ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

老いて気付く

2013年12月26日 | 随筆・短歌
 今年も一年の終わりを迎えました。最近友人達と逢う度に、彼女達やそのご主人の体調不良を聞くことが多くなりました。私自身もあちこちと長年使って草臥れた関節などが、痛みという形で、過酷な使役に耐えて来たことを主張しはじめています。
 何も痛みを感じなかった頃は、健康が当たり前の事として過ごしていましたが、痛みを感じるようになると、何と有り難い体を貰っていたことか、と我ながら驚き、健康に生まれ、ここまで生きて来られたことに感謝しています。
 最近になって一層老いるということは悪いことばかりではなく、良いことも沢山あるということに気付きました。今さら私ごとき人間が言うのも可笑しいのですが、こんなに良い面もあるということは、老いて初めて解るような気がします。
 若い頃には、まるで他人事のように、老いることは寂しいことであり、死に近づくことは悲しいことだと考えていました。しかし今は、老いるもまた良し、死も又良し、と思うようになっています。
 もし老いることが無かったら、このような心の安らぎを感じる日々が有り、一日一日をこれ程深く感謝したでしょうか。老いることが無かったら、永遠に続く若さ故の、苦しみばかりを感じていたかも知れません。又もし人間が永遠に死ねなかったら・・・、考えるだけで気が重くなるようです。
 人間のDNAは大抵120歳くらいで死ぬように出来ていると聞きました。ある程度生きたら、自然に穏やかに死ねることも又幸せです。肉体の各器官が働かなくなっても、更に生きて居なければならない状態になったとしたら、それは悲劇です。
 では私が感じた「老いて気付いた良い点」を挙げてみたいと思います。
1)欲が少なくなり、少しの幸せにも有り難く思う
2)自分の愚かさを恥じるけれど、有りのままの自分を是として生きることが出来るようになった
3)肉体の衰えに歩調を合わせ、ゆったりと生きることの良さが解った
4)心が広くなり、以前より寛容になった
 列挙すれば際限がありませんが、少なくとも欲望が小さくなると、その分幸せが大きく感じられることは確かだと思っています。どんなにお金を積んでも、幸せは買えません。ささやかな暮らしの中だからこそ幸せが見えるのかも知れませんが。
 「寛容」については、「立松和平のエッセイ集」に、「中村元先生の寛容」という題で既に鬼籍に入られた中村先生を偲んで、書いた文章があります。少し抜粋させて下さい。
『相手を暴力によって殺戮する戦争、相手を生きたまま支配する経済戦争など、二十世紀は闘争に明け暮れた。そしてこの闘争はやむどころが、いよいよ苛烈になって来世紀に持ち越されそうである。中村元先生が晩年しきりに寛容を説いておられたのは、現実に寛容の精神が弱まったからである。 』ー中略ー
 『因果応報は釈尊の教えの根本である。闘争は新たな闘争を生むだけではないか、それは人類の長い歴史が証明しているのではないか』ー中略ーそして「法句経(ダンマパタ)」から
 『実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みの息(や)むことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である』を引いて、『これからは仏教の時代であると私は確信している。』と書いておられます。
 立松和平も鬼籍に入り、二十一世紀に入った今日、世界も日本も、まさにこの寛容が益々重要になってきいると、私は痛感しています。「許せない」ということが、他人をも自分をも不幸に追い込んでいます。
 だんだん見たいテレビ番組が減って、我が家の大晦日はここ何年かは古い映画の中から、もう一度観たい名作のDVDを借りて来て見る慣わしになっています。今年の作品は未だ決まっていませんが、見終わる頃に「行く年、来る年」の番組を出して、テレビで何処かの除夜の鐘を聞き、又我が家の近くのお寺の鐘を聞いて、新しい年を感謝と感激の中で迎えるのです。
 今年一年もお付き合い頂き、有り難うございました。どうぞ良いお年をお迎え下さい。

今日一日健やかなりしを感謝して沙羅眺めおりひとりの日暮れ(某誌に掲載)

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「夫婦円満のこつは?」から

2013年12月15日 | 随筆・短歌
 今年も沢山の出会いがあり、遠い地から古くからの友人が訪ねて来てくれたりして、想い出深い一年でした。長く隔たって過ごしていると、日頃手紙やメールの交換が続いていても、再会した時には、積み重ねられた年輪の重みがじわりと伝わってきます。その上自分の生き方について振り返る機会ともなり、有意義なことだと改めて思いました。
 昨日(2013.12.14日)の日本経済新聞のプラスワンに目を通しましたら、次の様な記事が目につきました。
 何でもランキング (上位3位まで抜粋)
 「夫婦円満のこつは?」
   *けんかしたら*
    <妻の気持ち>           
1)翌朝普通に「おはよう」と挨拶する
2)自分が悪い場合は、すぐに謝る
3)言いたいことを全部言い合う
<夫の気持ち>
1)自分が悪い場合は、すぐに謝る
2)言いたいことを全部言い合う
3)納得するまで話し合う

   *今年一番の感謝*
<妻の気持ち>
1)家事を手伝ってくれた
2)一緒に旅行へでかけた
3)好きなことを自由にさせてくれた
<夫の気持ち>
1)そばにいてくれるだけでうれしい
2)一年間お互いに健康でいられた
3)毎日きちんと料理を作ってくれた

 妻にも夫にも「言いたいことを全部言い合う」と言う回答があって、「言いたいことがあっても、相手をあまり傷つけないように、我慢しているとやがて忘れる」という年代?の人間としては、可笑しいような、一方素直で良いなぁと思ったりしました。
 その一方で、両方が言いたいことを全部言い合ったら、果たしてどう収拾するのだろうか、と疑問も感じました。もしお互いに言いたいことを全部言ったら、「覆水盆に返らず」になるような気がします。みな短所を持っているのですから、補い合ってこそ夫婦というものではないでしょうか。最近の離婚増の原因がちらりと見えた気がします。
 その他には、夫は妻が「そばにいてくれるだけでうれしい」という答えが、微笑ましい感じでした。
 別の地方紙におじさん・おばさんのエッセイが載ることがあり(エッセイストや作家が書いている)、同日の「おばさん事典」は「面会意欲」という題で、ある特別養護老人ホームに入所した義母がいる女性が、よく面会行き、そこで見えてきたこととして、「その施設に限って言えば、おばあさん(以下妻)が入所している場合、おじいさん(以下夫)は頻繁に面会に来る。妻と一緒に入所した方がいいんじゃないのと思うくらい元気がない夫でも来る。交通の便が良くないのに。でも夫が入所している場合、妻は全然来ない。見事に来ない」ー中略ー
 うん夫に先立たれた妻は寿命が延びる。妻に先立たれた夫は寿命が短くなるというもんね。「面会の意欲の差は愛情の差だと思う。夫は妻が好きだが、妻はそれほどでもないのでは」切ない分析になってきました。と書かれていました。
 私の友人は、ご自分が入院した時、「主人は遠いのに、毎日必ず見舞いに来るのよ。あんまり可哀想で、先生にお願いして、少し退院を早くして頂いたの」と言っていました。大都市でも良い専門医の多い大病院に入院すれば遠いのです。とても仲の良いご夫婦ですから、ご主人が病気になった時は、彼女は付きっきりで面倒を見ていて、彼女も過労で倒れるのでは、と心配したほどです。
 世間には様々な夫婦がおいでですが、私の身の回りには、夫の見舞いに行かないという人は居ないようです。時代が変わってしまったのかな、それとも病気とホームでは違うのかな、と思っています。
 どうしたら良い夫婦の関係を続けていけるのか、それは相手の誤解や間違いを赦しあう、ということではないかという気がします。誤解を生む原因は自分の方にもあります。思慮深く行動し、一方的に責めたりせず十分話し合い、自分が悪い場合はすぐに謝るなどすれば、そして相手に感謝しあえば、(感謝することは探せば必ずあるのです)決して夫婦間が危機的になったりすることは無いでしょう。
 私達夫婦はとてもよく話し合う方だと思っています。二人で居れば退屈をすることがありません。けれども個々の静かな時間と空間もお互いに大事にしています。
 折角この世で廻り合った二人なのですから、生涯仲良く過ごしたいですし、来世があるなら義父母や子供たちも含めて、又同じ家族で過ごしたいと思っています。その為にも相手を傷付けたりしないように、思慮深くありたいと日頃から心がけるようにしています。

心なきわが一言に傷つきし君に活け置く今朝の白薔薇(某誌に掲載)

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薄日さす初冬の午後

2013年12月05日 | 随筆・短歌
 一昨日は薄日のさす穏やかな一日でした。たまたまお昼を食べに家から7~8分のイタリアンレストランへ珍しく家族で出掛けました。異業種のお店が集まる団地で、もう何年か前に開店していたのですが、家族で外食するのは祝い事くらいですから、今まで一度も行ったことが無かったのです。
 入ってみると外見よりも広く、模様ガラスで仕切られた空間は、個室のようで居心地が良く、とても美味しいランチを頂きました。久しぶりの団らんを外で過ごして、満足しました。
 お店を出てから私と夫は、そこから又8分位のカラオケ店へ繰り出したのです。半年以上カラオケから遠ざかっていましたので、会員券利用も久しぶりでした。何時も歌う歌は決まっているようなものなのですが、それでも年年耳にする回数の多い歌は自然に歌えるようです。夫は最近お気に入りの「千の風になって」や何時も変らぬ「白虎隊(詩吟入り)」を、私は島津亜矢の「帰らんちゃよか」や啄木の「初恋」等、他に聞く人もいない気安さに、下手な事は気にせずに大声で歌って来ました。
 「誰か故郷を思わざる」と言う古い歌がありますが、夫はある集まりの宴会の二次会で、締めくくりの歌が何時もこの歌だったそうです。肩を組んでみんなで歌った当時が懐かしいらしく、何時も最後に選曲しますので、その都度二人で歌います。
 二時間歌ってストレスを解消し、満足して帰って来ました。夜になって、夫は樺太から小学5年で引き上げて来た頃のふる里の山河について懐かしみました。戦後何も娯楽が無かった時代に、住んでいる集落のもう少し奥に、若い人達が演じる演芸会があり、見に行った事、自分の集落の小中学生達だけで山に行き、薪を拾って味噌汁を作って食べたりしたことなど懐かしんで、ふる里のイメージには、どうしても山や河の背景が必要だと言います。
 私は一月遅れの雛の日に、茶事といって、母にお寿司などを作って貰って、日当たりの良い芝の土手などで、友達と集まって食べた楽しい想い出があります。神社の春祭りの夜店や、夏の盆踊りが懐かしいです。今はもうどちらも無くなっているようです。
 いじめは全く無かったとは言えないようでしたが、皆限度をわきまえていて、激しそうな喧嘩でも、終わるとサラリと仲良くしていましたから、登校拒否など、見たことも聞いた事もありませんでした。
 新しい中学校を建てる時に、授業をしないで、自分達の手で土を運んだりした想い出もあり、「二十の扉」などラジオ番組を真似て、問題を出し合いながら楽しく働いたこと等、二人とも学校が違うのに、何故か同じような経験をしています。
 戦争が終わって、物資の不足な時代を生きぬく為には、老若男女総じて労働に携わらなければなりませんでした。やがて高度経済成長の時代を過ごして来た私達です。それでも平和であって、みんな明るかったと思います。やっと手にした平和を大切に思い、今も日本の平和に感謝しています。
 最近は、昔の祭りや行事が見直されて、再び脚光を浴びているようですが、平和でないと出来ない、祭りや行事に触れることが出来る人々は幸せに違いないと思っています。
 現職の霞ヶ関の官僚が書いた「原発ホワイトアウト」を読みました。背筋が寒くなりました。
 扉に「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とカール・マルクスの言葉が引いてありました。歴史に学ばないことの愚かさを痛く感じました。
 千年に一度の大地震が先の3.11だったとしたら、平安時代から今日の科学の進歩から推し量って、後997年後には人類は空を一人一人低空で安全に移動出来る手段も持っているかも知れません。もしそうならば、高い防潮堤は、政府のいうように東北には不要でしょう。必要なのは、東南海トラフの地震に備えて、東京湾とか、大阪・四国などではないでしょうか。
 有史以来数千年でしかありません。核廃棄物の放射能が無害になる100万年後には、人類はどんな言語を持ち、現在の津波や原発事故の歴史が、どのように伝えられているのでしょうか。
 不安の先取りはしたくないですが、せめて安心安全な国として、後世の人々に日本(地球)を引き継いで行くことが、私達の使命だと思われます。
 誰か故郷を思わざる、という心はきっと何時の世も同じだと思います。12月の薄日の一日は、今の日本の束の間の幸せに似て、穏やかでした。また、太陽ははっきり見えませんが、そこにあってくれて、私達に幸せを運んでくれています。大事にしたい一日一日だと思っています。

一日の日程終えて見る暦十年先を推し量りつつ(実名で某誌に掲載)
昨日より今日がやさしくあるように老いてゆきたし侘助の咲く(同上)


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