ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

去年・今年・そして来年

2012年12月26日 | 随筆・短歌
 今年も残り僅かになりました。こぞ・ことし・らいねん、と並べれば三年になります。生まれたばかりの赤ちゃんも、三歳になると外で一人で遊ぶようになり、自由に考え行動し、第一反抗期を迎えます。
 このめまぐるしい程の発達に比べると、我が身の三年間は余りにも進歩がなく、いたずらに老化の進行ばかり気になります。
 高齢者ほど一年が短く感じられると言いますが、実感ではあります。しかし、三年間という月日の長さは、全ての人間に平等なわけですから、物足りないと思うのは、自分がそれだけのことしかしなかったとも言えそうです。心許ない気になります。
 ところで世界は一時としてとどまっては居らず、東北の大災害と原子力発電所の事故、ヨーロッパの金融不安、各国の政情不安からの戦も絶えませんでした。身近に地球温暖化を感じたり、また激しい気候の変動がありました。近隣諸国間の軋轢などもあって、時々刻々と問題は新たに発生しています。
 しかし、良いことも沢山ありました。震災により、日本人の礼節をわきまえた態度が世界に認められたり、オリンピックを初めとしてスポーツ面での活躍もありました。何より山中教授の万能細胞の発見がノーベル賞に輝き、閉塞感に苦しむ日本人に希望の光を投じて下さいました。日本人の優れた頭脳、技術、運動能力や、芸術性の高さなど、改めて感じさせられもしました。
 様々な歴史から私達はこれからの生き方を学び、また過ごして来た日々の暮らしから、私は来年のありかたを考えたいと思っています。折しも我が国も政権交代がありました。これからどのような社会になっていくのか、期待と不安を織り交ぜつつ、きっと誰しも注意深く見つめていることでしょう。政治は結果責任だと言われますが、最終的には責任は国民にあるということを、肝に銘じていなければならないのではないでしょうか。
 一方私は、少なくとも来年に、明るい希望を持って、一歩を踏み出したいと願っています。なぜなら、私は悩み苦しみ、とても不幸な出来事だと思っていたことも、時が経ち振り返ってみると、それらはその後の人生に何らかの役に立つ経験として残り、現在生きて居る自分を支えてくれていることに気付ます。
 苦しみはやがて薄らいで忘れていき、その時に気付かなかった教訓が残ります。そして多くの人達に助けられたということが、有り難く思い出されるのです。不思議ではありますが、だからこそこうしてゆったりと生きていけるのですね。
 「忘れるという能力は偉大である」と誰かがいいましたが、同時に私は、有り難いという感謝の念が生まれることは、大いに意義があると思えてならないのです。怒り・哀しみ・不安・・・様々な感情が去った時、心に残るのが、これからを生きて行く力の基となる「感謝」だということは、何と有り難いことではないでしょうか。ですから私は、どんな苦労の中にあっても、明日の希望にきっと繋がると思えるのです。
 兎角不安の先取りをしがちな私でありますから、一層「新しい年には、きっと良い事がある」と期待して迎えたいのです。
 今年は「もう書き続けられないかも知れない」と思ったこともあったこのブログを、こうして元気に書き続ることが出来ました。皆様から「読んでいますよ」と励まして頂きもしました。取り分け今年は沢山の友人にも会え、51年ぶりの会があったり、食事や見学等を共にすることにも恵まれました。夫が「肺がんかも知れない」というショッキングな事も、良い勉強として残りました。山あり谷ありの日々を乗り越えて、こうして温かい部屋で穏やかに過ごしています。
 良く考えてみると、私達の生活は、数え切れない見知らぬ人々に支えられて成り立っています。その見知らぬ多くの人々にも感謝し、常に私達を包んで悠然としてある大自然にも感謝して、今年を締めくくりたいと思います。
 こんな粗末な「ばあさまの独り言」を読んで下さった皆様に、心からの感謝をお伝えすると共に、皆様が新しい年に希望を持って、お元気でお迎え下さいますよう念じています。有り難う御座いました。 
 
 あの時分、おれは幸福だった。それなのに、その幸福感をわかっていなかったとは!  「赤と黒」スタンダール

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉さまざま

2012年12月15日 | 随筆・短歌
 「きれいごと並べし言葉に透けて見ゆ心寂しも君の雄弁」(あずさ・某誌掲載)
 折しも衆議院議員の選挙があり、様々な演説がありました。雄弁である程に虚しく聞こえて来る場合もあります。また落ち着いて、あるいは訥々と語りかける言葉が、しみじみと心に響く話もあります。聞き手の心の状態に、原因があることもあるでしょう。 自分の意志を伝えるためには、言葉にしなくては伝わらないのですが、その一方で言葉だけでは伝わるものでもないという面があって、難しいことでもあり、不思議でもあり、面白いことでもあります。
 私達はどの様な状態て言葉を交わしているのでしょうか。日常的に良く交わされるのが、「行ってらっしゃい・お帰りなさい」です。我が家では、朝一番の夫の仕事のゴミ出しに、私の掛ける言葉です。夫は以前から高血圧症で、殊に寒い冬の朝は、僅かな距離ですが、倒れたりしてはと心配する余り、この言葉が習慣になっています。暫くして「ただいま」の声が聞こえないと、玄関ドアを開けて見に行きます。すると帰って直ぐに、せっせと庭掃きしていることがあり、ホッとして戻ります。
 家族揃って食事の時は、全員が揃わないと決して箸を持たないのも、我が家の習慣です。また、近隣の人々との間にも、「頂きます・ごちそうさま」の言葉が折々交わされます。時に手作りのお菓子や野菜・お花・お土産の交換に、この「頂ます・ごちそうさま」が交わされます。先の「行ってらっしゃい・おかえりなさい」の方は、外出しようとする知人に、またスーパーからの帰宅途中のご近所の人に、何気なく交わされます。一時心の和む温かい言葉です。
 「有り難う・ごめんなさい」もスッと言える人と言えない人があるようですが、私はこの言葉を多用します。その場面に直面したら、直ぐにいわないとチャンスを逸してしまいます。
 メールの文章から、ほのぼのとした温かな個性を伝えて来る人がいます。そんなメールを頂くと、いつしか私も温かな心に包まれてゆきます。そんな文章を綴りたいと思いますが、図って出来ることではなく、そういう人となりが基本に無ければならない訳ですから、何時も憧れをもって読んでいます。年を取ってから一層深みを増すのが言葉のようです。
 最近よく使う短縮形の言葉は、何の味わいもない、渇いた言葉に聞こえるものが多いようです。短歌や俳句は充分に推敲を重ねますが、咄嗟に出る言葉は、そういう訳にはいきません。
 しみじみと伝わる言葉は、豊かな心の素地があって、加えて相手を思いやる心から生まれて来るのだと言えましょうか。
 テレビのみが悪いわけではありませんが、テレビから聞こえて来る言葉は、次第に荒れてきています。世の中の心がすさんで来ている現れでしょう。殊に女性の男言葉には、呆れるばかりのものがあります。こういった乱暴な言葉遣いが、ひいては、いじめや暴力に繋がって行くのではないでしょうか。このような映像は流して欲しくないと思います。
 自己主張も大切ですが、自分の権利ばかり言うのではなく、もっと思いやりの心遣いの行き届いた言葉を聞きたいと思うのは、きっと私ばかりではないでしょう。テレビは、国民の心に多大な影響を及ぼしますから、正しい日本語で、温かい心を持って放送して欲しいのです。
 幼児の虐待死が話題になっていますが、虐待に至るまでには、そうとうな言葉に依る暴力に晒されているはずです。そんな幼い子供たちを思うと胸が傷みます。
 青少年の暴力が増加しているのも、家庭や社会で温かく抱かれて育っていないのが原因の一つではないかと思います。温かい言葉を沢山かけて、寄り添って育てないと、寂しい心の行き場所がなくなります。両親ともに、働いていると一層です。
 離婚が増えたのも、夫婦お互いの思いやりの欠如が原因の一つだと思っています。結婚したら、愛して貰うことを期待するのではなく、自らが愛し、二人で築き上げるということを忘れないで欲しいのです。二人でよく話し合い、二人で苦労を分かち合い、お互いに認め合って過ごせば、離婚という悲しい結末を迎えなくて済むのではないでしょうか。全て言葉によって紡ぎ、築き上げて行ける筈なのです。
 離婚して一番不幸なのは、離婚した本人ではなく、子供であることを忘れてはならないと、私はひしひしと思っています。女性も働かなければ生きて行けないとしたら、母親の一層の自覚と共に、親同然の愛情をもって育てる保育のあり方の研究が、早急に必要な課題です。

だんだん饒舌になり、「言葉多きは品(しな)少なし」になってきましたので、この際自らを戒め、この辺で止めたいと思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝わる心

2012年12月05日 | 随筆・短歌
 衆議院議員選挙が近づいて、世の中の動きがせわしくなって来ました。様々な人々がテレビや新聞・雑誌で様々な意見を述べています。党の離合集散もあって、人々の心の在りかが透けて見える思いがすることもあります。
 私達国民が直接国政に参画することの出来る唯一の機会であり、国民の義務でもあり、また権利でもある一票を、慎重に考慮して投じたいと思っています。
 ところで、東北の大災害があり、原発事故があって、その復旧が急がれています。ヨーロッパを発端とした経済危機があり、中国や韓国との間の、また北朝鮮との間にも様々な出来事が発生して、国の経済や将来の不安材料となっています。
 この混沌とした日本に在って、私達はどう考え行動したら良いのかと、しばしば考えます。
 震災のその後について、少し身近な例を引きますと、莫大な瓦礫を焼却する事になり、一部の自治体が引き受け始めています。いまだ知らぬ顔の自治体が在るのはどうしてでしょう。同じ国民として私は当然のことだと思っています。幸い私は被害に逢わなかったのですが、被害者だったら、「どうか皆さん助けて下さい」と言ったでしょう。先ず片づかないとそこに家も建ちませんし、暮らすことも出来ません。処理を申し出ない自治体を「自己本位で冷たい」とさえ思います。
 ところが「放射能が危険だから」を理由にさしたる線量でないことを承知の上で、「焼却反対」と人間の盾を作って瓦礫を積んだトラックの搬入を阻止している集団があります。この映像をテレビで見ると、悲しい思いがしてきます。
 放射線被害の専門家が大丈夫だと判断した上でのことですから、素人の私達はそれを信じるしかないではないかと思います。危険だというのなら、その科学的な根拠を示さないと、自己防衛の亡者のように見えて、被災者に対しても余りにも冷たいのではないかと思ってしまいます。非科学的な風評被害にめげない強さで、被災者を応援してこそ、同じ日本人だと言えないでしょうか。
 私は福島県産の野菜も果物も、店頭に並んでいれば、そちらを優先して買います。それがせめて私に出来る応援だからです。当然の事であって、自慢する積もりは全くありません。
 原爆が落ちた広島の人達は、検診が行き届いていることもあり、他の政令指定都市より、平均寿命が長いと聞きました。嬉しいニュースです。これを以て福島にすぐ当てはめられないかも知れませんが、核爆弾が落ちて被曝した人達が元気であるということが一つの安心材料ではあります。
 学者が安全だと言っても「信じられない」と思う子育て世代の人の気持ちも察することはできますが、そう不安ばかりを言いつのって、自ら一層不安と不便な生活にはまり込むのも、どうかと思ったりしています。
 専門家は科学者としての良心に恥じないように、正しい情報を伝え、私達はそれを信じる。そのようにして伝わっていく心が、今何より大切だと思います。個人も又社会全体も、被災地に温かい支援の手を差し伸べれば、復興にも拍車がかかることでしょう。被災地が早く立ち直ることが、結果として国民の幸せに繋がると思っています。その為に出来る事は協力したいものです。
 全ての人の心の深くに、汚れのない人間本来の正しい心が存在していると思っています。様々な出来事に対して、その心で見聞きし判断すれば、きっと温かい心が湧き出して、人々に伝わり安心できる社会に繋がると私は信じています。利得で計算していては、何時の日か我が身に天災が襲ったときに、誰が助けて呉れるのでしょう。
 先ず信じることから考えてみたいものです。疑ってばかりいてはそこから何も生まれません。人間社会の成り立ちは、互いに信じ合うことが基本なのではないでしょうか。
 この度の選挙に際しても、汚れのない心で見聞きし、判断したいものです。次代を背負う日本人が、幸せであるように、今を生きている私達が責任を持たなければならない、とても重い選挙だと考えています。
  

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする