海に囲まれた日本では、海から日が昇る光景も海への入り日もどちらも多くの場所で見られます。愛知県の知多半島ではこのどちらも見られる所があると聞きます。以前私の知人が或る大学の講師をしておられて、知多半島のご出身でした。
確かに海にせりだした半島では、そうなのでしょうし、その様な海辺は日本のあちこちに沢山あるのでしょう。海辺といえば、枕崎、長崎、岡山、鳥取、串本、能登、唐桑半島、下北半島、小樽、網走、釧路など、数多くの海辺を巡った経験があります。真っ赤に燃えた夕陽が海に沈む光景は感動的です。水平線に接してからごく短時間にすっかり沈んでしまう事にも感動します。地球が球形であることが、一層印象的に感じられもします。今日も良いお天気で夕陽がとても綺麗でした。私の家は海から数キロの平野の中にあり、庭に面した窓から夕陽を見る度に、忘れられない想い出が脳裏をかすめる事があります。
それは何度目かの東北への旅行の折りに立ち寄った、釜石市の図書館司書の方が「未だ一度も夕陽が海に沈む光景を見たことがないので、是非見たい」と云われのでした。夫と二人で二度目の東北を巡る長い旅から帰った翌年に、3・11の大震災がありました。すぐさま「あの人はご無事であったか」と数人の友人知人の顔が浮かびました。福島市の夫の友人他、間もなくご無事を確認出来た人もいましたが、石巻の私の友人は、連絡しようにもどの避難所に行かれたものか見当も付かず、当時はネットであちこちの避難所の名簿を検索しましたが徒労に終わり、ご無事が分かったのは可成り後の事でした。
名前もご住所も知らない釜石の市立図書館の司書の方も、気がかりでした。旅のついでに調べてみたい出来事があって、図書館に立ち寄ってお世話になったのでした。親切な司書の方に出会って、いろいろとお話し出来ましたし、目的も果たせました。
帰宅後、私は彼女にお礼の手紙を書きました。お名前が分からず、「司書様」としたのが、今以て残念です。その方の優しい面立ちが印象的で、遠くを見つめる眼差しの美しい知的な女性でした。図書館の近くに高台があれば良いのだけれど・・・と等高線で図書館辺りの標高を調べたりしましたが、多分津波が押し寄せたであろう事しか分かりませんでした。何しろ東北のリアス式海岸は入り組んでいて、津波が入り江に押し寄せると、その波の何倍にも膨れあがった波となって押し寄せるのですから、たまったものではありません。
当時も宮古に近い国道で、その岩肌に昔の津波の高さに線が引かれていて、私の身長の何倍もあるその高さに驚いたのでした。3.11の時はそれ以上の津波になったことでしょう。被災された方達に今でも心が痛みます。
当時は車の旅でしたが、助手席の私が地図を持っていましたのに、道路標識を見落としてしまったらしく、とんでもない谷沿いの危険な断崖絶壁の上の道に出てしまって戻るに戻られず、やっとの思いで過去に見学した龍泉洞への矢印の標識のある所へ出て、ホッとしました。それからは順調に宮古にたどり着いたのでした。
東北方面では、その旅行とは別に、啄木記念館や毛越寺など見学した旅もありました。わんこ蕎麦や稲庭うどん等、何を食べて来るかも楽しみの一つでした。夕陽の美しさからすっかり食べ物の話しになってしまいました。
「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と云ったのは芭蕉ですが、松島は今も美しい海の中の島々ですが、象潟はすっかり陸地の中の小山の集まりになっていて、とても残念でした。隆起しないで昔のままだったら、きっと美しかったであろうと思いました。芭蕉の表現の「憾むが如し」を想像しながら下って来ました。日本海沿いの国道では夕陽がそれはそれは美しく、感動的でありました。
足元から水平線に向かって一直線に続く、黄金色の神秘の道の先には、どの様な世界があるのだろうかと、人智を越えた世界に思わず手を合わていたのでした。
確かに海にせりだした半島では、そうなのでしょうし、その様な海辺は日本のあちこちに沢山あるのでしょう。海辺といえば、枕崎、長崎、岡山、鳥取、串本、能登、唐桑半島、下北半島、小樽、網走、釧路など、数多くの海辺を巡った経験があります。真っ赤に燃えた夕陽が海に沈む光景は感動的です。水平線に接してからごく短時間にすっかり沈んでしまう事にも感動します。地球が球形であることが、一層印象的に感じられもします。今日も良いお天気で夕陽がとても綺麗でした。私の家は海から数キロの平野の中にあり、庭に面した窓から夕陽を見る度に、忘れられない想い出が脳裏をかすめる事があります。
それは何度目かの東北への旅行の折りに立ち寄った、釜石市の図書館司書の方が「未だ一度も夕陽が海に沈む光景を見たことがないので、是非見たい」と云われのでした。夫と二人で二度目の東北を巡る長い旅から帰った翌年に、3・11の大震災がありました。すぐさま「あの人はご無事であったか」と数人の友人知人の顔が浮かびました。福島市の夫の友人他、間もなくご無事を確認出来た人もいましたが、石巻の私の友人は、連絡しようにもどの避難所に行かれたものか見当も付かず、当時はネットであちこちの避難所の名簿を検索しましたが徒労に終わり、ご無事が分かったのは可成り後の事でした。
名前もご住所も知らない釜石の市立図書館の司書の方も、気がかりでした。旅のついでに調べてみたい出来事があって、図書館に立ち寄ってお世話になったのでした。親切な司書の方に出会って、いろいろとお話し出来ましたし、目的も果たせました。
帰宅後、私は彼女にお礼の手紙を書きました。お名前が分からず、「司書様」としたのが、今以て残念です。その方の優しい面立ちが印象的で、遠くを見つめる眼差しの美しい知的な女性でした。図書館の近くに高台があれば良いのだけれど・・・と等高線で図書館辺りの標高を調べたりしましたが、多分津波が押し寄せたであろう事しか分かりませんでした。何しろ東北のリアス式海岸は入り組んでいて、津波が入り江に押し寄せると、その波の何倍にも膨れあがった波となって押し寄せるのですから、たまったものではありません。
当時も宮古に近い国道で、その岩肌に昔の津波の高さに線が引かれていて、私の身長の何倍もあるその高さに驚いたのでした。3.11の時はそれ以上の津波になったことでしょう。被災された方達に今でも心が痛みます。
当時は車の旅でしたが、助手席の私が地図を持っていましたのに、道路標識を見落としてしまったらしく、とんでもない谷沿いの危険な断崖絶壁の上の道に出てしまって戻るに戻られず、やっとの思いで過去に見学した龍泉洞への矢印の標識のある所へ出て、ホッとしました。それからは順調に宮古にたどり着いたのでした。
東北方面では、その旅行とは別に、啄木記念館や毛越寺など見学した旅もありました。わんこ蕎麦や稲庭うどん等、何を食べて来るかも楽しみの一つでした。夕陽の美しさからすっかり食べ物の話しになってしまいました。
「松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し」と云ったのは芭蕉ですが、松島は今も美しい海の中の島々ですが、象潟はすっかり陸地の中の小山の集まりになっていて、とても残念でした。隆起しないで昔のままだったら、きっと美しかったであろうと思いました。芭蕉の表現の「憾むが如し」を想像しながら下って来ました。日本海沿いの国道では夕陽がそれはそれは美しく、感動的でありました。
足元から水平線に向かって一直線に続く、黄金色の神秘の道の先には、どの様な世界があるのだろうかと、人智を越えた世界に思わず手を合わていたのでした。