ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

発火点を高く

2010年11月28日 | 随筆・短歌
 最近とても怒りっぽくなったというか、自分では気付かないうちに気短になったらしく、夫に「直ぐにカッカと怒らないように」と言われます。政治の話題にしても直ぐに頭に血が上ってしまって、「こんなじゃ、どうしようもないじゃないの」「党利党略ばかり考えないで、もっと国家の為を考えてほしいものだわ」などと言い、一寸したニュースや新聞記事にもすぐ反応してしまいます。
 朝食を取りながらの家族の話題は、新聞やテレビのニュースが主たる話題で、侃々諤々(かんかんがくがく)になることもあり「朝食の食卓を囲ん、家族でこれ程政治について話している家はそんなに多くはないだろう」と息子が半分呆れて言います。
 他所のご家庭のことは知る由もありませんが、もしかしたらその原因の一つは主婦の私の政治への関心が強すぎるせいかもしれないと秘かに思っています。 私の母は新聞が大好きで、忙しい子育ての最中でも、新聞を隅々まで読んでいました。忙しいので何時も立ち読みしていましたが、そんな時に私が「明日遠足だから、おにぎりを作ってね」と頼んでおいても、母は「はい、はい」と答えるのですがそれは大抵上の空なのです。翌日の朝は、決まっておにぎりが出来ていません。大急ぎで作った湯気のたったおにぎりを持って出かけたものです。私は母が新聞を読み始めると、大切な話はしないように気をつけました。米寿を過ぎても、病に倒れるまで、一人で留守居をしている母のところへ話し相手に出向くと、母は良く国会中継を見ていて、「私はこの大臣が気に入っている」等と言っていました。
 父は政治的に偏ることもなく、ごく平凡な人でしたが、甥には○○議員もいて(私には従兄)確かに政治が好きなDNAの流れがあります。私のように歳を取った女性で、新聞とネットでニュースを読み、日々話題にしている人間も確かに少ないかも知れない、とこの頃自分が変人に思えてきました。
 夫の方は直接政治にかかわった親族もいますので、どちらの血を引いても息子が政治に無関心でないことも頷けます。ただ息子の場合は、政治を表面だけで捉えず、他党との関係や、諸外国との関わりの中で理解しようとする姿勢が私の及ばないところです。いつもカッカと怒る私に、解りやすくその事態が起きている原因を解説してくれますので、燃えさかった怒りの炎も簡単に鎮火してしまうのです。地元紙と中央紙(日経新聞)を購読し、それ以外にネットで中央紙の社説に必ず目を通しているそうです。私も真似をしようと思っても、中々毎日となると大変で、社説までは付いていけない状態です。
 夫は「政治そのものより、関係する各界の人物に興味がある」と言い、矢張り私より良く考えて見ています。一番無知で単純な私が一番カッカとするので、夫が「発火点をもっと高くするように」と良く言うようになりました。
 ついつい力が入って声が大きくなり「そんなに大声を出さなくても聞こえる」と言われたり、「低すぎ」「低すぎ」と言い、私の発火点が低いのを注意して、「怒る前に、どうして当事者はこのような言動を取るのか、考えなさい」と注意するのです。歳を取ると怒りっぽくなると言われます。気を付けたいと思いながら矢張り怒りっぽく、そして頑固になって来ていることに気付かされています。「歳を取っているのだから、もう少し穏やかに」と言われたり、何にでも首をつっこみたがる私を注意しますが、これも夫の愛というべきか、でも少し干渉しすぎにも思えます。
 雑談ばかりになってしまいました。政治も程々にして、発火点を高くすることに矢張り気をつけてないといけないと感じています。多くのお年寄りは、それなりに穏やかに暮らしておいでのようです。私も見習わないといけません。
 毎日起きる様々な悲しい出来事を新聞やテレビで見ていますと、もう少し人間が自己本位の我欲を減らして、お互いを思いやる温かい心を持ったら、この地球ももっともっと住み安くなるのにと思います。けれどもそんな気持で政治のニュースを見ると、またしても発火点が低くなってきてしまうのです。

霜月の蒼き月光(つきかげ)我を射て秘めたる怒り湧き上がりくる(某誌に掲載)
ほのかなる香(かう)のかほりの路地に流れ独り居の媼(おうな)健やからしき 
                                     (某誌に掲載)

 

裁判員裁判の死刑判決によせて

2010年11月21日 | 随筆・短歌
 今回裁判員裁判で初の死刑判決が出ました。私は以前書きましたように、死刑は極悪非道な犯罪を抑止する為に、不本意ですが必要だと思っています。ですから、今回のように、他人のお金や利権を奪う為だけの殺人であり、しかも生きたまま電動ノコギリで首を切るなどどいう人間性のかけらも見られない残虐非道なやりかたで、被害者に苦痛と恐怖と死を与えた犯人は、死刑にあたいすると思っています。
 過去に起きた殺人罪とその量刑を考えてみますと、一般的に死刑の判断基準は、一人の殺人には無期懲役、二人以上は死刑で、それに動機の卑劣さや、殺し方の残虐性、本人の生い立ちや心身の状態等が加味されて決められているように思われます。
 今回の場合は、永山規準9箇条に照らしても、どう検討しても死刑が妥当なように思いますし、裁判員の方の判断は正しかったと思っています。そこまでは何の異存もないのですが、どうにも納得出来ないのが、裁判長が判決の後で被告人に控訴を勧めたことです。 これはどういうことなのでしょう。一つには、自分の下した判決に自信がなく、もっと上級の裁判所で判決を出して貰いたいという意味に受け取られます。もしそうだったら、このような自信の無い裁判長が恐る恐る出す判決には、被害者遺族も我々国民も更には被告人すら納得出来ないでしょう。もはや此処までくると裁判官としての資質が不足していると言わざるを得ません。
 もう一つの見方としては、ある新聞に載っていたように、裁判員の判決をためらう心を汲んだものかも知れませんが、もしそうだったら、尚更毅然とした裁判長の自信に満ちた判決の言い渡しの方が、かえって裁判員は救われたのではないでしょうか。
 もう一つ気になることは、裁判員に成られた方は、死刑を決定することは合法的ではあっても、人を一人殺すことに関わる訳ですら、法律による結論だとはいっても、心ある人間として今後長きにわたって苦悩されるのではないかと案じられます。しかし、この国の秩序を守る為にそう決断せざるを得なかっのですから、その人達の辛い心情に同情を禁じ得ないと同時に、その勇気に敬意を表したいと思います。
 裁判員はみな法律には素人です。普通の暮らしをしている市民です。判決の重さに堪える教育も訓練も成されて来た訳ではなく、この方達のこれから背負っていかなければならない心の荷の重さを推し量ると、せめて国としては、カウンセリングを受けたい人には、充分な配慮をしていただきたいと思うのです。耳学問ですが、5回まではカウンセリングが無料とか。しかし、心の病は5回のカウンセリングで回復するとは考えられません。
 私としては、せめて死刑のような重い判決となるかもしれない裁判は、裁判員裁判から除いていただきたいと思っていますが、皆さんはどうお考えでしょうか。そうでない場合でも必要に応じて、心のケアに手厚い配慮をして欲しいと心から願っています。
 ある新聞では守秘義務を軽くせよ、とありましたが、もし裁判員の誰が死刑賛成で、誰が反対だったか、など報道されたら、裁判員にも被害が及ぶことも考えられ、法制度そのものが揺らぎかねません。
 公務員も医師も様々な人達が守秘義務を負っていて、一般の市民さえ、義務ではないけれど、他人にとって不都合な情報を聴いても、自分のところでストップして流さないように気を付け、お互いに穏やかに暮らすよう、それぞれの皆さんが努力しているのです。
 報道の手法が進み、私達は様々な事件を直ぐに識ることが出来ますが、昔は識らなかったことが解るようになったばかりでなく、事件そのものが増えていると言えます。
 安全安心な国家を、と様々な人達が願い私もそう願っていますが、世界を眺めてみても日本ほど安全度の高い国も少ないようです。しかし、心のケアとなると少なからず遅れているのではないでしょうか。
 鬱病がようやく一般の人達にも認知されてきましたが、年間3万人を越す自殺者の多くは、鬱病が原因だと言われています。これは交通事故で亡くなる人5000人余りに比べて特段に多い数です。まだまだ心の病の治療も追いつきませんし、人々の理解も足りないように感じてなりません。
 お互いに身近な人の悩みを聴いてあげたり、そのこころを良く理解してあげられたら、それが悩みの解決につながったり、自信を持つきっかけになったり、ひいては犯罪抑止に寄与するようになるのではないかと、常々思っています。その為にも周辺の人々との人間関係がもっともっと近づかなければ不可能でしょう。それにはどうしたら良いかと考えると、私の思考は何時もそこでストップしてしまうのです。

黄昏れて強くなりにし風雨なり背負いしものの重さいや増す (某誌に掲載)
負いたるは重き運命(さだめ)ぞだがしかし背負えるはずと神の与えし (再掲)
名も知らぬ誰かが誰かと助け合う温さに満ちし国でありたき (再掲)

父と私そして大原美術館

2010年11月14日 | 随筆・短歌
 先日ある新聞に「大原美術館 創立80周年 よりすぐりの所蔵品並ぶ」という記事が載っていました。私の心の奥に、この大原美術館が静かに息づいていました。
 父が子供の教育の為に山林の多くを伐採してしまいましたので、山林の復活の為に杉の植林に退職後の全てを打ち込みました。戦後の農地解放にあわなければ、何もしなくても暮らして行けたのですが、田畑はすっかり解放されてしまって無くなりました。でも山林は解放にならず、当時は木材は高く売れたので、父は山林を切って子供達の教育をしました。「これからは、女の子も教育が財産だ」と言って、男女とも高卒後もそれぞれにふさわしい教育をしてくれたのです。
 植林作業もすっかり植え終わって一段落し、安穏の老後を送るようになった父は、母を伴って日本のあちこちに、幾日かかけては旅行に出かけました。キャッシュカードもない時代でしたから、現金の他に郵便貯金の通帳を持って、必要に応じて、旅先の郵便局で下ろしていました。もう40年以上も前のことです。 
 南は、鹿児島県の枕崎まで行って、温泉の砂風呂に入り「珍しかった」と母が浴衣を着て砂を掛けて貰ったことを後々までも喜んでいました。 
 木が好きな父は、四国最南端の南国の樹木に驚いたり、高松の栗林公園に栗の木が無かったと(栗林というからには栗の木があるだろう、我が家の栗の大木に比べてどうだろうと思ったようです)残念そうだったことが記憶に残っています。その後私達も行きましたが、立派な松のある見事な大規模の回遊式庭園だったので、父の期待が外れたのを想い出して、おかしがったり気の毒でもあったことを記憶しています。
 一番下の妹が未だ結婚していなかった頃には、島根の出雲大社まで良い縁に恵まれますようにと、お詣りに行ったといいます。京都や奈良は勿論ですが、九州から東北まで、何度も、何度も旅行をしています。ただ北海道へは行かなかったので、父が亡くなってから、弟が母を北海道と沖縄へ連れていきました。
 ある時田舎の家で、父が私に「倉敷の大原美術館というところは、素晴らしい所だから、一生に一度は是非行って来なさい」と言い、「きっとだよ、後悔はしないから」と付け加えました。「倉敷にあのような素晴らしい美術館があるなんて、驚きだった」とも言い、その時の父の感動的な話を、私はずっと心の底にしまっていたのでした。
 私達夫婦も恐らく多くの皆さんのように、同居していた夫の両親を彼岸に送り、夫も退職してやっと自由になった時、一番初めにした事は、両親のお骨を京都の総本山に納骨することを、第一日目の行事としての八日間の旅行でした。
 そして、やっと念願叶って倉敷の大原美術館へ行ったのです。美観地区に白亜の美術館がありました。正面の右にロダンのカレーの市民(一体)、左に洗礼者ヨハネの像が立っていました。中には、それはそれは見事な絵画や彫刻があり、息を呑んでしまいました。印象深かったのは、エル・グレコの「受胎告知」、モネの「睡蓮」、コロー、クールベ、ルノアール、ドガ、モディリアニそしてゴーギヤンの「かぐわしき大地」など、上野で見た数々の名作の感動も忘れられませんが、このようなこじんまりした美術館で、こんなに素晴らしい作品を直に見られたことに感動し、すっかり二人とも魅了されたのでした。
 今年は、所蔵作品約3000点の中の「名作選155」の掲載作が全て見られるようにして、特に一室に「受胎告知」一点のみを飾り、椅子を置いて、心ゆくまで鑑賞出来るようになっているようです。
 私は格別美術作品に詳しい訳ではなく、我が家の本棚には、世界の美術全集が十数冊ありますが、これは様々な国籍の美術全集なので、時折興味が湧いた時に好きなものを取り出して、眺めている程度です。ですが、この大原美術館だけは、父母の想い出と共に、また義父母の納骨の旅として、夫婦でやっと念願叶った旅行での想い出として、今も心に鮮明に残っているのです。今回の会期は、2010年の12月5日迄だそうですから、とても私達には遠すぎますので、遥かに思いをはせるだけです。
 この年まで、何とか元気に過ごし、去年一年だけは、私の怪我や夫の高血圧で、春も秋も旅行はキャンセルになりましたが、旅行の回数や出かけた場所も、旅好きの父母を越えました。思えば、父母が行った所は殆ど行っており、同じ道を追いかけるように回ったところもあり、義父の思い出の旅(義母は旅行は嫌いで出かけませんでした)の地も回り、或る意味では追悼のような旅も沢山あったのです。
 一つ一つの旅には必ず忘れられない素晴らしい想い出が残ります。退職記念の納骨の旅では、大原美術館が、今もその忘れられない一つになっています。

願解きに金比羅参りをしたる義父いかなる願か遂に言はざりき (某紙に掲載)
砂に降る雨に魂吸われつつ鳥取砂丘に立ちつくしをり (某誌に掲載)
仏舎利を拾ふがごとく玉石を桂浜に拾ふ遍路となりて (再掲)
沈黙のイエス像に語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館 (再掲)

孤独のしあわせ

2010年11月08日 | 随筆・短歌
 寂しがりやの私は、家族が誰も居なくなって、たった独りになったら、さぞ寂しいに違いないと、常々怖れています。ですから、家族のいる現在を大切にしなくては・・・と何時もそう思って、現在の状態に感謝して暮らしています。「年老いたら、孤独に強くならないと、自らを不幸にする」と夫は良く「万一」を心配する私にそう云います。
 二人共退職してから、常に朝起きるのも同時、午前中の約一時間のウォーキングも一緒、そして夜はレンタルのDVD鑑賞から最後のニュースまで、何時も一緒が多く、また二人とも関心の強い話題について話始めると際限なく続いてしまいがちです。居間にはテレビが一台しかないので、このように過ごすのは当たり前だと思っていました。
 ところが最近は大抵午後は夫は自室へ籠もって、庭の良く見える窓際に肘掛け椅子を置いて、読書、昼寝、音楽鑑賞、囲碁などを楽しみ、夕食の私の調理の洗い物を手伝うまでの時間は、独りの時間を楽しむようになりました。
 勢い私一人が居間に陣取って、私も一人の自由を満喫するうになりました。見たいテレビを見たり聴きたいクラシックの音楽を聴いたり、短歌を詠んだり、ブログや手紙を書いたり、思う存分好きなことができますから、これがまさに天下晴れての自由な時間になっています。
 二人で図書館へ行くとか、街へ出る等の外出する用のない日は、午前中にウォーキングと買い物などの用事を二人で済ませ、午後は各自自由な時間を満喫するというふうになって、もう7年位になるでしょうか。
 この孤独は、家族が同じ屋根の下にいて何の心配もなく、必要とあらば直ぐに飛んでいって相談出来るというとても恵まれた状態のもので、むしろ自由を楽しむ時間というべきでしょう。思えば義母が亡くなって、義父が一人残ってからの日々は、「寂しくないですか」と聴く私に何時も「少しも寂しくない」と答えていた義父の気持ちも解る気がします。
 今では私達はお互いのこの孤独な時間がとても大切に思われて、何とか確保するように日程をやりくりして、午後を空けるように努力しています。毎日が日曜日であっても何かと用が出てきて、週に4日も確保出来れば良い方です。私は、その内2日は午後にフイットネスクラブに通うので、帰ってからの僅かな時間しか残りません。その間洗濯もしなくてはならず、それでもこの孤独は蜜の味です。
ところが今日たまたま町内会の日帰り旅行があり、参加した夫が、ご主人を亡くされたお二人のご夫人の孤独について、身につまされたと言って帰ってきました。仏壇の遺影に、「行ってきます」とか「今帰りました」とか言葉に出して言いながら、淋しさを耐えているというのです。「お宅は二人して元気でいいですね、といわれたよ」と言いながら、私達は二人とも何処も悪くない訳ではないけれど、毎日揃ってウォーキングや買い物が出来る幸せを、今更のように感じたようでした。
 人間ですから、「我や先、人や先」の違いはあっても、100%亡くなります。矢張り「どちらか独りが先立った後の孤独」をどう耐えて生きていくか、その心構えを日頃からしっかり考え鍛えておかなければならないと思っています。
 先人が孤独についてどのようにいっているか、少し調べてみました。

☆人生とは孤独であることだ。  ヘッセ

☆孤独は青年時代には苦痛でありましょうが、ひとかどの年をとってしまうと甘美なもの です。   アルバート・アインシュタイン
  
☆私はかつて孤独ほど仲のよい仲間を見出したことはない。  ソロー

☆われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王である。                                    カント

☆神は人間に孤独を与えた。然も同時に人間に孤独ではいられない性質を与えられた。                               佐藤 春雄

☆孤独は山になく街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるの である。     三木 清

☆歳を経るごとに新しい友人を得ることができないと、必ず孤独に悩まされるようにな  る。常に友情の手入れを怠らないことだ。友人を冷たくあしらい、優しい言葉一つかけ ずに友情を死なせるものは、人生という疲れ果てた巡礼の途上におけるこの上ない慰め を、わざわざ自分の手で捨て去る愚か者である。      サミェル・ジョンソン


 先人の言葉に少し耳を傾けて、真の孤独と向き合う日になった時には、どう生きるか静かに考えています。ただ孤独を敵側に追いやるのではなく、味方につける方法もあるのではないか。それを見付ける方法を考えたいとしきりに思っています。

 
 人間(じんかん)をすり抜けて行く交差路に孤独の影の群れが行き交う (再掲)
 明日へ明日へ時を追ふごと雲走る流れに乗れない我を残して (某紙に掲載)
 寂しい時悲しい刻に持つマウス見知らぬたれかに癒し求めて (某誌に掲載)

支えられている安らぎ

2010年11月02日 | 随筆・短歌
 世の中が次第に生きづらくなってきているようです。就職が思うように出来ない若者達にも、人生の中途でリストラに遭ったりした人達にも、年を取った私達にも住みにくい世の中に変わってきているような気がします。私は年金をいただいて暮らしていて、現在働いておられる方達に可成りの負担をおかけしているので、それを辛く思う日があります。
 以前は自分も働いていて、それで先輩を支えて来たのだといっても、その頃の負担と比べれば、現在は遥かに厳しくなっています。少子化が更に拍車をかけて、それは益々厳しくなることでしょう。 
 最近は偶然か或いは神様のお計らいか、昔の友人と何年か振りで再会する機会があって、それも結構大勢の逢いたい人達に逢えたので、もしこの辺りで万一死んだとしても悔いは無い、充分幸せだったと思えるようになっています。そして温かい家族に囲まれている、今の自分の一日一日の生活を、しみじみと有り難いと感じて過ごしています。
 けれども大切な家族の為にも、役に立っている内は可能な限り元気で生き続けて、役目が終わった時には、皆さんにあまり迷惑をかけないように、世の中の隅っこでひっそりと、ささやかに余生を終わりたいものだと願っています。
 ところで、私達の住んでいる街に、私より遥かに年を取っておられるのに、とても立派なご老人がいます。もう80歳近くになられるその人(男性)は、この地域の元地主の方で、毎朝登校する児童に、交差路で危なくないように導いて「オハヨウ、元気かい」と子供達に声を掛けていらっしゃいます。今朝も私達夫婦がウォーキングの道で会いました。「ご苦労様です」と言って通りましたが、この人は、多分もう20年位、学校のある日は必ず立って居られるのです。勿論ボランティアで無償です。昔も今も億万長者の部類に入る人ですが、少しも驕らずとても気さくな方です。
 これだけでも偉いのに、その方の家の広い宅地の隅に、その町内のゴミ集積所が建っています。ゴミ場の前を通りかかる度に、何時も一つの違反ゴミも残っておらず、余程住民の皆さんが、しっかりルールを守って居られるのだと思っていました。
 ところがある時、夫が町内のある方から次のような話を聞いて来ました。あの方は、自分の屋敷のゴミ場を常に管理しておられて、収集車が収集を終えて去ると、直ぐにご自分が、残された違反ゴミを分別して、自分の屋敷の別の所へ片づけて居られるというのです。それももうずっと続いているそうです。
 私達の住む区域は、車で通りかかりにポイ捨てし易いこともあって、近年まで違反ゴミが沢山残っていて、聞く所によると、市でも特に違反ゴミの多いゴミ集積所だったようです。12分別になってから、ゴミ場の建物を少し移転して、ポイ捨てしにくくなった事もあり、そこに矢張りボランティア精神の旺盛な方が数人いらして、最近はすっかりきれいになりました。勿論時々は違反ゴミは幾つか出るのですが、一軒一週間ずつのお掃除当番がこれを分別処理して、残された違反ゴミが外部から見えないように隔離しています。以来すっかりきれいになって、今日では概ね良好な状態を維持しています。此処まで来た一つには、ボランティアの方達の日々の努力があったことは確実です。
 こうして私達の社会は、誰に褒められる訳ではないのに、黙って一生懸命世の中の人々の為に尽くす人に依って、清潔で住みやすい街が維持されています。道端のポイ捨てのゴミも自宅に持ち帰って始末する人が増えて、次第にゴミの不法投棄は少なくなり、道路は何時もきれいになって来ました。ウォーキングの途中の町内には、ゴミ場の監視員が当番で立っている所もあり、ごく一部の不心得な人の為に、何処の町内でも苦労をしています。この様な姿を見ながら、不法投棄が無くならないのは、何とも嘆かわしい限りです。
 しかし、悪いことばかりではありません。最近は、災害時の避難訓練とか、クリーン作戦と呼ばれる町内会主催の道路や下水路の掃除などは、以前と比較すると、より大勢の人が自主的に出席するようになりました。このことによって住民の繋がりも深まり、街は一層美しく暮らしやすい街と思えるようになりました。
 歳を取っても住みやすい所とは、平坦な地形、銀行や郵便局、スーパーが近い、市役所や区役所が近い、大きな医療機関が近い、などの諸条件が備わった街だと聞きましたが、私達の住んでいる街は、それらの条件を満たしているので、良い場所に住んだものだと家族で話し合っていました。
 この土地を買う際に、案内していただいた不動産屋さんに、その場で決めて買った土地でしたので、偶然とはいえ、水害の心配も先ず無く、風の強い場所でもないし、その上隣組の人々は真面目な良い人ばかりで、申し分の無いところです。当然誰にとっても何処でも、住めば都ではありますが・・・。
 私はこんな幸せを少しずつ分け合いながら、助け合って、暮らしていけたらと、最近特に感じています。人間の心の底には、誰しも温かい血が通っていると信じられるようになりました。そう信じることで、一層自分の心が穏やかになっていくのを感じます。

  鉛筆がBから2Bに変はりたり古稀過ぎし我にやさしく馴染む (某紙に掲載)