出し合って義援金を送るのですが、今年はエボラ出血熱が世間を不安に陥れましたし、未だワクチンの開発も出来ずにいることや、特別にエボラ出血熱の緊急募金がなされていることを知り、「早くこの病から解放されるように」と家族で話し合って、今年の締めくくりに、この願いを形にしたいとユニセフに寄付をしました。
 ふるさとから送られて来た、毎年行われている短歌大会の冊子に、「抑留死の戦友(とも)の名四万六千余 紙碑に刻みて夫は今病む」という歌がありました。シベリヤから帰還されて、病に伏せっている夫を介護しておられる人の歌なのでしょう。また、私の友人は、お父上の生死が不明のままに、とうとうシベリヤから帰還されず、母子二人で過ごされ、後に結婚されて子供さんにも恵まれましたが、そのような運命を背負った人達も数多かったと思います。思いを巡らせると本当に胸が痛みます。
 私は、日々家族や地域の人達に見守られて、寒さや暑さからも身を守り、家族揃って平和で穏やかに過ごせる幸せを持っています。全ての人々が、人間らしい生活が出来る環境を作り出す為に、小さくてもこの有り難さのご恩返しの行動をしたいと、願わずに居られない気持ちになります。
 自己満足に過ぎないのでは、という恥ずかしいような気持ちになることもありますが、「マザー・テレサ」が言われた「自分がしていることは、一滴の水のように小さなことかもしれないが、この一滴がなければ大海は成り立たないのです」「自分は、いわゆる偉大なことはできないが、小さなことの一つに大きな愛を込めることは出来ます」というお言葉に励まされて、ささやかですが愛を込めて、一滴の水になりたいと思うのです。
 日頃から志の高い人は、それなりにこの世を去る迄に様々な努力をしたり、未来を生きる人々の為に希望の種をまいて逝かれます。
 今年亡くなられた俳優の菅原文太さんのまいた種について、日本経済新聞の12月2日の記事に「妻菅原文子さんの話」として、次のような文章が載っていました。
 
 7年前にぼうこうがんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
 「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種をまいて去りました。一つは、先進諸国に比べて格別に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人になった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
 恩義ある方に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにおわび申し上げます。

  私はこの文章を読んで、戦争の時代から幾多の災難や苦難を乗り越えて、生きて来られた人が、現在の立ち位置に立って、これから先を生きる人々の為に「何か役立つことをしよう」と、種をまき続けられた偉大さ、そして祖霊になられても未だに生者と共に有るという、魂の存在を信じて、将来の日本のために願い続けておられるということに、深い尊敬の念と感動を覚えたのです。
 私の残りの時間がどのくらいか、それは誰にも解らないことですが、私にも小さな種をまき続けることが出来るとしたら、それは何だろうと考え込んでしまいます。「この拙文のどこかから一粒の種が育ったらどんなに嬉しいだろう」と夢見る心地で、今年のブログの最後とさせて頂きます。 
 今年も恥じもせずに、思ったことを書き続けましたが、読んで頂いた皆様に心からお礼を申し上げます。いろいろご批判もあると存じますが、コメントを受ける設定にする勇気がなく、申し訳なく思っています。
 どうぞ皆様が健康で良い新年を迎えられることを、心からお祈り申し上げ、同時に来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 
樺太の真岡の悲劇語りし後夫は黙せり父母すでに亡く(某誌に掲載)

私の三得

2014年12月21日 | 随筆・短歌
 最近はレトルト食品が多く出回り、電子レンジの普及と相まって、誰にも簡単に食事の仕度が出来るようになりました。
 独身者や高齢者はもとより、災害時の非常食、海外で暮らす日本人の郷愁を支え、外国人にまで料理法を広め、はては宇宙食に到る迄、幅広く普及して、多くの人に利用されるようになりました。最近のそれらは、有名なホテル食のように、中々味も香りも高品質になって来ているようです。
 人々が今迄あまり使ったことの無いスパイスが入っていたり、マヨネーズのように、塩分や脂肪分が控えられてきたり、不要な食品添加物を控えたり、栄養学的にも日進月歩していると言えそうです。
 私は、なるべく料理は手作りにしています。これが私が考える三得の一つです。
 当然だと言えますが、自分の手で作ったものが、一番口に合うように思います。レシピは、もう十数年もかかって、4冊に分けたレシピ綴りを作りました。インデックスで分類して、さらに材料別や調理方別にして、纏めてあります。
 又、全て我が家の家族の食べる量になっていて、例えばカツ丼やオムライスの卵も人に依って異なりますし、お寿司やピラフも米をとぐ時間が違いますから、重要なものは時刻もレシピにメモしてあります。これが結構役立って便利です。
 様々な新聞や雑誌から目についた切り抜きも、ネットで検索したレシピも加えて、作る度毎に手を入れ、家族の好みの分量と味になっています。レシピに指示された時間通りに作れば、何時も同じ時間に同じ味の料理が出来上がります。作る度に気が付けば少しずつ改良して、今日に到ったレシピ集は私の宝物になっています。
 この三得とは、
 1)献立を立て、買い物メモをつくるので(普通は、1週間先まで)時間や経費の節約になる。
 1)材料や微妙な調味料、オーブンの加熱時間なども書いてあり、無駄なくスムーズに出来る。失敗しない。  
 3)頭を使うので呆け防止になり、創造性が刺激されて、料理のレパートリーが増え、楽しく、ストレス解消になる。  よく、認知症の人は料理が出来なくなるとか、片付けが出来ず、ゴミ屋敷になる、と言われます。料理が終わったら、すっかり片づけて「元のキッチンより綺麗に」を心がけています。
 新しい献立の場合は、前の日のうちに、レシピを透明なファイルに差し込み準備します。買い物忘れを防ぎ、大まかな手順を記憶して、当日は料理に取りかかる時間をタイマーにセットするのです。終わるとレシピを直ぐに元の場所に整理します。定位置にしっかり戻さないと、次回に使うとき見当たらず困ることになります。
 一年に一回くらい、もう使わなくなったと思うレシピを捨てて、整理します。様々な料理の本や、ネットで印刷したものなどから、残したいものをファイルに納めます。タイマーが鳴ると私が何かをすることになっていて、居場所を離れていても呼んでくれるか、私が首にタイマーを下げて移動しています。
 餃子やパスタのソースなど、冷凍庫に作り置き出来るものは大目に作って、使い安いように小分けして冷凍しています。その為家族数に似合わない大型冷蔵庫を備えています。
 
 第2の三得は、スポーツジムに通う事です。これは今迄の体験から、是非お勧めしたいものです。毎日のウォーキングに加えて、私のようにたった週2回でも、ジム通いすれば、どれ程か健康寿命が延びて、活動的に老後を過ごせると思います。
 私自身は子供の頃からの負けず嫌いのせいか、体育が苦手でした。でもジムでの運動はとても楽しく、何故こう運動に親しむのか、不思議に思います。高齢になってから傷めた背骨や膝なども、薬は飲まず、全てスポーツジム通いで治したと思っています。とても有り難い施設です。
 このような施設は、全国の自治体が支援して作り、未病対策にして欲しいと思っています。病気は健康保険を使うので、結果的に国民の血税を使い、病人も苦しみます。スポーツジムは、費用を自己負担して健康を保ちます。運動は体の筋肉を鍛え、臓器の活動を活発にしてくれますし、更に大切な効果として、 他人と話しが出来るので、脳の活性化につながり、認知症予防に役立つということです。現在独身の人も毎日規則正しく通い、自立した生活をして居られる人がいて、良いことだと感心しています。
 私よりも年上の人達が、爽やかな挨拶を交わし、体力に合わせて足腰の痛みを軽減する運動に励んでいます。颯爽としたその姿を見ていると、つい私まで引き込まれていきます。 
 男性には、弧独を愛する人が多いようですが、黙ってジムへ来て、黙々と運動をして又黙って帰る年配の人も居られます。それでも心身の健康維持に、大いに役立つていると思っています。
 スポーツジムの効果は、単に肉体の鍛錬だけでなく、精神衛生の上での役割が、とても大きいと感じています。行政も様々な手立てを講じていますが、更に老化予防の方法としても、是非小さな町にも、出来たらこのような施設があるように願っています。
この場合の3得は、 
 1)外出して気分を変え、他人と話しをすれば、精神衛生維持や、認知症の予防になる。
 2)筋力の衰えを防ぎ体力を補い、最後まで自分の足で歩けることが期待できる。
 3)プログラムを好みに合わせて選び、機械類も体力に合わせて少しずつ上げたり、年齢によってレベルを下げたりして、   楽しみながら細くとも長くジムに通って、最後迄QOL(生活の質)を高く保つ。
 どうでしょう。「私の年では」と尻込みしないで、来年こそは、思い切って試してみて下さい。きっと楽しく、生き甲斐が生まれて、私のいうことも納得出来ると思っています。



木喰仏(もくじきぶつ)に出会う旅

2014年12月10日 | 随筆・短歌
 秋の日差しの穏やかな日に、遠距離でしたが夫と二人で、木喰仏に会いに出掛けました。今年の2月には、もう細部に渡って計画表が出来ていたのですが、やっと暇を見つけて予約し、出掛けて来ました。 
 この仏を彫った木喰上人は、江戸時代後期( 1718年~1810年)の仏教行者・仏像彫刻家です。私達が拝観した木喰仏は、みな微笑んでいます。微笑仏とも言われていますが、確かにみな思い思いの姿をし、微笑んでおられました。
 目が笑っている、大きめの鼻も分厚い唇も、豊かな二重顎も、胸の厚みも、全てが温かく微笑んでいる。耳に手を当てて首を傾けている如意輪観音、小さな赤ちゃんをしっかりと抱いた子安観音等、幾つもの観音像が満面に笑みを湛えてズラリと並んでいらっしゃる。それは荘厳でもあり、力強い迫力でもありました。説明して下さる方のお話に耳を傾けているうちに、何ともいえない温かな安らぎに満ちてくるから不思議です。心ゆくまでゆっくり拝観させて頂きました。
 仏教者として守るべき規律を戒と言い、木食戒の「木食」とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち(穀断ち)、山菜や生の木の実しか口にしないという戒律です。塩や味噌、醤油などの調味料も断つのだそうです。
 古来、木食上人と呼ばれた人物は他にも複数おり、豊臣秀吉に重用され、高野山の復興に尽力した木食応其(もくじきおうご)上人は中でもよく知られているそうです。木喰仏の作者である木喰上人の場合は、「口へん」の「喰」の文字を使用しますから、他の「木食上人」と区別が容易だそうです。
 木喰仏は、みな彫刻しやすく何処にでもある銀杏の木を材料として、彫ってあります。北は北海道から南は九州に到るまで、旅を続けられて、その土地土地で彫った仏像が、お寺に納められて、一体のところもありますが、数体とか、数十体とか、逗留期間が長ければ数も多かったようです。長い年月に四散したりしましたが、現在残っているものは、みな文化財の指定を受けたりして、大切に保存されているようです。
 私達夫婦が拝観して来たところにも、三十数体がありました。書き残されている資料を元に、滞在日数等から推し量ると、短い間に数多く彫っていて、材料の下ごしらえや、一日に彫りあげる速さなどを考えて割り出すと、お弟子さんも少なくとも下彫りされたと考えられるし、村人達も木材の切り出し乾燥等協力されたのではないか、と保存しておられるお寺でお聞きしました。荒削りの部分もありますが、すべすした彫刻の木肌部分を見ると、心を込めてつくられているのが解ります。
 微笑仏といわれるだけあって、笑顔が本当にやさしく、温かく、身近に感じられる仏様でありました。奈良や京都の名のある国宝の仏の神々しさとは対照的で、庶民的なお顔や仕草をしておられましたが、一木造りの、一体一体の笑顔がみな異なっていて、不自然でなく、ふくよかなお姿は、私達のような素人にも、何とも言えない温かみを感じさせて頂き、有り難い一日でした。
 以前見た荒削りの円空仏には、激しい、或いは厳しい仏教への修行の心のようなものが感じられ、目鼻やお姿も判然としないものもあり、それだけに一心不乱というか、突きつめた思いが感じられますが、この木喰仏は対照的に、豊かな愛情さえ感じられます。
 どちらが良いか、などと一概に言えないですが、それぞれの良さを感じながら満足して帰りました。
 聞くところによりますと、み仏の大きさは、人間の実物大の大きさに似ているのだそうです。座っておられるものが多いのですが、確かにそんな感じでした。しかし、大きな放射状に彫られた光背と大きなお顔と、笑っているお姿に、グッと心を掴まれて思わず引きこまれてしまいます。
 木喰上人の自刻像というのが中央にあって、三日月型の細く長い笑った目があり、大きな口にも笑みを湛えて、顎には長いひげがありました。如何にも好々爺のようで、眺めていて飽きません。
 毎年大晦日は、法隆寺で過ごされたと聞く、今は亡き立松和平が、真言僧、木喰行道として、次のように触れて紹介しています。

 「諸国を遍歴し、各地に微笑仏を残した木喰行道は、真言僧である。木喰戒とは(中略前出)何故こんなことをしたかというと、人々と苦しみを共にするために、生きながら餓鬼道に堕ちたのである。
 木喰は諸国遍歴をしながら、和歌らしきものを詠んでいる。時に稚拙さもまじるのだが、心の内が案外率直に表白されている。
 
 木喰のけさや衣はやぶれても
まだ本願はやぶれざりけり

 いつまでかはてのしれざるたびのそら
いづくのたれととふ人もなし

 木喰もしを(塩)みそ(味噌)なしにくふかい(空海)の
あじ(阿字)の一字の修行なりけり」
(註 阿という文字は梵語の最初の文字、第一母字で、真言密教にとって大切な文字です。あずさ)

 まさしく真言宗の僧としての修行の旅であったようです。
木喰上人が日本全国を修行して回る旅に発ったのは、木食戒を受けてから10年以上たった58才であり、初めて仏像を彫ったのは、61才のときだと言われているそうです。北海道から弟子の木食白道と、故郷に安住することなく、91歳まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっているといいます。木喰が消息を絶ち故郷の遺族にもたらされた記録によれば、93歳でこの世を去ったようです。
 木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられているそうです。私達もいつか、出来たら山梨県身延町で、円熟した90数体の作品や弘法大師像などを見たいものだと思っています。
 
微笑する唇厚きみ仏の慈悲深き額(ぬか)に紅葉色映ゆ(あずさ)

荒削りの円空仏も虫食いとなりてますます慈悲深くなる(某紙に掲載)

坂村真民の詩集から

2014年12月01日 | 随筆・短歌
 坂村真民という詩人をご存知の方は多いかと思います。1909年に熊本県に生まれ、教職にあった人であり、2006年に亡くなられる迄に多くの詩を残しました。やさしく解りやすい詩で、生きてゆく人間にとって、心のより所となる詩です。このブログでも折々掲載させて頂きました。
 私がこの人の詩に出会ったのは、鎌倉の円覚寺のホームページでありました。現在日本仏教会の副会長をされている、鎌倉の円覚寺管長の横田南嶺老師が、折りに触れて法話などで紹介されています。
 以前から私は「人間だもの」を書いた相田みつをが好きで、何度も読み、彼の著作集を愛読書にしていました。
 しかし、インターネットで、横田南嶺老師の「日曜説法」やブログで、度々坂村真民の詩をお聞きしたり拝見して、心を打たれてすっかりファンになりました。南嶺老師の日曜説法は、特別の行事が無い限り、毎月第2第4の日曜日に行われ、それがネットで聞かれるようになっています。今では円覚寺の会場に入りきらない人たちが、遠くからも集まっているそうです。
 横田南嶺老師については、去年鎌倉の東慶寺から円覚寺へ行った時のことをこのブログに書きましたが、その日は、たまたま開祖の無学祖元の忌日に当たり、目の前に南嶺老師の後ろ姿を拝見して、とても感動しました。ブログ「居士林だより」をお気に入りに入れて毎日読んだりお聞きしたりしています。
 すっかり心を捉えられた坂村真民の詩集「念ずれば花ひらく」(サンマーク出版)という詩集を中心に、幾つかをご紹介しつつ、今回は進めていきたいと思います。
 先頃高倉健さんが亡くなられ、今日もテレビでは、追悼番組を放映しています。夫も録画しました。

 花    坂村真民

花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びが残るのだ 

 高倉健さんに対しても同じように思われます。重厚な演技を通して、高倉健のイメージを観衆の脳裏に焼き付けて、静かに去っていかれました。演技派俳優として、大勢の人々に惜しまれつつ、逝かれたことに、深い喪失感を覚えています。素晴らしい演技を通して、多くの感動を頂きました。ご縁に感謝して、ずっとファンでいたいと思います。

「一道を行く」坂村真民一日一言(致知出版社)12月の表紙
12月3日 いきいきと生きよ

「生きている間は、いきいきとしていなさい」これはゲーテの言葉のなかで、もっとも好きな言葉だが、仏教渡来以前の日本人は、本当に明るくいきいきと生きていたのであろうと思う。私はそういう人が好きである。(中略)
もう一つの好きな言葉を挙げておこう。「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」

私はこれを読んで、とっさに落ちこぼれそうな気がしました。でも良く考えてみると、皆そうして生きているのですね。あしたは必ず来ると、約束それているものではありませんから。

あるがままに 坂村真民  「念ずれば花ひらく」から、以下も同じ

才なき人は才なきままに
処するのがよい
花にたとえるなら侘び助のように
鳥にたとえるならみそさざいのように
おのれの花を咲かせ
おのれの歌を歌い
嘆かず訴えず
なにごともあるがままに
生きるのが一番よい

 我が家の玄関脇の侘び助も、今が盛りです。義母が「淋しそうな花だけれども、良い花ね」と咲く度に私に言っていました。土曜日のフイットネスの帰りにふと思い出し、一枝折って小さな花瓶に挿して仏前に供えました。侘び助は、一輪差しに、まだ咲き始めの一輪のみを挿すのが、一番だと思います。

一輪の花のごとく 坂村真民

わが生よ
一輪の花のごとく
一心であれ

我が死よ
一輪の花のごとく
一切であれ      

今を生きる    坂村真民

咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる    

 私も今を生きていますし、一日に多分何度も「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言います。「行ってらっしゃい」よりも、無事に帰ったことを確認出来る「お帰りなさい」の言葉が好きです。朝は夫のゴミ捨てに出る時、帰った時、から始まって、家族が出掛ける度に、行き帰りに掛ける言葉です。土曜日は、フイットネスの帰り道で、名前は知らないけれど、何時も出会う、笑顔のとても優しい人とのすれ違いに、この言葉を掛けました。
 人生は無常ですから、いつ別れが来るか、誰にも解りません。ですから、無事に帰って来たことに、ホットして掛ける「お帰りなさい」という言葉に「ただいま」という言葉が返って来ますが、何気ない言葉のやりとりに、温かい心が行き来します。 
 私にも詩心があったら、坂村真民のような、温かく優しく、心の奥に届くような詩を作りたいですが、この坂村真民の詩は、仏教に深く裏打ちされていて、一遍上人の教えに心酔てしておられたと聞きました。座禅を組み、無駄な言葉を削ぎ落とした詩ですから、とても心に響きます。ですから到底私には届かない世界の人です。せめて愛読書として、折々読んで学びたいと思っています。