ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

悲しみを越えた先にあるもの

2009年05月18日 | 随筆・短歌
 夫がが長い間勤めて第一回目の退職をした時は、「もうこれ以上勤めたくない」と言いましたし、私も真っ青な青空の下で自由を満喫した、あの退職後の晴れ晴れとした気分を良く知っていましたので、「もう勤めなくてもいいのでは」と云ったのですが、自由だったのはたった2ヶ月で、夫は断り切れずに2ヶ月の猶予の後、再就職したのでした。
 夫はその後5年間を勤めて、やっと本格的に退職しました。私は夫の一回目の退職より、7年前に既に退職して、夫の両親を看取る事によって、長い間私達の子育てに協力してくれた義父母への恩返しの責任を果たしていました。そこで私達夫婦の第一回の旅は、京都の我が家の宗派の本山へ、義父母の納骨をすることから始めました。菩提寺の住職さんに段取りをお願いして、小さな骨壺を二つ抱えて、京都の智積院に出かけました。無事に納骨を済ませて、「哲学の道」を歩きました。丁度桜が散り始めた頃でしたが、西田幾多郎博士の思索の道をそぞろ歩いて、両親に無事にご恩返しが出来て、肩の荷を降ろした気持ちと、今がある事を心から感謝し、満ち足りた気持ちで一杯でした。
 翌日は嵯峨野を歩いて回り、化野の念仏寺まで、それはそれは良い想い出になりました。
倉敷、広島、山口、萩と訪れ、退職後の本格的な旅がこうして始まりました。以来16年間、春に大きな旅、秋に中くらいの旅、その間に1~2泊をちりばめて続けて来ました。 旅には計画を立てる楽しみ、行っての楽しみ、帰ってアルバムを作る楽しみと三回の楽しみがあります。アルバムは時折眺めて懐かしみ、後に残った人の大切な宝物として保存しています。
 退職後の生活は概ね平穏なものかと思いますが、私達はそれから、沢山の悲しみを乗り越えなければなりませんでした。義父母の死、私の実母の死、兄と弟の死、33歳の娘の早世がありました。
 結婚した娘が吉祥寺に新築マンションを手に入れた時、「部屋が小さいので、将来同居は出来ないけれど、近くに住む場所を見つけて、生涯面倒を看るから心配しないでね」と言って、先ずは孫の顔を見る楽しみと、その子育てを心配していた私を驚かせたのですが、神は無慈悲にも逆縁の悲しみを私達に与えられたのです。それからは失意と悲嘆の日々でした。
 義母の24時間休み無しの看病にに全精力を出し切って、亡くなった後で喪失鬱になった私でしたが、やっと乗り越えたと思ったら、義父が亡くなり、更に娘が亡くなってしまったのです。娘の死で鬱は再発し、それは以前よりもずっと重症でしたが、何とか頑張って家事をやり抜きました。夫が毎日私を強引にウォーキングに引っ張り出して呉れました。 家からの第一歩を踏み出す迄が大変辛いのですが、出てしまうと良い気分転換になって、毎日欠かさなかったウォーキングで、さしもの鬱もやがて治っていきました。好きな旅も具合の悪い中を欠かさずに出かけました。三回の四国遍路もそんな中で行ったものです。
 不幸が家族を襲うと家族は一層団結して、困難に立ち向かうようになり、お陰で何時も危機を乗り越えてこられました。不幸に見舞われる度に家族の絆が強まったといえます。
 娘が亡くなって10年経った去年、娘の夫も再婚し、私達もやっと肩の荷を降ろした気分になっています。
 そうして漸く私達にも平穏な老後が訪れました。悲しみを背負う程人間は優しくなる事も、介護の経験が他人へ思いやりを育む事も学びました。そして何より家族の大切さ、有り難さを感じています。振り返れば長い苦難の道のりでしたが、人は概ね苦難の中を苦しみながら生きて行くものなのでしょう。この先どのような不幸が待っているのか解りませんが、今はただ感謝の念で一日一日を生きています。

山道に落ちし松かさ拾ひ行く夢の欠片(かけら)を集めるやうに
玻璃(はり)を打つ時雨の音に目覚むれば生きねばならぬ一日がある
愛別離苦苦しき旅路に涙していくたび墓地への石段登る
十年(ととせ)経ぬ墓碑を越え来る風和みあなたは静かに眠りいるらし
身の丈の幸せはあり喩(たと)ふれば道ばたに咲くタンポポの花
                  (全て某誌・紙に掲載)

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1 コメント

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感謝 (はまぐりん)
2009-05-19 18:53:14
感謝の気持ちは大切ですね。一日一日私も大切にしたいです。
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