ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

読者の皆様へ:しばらく休みます

2022年11月18日 | 随筆
 とんでもないアクシデントに見舞われて、只今、ある病院の整形外科で入院治療を受けています。
 15日(火)のこと、毎日の散歩コースを夫と二人で縦に並んで歩いていたのですが、交差点で左側から来た車にドンとぶつけられたのです。二人とも手を挙げて歩いていたので、「見ていてくれる」という甘さがあったようです。
 当分、「ばあさまの独り言」は休ませていただきたいと思います。退院予定はお正月明け頃かと思います。元気で戻って来ましたら、またポツポツと書きたいと思っています。

 皆様もくれぐれもお体をお大事に。お元気でお過ごし下さいますように。

                                    あずさ


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みんな必要

2022年11月04日 | 随筆
 時折過去を振り返って「これで私は良かったのだろうか」と考えてみる事があります。きっと多くの人達が、ごく自然にそのような考えを持つ事があるのではないかとも思います。
 自分が幸せだとか不幸せだとか、日々そう強く考えて生きているわけではなく、昨日の続きをごく自然に生きて繋いでいる、と私はそう感じています。強いて日々の区切りをつけるとすれば、きっと日記を書いたりベッドに入って寝に付く時でしょうか。満足感や時として後悔する事もあります。隣のお布団で横になっている夫に声をかけて、今日あった小さな出来事をなぞりながら、これで良かったのかと反省することも度々です。
 ところで我が家の近くのお宅では、最近車を放された方が何軒かありました。何しろ団地として売りに出された土地に思い思いの家を建てたので、似かよった年齢の方達が多いせいもあるのでしょう。いきおい歩くか自転車かの人が増えました。
 先頃も「もう車に乗らない事にしましたから、最後に愛車で○○峠を通って温泉に行って来ました」などとお土産を頂いたりして、「ああ、その年齢に成られたか・・・。」と感慨深い思いにさせられました。
 「長い間乗っていた車は『愛車』というのがふさわしく、家族の一員のように思えるものだ」と夫が云いました。手放す時は車を囲んで家族で記念写真を撮りましたし、アルバムをみる度にこの車に乗って北海道を走ったとか、関門トンネルをくぐり抜けて九州まで行って、帰りは博多港から船で途中まで帰ったとか、様々な思い出が湧いて来ます。多分車をお持ちの方々は同じように様々な忘れられない思い出を心に残して居られる事でしょう。
 今は空になった車庫は、シャッターの付いた自転車置き場になっています。
 この地に住んで長い年月が経ちましたが、生まれて間もない子供を連れて引っ越してきて、夫婦共働きでしたから、お世話になった夫の両親も他界して今や私達が高齢者です。
 中学校教師だった私は、様々な人達と一緒に学びつつ年月を過ごしてきました。時には不治の病を抱えた生徒が大学病院へ通いながら、立派に生徒会長や学級委員を務めたりして巣立って行きました。
 また不登校ぎみの生徒として私のクラスに入って来た生徒が、当時北海道へ両親と旅に行って来たと、お土産にスズランの花飾りの入ったペンダントをプレゼントとして買ってきてくれたりして、やがて何とか頑張って立派に巣立って行きました。後に大学も卒業して、公務員として社会のお役に立つ人材となりました。私も彼とは卒業後もお付き合いがあって、感動しましたし嬉しかったです。
 クラスという集団は、個々の生徒の良い処が外から見えて、私は毎朝の各教室やクラスに割り当てられた掃除の(例えば校長室や特別教室)区域では、日々一人一人の生徒達と話しを交わす良いチャンスで楽しい時間でした。
 そんな日常の中で「リーダー研修会」が生徒会指導の教師によって年二回ほど行われていました。各クラスの学級委員長と副委員長が集められて「良いリーダーとは」と話し合ったりするのです。
 私のクラスからも学級委員の男女が出席しました。この男子生徒は毎月大学病院へ通院していましたが、心の温かい生徒であり、出掛ける時は「行って来ます」と挨拶し、帰って来ると「行って来ました」と報告に来ました。礼節をわきまえた立派な人間でした。
 中学三年生ともなれば、人間性の立派さは、身の回りの教師も叶わないと思えるほどに成長します。「お帰りなさい、どうでしたか?」と必ず様子を聞き、そこには温かい時間が流れました。
 ところでこのリーダー研修会は、各学級からの言わばエースの集まりなのですが、集めてみればまたその生徒達には格差が生じて、トップもいれば当然ですが落ちこぼれのような生徒も生じます。しかし愛すべき生徒達はくったく無く、明るく研修を受けていました。見学しながらそれとなく眺めていると、このような集まりの中の生徒達の動きは、又学級の中ではみられない個々の生徒の特徴が見えて、驚いたり感動したりしました。
 こうしてみると集団という様々な人間の集まりには、トップも必要ですが、落ちこぼれと云われる人達もとても重要なのです。トップだけが偉いわけではありません。支えている一人一人が何とも言えない集団の味わいを醸し出してくれて、それでクラスという集団になっています。トップもビリもどちらも大切なのです。 当然ですが、人間関係には気配りや愛情、根気強さなどが必要です。集団の落ちこぼれと云われる人達も、一人一人はそれぞれに個性があって、それなりに集団の味わいをかもし出してくれているのです。
 私はこのことから「みんな必要」と思っています。日本とか世界とか云う視点で見ても、矢張り「みんな必要」です。必要で無い人間は一人としていないのです。一般に人非人とか凶悪犯罪者という人も、生まれながらに100%の犯罪者はいないでしょう。戒めとしての存在も必要です。そう考えると、「人間とは何と愛しきものか」と思えて来ます。良い人もいれば悪い人もいる、それぞれに濃淡はあるにしても関わり合って社会を作っているのですね。

 私の夫は運動神経が人より劣ります。(本人の言い分です)徒競走では何時もビリだったと聞いています。「あらあら○○ちゃんじゃない?」と小学校時代の運動会で見に来た叔母の声が、走っていて聞こえたと夫は云います。どう走っても最下位だったそうです。しかし自分が居るから皆は最下位にらずに済むのだと開き直っていたと云います。
 私は走る事は苦手ではなく、小学校時代はほぼ一番でした。ところが中学生になってから少し貧血して、特に持久走は苦手でしたし、ずっと後ろの方になりました。とても悔しい思いをしましたし、徒競走はあきらめざるを得ませんでした。
 「みんな違ってみんないい」と金子みすずが詠っています。私もその通りだと思っています。種々の人が織りなす人間社会は違っているから面白いし、これを個性と呼んで大切にすべきものだと思っています。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする