ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

発想を転換すれば

2013年06月20日 | 随筆・短歌
 私達は戦後の憲法で基本的人権を保障されています。民主主義の国に住み、表面的には平等の暮らしをしているように見えます。しかし、最近目につくのが、あれが足りない、これが足りない、と言って、政府や企業に要求するケースが目立つような気がするのです。
 私も日常生活の中で身の回りを振り返って考えてみたいと思います。スーパーを例に取れば「スーパーは売るのが仕事、消費者は買ってやる立場」と思っていないでしょうか。もし常日頃通っているスーパーが無かったら、と思うと、品揃えの行き届いたスーパーで気持ちよく買わせて貰っていることが如何に有り難いことか、よく解ります。 
 スーパーとしては、「買って頂く」と思い、消費者としては「買わせて頂く」と思えば、双方共に有り難く、感謝しあえます。
 卑近な例で申し訳ありませんが、私の通っているスーパーは、規模からいうと小さい方ですが、品揃えの人も、レジの人達も、とても親切で温かく、気持ち良く利用させて頂いています。スーパーの激戦区だからとばかりは言えない何かが店長をはじめとして在るようです。
 空いた時間に行った時などは、レジを通る時に、ちょっとした会話を楽しんだりします。自然に心が和みます。売る自由と権利を持つ側と、買う自由と権利を持つ側に分けてしまえば、味気ない売買関係となってしまいますが、買って頂く、買わせて頂くと言う観点から考えると、僅かな発想の転換ですが、気持ちがグッと変わります。
 バスから降りる時も、最近私達の市では、「有り難う御座いました」と降りる人が増えた気がします。私もそう言います。勿論運転手さんも「有り難うございました」と言います。乗せて頂く、乗って頂くと言う考え方に立つと当然そうなるはずです。
 犬や猫を飼うのも自由です。今から10年よりも少し前の頃でしょうか。私達の近くの道路の脇や学校などの歩道は、何時も犬の糞で汚れていて、「糞通り」と呼ばれる位でした。ウォーキングの私達はよく見て通らないといけないので、お互いに「ホラ気を付けて」と注意しあって歩いていました。ところが次第にマナーが行き届き、今では糞は殆ど見かけません。よく見ていると、犬を散歩させている人は、必ず小さなバッグなどを持ち、飼い犬が用を足すと、必ずティッシュ等で丁寧に取って行きます。もっと丁寧な人は、水をビンに持っていて、少し流して洗って行かれます。こういう人を見かけると爽やかな気分になって来ます。
 私は家の回りに犬の尿の跡があると、決まってジョーロの水を掛けてブラシで洗い流します。ついでに漂白剤を少しまいて消毒もします、すると匂いが気になるのか、暫くはその辺りで用を足すことが無くなって、綺麗な日が続きます。「犬の糞お断り」等という看板が通りのあちこちの家の角等にあったものですが、最近は少なくなって、各家の人は自分の家の前を広めに掃除や草取りをしますから、概ねは綺麗な街になりました。「このように便利で綺麗な街に住まわせてもらって有り難い」と思えるようになりました。
 一人一人が少し発想の転換をして、感謝の立場から行動すれば、こんなに気持ちの良い街になります。関西の何処かの街で、市が糞の後始末をするようになったら、糞の置き去りがかえって増えたとテレビで言っていました。糞の処理をしない飼い主は、犬を飼う資格がありません。街をゆく人々に不快な思いををさせて、平然としているモラルに欠けた人は、どの様な社会貢献をしているのでしょうか。
 日本の何処の街が綺麗で何処の街のマナーが悪いのか、私は知りませんが、少なくとも先頃旅行した、京都と金沢は綺麗でしたし、特に金澤ではおもてなしの心が伝わる親切に多く出会い、ここには敵わないと思ったことでした。きっと市民の一人一人が、来訪者に良い気持ちで帰ってもらおうという、おもてなしの基本が根付いているのだと感心いたしました。
 

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持つべきものは

2013年06月10日 | 随筆・短歌
 私の机上の本箱に、ボタニカルアートの月下美人の絵はがきがあります。柔らかいグリーンの濃淡と茶やベージユを基調とした、実に穏やかな感じの良い絵ハガキです。頂いて直ぐに気に入って、それまでの絵ハガキと差し替えて飾ってあります。
 これは私の友人の友人が私に宛てて下さったものです。人間何処でどんな人にお会いするか、全く解らず、その交わりを通して相手から何かを受け取り、少しずつ考え方や見方が変わって行きます。
 5月に、私の学生時代の友人と夕食を共にしたのですが、ご縁があって、その友人の友人とは初対面でしたが、三人で食事をし、楽しい一時をすごしたのです。私の友人はとても優しい人で、しかも人間的にも立派な人なので、その友人とあれば良い人に相違ないと期待してお会いしたのでした。期待通り知的で、奥の深い人だと思いました。ハガキを眺める度に、もっと私も人間性を高めて、自由に自然で自在な対応が出来るようになりたいと思います。
 劇的な出会いや、忘れ得ぬ出会いもあり、一方直ぐに忘れてしまうような出会いもあります。
 相手の人間性に感動して、感化される程の出会いは私にとって、とても嬉しく有り難いものです。持つべきものはそんな友人です。 長く付き合って思うのですが、こんな年になっても未だに続いている良い友達は、私の人生にかけがえのない人であり、取り分け神仏に授けて頂いたとしか、言いようがない人だと思うのです。
 5月にあった学生時代の友人は、寒がりの私の為に、マフラーを編んで持参してくれました。その友人は、以前書いた「優しい小袋」をプレゼントしてくれた人なのですが、「そろそろ傷んだでしょうから、今度はご主人と仲間に使えるように」と紫と緑の色合わせの上品な巾着も手作りしてくれたのです。
 新装なった歌舞伎座へ出掛けた時に、わざわざ私達の携帯に貼る歌舞伎座の写し金蒔絵の「鏡獅子」やその他のグッズを買う等、細やかな心配りに、私はすっかり感激したのでした。
 歌舞伎が好きでも、とても新装成った歌舞伎座のこけら落としには行けない私達の為に、良くこれ程まで気を配ってもらえた事に「持つべきものは親友」としみじみと思ったのです。
 だれがこんな粗忽なおばあさんの私と、一面識も無い夫のために、このような心の籠もったお土産を届けてくれるでしょうか。
 私は早速そのマフラーをゆったりと襟元に巻く巻き方を習い、記念写真を撮りました。
 片や「遠くの親戚より近くの他人」という言葉がありますが、自宅の直ぐ近くに住む、価値観が似通った年齢の近い友人は、大変有り難い存在です。日頃様々な情報をお聞きしたり、山へ行って来たと言っては山菜のお土産、一寸した手作りの物や頂き物のお裾分け、気兼ねなく話し合えて、お互いにこれから万一不幸にして一人になった時には助け合おうと約束している友達が数人います。
 今は、未だお互いに配偶者がいますが、誰もが一病を抱えていて、何時どうなるかは神のみぞ知るといった、相似た境遇の友人達です。新しい団地が出来た時に家を建てた人の年齢が近いので、成人した子供たちが遠くに家庭を持って暮らしていて、老夫婦のみという人が多くなっています。
 そんな人達の頼りは、遠くの子供たちよりも近くに住む友達となっても、ごく自然なことです。直ぐに駆けつけてくれるのは、矢張り近くの頼れる友人ですから。それも長い年月を近くで過ごし、年老いて日々の暮らしにゆとりが生まれてのことです。今はお若い方達も、やがて身近にそう言う友人が出来ることでしょうから、今いないから、と言って悲観しないで下さい。
 友人として、心を委ねられる人が増えてくるのは、本当に有り難いことだと思うのです。そんな周囲の人達に恵まれて、私は幸せなばあさまです。幸せだ幸せだと言っていると、更に幸せが転がり込んでくるようで、心の持ちようで、幸せに近づけるとしみじみと感じています。

 幸せは常に心に在ることに気付けば更に幸せになる(あずさ)

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