ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

花風車

2011年03月27日 | 随筆・短歌
 先日手元に届いたアメリカのヨセミテ国立公園の絵はがきを見ていましたら、ふと日本にも数々の断崖があることを思い出しました。日本は海に囲まれた国なので、あちこちに海に面した断崖があります。私の見たものは、ごく一部でしかなく数える程ですが、心に残っている断崖の筆頭は、四国の足摺岬です。椿の原生林を抜けて目の前が開けると、いきなり眼下に広がる想像を絶した断崖絶壁は、遥か足許に打ち寄せる波が白く泡だって見えました。入り込んだ海面の対面には、矢張り切り立った断崖の頂上に白亜の灯台が見えて、細い小道を進む私の足が、小刻みに震えるほどの怖さでした。
 青年がこの断崖を死に場所にしようとやって来る、田宮虎彦の名作「足摺岬」を想い出して、逆巻く波濤を見つめていますと、死にきれずに雨に濡れて、ぐったりと宿に帰ってきた主人公の気持ちが伝わって来る思いでした。
 次に印象深かったのは、北海道の霧多布岬の断崖です。場所によって100mはあるというその断崖は、直ぐ足許から海に切れ込んでいて、打ち付ける海水が霧となって立ちこめ、海面が良く見えないような感じでした。吹き上げる風と波しぶきの霧で霞む断崖の上の野原は、一面に黄色の花が咲いていました。塩水に強い植物だと説明にありました。夫の帽子が飛ばされて、あわやというところでした。この原生花園の美しさが、断崖の荒々しさと対照的で、忘れられない光景でした。岬の外れまでは、霧が立ちこめて見えませんでしたが、霧多布という名前に相応しい霧の断崖でした。
 福井県の東尋坊の柱状節理の断崖、能登の能登金剛やヤセの断崖、これらも西風に晒された荒々しい感じの断崖です。船から見ると、以外に美しい佐渡の尖閣湾の断崖などは、恐怖より美しさを感じます。追いつめられた主人公の心理の背景に断崖はふさわしいらしく、能登金剛やヤセの断崖は、松本清張の「ゼロの焦点」に、また、尖閣湾は、菊田一夫の「君の名は」に登場する断崖です。
 知識に乏しい私は、リアス式海岸は東北地方独特のものかと思っていましたが、山陰を旅した時に、福井県から鳥取県に到る海岸もまたリアス式であることに気付きました。くねくねと曲がって上り下りする道路は、危険でハンドルを握った夫も目が離せませんでしたし、助手席の私もハラハラしました。平地に来るとホッとして、体から一気に力が抜ける思いでした。
 こうして考えて見ますと、日本のあちこちに沢山の断崖があり、その断崖が出来る迄の永い時間の厳しい自然条件に思いを馳せたりすると、怖くもあり美しくもある断崖に、心を奪われるのは私一人ではないと思います。
 思い切って何かを決断しようとする時に、「清水(きよみず)の舞台から飛び降りる気持になって」と言います。高い所から飛び降りるのはとても勇気が要り、怖くてなかなか思い切れません。敢えて思い切って行動する時の表現に、この言葉が使われる訳ですが、恐らく多くの人がここ迄の人生の道のりで、一度ならずこの気持を味わって来られたことと思います。
 石橋を叩いて渡るとはその反対の意味に使われますが、これをもっと強調して石橋を叩いても渡らない、という言葉もあります。私も気が小さくて石橋を叩いて渡る方ですが、それでも目を瞑って飛び降りる気持になって、決断せざるを得ない場面がありました。
 義父母のこれから先を考えた時、何時病に倒れるか解らず、倒れたからといって途中退職することも休職する事も、迷惑を掛けることになって出来ませんので、思い切って年度末に退職するしかありませんでした。本当はその一年前に、夫に退職するように言われて「今日は退職について、上司に伝えて来よう」と思ったのですが、出勤のバスの中で足が震えてきて、とうとうその年は退職出来ませんでした。
 幸いその一年に義父母は病気で倒れることもありませんでした。自分の仕事を退くという決断は、なかなか簡単ではありません。けれども永い時間の癒しによって、それらの出来事はやがて「それで良かった」という確信のような気持を抱かせてくれましたが、これからも幾つかの決断の時は来ることでしょう。思い切りの良さも又人生には必要ですから、時には崖から飛び降りる気持になることも、事態を打開する為には必要になるでしょうが、失敗したらやり直す時間のない私のような年齢の人間には、そんな事が起きないように祈るばかりです。 
 もう13年も前になりましたが、娘が亡くなった年に鬱状態になった私を、夫は無理矢理旅行に連れ出しました。能登を一周して白川郷、黒部方面を5泊ほどで回りました。悲しみの最中でしたので、記憶はおぼつかなく余り覚えていませんが、写真が想い出を運んでくれます。能登金剛の断崖を下って海沿いの道を洞穴に行きましたら、大きな洞穴の奥に水子地蔵が祀ってあり、とても沢山の風車が風にカラカラと回っていて、その光景が一際深い悲しみを誘いました。
 こんな所にこんなに沢山の悲しみが集まっていると思うと、涙が溢れて止まりませんでした。断崖にまつわる想い出のひとこまです。

 能登海岸洞に吹き込む風泣きて水子地蔵の花風車(実名で某紙に掲載)



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ミレーの「晩鐘」のように

2011年03月21日 | 随筆・短歌
 大震災から10日が経ちました。このブログを読んで下さっている方は、多分全国におられることと思われますが、如何お過ごしでしょうか。被災された方々には、心からのお見舞を申し上げます。地震による被害の様子が次第に明らかになるにつれ、また原発の被害のその後の様子を聞くにつれ、直接間接の被害者は数知れず、計画停電に耐える人々も含めると、日本人の半数近くの人々が、何らかの被害に遭っていると云っても過言ではないように思います。
 災害時は気を張っていた人も、そろそろドッと疲れが出て来る頃です。こういう時は、「今日一日をしのごう」という短いスパンで考えて、何とか乗り切って頂きたいと祈っています。
 丁度ミレーの「晩鐘」の絵のように、一日が終わって教会の鐘を聞きながら、「今日一日が無事に過ごせたことを感謝します」と祈りを捧げている農夫のように、せめてささやかな一日を感謝で過ごせたら・・・、と思っています。
 「それは当事者でない人には理解出来ないことだ」というお叱りの声も聞こえるようではありますが、起きてしまった災害は、悔やんでも仕方のないことですから、ひたすら前を向いて歩くしかありません。 遠くを見ると疲れて歩けなくなってしまう恐れがあります。直ぐ目の前を見て、兎に角そこまでは安全に進む、といった気持が大切かと思います。
 私が若かった頃に、槍ヶ岳から北穂高を通り前穂高岳まで、縦走した時のことを以前一度書きましたが、北穂高岳へ向かって大キレットを下る頃から、とてつもない不安に襲われて来ました。いよいよ北穂高に登り始めた時、上を見上げると頂上も見えない絶壁に途方に暮れ、下を見れば目もくらむ断崖です。足場をしっかり確保して、立っているのがやっとという思いでした。進むことも退くことも難しいく、ひたすら直ぐ近くにある登山の方向を示す赤い丸印を見て、そこまでの一歩を安全に進むことしか、考えられなかったのです。でも何時間か必死にそれだけ目指して、少しずつ進んでいましたら、ひょいと北穂頂上小屋のある台地に出たのです。助かった!と思った瞬間体から力が抜けて、ヘタヘタと座り込んでしまいました。
 以来困難な事態に遭遇した場合は、これから先を遥かに見通してあまり不安にならないように、過ぎ去った過去をもなるべく考えないで、一途に目の前の一歩だけを安全に踏み出すことに集中することを覚えました。実際はなかなか難しいことではありましたが、人生を生きていく貴重な教訓を得たことは事実です。
 災害以来、夕方陽が沈む頃になると、カーテンを締めるわけですが、何となく今日も一日無事であったことに感謝して、日の入りを眺めることが多くなりました。今は節電の為に、薄暗くなるまで電灯は付けないようにしていますが、平穏に過ごせた一日の充実感があり、特定の対象ではなく、ありとあらゆるものに対して感謝の気持が湧いて来ます。
 一昨日はお彼岸に入りましたので、我が家でも墓地へお花や線香などと、タワシ類やバケツを持って、お掃除とお参りに行って来ました。墓園は海側の松林に高く広い道路が出来て、整備された土地の分だけ拡張工事中でしたが、管理が行き届いていて嬉しく思いました。もう2/3程のお墓にお花が供えてあり、大勢の家族連れが訪れていました。喪服の人々もいて、休日なので、納骨や法事があったのでしょうか。「家族一同を守って頂いて有り難う御座います」とお礼の言葉を添えてお参りして来ました。大災害の後でしたので、次は我が身かと思いつつ、「何時幽明堺を越えてそちらにお世話になるかも知れませんが、その節はよろしく御願いいたします」と御願いしてきました。
 家を失い家族を失い、職業や、土地を失って、途方に暮れておられる方々を思うと、本当にお気の毒ですし、我が身に置き換えて考えますととても辛く、一刻も早い復旧復興を願うばかりです。
 地震列島日本は、過去に幾度も地震の被害に遭い、その都度立派に立ち上がって来ました。希望を見失うことなく、昨日より今日、今日より明日、一歩一歩前へ進んで行きましょう。そして今日一日が無事に終わった時に、感謝と希望がありますように。

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助け合って危機を乗り越えましょう

2011年03月15日 | 随筆・短歌
 この度の東北関東大震災の被害状況のニュースを見て、未曾有の災害の恐ろしさをひしひしと感じています。この災害で命を落とされた方々に心からの哀悼の意を捧げます。また被災され避難して居られる皆さん、救助や救援活動に不眠不休でご活躍しておられる皆さんのご苦労を思い、一刻も早い復旧を祈るばかりです。

 私が「忘れた頃に」と題してブログに載せたのは、3月11日の午前7時25分でした。まさかその日の午後2時46分に、この大地震と津波が押し寄せるなんて、考えてもみませんでした。東北旅行の際に印象に残った、あの10mの防潮堤を津波が軽々越えて行く映像は、正視に耐えませんでした。リアス式の美しい海岸線も、むごたらしいがれきの山を築くことになって、人命救助や、復旧を妨げています。日本では、地震と津波の被害は幾度も繰り返され、その都度学習して来たのですが、1000年に一回とも言われている災害の前には、全く為すすべもありませんでした。
 今朝、或る新聞にジョン・タワー氏(マサチューセッツ工科大学教授)の「立ち上がる日本忘れない」という記事を見つけました。それには「阪神大震災の時の被災地で見た、感動的な人々の反応を思い起こした」とありました。そして、「日本は過去にも、とてつもない破壊や災害に直面し、驚異的なまでに心をひとつにして、信じられないような創造力を発揮し、立ち向かってきたことを思い起こさせます。津波の恐るべき破壊の映像を見ると、私は空襲で破壊し尽くされた45年の日本の市や町に思いを致します。広島・長崎への原爆投下の前に、60を越える都市が廃墟となり、子供も含め何十万もの人々が命を失いました。日本がどれだけ破壊し尽くされたか、今では覚えている人も少ないでしょう。 当時、ほとんどの日本人や外国人にとって、迅速な復興など想像もできないほどでした。しかし、やり遂げたのです。日本人は献身的に、一から始めたのです。今では当然のように見えるかもしれません。だが、英雄的でした。今回もまた必ず、日本はそうするでしょう。(後略)」とありました。
 私は、この記事を見て、大いに力づけられました。戦後のあの焼け野原から立ち上がって、復興に掛けた日本人の努力と忍耐と協力を、世界の人々が未だに忘れないでいることに勇気付けられたのです。私達はこの災害も、お互いに助け合って必ず乗り越えていける筈だと信じています。
 各企業から、寄付の動きが報じられています。またボランティアの活動も耳に入って来ます。私のように老人で体力の無い人間に出来ることは、一食分の、或いは、一日とか三日分の食費を節約したり、何処かへ外出する一回分を我慢して、その費用を災害援助に寄付すること位です。我が家でも恒例によって話し合い、何時もの数倍の寄付をすることにして、各々ポケットマネーを出し合い、今朝のウォーキングの帰り道に郵便局で寄付して来ました。
 こんな僅かな金額と言わずに、少しでも寄付することが積もり積もって大きな力になると信じています。寄付の額が問題ではなく、寄付をすることによって、国民が一体となって、復興に協力することに意味があると思っています。
 資源に乏しい日本であるが故に、原子力の発電によって電力を補ってきたことが裏目に出て、不幸な事故が被害を増しつつあるように思われて気になります。しかし命の危険を承知で、何とか被害を食い止めようと努力している方達は、お国の為に命を投げ出した兵士の皆さんを思わせます。ハラハラしながら成功を祈りつつ見守っています。
 みんなで忍耐強く助け合って、災害を乗り越え復興を目指しましょう。前記の記事にも、「世界中が共感し、支援をしようとしている」とありました。あれが足りない、これをして欲しい、と日頃は不満も多いのですが、今こそ、日本人の英知を集め、忍耐強さを発揮して、共に乗り越えていきたいものだと思っています。

 まるでこの地震と津波を、予知するかのようなブログを載せてしまい、また高齢者でもある私は、酷い災害の報道を見て体から力が抜けてしまって、フィットネスクラブも休み、静かにしている有り様です。こんな時は、「何時休んでおられるのか」と思う程に働いておられる人や、不眠不休で災害に立ち向かっておられる方々が、とても偉く見えます。私に出来ることはなにか、と問いかけつつ過ごしたいと思っています。

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忘れた頃に

2011年03月11日 | 随筆・短歌
 一昨日から三陸沖に地震が発生して、津波も観測されました。またニュージーランドでも地震があり、日本人も大勢犠牲になりました。ニュージーランドも日本も、地震がよく起きる所のようです。何時起きるか解らないし、発生を防ぎようのない地震は怖いです。
 私も結婚してまだ子供もいない頃に、夫の生死が二日程不明になるという地震を経験しました。電話も通じませんでしたが、やがて夫が生きていることが解ってからも、一週間は帰宅できず、私一人がやっと勤務先からアパートに帰宅しました。箪笥や棚はすっかり倒れていました。田舎から実家の父が早速見舞いに来てくれました。(父は関東大震災に遭って、命カラガラ東京から歩いて田舎の実家へ帰って来た地震の経験者です)田舎の家は海から直線距離で、約1㎞位山あいに入った所でした。私が独身で家に居た頃に、父は「もし津波が来たら、何処へ逃げたら一番早く安全な場所へたどり着けるか」ということを地図を広げて等高線を示しながら、話してくれたことを思い出しています。
 2003年秋に私たちは東北6県の旅に出ました。岩手県の宮古から大船渡まで、リアス式海岸を通って、途中で宿泊しながら唐桑半島という所へ行きました。其処に津波体験館というのがあって、好奇心の強い私はホテルから独りで出かけました。皆さんもご存じだと思いますが、東北地方では、1896年(明治29年)に明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)に昭和三陸地震、1960年(昭和33年)にチリ地震津波がありました。その後も幾多の地震と津波の被害にあっています。いずれも多くの犠牲者と家屋倒壊の被害が出ました。
 入り組んだ海岸線は、場所によって想像を絶する高い津波が押し寄せて、(明治の津波では最高28m余り)被害を大きくしたようです。津波を防ぐ為の高さ10mの防潮堤と防潮扉も、車で通った道のりの途中にありました。これによって、チリ地震の津波は可成り被害が防げたそうです。(最初に防潮堤を築いた田老町では死者はゼロだったと聞きました)しかし大きな津波ではこれでさえ軽々と越えそうな気がして、恐ろしかったことを覚えています。
 津波体験館では、床が地震と同じように揺れ、周りのスクリーンにドツと津波が押し寄せて、身の周りはすっぽり波に覆われてしまいました。すごい迫力で、まさに生きた心地がしませんでした。夫に物好きだとからかわれましたが、良い経験になりました。
 巨釜(おおかま)というところには、高さ16mの大理石の「折れ石」が海中に立っていて、津波によって先端から2m程の所で折れたと書いてありました。松林の地面に小さな穴があって、その深い底から、とどろく波の音が聞こえて不気味でもありました。
 帰りに厳美渓まで行きましたら、その年の地震(宮城県北部連続地震)で、まだ一部工事中であり、以前来た時より少し美観が損なわれていました。名物の「かっこう団子」は、以前と同じく人気があって、勿論私たちの口にも入りました。
 厳美渓では、川の水が渦を描き大きな石に幾つもの丸い穴を開けています。あの柔らかい水が、石を刳り抜くのですから、そこにはどれ程の長い時間が横たわっているのでしょう。そして私たち人間は何百代生まれ代わって、この渓の水の流れを見続けて来たのでしょう。自然の持つゆったりと大きく永い時間に比べて、私の一瞬でしかない人生の短さとを比較して見つめていました。 
 私が今回地震や津波について書き始めたのは、三月三日の記念日について調べ始めたことによります。勿論三月三日はひな祭りで、家族に「随分年を取ったお雛様なんだな」とか、「雛ではなくて鄙だからね」、と田舎育ちの私がからかわれていたのです。何と言われようと、娘の為に手作りにしてやった木目込みのお雛様を一対、毎年必ず飾って「今年もまたひな祭りが来ましたよ。私たちは皆元気で幸せに暮らしています。きっと貴女が守ってくれているのね。有り難う」とお参りし、桜餅や雛あられを供えます。そして夕食にはお寿司を作ることを恒例にしているのです。
 ところで三月三日とインターネットで引きましたら、地震の記念日と書いてありました。耳の日というのは、知っていましたが、地震の日とは知りませんでしたので、興味を覚えて調べてみました。すると1933年3月3日に起きた昭和三陸地震の日を、地震の教訓を生かす訓練の日として、被災地では毎年地震や津波の訓練が行われているという記事が載っていたのです。すっかり私が全国の地震の記念日と勘違いしていたのでした。
 そこに今回の地震です。「災害は忘れた頃にやってくる」という諺を思いながら、日頃から心して備えをしたいものだと思っています。
 今回のニュージーランドの地震で被害に遭われた皆さんやそのご家族、3月9日以来の津波で、養殖のわかめやホタテ貝などに被害が生じた皆さんに、心からの同情を禁じ得ません。


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見えない遺産

2011年03月04日 | 随筆・短歌
 如月という月は、春が近いという意味でも嫌いではないのですが、今年は何故か親戚にも様々な辛いことがあり、最後の28日になってやっとホッとした気持になりました。生きていれば、107歳になる義父の誕生日を祝って、ささやかなご馳走を手作りにして家族で祝いました。豚の角煮を前日に圧力鍋で作っておいて、お刺身やフライや煮物など、ほんの少しずつの松花堂弁当のような盛り合わせを、楽しみながら作りました。義父は明治37年2月29日の閏年の生まれでした。義母が四年に一回しか誕生日が来ないから、なかなか年をとらない幸せな人だといっていたことなど想い出しながら、一日早めて如月の最後の28日を祝ったのです。
 義父が逝って20年が経ちましたが、107歳といえば未だお元気な方も居られるので、「お疲れ様でした」というにはまだ早すぎたのでしょうか。義父母が存在しなければ夫も息子も存在しない訳ですから、家族でこうして温かく故人を偲びながら、その誕生日を祝うことも、意義のあることかと思っています。義父に限らず義母も娘も、その誕生日には私がささやかなご馳走を作る日にさせてもらっています。ずっと引き継がれてきた、DNAという目には見えないある種の遺産を大切にしている、と言えば格好よさそうですが、食いしん坊な私の美味しいものを作って食べる、という趣味を満足させているだけとも言えます。
 今年こそは私の実家の土蔵が壊されるそうで、比較的実家に近い所に住んでいる妹から、長持ちに入っていた古い錦の帯から作ったといって、タピストリーが送られて来ました。鳳凰や几帳や松など刺繍の施された錦の古い丸帯を、二人で半分にしたとありました。長さを掛け筒で調節出来るようにしてあり下端に飾りも付けて、私よりも器用な妹らしい作品になっていました。誰が使った帯か知りませんが、眺めているとこの帯を締めた女性の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かんでくるような気がして来ました。こうしてタピストリーにすれば、りっぱに壁を飾ってくれます。私には消えていく実家の先祖を偲ぶ、良い記念になりました。
 後始末を請け負っている弟から、なんでも欲しいものを持っていくように、と言って来ていたのですが、遠いし、古いお膳やお椀類は我が家にもあり、身の回りの物を整理している折ですから、欲しい物といっても何一つ思い浮かばず、好意を無にしていたのです。
 古いと言えば、私の嫁入り道具の一つだつた客用の鏡仕立ての蒲団を物置の二階(義父が物置を二階建てにして造ったのです)に包んだま長く入れてありました。ある年恋猫の時期が過ぎてしばらくして、子猫の鳴き声が聞こえました。物置の二階の窓の戸を細めに開け放してあったので、どうやらそこから猫が入ったようで、子猫が数匹いる様子に驚きました。
 そつと見にいきましたら、蒲団の上で猫が子育ての最中でした。我が家の子供達が何とか外に出そうとしたのですが、二階に上がるとたちまち猫たちは隅っこの物陰にに隠れて出て来ません。そこでからくりをして、煮干しを窓の外のテラスの屋根に置きました。やがて猫たちはその餌の誘惑に負けて、ぞろぞろと外に出ました。それを見計らって付けてあった窓の戸の紐を引いて一気に戸を閉めました。まんまと子猫も親猫も戻れなくなってしまいました。
 親猫は鋭い目つきで私たちを睨み、地面に飛び降り、後に続くように子猫に呼びかけていました。まだ小さい猫でしたから、怖れてなかなか飛び降りなかったのですが、やがて一匹二匹と親の後を追いました。
 ところがたった一匹二階に取り残された子猫がいたのです。テラスの方へ出ないとすると、下に屋根の無い高い二階の窓から、一気に飛び降りないと出られません。そこは誰も外から入れない窓なので、何時も空気抜けのために開けてあったのです。母猫は、下からしきりに呼びかけ、子猫は高い窓から顔を出して、鳴いていました。とても降りられる高さとは思えず、はらはらして見ていました。辛抱強く呼びかける母猫に、子猫もとうとう勇気を振り絞って飛び降りたのです。子猫を連れた親猫は、恨めしそうに後ろを振り向いて何処かへ行ってしまいました。勿論その蒲団はそのまま大ゴミになりました。
 古い物を大切にしようと、三月からあちこちの街中で雛人形を飾るとか、花嫁衣装を飾るイベントが行われています。実家の土蔵にも、数人分の花嫁衣装の他に、紺地に細かい模様のあるふきの厚い打掛も入っていました。高齢の婦人が着るもののようでしたが、誰がどんな時に着たものか、その人はどんな人生を歩いたのか、興味があって聞いたのですが、亡母も知らないと言っていました。
 形が残っていれば誰もが惜しんだりしますが、形の見えないものは、どのように引き継がれていくのでしょう。むしろ形の無いものにこそ、大切なものがあるのではないでしょうか。誇れるような心の遺産がもしあって、それがこの私にまで伝わっているとしたら、どんなに嬉しいことでしょう。「見えない遺産」が未だ見つけ出せないでいるとしたら、もう間に合わないのではないかと焦ってしまうのです。

 女丈夫でありし曾祖母偲び居り花橘の香るふる里(実名で某誌に掲載)

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