ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

「踏むがいい」

2012年06月23日 | 随筆・短歌
 私は作家遠藤周作の大ファンです。彼の代表作「沈黙」を読んだ時の衝撃的な感動は、今でも深く脳裏に刻まれています。これを読むきっかけになったのは、NHKの生涯学習講座で、「沈黙を読んで感想をまとめよ」という課題でした。それまでは、「海と毒薬」「白い人」「黄色い人」等読んでいたのですが、「沈黙」は未だ読んでいませんでした。グイグイと引き込まれて一気に読みました。以来すっかり遠藤ファンになったのです。続いて「女の一生、キクの場合」などを読み、津和野の乙女峠(キリシタン弾圧で長崎から連れて来られた隠れキリシタンの、想像を絶する拷問による殉教の地)へ行ったり、長崎の平戸島の紐差(ひもさし)教会や、大勢の隠れキリシタンが殺害されて、海が血で真っ赤に染まったと言われる根獅子(ねしこ)浜へと、いわゆる殉教の跡地を巡る旅に出かけたのです。
 その時の何とも言えない哀しい思いについては、以前書きましたので今回は触れないことに致します。隠れキリシタンの居住地であった、外海町(そとめちょう)の遠藤周作文学館へ行った時は、美しいコバルトブルーの海を背景にして、緑の丘の上に静かに、しかし凛として立つていました。思わず心が引き締まります。 館内には、遠藤の作品の数々と、取り分け「沈黙」の様々な記述についての解説が展示されています。ひっそりと静まりかえっており、見学者は居たのですが物音がせず、厳かな雰囲気が漂っていました。私達も「沈黙」のパネルを一つ一つ丁寧に見て回りました。
 棄教を迫られている信者が、穴の中に逆さ吊りにされて、呻き声を上げて苦しんでいる声を聞かせられた司祭が、「貴方がこの踏み絵を踏みさえすれば、あの信者達は助けてやる」と言われ、思わず神に「貴方は何故黙っておられるのですか」と反問し、悶え苦しむ司祭の様子が眼に浮かびました。しかし、いよいよ信者の苦しむ声に耐えきれず、踏み絵の銅版を踏もうとした時『踏むがいいと銅版のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。』(原文のまま)と神の声が聞こえたのです。『私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ』とも書いてあります。
 息を詰めるようにして、丁寧に見て回った後、外に出ると小高い丘から海を眺めつつ深呼吸をして、全身の凝りを解放しました。
 丘には、沈黙の碑があり「人間がこんなに哀しいのに、主よ海があまりに碧いのです」とありました。本当にこんなに美しい海の色があるのかと思う程に美しいコバルトブルーの海に向かい、人間の哀しさに暫く言葉も無いままに、今見てきた様々に思いを馳せていました。
 長崎市からはとても遠く、バスを乗り継ぎながらの不便な所ですが、来て良かったとしみじみと思いました。
 私はキリスト教徒ではありませんが、神仏が私達と常に共に居られることは分かります。ですから殉教の地を巡る旅もまた意義深いものがありました。偶然の時間の中を旅している訳ですから、ともすると出会う事が出来なかった筈の幸運な時間に恵まれることがあります。たまたま乙女峠のマリア聖堂で巡り会えた尼僧、夕方の大浦天主堂のステンドグラスの見事なまでの光とマリア像(このマリア像をこっそりと拝みに来た婦人が居て、初めて浦上村の隠れキリシタンの存在が分かりました)、みなみな私達には感動深いものでした。
 隠れキリシタンに対する激しい弾圧の結果、根獅子浜の近くに、大勢の殉教者の遺体が埋められているという、「うしわきの森」(今でも信者は裸足でお参りすると聞きました)では、生暖かくふわふわした土の感触、隣の切支丹資料館には仏教の観世音菩薩の後頭部に十字架が刻んであり、手を合わせればキリストの十字架が拝める隠れキリシタンの像、納戸神その他この時しか出会えなかったという縁の深い体験もしました。
 後にレンタルビデオで、篠田正浩監督の映画「沈黙」を見ました。期待して見たのですが、何とあの「踏むがいい」という感動の場面が無いのです。あの場面が無かったら、もはや魂の抜けた「沈黙」であって、私の方が落胆の余り沈黙してしまった程です。
 その後四国遍路にも出かけて、「お大師さまと一緒」の旅を三回もしました。私達がどこに居ても、何時もどこかで見えない何かに守られている、と感じることが年年多くなって来ています。
 弘法大師空海が、「苦しい時は私を呼びなさい。私はあなたと一緒に生きて行く」と仰ったと聞きました。キリスト教にしても仏教にしても、沈黙の神と空海の言葉に共通な心があると感じて、深く感動しています。
 何時も守られていると思えたら、それだけで大きな幸せを手にしたと言えるのではないでしょうか。

沈黙のイエスに語りしロドリゴの哀しみせまる遠藤記念館
 
殉教の血で紅に染めしとふ根獅子(ねしこ)の海はコバルトブルー

後頭部に十字架彫りしマリア観音弾圧に耐へ今なほ優し
                 (全て実名で某紙・誌に掲載)


背中で演技する

2012年06月16日 | 随筆・短歌
 映画が好きな私と夫は、レンタルビデオ店で借りる映画を決める時に、演技力のある人のものを好んで選びます。多くは夫が選び私が同意して決まります。時折私のリクエストが入ります。最近、私が趣味の短歌や俳句を作る時間が足りなくて、夫一人に好きな映画を観て貰う日も増えて来ました。
 私達が長い間に見て来た映画に、時折「これは素晴らしい」と思う俳優さんに出会います。
 その一人が笠智衆です。人によっては、「演技が一本調子で不器用な人」だと言いますが、私は彼の背中が見せる演技にとても打たれることがあります。無言で丸めた背中が「泣いている心」を表現するといった演技にかけては、彼の右に出る人はいないかもしれません。しみじみと静かに悲しむ老人の姿を演じさせたら抜群だと思うのです。
 ずっと若い時から、老人を演じてきた人だと聞きますが、自然な感じでの老いの表現とその悲しみが胸を打つような演技は、そう簡単には出来ません。余りに有名になった「東京物語」や大女優原節子との共演の「晩春」や、やはり後ろ姿の演技が光った「老いぬれば」「冬構え」など、どれにも彼独特の悲しみの演技が光っています。
 そして比較的最近心に残った名演技の場面は、NHKの大河ドラマ「独眼竜正宗」に出て来た豊臣秀吉を演じる勝新太郎が、正宗に初めて相対した時の恐ろしさです。緊張する正宗と共に、見ている私までが恐ろしくなり、こぶしを握りしめて見ていました。
 後に聞いたことですが、この時未だ若かった正宗役の渡辺謙と勝新太郎は初めて顔を合わせたのだそうです。勝は役の上で逢うまでは、顔を合わせることを避け、初対面の緊張感をそのままスクリーンに映し出したということです。さすがに芸に打ち込む姿勢が違い、そのために出来上がった名場面だったのだと、痛感しています。
 もう一つ、「真田太平記」に出て来た豊臣秀吉を演じ「お拾いをお頼み申す」と大名達に懇願しつつ、睥睨する長門裕之の演技、どちらも一流の俳優ですが、なかなかの見応えでした。その場その場で、相応しい演技をするには、余程台本を読み込み本人に成り切る、そして「先ずは眼がものを言うこと、なにげないような細かな動作も計算が尽くされている」という点では共通するものがあるように思います。何度観てもあのすさまじい迫力の「切腹」の仲代達也の演技もその仲間です。彼については「人間の条件」も忘れられません。
 外国人の中では、メリル・ストリープや、ニコール・キッドマン、アンソニー・ホプキンス、モーガン・フリーマンなど、それぞれに役になりきっています。アンソニー・ホプキンスの「羊たちの沈黙」の冷酷な凶悪犯の恐ろしい表情と、「日の名残」の口に出して「好きです」と言えない、もどかしいばかりの実直な執事とでは、両極端な人物を見事に演じています。
 ニコールキッドマンは体重を大きく減らして「巡り逢う時間たち」を演じました。あの神経質な作家の役を、何処で観察して身に付けたのでしょうか。からっとした、あるいは人をくったような多様な演技をする女優さんと思っていましたが、実に見事に演じ分けています。見る度に新しい女性を演じる彼女に大いに期待しています。
 メリル・ストリープは、誰もが知っているアカデミー賞女優ですが、「マジソン郡の橋」で恋人と別れるか、家族を捨てて彼のもとに走るか、車の中から彼を見つめながら煩悶する姿には、ハラハラしながら涙が止まりませんでした。ドアのノブに手を掛けて、降りるか残るかと迷い、夫に知られぬように涙を流しつつ、やがて彼を見つめつつ眼で追いながら、夫の運転する車と共に去って行きます。何度見たか、解らない作品です。良妻賢母で通して、たった四日間で灼熱の恋をし、愛し、そして家族の為に残るという物語ですが、クリント・イーストウッドと共演のアカデミー賞受賞作品です。
 モーガン・フリーマンはあの優しさがたまりません。「ドライビングMissデージー」の温かく優しい人間像は、彼そのものなのかも知れません。しかし「インビクタス/負けざる者たち」でネルソン・マンデラを演じた気迫を見ると、やはり主演兼製作総指揮として、熱のこもった名演技は、鍛え抜かれた名優のものです。
 「映画って本当にいいもんですね」と冥界から水野晴郎さんの声が聞こえてきます。名画は何回見ても色褪せることはありません。それは多分名優達が人間の弱さや哀しさをスクリーンに映し出してくれるからに違いないと思っています。 
 

済んだことは済んだこと

2012年06月09日 | 随筆・短歌
 「覆水盆に還らず」という諺がありますが、ひとたび口から出てしまった言葉を、元のお盆に戻すことは不可能です。他人の心を傷つけまいと気をつけていても、知らず知らずに言い過ぎたり言い足りなかったりして、ふと気づくと「あの言葉は、もしかしたらあの人を傷つけたかも知れない」と気になることがあります。
 そんな後悔をしないで済むように、気を付けているつもりでも、私のように考えが浅いと、つい不注意な言葉が口を突いて出てしまい、後悔する羽目になります。
 「言葉を口に出す前に良く考えて言いなさい」と折々夫に注意されます。ところが性格的にそのような心のゆとりも無く、考える前に言葉を発する私は、往々にして「後悔先に立たず」となってしまいます。
 ご近所つき合いにしても、決して相手を不快な気持ちにさせないように気遣っている夫は、余程親しい間柄でないと、慎重に言葉を選んでいるようです。私は、いつでも誰にでも気軽に同じように話しかけて、相手の性格までは思いが至らず、「言い過ぎたかな」とか「言葉が不足していたのでは」と考え込むのです。私自身の自意識が強すぎて、自ら傷つくということもあるかも知れません。
 そういう心遣いで話している夫は、常に自分の話したことは正しいと信じていて、人間関係で余り後悔しません。私はその反対に後悔ばかりする方です。 
 夫はそのような私の生き方に対して「過去を切り捨てられないことからの不決断こそ、人生後半を悔いの多い、愚痴の多いものにしてしまう」と書いておられた精神科医の神谷美恵子さんの言葉をひいては、「終わってしまったことにいつまでも拘らないように。そうでないと高齢になるほど悲惨な人生になる」といいます。確かにそれは良く解るのですが、なかなか思うようにはいきません。だからと言ってこれで良いと言ってはいられないので、どのようにして克服するかと、折々考えるのです。
 私は先ず「済んだことは済んだこと」として、考えないようにすることに努力し始めました。そして、自分に悪意が無かったことを確かめ、不出来な自分を「仕方がないなあ」と許すのです。
 甘いと言われるかも知れませんが、誤解というものは、常に身近に存在していて、言葉が過ぎたり足りなかった時に「誤解された?」と気づくことが多いようです。そんな時私は、往々にして「笑ってやり過ごす」ことににしています。相手に「それは誤解だ」と正さないのです。あいまいな日本人の代表みたいです。
 しかし「違う」と言えば角が立つことが多く、場合によっては正しく理解して貰うチャンスまで失ってしまうこともあります。自分が「間違っていない」ことは自分が一番良く知っている、と自分に言い聞かせて、その場を流してしまいます。
 いつか分かって下されば、または何時か私の心を理解して貰えれば波も立たず、その時は泥をかぶっても仕方がないと引いてしまうのです。
 しかし、これは家族という理解者がいるといないとでは、きっと違うのでしょう。大方のことは、「今日こんな事があった」と家族の話題に載せれば、それで気が済んで忘れてしまいます。
 「王様であろうと百姓であろうと、自己の家庭で平和を見いだす者が一番幸福な人間である」とゲーテも言っています。本当にそう思います。私のように社会の片隅にささやかに生きている人間には、そう言う言葉が支えにもなるのです。

 思慮浅き言葉に君を傷つけぬ花甘藍に雪の積むころ
 
 自らを許さぬ心疼きゐて燃やしつくさんと落ち葉を焚けり

 心なき我が一言に傷つきし君に活け置く今朝の白薔薇 (全て実名で某紙・誌に掲載)

古里の山河を想う

2012年06月02日 | 随筆・短歌
 父の勤めに従って、幾つかの町や市に住所を変えながら、最後は両親の実家へと住所を移した私にとって、古里と云えば当然両親の実家です。私が5歳を過ぎた春に、戦火を逃れるように単身赴任となる父を勤務地に残して実家へ戻ったのでした。実家は祖父と曾祖母が守っていました。
 実家の右手には田畑があり、その先が山、左手1.5キロほど先は海、小学校は徒歩3分、中学校は海の方向へ徒歩20分くらいでした。直ぐ裏に川があって、普段は川幅2メートルくらいで子供の足首か膝下位までの深さがあり、子供にも魚や蟹を捕ったりするのに相応しい川が流れていました。
 「故郷」という古い文部省唱歌に
兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて 忘れ難き故郷
という今も愛唱されている有名な歌がありますが、まさにその通りの古里です。「おつぼ」と呼ばれていた庭には、昔の池が埋め立てられて、橋だった畳一枚くらいの大きな平たい石が残っていました。大牛が脚を曲げて座っているような大きな灯籠があって、木々が茂っていましたが、冬は時折夜中に兎が駆けるらしく、足跡が残っていたりしました。私達はその辺りでスキーを楽しみました。スカートをはいてスキーを楽しんでいる写真(祖父が趣味で撮っていました)が残っています。よその子供たちが身に付けていたもんぺも無く、ズボンも無く、雪だというのにスカートにストッキングだったのです。
 私は姉や妹達のように、手が器用ではなく、男の子の遊びが好きで、夏は良く家族が昼寝の時間に一人こっそりと川へカジカを釣りに出かけました。勿論自分で棒の先に糸と針を付けてミミズで釣るのです。カジカは愚かな魚ですから、直ぐに釣れました。 一度「はや」が釣れたことがあり、私は大喜びで持ち帰りましたら、母が「これは珍しい、おばあさんに食べて貰いましょう」と云って、塩焼きにして、曾祖母にあげました。余程私が恨めしそうな顔をしていたのでしょう。母が魚の骨を更に焼いて黒こげになった骨を「カルシウムがあるからね」と私に呉れました。何ともわびしい戦時中の想い出です。
 木登りも好きでした。秋には自分の家の甘柿の木に登り、好きなだけ柿を食べ、家にも袋に入れて持ち帰りました。大粒の栗の木が沢山ある林を持っていて、栗の実が落ちる頃になると、良く見張り番をさせられました。木に登って枝に腰を降ろしていると、大抵決まった人がこっそり拾いに来ました。「こらあー」と大声で怒鳴るのです。すると大人の人もすごすごと戻って行きました。
 風が吹いて栗の実が沢山落ちると、栗拾いという大変な仕事が兄弟順番に回って来ました。早朝に行かないと、みなよその人に拾われてしまうので、愚図愚図してはいられません。母に起こされて眠い眼をこすりながら、いやいや出かけたものです。拾ってきた栗は、みな子供たちのおやつになったり、甘露煮になりました。お正月まで保存して料理に使われました。
 母は八人の子供の為に実に上手く新聞紙の上に栗を広げて、過不足無く均等に分けてくれました。皆じっと見ていて、「私はこれで良いわ」等と云って、一番多そうなのを自分の前に持って来ました。大勢の兄弟ですから生存競争も激しいのです。でも母の分け方が上手くて、どれが多いのかは解らなかったのです。母は「家の子供たちは仲が良くて喧嘩をしない」などとよその人に云っていましたが、母にとっては自分が苦にならなかっただけで、子供たちは大いに喧嘩もし仲良くもし、男女入り交じって議論したりして、切磋琢磨して大人になっていったのです。
 しかし、八人もいた兄弟は皆成人してから、家を遠く離れてしまい、一人も家を継ぐ人がいなくなりました。父が逝き、母が逝き、古里はついに廃家となりました。その廃家も去年とうとう壊されることになって、ついに土蔵まで含めて、芭蕉の句碑をたった一つ残しただけで壊されました。
 廃家であっても家がある間は、年二回くらいはお墓参りに行きましたが、家が無くなってしまうと寂しくて、見に行くのも何となく辛く、心にある風景だけで良いという気もして来ます。
 私の息子は、古里と云えば私の実家を思うと言います。それは夏休みや冬休みなど、必ず私と一緒に実家へ行っていたからです。
 子供の頃は、息子のいとこ達も集まって、それぞれに浴衣を着て、盆提灯を下げてお墓参りに行ったりしました。家の前の広い道から、田んぼの間を縫うように細い小道があり、脇には小川が流れていました。その道がお墓に続く道だったので、一列に並んだいとこ同士の子供たちの盆提灯が、ゆらゆら揺れる様子は、絵に描いたような田舎のお盆の風景でした。
 捕虫網で、セミやオニヤンマを追いかけたり、夜間点っていた電柱に虫が集まり、早朝に行くとカブトムシを捕ることが出来ました。はや釣りもしました。息子は念願の一匹を釣り上げて、大いに喜んだのですが、汚れを落とそうとした夫が水で洗った時に逃げてしまい、可哀想な思いをさせたこともありました。
 以前書いたのですが、古里の我が家の墓石は、普通の墓石ではなく、変なごつごつした石が一つ載っていました。本家の我が家は大きく、隣の分家のは少し小さいですが、やはり似た形の石が載っています。「どうしてこのような自然石が墓石になっているのか」と子供の頃には恥ずかしい気持ちもありました。祖先が親鸞上人のお墓の石に似た石を、谷伝いに探させて載せたのだ、という話は聞いていたのですが、真偽の程は分かりませんでした。  ところがその後私達夫婦が、京都の大谷祖廟へ、親鸞上人のお墓にお参りに行って、初めてその話が真実だったことを知って驚いたのです。その頃の親鸞上人の墓石は真っ黒で、やや我が家の墓石より小ぶりでしたが、形が実に良く似ていたのです。その後10年程を経て、再び参詣した大谷祖廟は、黄金色の扉が付き、墓石も磨いたのか赤みを帯びて見え、初めの感動の時より似ているとは思えなくなりました。
 現在のお墓には、先祖代々約250年くらいの間に、亡くなった人の納骨がされているようです。近年菩提寺の過去帳から、弟が写して物故者名簿を作りましたが、何代か同じ名前が受け継がれていて、昔の「家」の存続に懸けられた情熱のようなものを感じています。跡取りである筈だった長兄は、原子物理学を専攻し、学生時代に可成り粗末な防護設備で実験していたのが原因らしく、60歳で急性骨髄性白血病で亡くなりました。若くて血気盛んな頃は、「こんなへんぴな田舎へは、戻って来ないよ」といっていたのですが、やがて55歳を過ぎた頃からは「退職したら古里に戻って、晴耕雨読の生活をしたい」と云うようになりました。その夢は叶わぬままになりましたが、誰しも歳を重ね、老いゆくに従って古里を恋うる心が強まっていくようです。
 今の私には、古里の風景を形作る山々も、手前の川のせせらぎも、世界中に此処にしかない風景として迫って来ます。たとえ家が消えても、万感胸に迫る思いで立ちつくすのが、古里の山河というものなのでしょう。啄木ならずとも「ありがたい」と思わず目頭が熱くなる思いがします。

 ふるさとの山に向かひて 言ふことなし
 ふるさとの山はありがたきかな (石川啄木)

 故郷(ふるさと)の廃家の庭に立待の月の昇るを見て帰り来ぬ

 幾つかの果たせぬ夢をまさぐればふる里はいつも優しかりけり

 ふる里の盆の慣はし笹寿司を今年も作る嫁して50年

 大家族の声は途絶えて古き佳き日本の家の朽ちゆくふる里

 山笑ふ戻れば古里廃墟にて (全て実名で某紙・誌に掲載)