ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

耐えて耐えて・・・生きて

2024年03月02日 | 随筆
 昨日何気なくテレビのスイッチを入れましたら、小林幸子さんの歌声が流れてきました。何時もの小林幸子さんとは違うようで思わず聴き入りました。作詞作曲は私の大ファンの「さだまさし」さんでした。

 耐えて 耐えて 耐えて
 生きて 生きて 生きて
 それでも笑えたらいいね

 季節の変わり目の雨が降る
 坂道(さか)の上は霧で見えない
 母の夢を見た
 ただ笑ってた

 坂道もいつか終わるよ
 名も無い花などないように
 喩え誰にも気づかれなくても
 必ず花は咲く
 それでいいじゃない
 いつか花は咲く
 それでいい

 耐えて 耐えて 耐えて
    (以下略)
 さだまさしさんは私がもう何十年も前からのファンでしたから、早速CDをネットで購入して貰いました。聴く程に心に染み込みました。その歌は私の母を思い出させもしたのです。

 私の母は明治末期の生まれで、8人もの子供を産み育てました。男4人女4人です。地方の小地主の跡取り娘として、長い間男の子の無い女系家族でしたから、女学校を卒業した母は私の父と結婚してから後に産み育てたのでした。既に長兄と三男が鬼籍に入っていますし、父も母も他界しました。
 父母が8人の子供育てをしていた頃が戦後で、長兄は大学院で原子力発電の研究をして、ヨーロッパやアメリカに留学したり、そこの原発に勤務していたのですが、放射線を可成り浴びたらしく後年は白血病に罹って病院に入院治療を余儀なくさせられました。亡くなった今でも残念です。
 父母の様に大勢の子育てをすることは、なかなかの労力が必要だったことと思います。しかし母は大変だとは一言も云いませんでした。当時は戦後で日本中が耐えて生きていた頃です。大変な苦労もあった事と思いますが、今頃になってその苦労を偲んでいます。
 長兄が病院に入院していた頃は、私も夫と見舞いに行きました。大家族の長男だった兄は、自分の亡き後を気にして、「後はこの様に頼む」とびっしり書き込んだメモらしき半紙を見舞いに行った私の手に渡しました。でも私には一言も読めない乱れた英文字の書き付けだったのです。今も兄の願望としてこの時の様子が心に刻み込まれています。
 悲しみがどっと湧き上がって来ました。きっと後々の我が子や妻や、私の実家の兄弟とか後の土地家屋をどうするか等考えた上で、長男としての義務だと考えての結論だったのだと思います。もう遠い記憶ですが、その思いを振り返ると哀しいです。
 故郷の古くて大きい家に残った母は、後に私の弟と共に故郷に住んでいた時期もありましたし後には私の住む県都で弟と同居していました。「耐えて 耐えて 生きて 生きて」を実際に自分の背中で今も生きて居る私達に示したのではないか?とも思ったりしているところです。高齢の私のこのブログを亡母はどんな気持ちで読んでいることか・・・とも思います。

 たらちねの母の背中の大きさは 耐えて生きたる証しなりけん   あづさ
 
 

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